詩編を読む 1~41篇

詩編について・2015.12.16 

               詩編について
 公的・私的に神礼拝のために用いられたイスラエルの讃美歌であり祈祷書

1.ヘブルの詩歌
 旧約聖書は、たとえ物語を語る部分でも、記憶に残りやすくすりために対句や少し長い詩的表現が添えられて、自ずと詩歌へと発展していく。預言の大部分は圧倒的に詩歌の形をとるものが多い.詩編は、長い詩的伝統に根ざしている。
 ヘブル詩歌の根本的な特徴は、外側の形式やリズムではなくて、一つの思想をいかに他の思想と調和させ得るか、あるいは響き合わせるかにあった。いわゆる「並行法」として呼ばれるものである。

○同義的並行法
 ①対句に見る並行法
  詩編103:10 主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく
          わたしたちの悪に従って報いられることもない。
  ここでは1行目は2行目を強め、その結果1行目の内容が豊かにされ、全体として印象的にわたしたちの心に響いてくる。二つの行は競合しているのではなく、協力しているのである。
 ②上昇的並行法
  詩編93:3  主よ、潮は上げる、潮は声を上げる。
        潮は打ち寄せる響きを上げる。
  上昇的並行法では、2行目が第二の波のように、1行目を超えていく。おそらく次(3行目)は、さらにそれらを超えていく。
  詩編145:18も参照。ここでは、1行目が持つ一つの特徴を2行目で繰り返すのではなく、発展的に説明していく。あるいは、詩編63:8では、2行目は1行目を補足または対称を示している。

○対照的並行法
 詩編37:21 主に逆らう者は、借りたものも返さない。
       主に従う人は憐れんで施す。
  これは箴言10章以下のことわざに顕著にみられるように、教訓的詩歌の特徴。上記の詩編63:8も対照的並行法ともいえる。

○総合的あるいは構造的並行法
 上記2つに含まれないと考えられる対句を指す。
 こうした表現法によれば、翻訳の過程でも意味内容が失われることは少ないと言われている。一般の文学作品に見られるように、詩歌の訴える内容が語の巧みさや、精妙な韻律に依存していないからである。詩編の詩歌は、リズムと比喩表現が幅広い単純さを持っているので、どのような土壌に移植されても、そのリズムや比喩表現は生き残る。ヘブル詩歌の並行法は意味の並行であり、音韻の並行ではないことが、力強さや美しさを、他の言語でも再現可能にしているのである。まさに神の摂理によって、「御名の栄光をほめ歌う」ようにと「全地」を招くのにふさわしいといえる。

2.詩歌の構成
 詩編の中で、41、72、89、106の各編の末尾には、いずれも「アーメン」で終わる文章が記されている。これは、述べてきたことを閉じるための頌栄とみなされることから、詩編全体はほとんどの場合、詩編1,42,73,90,107からの5つに区分される。
 第1巻と第2巻で目につく違いは、1巻ではエローヒム(神)、2巻ではヤハウェ(主)が主に使われていることである。信仰者のグループの必要に合わせての違いであると考えられる。また、第2巻と3巻からは、神殿業務を担当するコラの子たちとアサフの子らの二つの音楽団体がそれぞれに独自の詩編を編集していたことがうかがえる。
 第4巻と5巻には特筆すべき主題を見ることができる。すなわち、93ー100篇は、「世界の王としての主」、113ー118篇は「過越の夜に歌われる賛歌(ハレル/ラテン語で賛美するの意)」、「都上りの歌(120ー134篇)」は、120ー136篇の「大ハレル」の一部、そして146ー150篇が最後のハレル。これらはすべてハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる。最後に、詩編1篇は、第1巻も大部分の詩編と違っていて表題も著者名もない。おそらく詩編全体の助言として加えられたものと考えられている。

3.特筆すべきこと
 ⑴ メシア的希望
  詩編の多くの節は、メシア的である。つまり、キリストが予告されている。それらは、来たるべき方としての「油注がれた王」(詩編2:2等)、「わたしの子」(2:7等)、「神」(45:7)、「あなたのしもべ」(69:18等)として語られている。
 ⑵ 復讐を求める叫び
  詩編は、謙遜な礼拝から急に激しい呪いへと移行することがある。これは、聖書はすべて霊感を受けていて有益であると確信し、自分を呪う者を祝福すべきであると確信しているキリスト者にとって、困難を覚えさせることである。
  しかし、このことについてはそこに見られる感情の爆発は、正義が履行され、
正当な権利が擁護されるようにとの懇願であるといえるのである。

これらの他にも、詩編の特徴を理解しながら、これからの学びを通して、信仰の実践と霊的養育の泉としての詩編を深く味わっていきたい。


   

詩編を読む・2015.12.23   詩編1篇

詩編1篇

1.詩編1篇を読む
・人間についての基本的な二つの姿、罪人と義人が記されていることから、聖書全巻を紹介する鍵であるとみることができる。
・二つの道(マタイ7:13滅びに至る道、命に至る道)の交差点に立たれているキリスト―「幸いなblessed」人の全き姿―が告げられている。 
  聖書で「幸いなblessed」というのは、神による救い(贖い)があることと深く結びついている。このことは、マリアが「祝福された方」(ルカ1:42)と呼ばれることに端的に表されている。「神が共におられる」(ルカ1:28)がゆえに「祝福されたblessed」方なのである。
「幸いなblessed」については、マタイによる福音書5章の山上の説教で、この語に対応するギリシャ語が用いられており、「幸いである」ことの内容がさらに徹底して説明されている。
・神に従う人(義人)というのは、「言」(ヨハネ1:1)を前にしていることに目が覚めて歩みをするがゆえに「幸いなblessed」のである。(参照:ヨハネ20:31)
 その人は、2節「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」。
 信仰者の命は、キリスト(命の木)に接ぎ木されたものとして、「言」に養われていることによって、永遠に至るという意義深い実を結んでいく。(参照:黙示録22:2)
・一方、滅びに至る道をたどる人は、墓を超えたところに何物をも描き出すことはできない。そこにあるのは、裁きの日の滅びである(5節)。(参照:マタイ25:41-46)
 6節 道は二つだけである。第三の道はなく、二つの道は永遠に分かれている。
・さらに6節からは神の恵みを知る。神に逆らう者の歩みから神に従う人(義人)の正しさを区分するものは、神の御業であり、正しい者を「知っていてくださる」神の恵みである。(参照:マタイ7:23)

2.関連する聖書の聖句
 6節 … ヨハネによる福音書10:14
  わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
    … テモテへの手紙二2:19
  しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また、「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
1節 正しい生き方の一歩は、悪しき者との交わりを避けるにある。そうでなければ、わたしたちもまた汚れた者となっていく。人は一度に思い高ぶって、神を軽んずるに至るのではなく、まず悪しきはかりごとに耳を傾けることから始まる。それから、悪魔が彼らを誘惑し、ついにはあらわに神に背くに至るのである。(創世記3章の記事から考えましょう。)
 正しい者の立場が、「歩まず」「とどまらず」「座らず」という三つの態度を否定する言葉で表されている。十分に心にとめておきたい。
 計らい ― いまだ判然とは現れ出ない悪意あるいは邪悪さ
 道 ― 生活の仕方
 座 ― 心にしっかりと根付いてしまう。
2節では、詩編作者は、神を畏れる者を幸いな者と宣言するにとどまらず、信仰を持つということの意味を、主のおきてへの熱心という言葉で表す(新共同訳「主の教え」)。神に正しく仕えるには、御言葉に従う他ないことをわたしたちに教えている。身勝手な己の判断から、自分の宗教をつくりあげるようなことがあってはならない。(出エジプト記32:1-7の記事から考えましょう。)
4節では、わたしたちの信仰の目が確かなのかが問われる。悪しきものはこの世では栄えているように見えるものである。しかし、たとえどれほど栄えようとも、間もなくわらくずか、風の吹き去るもみ殻のようになる、というのである。神がその傲慢さを打ち砕こうとされるときには、必ずそのようになる。このことを心に確信しておかなければならない。
6節で、正しい者の集いを目の当たりにしようと望むなら、目を高くあげることが大切である。キリストが羊と山羊を分ける(マタイ25:32)最後の日を忍耐強く待つのである。「神は世界の審判者である」という大原理をしっかり持っておかなければならない。



詩編を読む・2015.12.30   詩編2篇

詩編2篇             

1.詩篇2篇を読む
 この詩編に表題はないが、使徒言行録4:25ではダビデの作とされている。また、同13:33では「第二篇」と記されている。神に油注がれた者の位格と普遍的王国について述べられていることから、新約聖書では多く引用されている。神の支配と王への約束を、言葉を尽くして喜んでいることでは、他に類を見ないと言われている。
・詩編2篇は、神の王座のあるところへと礼拝者を案内する書と言える。
 ユダ族から出たダビデ王は、アブラハムに対する神の約束(創世記12:1-3)と地上に究極の王国をもたらす(マタイ3:2)子孫との中間点に立って神を指し示す。
 ⅰ (2節) ダビデの偉大なる子孫(子)の肩書きは、“油注がれた”である。
    “油注がれた”とは、ヘブライ語では「メシア」、ギリシャ語では「キリス
ト」である。
 ⅱ (8-9節) (参照:サムエル下7:12-14、黙示録2:27、12:5、19:15) 預言では、ダビデよりも偉大な力を持つ王が必要とされていた。しかも、その王は、永遠で世界規模の王国を統治するというダビデに対する約束と合致する王なのである。
 ⅲ (7節) 使徒たちは、この詩編から福音を宣べ伝えた。ヘブライ人への手紙の著者は、キリストこそ、神がダビデへの約束を成就することのできる、神から遣わされた唯一人の御子であると解き明かす。(ヘブライ1:5)
・新約聖書は、キリスト御自身が詩編2篇を成就する王であることを決定的なこととしている。
 ⅰ(1節)「国々は騒ぎ立ち」というのは、キリストの十字架のひな型であるとペトロは説教した。(使徒言行録4:25-27)
 ⅱ(6節)パウロは、キリストの即位は復活の後に生じたと解き明かしている(使徒言行録13:33、ローマ1:4)。また、(10節)については、国々は信仰による従順によって祝福を受けると解いている(ローマ1:5)。
 ⅲ(12節a)ヨハネは、救いと呪いとは、ひたすら御子キリストとの関係によるものであることを示している(ヨハネ3:36)。
 ⅳ(12節b)エフェソの信徒への手紙では、キリストが現実にすべてを統治されておられるがゆえに、世界中に広がる霊的挑戦の中にあるキリスト者を励ましている。

2.関連する新約聖書の聖句
 1節 … 使徒言行録4:25、26
    あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアとに逆らう。」 
 5節 … 黙示録6:16、17
    山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座って
おられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。
 7節 … 使徒言行録13:33(ヘブライ1:5、5:5)
    つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を
果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを生んだ。」と書いてあるとおりです。
 9節 … 黙示録2:27(同12:5、19:15)
    彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように。
 11節 … ヘブライ12:28(フィリピ2:12、4:4)
    このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

3.何を教えられるか (カルヴァンの注解に学ぶ)
1-3節 二重の慰め ・この世がキリストの王国を悩ましても、かつて預言されたことの成就であるから、どんな異変にも心は騒がない。
4節 「天に座する者」 神の大能を称賛する。人間が何を企もうとも、それは変わることなく存続する。
   「笑う」の理由 ・悪しき者の抑圧には大軍を用いる必要はないとの理由から。王国が乱されても、今は黙許される。報いが延期されているだけ。
7節 「わたしはお前を生んだ」
   ・ダビデが神によって王にされたことが明らかになったとき、彼は新たに神によって生まれた者として立ち現れた。
   ・キリストが「生まれた」と言われるのは、父がわが子であると証しされることに他ならない。(使徒13:33) キリストの復活とのかかわりに注目すべき。

〔参考〕 アウグスティヌスの言葉より
 2:5 「憤って」  わたしたちは、主である神の怒りと激怒というものが心の動揺を意味していると思ってはならず、それは、全被造物が自分に服従して仕えるようにと、神が正当な権利をもって要求する力であると理解すべきである。


詩編を読む・2016. 1. 6   詩編3篇

詩編3篇

1.詩編3篇を読む
 詩編2篇では、ダビデを通して、救い主であり王であるイエスの人生と職務が十分に示されていた。次いで、この3篇では、そのイエスによる救いの信仰についての例証をダビデから教えられる。
 表題には、単に「ダビデの歌」という抽象的な表現ではなく、「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」と具体的である。(参照:サムエル記下15-18章)
 ダビデ自身の息子であるアブサロムは、ダビデの在位中に王位を奪おうと、いわば一種のクーデターを起こす。その反乱はアブサロムの死をもって鎮定されるが、その間ダビデは深刻な危機の中にあった(サムエル下15-18)。その時のダビデの信仰が、わたしたちに救いの信仰について具体的に語る。その主な言葉から、考えよう。
4節「わたしの盾」 盾や砦は詩編によく出てくる言葉。2節「多くの者が わたしに立ち向かい」)、敵対勢力が、矢のように次から次へと襲いかかる。その状況のただ中にあって、神は盾の役割をしているのである。矢はどこから飛んでくるかわからない。一枚の盾では防ぎようがない。前後左右、そして上からも全部囲む盾になってほしい。人生経験の中で、苦難の矢が襲いかかるとき、その矢を受け止め、盾になって守ってくれる神に信頼を置く。これが詩編の語る信仰である。
4節「頭を高くあげてくださる方」 自分の王位が踏みにじられ、栄光は血にまみれたと直感したその時に、ダビデは、神こそ「わたしの栄光」と告白する。その神は、「わたしの頭を高くあげてくださる方」なのである。これは、絶望の中でも希望を持ちなさいというたとえではない。自分の力では持ち上げられない頭を、神が上げてくださるのだ。その神にダビデはより頼んでいる。
5節「声を上げれば」(声を上げて主に呼ばわる) 自分の子が自分を亡き者にしようとして、陰謀を計り旗揚げをした。そういう時の苦悩が「声を上げて」なのである。呼ばわる相手はただ一人、主に呼ばわるしかない。そうすると、主は「聖なる山から答えてくださる」。ダビデは泥まみれ、地獄そのもの。その憐れな人間の叫び声に耳を傾ける神は答えられる。
6節「身を横たえて眠り」 状況から考えると、ダビデは悔しいやら、悲しいやら、不安やら、万感渦巻き、眠れるどころではなかったに違いない。そのダビデの頭を高くあげ、囲む盾となり、聖なる山から答えてくださるとなれば、第一の賜物は眠れるようになることではないだろうか。
6節「主が支えていてくださいます」 「盾」と同様、「支える」は詩編によく出てくる言葉。苦悩のまっただ中にいるとき、誰の支えもない。そのようなわたしたちの背中を、神はしっかりと支えていてくださる。この神に支えられて、作者は眠り、そして目を覚ます。「目覚めます」には祝福感を覚えさせられる。
7節「決して恐れません」 アブサロム陣営が勝利したら、多くの民がダビデを囲み立ち構える。目が覚めて、恐ろしい現実を見ても、信仰に立っているから「決して恐れない」ことになるのである。
ダビデは、信仰によって勝利した。わたしたちも、主イエスによって勝利を賜る神への信仰を確かなものとしたい。
コリント一15:57-58 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

2.関連する新約聖書の聖句
 9節 … 黙示録7:10(同19:1)
    大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである。」

3.何を教えられるか (カルヴァンの注解に学ぶ)
1-2節 自分自身の子の不幸から発した情けなく悲しむべき内輪争い(サムエル記下13アムノンとタマル)。その原因はダビデ自らの罪にある(サムエル下12姦淫と卑劣な裏切り)。
3-4節 恐れを取り除く唯一の方策は、すべての思い煩いを神に委ねること。このことは、ダビデの希有な信仰のしるしである。
5節 ダビデの信仰の証しは、極度の窮乏のただ中にあっても、祈りによって神を見ていることである。これによって、信仰は鍛えられる。
9節 救いはただ神の御手のうちにだけある。たとえ、無数の敵が迫りくるとも、神が救いの業を果たされるのを妨げることはできない。これはダビデに限らず、すべての人に与えられていることである。神は、その教会を保持するために配慮されるからである。

詩編を読む・2016. 1.13   詩編4篇

  

詩編4篇

1.詩編4篇を読む
 この4篇は、その日の出来事を思い返しながら「眠りにつく」(9節)と考えられるところから、しばしば「夕べの信頼の祈り」と言われることがある。しかし、詩の主題は「夕べ」にあるのではない。主題は、「気が動転するような状況の中での平安」であるといえる。
 その平安は、神への祈りから生まれる。2節「呼び求めるわたしに答えてください」という表現は、神に訴えるときの常套句の一つ(60:7、69:14等)。
 2節 「苦難から解き放ってください」 この直訳は、「苦しみの中でもわたしのためにあなたは広い場所を作った」である(参照18:20)。完了形で書かれていることに気づく。ダビデは、それ以前に神から受けている恩寵に言及しているのである。それによって、これから起こるであろうことに対して4節後半「呼び求める声を聞いてくださる」との確信をもって、祈る。
 詩編3篇が生まれるきっかけはアビサロムの反逆であった。4篇は3篇と共通した内容(3:6と4:9)を取り上げていることから、3篇と同じくアブサロムの反逆がきっかけになっていると考えることもできるが、サウル王による迫害の時期と結びつけることもできる。いずれであれ、ダビデは自分の例を取り上げて、不正な力や不名誉を堪え忍ばねばならない苦痛の中に置かれることがあっても、その立場を弁護してくださる神が天におられるのであるから勇気を失ってはならないことを、わたしたちに教えている(参照:ヨハネ14:16)。
 5節 「おののいて罪を離れよ」 旧約を解き明かすのは新約であると言われる。この箇所を理解する上では、これが引用されているエフェソ4:26を開いておきたい。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで、怒ったままであってはいけません。(エフェソ4:26)」
 参考までに5節には次のような訳がある。
 口語訳「あなたがたは怒っても罪を犯してはならない。」
 新改訳「恐れおののけ。そして罪を犯すな。」
岩波訳「怒り震えよ、しかし罪を犯すな。」
カルヴァン(出村彰訳)「あなたがたは心動かしても、罪を犯してはならない。」
ここでは、「怒りなさい」と命令形がはっきり出てきて、その次に「しかも罪は犯さないように」と語っているのである。なぜ、怒りは一から十まで悪いことだと言わないのだろうか。これに解決を与えてくれるのがエフェソ4:25である。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」と書かれている。お互いが一つの体の枝々だということが前提になっている。それで、一体感を持つから真実が生まれてくる。その意味で、ここは真実のすすめである。そして、真実が裏切られるとき怒りとなる。ですから「怒りなさい」は真実の命令の裏側だと考えることができる。真実と真実で交わろうとするとき、一方の真実が他方の不真実に裏切られると、真実は怒りになる。(不真実と不真実との場合は怒りや裏切りは成り立たないといえる。)
 しかし、その怒りも一歩誤ると罪になるというのがエフェソ4:26。どういう場合に正しい怒りが罪に変質するのだろうか。詩編4篇は語っていないが、エフェソではこのように書かれている。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」ユダヤの暦は日没から一日が始まる。このことから分かるのは、前の日の怒りが次の日まで続くことは罪になるということである。そして、同4:27「悪魔にすきを与えてはなりません」と続く。
 このところから分かることは、怒りそのものが目的になった場合に、それは正しい怒りではなく、悪魔の業となってしまうということである。このことを避けるためにも、一日の終わりには「床の上で静かに自分の心に語りなさい」(詩編4:5後半.口語訳)と語りかけるのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 5節 … エフェソ4:26 (前出)

3.何を教えられるか (カルヴァンの注解に学ぶ)
 4節 … ダビデは、まず神が彼を選別されたという。彼は、人間の意志や自分自身の野心によって高められたのではない。神の御旨によるのである。
 神は、その御手の業を決して放棄されることなく、ひとたびその恵みのうちに抱懐された者を、いつまでも守り保たれる。ここに神の真実が示されている。
 わたしたちが神の御心によって企てることすべては、決して無に帰することがないからには、われわれもまた恐れることなく、道を進むのである。
 この4節で語られている真理を固く心に留め、人生の道を誠実に、廉直(心が清くまっすぐなこと)に歩む者には、必ず神の助けが伴う。この慰めそして信仰なくしては、信仰者は必ずや勇気を失うことだろう。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 6節「義のいけにえを捧げて、主により頼め」 詩編51:19では「神へのいけにえは苦しみ悩んだ霊」(新共同訳も参照)と述べられている。悔い改めることによって義のいけにえが生じるのだから、この苦しみ悩んだ霊を義のいけにえそのものと受け取ることはまことに理にかなっている。実際、人が他人の罪よりはむしろ自分の罪に腹を立て、自分自身を罰することによって神にいけにえを捧げるということ以上に義なることがあるだろうか。

詩編を読む・2016. 1.20   詩編5篇

詩編5篇

1.詩編5篇を読む
 4節の表現から「朝の祈り」と呼ばれる。ダビデは、敵対する者に囲まれる中で、神に安全な逃れ場を得ており、8節に「あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し」とあるように、神に対して嘆願する。そして、敵対する者を激しく告発するのである(10、11節)。その告発の激しさからは、自分を正義として他者を一方的に責めるかのようにみえるが、次の点を十分に読み取っておきたい。
・5節 神の義と聖の前に悪が暴かれていること
   新共同訳の「逆らう者」「悪人」は、「不法」「悪」の訳が適切。
  (新改訳)「あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいはあなたとともに住まない…」
  (岩波訳)「まことに、あなたは不法を悦ぶ神ではない、悪はあなたに宿らない」
義であり聖である神の前だから、6、7節のように滅びが宣告されるのである。
・8節 ダビデが「深い慈しみ」を賜っていること
   10節で厳しく他者を弾劾するダビデであるが、その言葉は神の前では彼自身にあてはまるものであることを承知していた(参照:詩編143:2)。もしダビデが道徳面で綿密に吟味されたならば、裁き主の高潔さによって、罪ある者として滅ぼされていたのである。
・12節 ダビデが、自分の正しさを声高に言ってそれをよりどころとしたのではなく、神を避けどころとしていたこと
   11節で弾劾するダビデは、神に赦され、その神を避けどころとしていたのである。詩編の記者が“自分には罪がない”といった言葉遣いをする時、その意味は、神の前に罪赦された者としての表現である。(参照:詩編32:1-5)
 新約聖書では、ローマの信徒への手紙3:10にこの詩編の10節が引用されている。パウロが引用して「正しい者はいない。一人もいない。」と述べる時、その言葉の対極には、“避けどころとする神”すなわちキリストが置かれている。
〔2、3節 つぶやき~〕 「つぶやき」と訳されている言葉は「わたしの最奥の思い」「わたしのうめき」と訳してもよい。それはやっと聞き取れるほどの自己への語りかけである。それが助けを「求める叫び」として吹き出し、さらには期待を込めた「祈り」となる。わたしたちの心からの祈りは、聖霊が執り成してくださっておられるのである(ローマ8:26、27)。
〔4節 朝ごとに~ 朝ごとの祈りが大切なことは、マルコ2:1やルカ4:42の主イエスの公生涯からも教えられる。わたしたちは祈りの時を持ち、いったん解決が与えられたようなことを経験すると、それがずっと持ちこたえるかのように思う。ところが詩編では嘆きを訴えて慰めを与えられる際に、「朝ごとに」という。尽きざる泉から恵みを受けるのは、日ごとに必要なのである。
〔12節 あなたを避けどころとする者は皆~ 「避けどころ」や「盾(13節)」の言葉から分かるように、危険は忘れられているわけではない。だが、ダビデは、今や危険と孤独から抜け出して、自由を得ている。そのダビデは、もはや敵に追い詰められて自分のことのために祈っている人ではなく、自分と共に神に賛美をささげることのできる者たち全体を思っている。
 信仰は、神とわたしとの関係であることに終わるものではなく、キリストを避けどころとする者、御名を愛する者たちと共に喜び祝う教会の交わり*へと高められていることなのである。 *ヨハネの手紙一1:3、4

2.関連する新約聖書の聖句
 10節… ローマ3:13「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。」
 ここでパウロは“話す器官”に集中して語る。最初の罪が入ってきたアダム、エバ、蛇との場面に見るとおりである。

3.何を教えられるか (カルヴァンの注解に学ぶ)
1節 ダビデの祈りで次の点に注目したい。①言葉少なく祈るのではなく、悲しみが押し迫るままに、神の前にその惨めさを嘆いている。②結果が明らかにならないので、同じ訴えを忍耐強く繰り返している。③「わが王、わが神よ」の呼びかけは確かな希望へと向ける。④不信者のように不満をかこつのではなく、その嘆きをはっきりと神に向ける。
5、6節 信仰者が暴力や偽りや不正に対して戦わなければならない(直面する)時、身につけておくべきこととしてテサロニケ二1:5、6を引用し、不正を憎まれる神の裁きが正しいこと、悪を罰することなしに神は放置されることはないという盾を身につけるべきである、と述べる。
13節 「義しい者(新共同訳では“従う人”)」と呼ばれている者は、その働きによって義しいと呼ばれているのではなく、義を熱望する者なのである。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 11節a「神よ、彼らを罪に定め そのたくらみのゆえに打ち倒してください。」― これは預言であって呪いではない。実際、教会は、彼らにそういうことが起こることを願っているのではなく、何が起ころうとしているのかを洞察しているのである。悪のゆえにそういうことは当然起こるべきことだからである。
 13節「あなたは、正しい者(新共同訳では“従う人”)を祝福するでしょうから」― 祝福とは、神を誇りとすることであり、神に住んでいただくことである。

詩編を読む・2016. 1.27   詩編6篇

詩編6篇

1.詩編6篇を読む
 この詩編は、詩編全体で7編ある「悔い改めの詩編」(6,32,38、51,102,130,143篇)と呼ばれる最初のものであり、深く悩み、不安になっている者の祈りが前半を占めている。6節以下の後半部分では、願い事が含まれず、泣いているのは始めだけで、最後は大胆な信仰が溢れ出る。祈りも涙も無益なことではなかったのである。
 この詩がどういう状況のもとでつくられたかにせよ、この詩編は祈る勇気さえほとんどない者に祈りの言葉を与え、勝利が見えるところまで導いていく。
 1節 「憤って懲らしめないでください」 ダビデの苦悩は、それが神から来るものか敵対するものから来るものかを問わず極めて大きかった。何が原因かは記されていないが、このときダビデは神の不興を招いていることを感じたのであろうか(詩編32:3)。だが彼は、このために受ける罰を免れさせてくださいと祈ったのではない。ダビデの良心は不安に駆られ、自分が受けるにふさわしい懲らしめを思い、ただ憐れみによって、その懲らしめを和らげる恵みに訴えずにはおられなかったのである。
 4節 「恐れおののいています」 この語は、例えば士師記20:41で使われているが、命の危険さえ感じている表現であり、「骨」と「魂」、すなわち人全体*がその危険に直面しているのだという。  〔* 骨と魂は、恐れに直面したときだけに限らず、詩編35:9、10のように、喜びとの関連でも用いられる。〕
「いつまでなのでしょう」という悲痛な叫びは詩編ではよく聞かれる(例:13:1や74:9、10)。いつまでということからは、神の遅延はどんな場合にも、物事を成熟させるものだということをわたしたちは教えられる。その成熟とは、時が熟することの場合もあり(詩編37)、人が成長する場合の時もある(詩編119:67)。
  〔参照〕ペトロの手紙二3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
 神の時と最善があることを知って、わたしたちもまた「いつまでなのでしょう」と神の前に歩むものである。
 7節 「(わたしの)涙」 落ち込みと疲労がここまでになると、自分ではどうすることもできない。人の助言も役に立たない。祈りすら途絶える。ふだんならダビデを奮い立たせるはずの「苦しめる者」(敵)も、今は彼の霊をくじくだけである。
 このような時、彼を救うものがあるとすれば、それはいっさい彼自身の努力によるものではない。神は、そのような極限状態を変え改めようとしておられるのである。このことは、わたしたちにおいても同じである。
 9,10節 「主は…聞き」 わたしたちの主は、マタイ7:23、25:41で「わたしを離れよ」を引用されました。ダビデはここで王として語っているのだと、主はご判断されていたと受け止めることができます。すなわち、このところで記されているのは、単に追い詰められている者が自分を苦しめるものに反撃しているのではなく、君主が、王としての誓いをなしたものとして、その支配のもとにある領域から不法なものを追放する権限をもっているとの主張であると理解することができる。(参照:詩編101篇)
 そして、ダビデが「悪を行う者よ、皆わたしから離れよ」というのは、11節に見るように勝利はこれから来るという信仰によるものである。すでに祈りが聞かれていることはダビデには分かっていた。
 神への嘆願を扱う詩編では、ほとんどの場合、神への信頼に突然接近する。神からの答えがあったと確信したが故である。この確信に導かれ、神の御手に気づいたダビデや歌い手の顔は輝いていたことだろう。「主は、聞いてくださる」という信仰の確信に満たされた信仰生活へと日ごとにわたしたちも導かれていることを覚えたい。
2.関連する新約聖書の聖句
 1節 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。…」(ヘブライ12:3-11)
 9節 「その時、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:23)

3.何を教えられるか (主にカルヴァンの注解に学ぶ)
1節~おそらくダビデは人間の手によって禍を蒙ったに違いないが、しかも彼は賢明にも、それは神からであると考える。なぜなら、直ちに己の罪を思い、神がその咎のゆえに怒っておられることを感得しない人間は、彼らが蒙る悪からでさえ、ほとんどわずかしか益を得ることがないからである。
(この点においてすべての人は愚鈍)自分の惨めさを叫びたてることはあっても、己を打ちたたく手を顧みる者は、百人に一人あるかないかである。
 人間は、神が自分たちに対して怒っておられることを感ぜざるをえなくなると、自分自身とその罪を責めるよりも、不信仰に満ちた不平をならべたてる。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
10節 「主はわたしの泣く声を聞き 主はわたしの嘆きを聞き 主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」
 同じ意味の文を再三にわたって繰り返すのは、語り手が必要としていることからではなく、歓喜の気持ちを示しているのである。実際、喜んでいる人は自分が喜んでいることをたった一度話すだけでは足りないので、普通そのように繰り返す。それは苦労の所産、涙の所産である(参照:詩編126:6)。悲しむ人々の幸いがここにある(マタイ5:4)。

詩編を読む・2016. 2. 3   詩編7篇

詩編7篇

1.詩編7篇を読む
 1節にはダビデの詩とあり,「ベニヤミン人クシュのこと」について歌った、と記されている。「クシュ」はサムエル下18:21に登場する走り使いのクシュ人(エチオピア人)のことではない。サウルの属するベニヤミン族の名称があげられていることから、サウル王の縁者の一人であると考えられる。

この詩の背景には、サウルとその手勢がダビデに危害を加えようと執拗に迫ってくる状況がある(サムエル上24:10-11、26:17-20)。
〔2,3節〕 命が狙われ絶望的な状況にあって、ダビデが最初に発する言葉は「主よ、あなたを避けどころとします」という信仰の表明である。ダビデは、堅固な砦により頼む。自分を神の手の内に置き、神の意志に委ねるのである。そこには、あらゆる人知を超える神の平和がある(フィリピ4:7)。
〔4-6節〕 ダビデは、神の前で自分の心に正直に、自分を吟味・精査する。このダビデの事例から、わたしたちは示される。すなわち、わたしたちが神様のもとへ逃れ場を求めるときには、いつでもまず、自らの良心が清いことをキリストにあって確認し、義とされている確信に導かれることである。(詩編32:1,2、ローマ4:6、ヨハネの手紙一1:9)。
〔7-12節〕 ダビデが盾とする神は、義なる神、人の心と思いを御覧になって、正しく裁かれる神である。
  「心とはらわた」 これと同じ表現は黙示録2:23「思いや判断」
   口語訳、新改訳、フランシスコ訳 ― 「心と思い」
   岩波訳の補注によると、新共同訳での「はらわた」は「むらと(腎)」。「心」と共に人の内奥にあって、意思・感情を司る器官と考えられていた。
12節は、「神は義なるものと、神をあざける者とを 日ごとに裁かれる」と読む方が、広い意味を持つので適切、とカルヴァンは指摘している。神は、この世においてすべてが混乱の状態にあっても、善人を悪人から区別する術はご存じなのである。(マタイ13:29、30)
〔13-17節〕 このところの理解のためには、サウルが迫害者たちを武装させダビデの命をねらっている事情を考えておきたい。
 13-15の3節は、従来から二通りに解釈されてきた。
 その一つは、13節の真ん中の部分に「神」という字を補って読むことである。そうすると「立ち帰らないもの」すなわちダビデを追う者がその邪の中にとどまる限り、神は正しい者を守るために、武器を取られてそのかたくなさに立ち向かわれる、という意味として理解することになる。
 いま一つは、13、14を「神」を入れずに一続きのものとして読むことである。敵(サウル)は、及ぶ限りの兵力と武器とを手にして、ただ相手を滅ぼすことだけを求めて立ち向かってくるのである。(カルヴァンの理解:ダビデが述べているのはサウルのこと/彼は、このところで聖書をできるだけ素直に素朴に理解することは肝要と指摘している。)
 参考:岩波訳 「13もし彼が立ち帰らず、おのが剣を研ぎ、おのが弓を張って構えるなら、14おのがために彼は死の武器を備えたのだ、おのが矢を火矢となして。見よ、彼は悪事をはらみ、禍を身ごもって虚偽を生む。」
 16-17の2節は、敵が自縄自縛に陥ることを言う。悪人が悪をはらんでいるという14節に続き(参照:「実によって木を知る」たとえ)、その悪が自分の身に跳ね返ってくると指摘する。(参照:ヤコブ1:15、ヨハネ一2:11)
〔18節〕 作者は、神の義を待ち望みつつ、神に対してあふれる感謝の賛美をささげる。この詩から、冒頭に見られる神への依り頼み、そして、苦難の中にも義なる神を信じ、神をほめたたえる信仰を教えられる。「神信頼の詩」と言われるゆえんである。
 また、この詩で歌われているダビデの苦難と信仰はキリストの受難の予表であるに限らず、キリストに結ばれ神の子とせられたすべての者の例でもある。(ペトロ一1:3-12)

2.関連する新約聖書の聖句
 10節 … 黙示録2:23「…こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。…」

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
〔2節〕 逆境にあっても<わたしはあなたに依り頼みます>という信頼の鍵がなければ、われわれの祈りに対して、戸は閉じられたままである。
〔9節〕 <主はもろもろの民を裁かれます。主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とにしたがって、わたしを裁いてください。>ダビデは神の本来の業がもろもろの民をさばくことにあることを確信している。この世を統治することは神の事柄だからである。神は偏り見ることがないので、われわれの主張が正しくない限り、神がわれわれの側に立たれ、われわれに好意を示されるように願うことは無意味である。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 10節<わたしは主から正しい助けをいただきます。主は心のまっすぐな人を救ってくださいます。> 医術には二つの任務がある。一つは病気を治すこと、今一つは健康を守ることである。そして、前者にあたるのが6篇の3-5節、すなわち罪人は何の功績もないのだから、助けとなるのは神の憐れみである。後者にあたるのが7篇の4-6節。すでにキリストにあって義とされている者には、裁きの座で助けとなるのはその与えられた義なのである。ダビデが正しい者という時は、この後者の意である。(参照:ローマ5:8、9)

詩編を読む・2016. 2.10   詩編8篇

詩編8篇

1.詩編8篇を読む
 神への賛美とはどうあるべきかを示す例として、この詩編にまさるものはないとよく言われる。神の栄光と恵みをたたえ、神がどのようなお方であり、何をなさったかを詳しく語り、そしてわたしたちと世界と神とを深く関係づけている。それでいて饒舌ではなく、喜びと神への畏れに満ちている。
〔1節〕「ギティトに合わせて」。ギティトはガテという語から派生した言葉で、ぶどう絞り器を意味する。そして、ペリして人の町の名でもある。このことから、この詩はぶどうのの収穫(仮庵祭と重なる)、あるいは契約の箱がガト人の家からエルサレムに運ばれる行程(サムエル下6:11)と関連していると推測されている。
 ダビデの歌とある。ダビデは世界の創造と統治のうちに示された神の驚くべき大能と栄光にふれて神を賛美する。栄光を全地に満たす神が、わたしたちの主なのである。
〔2ー3節〕 この神への賛美は高きところで歌われる。そればかりか、全人類に示された神の摂理は、すでに生まれたばかりの幼子の上にも輝き渡っているのである。神に「刃向かう者」、逆らう者が起こって神に挑んでも、神の栄光は覆されるものではない。神の栄光は、乳飲み子や“この世の弱い者、取るに足りない者”(コリント一1:26ー31)によって示されているのである。
〔4ー9節〕 天の創造主なる栄光は、わたしたちの心を賛美の思いで満たす。その創造主が人類を「御心に留めてくださる」までに身を低くされたのである。実に驚くべきことである。
 「人間は何ものなのでしょう」という表現は、詩編144:3とヨブ記7:17にも見られる。詩編144:3では、人間の弱さを認め、それゆえに神の助けを求めているのであり、ヨブ記7:17では、ヨブは激しい苦痛の中で死を求め、神を見張りか監視かの如く考えている。しかし、この詩編ではそうではない。素直に神の慈愛が注がれていることを感謝し、賛美しているのである。
 また、この5-6節は、ヘブライ2:6-8に引用されている。そこでは、この詩編の言葉がキリストの人性を余すところなく表すものとして受け止められている。キリストを見ることの中に、「人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。」への意味を知るのである。キリストの受肉、死、および支配だけがこの問いを納得させるものであることを新約聖書は指し示す。
 創世記1:28で表されている祝福された人間は、罪に堕ちてしまったが、神は「すべてをキリストに服従させる」ことによって(コリント一15:27)、今やそのキリストにあって「御手によって造られたものをすべて治める」までに再創造される。何と、光栄なことであろうか。ただに、被造世界に神の力強さが現されているにとどまらず、神に目を留めていただき「栄光と威光を冠としていただかせ」られる人間の幸いがうたわれているのである。神への賛美の思いに満たされる。
 8-9節では、「すべて治めるもの」が例証されている。身近なものを取り上げることによって、どんな人も、神の祝福に目が開かれる。
〔10節〕 2節と同じ表現であるが、神の栄光の賛美が、新しい理解をもって歌われる。人間がすべてを治めるまでに再創造されることは素晴らしい。それだけに、そのようにキリストにあって業を進められる造り主なる神に仕え、礼拝するものとして召されている幸いを覚えたい。(参照:8:3a)
 参照:ルカ12:20における優先順位

2.関連する新約聖書の聖句
 3節 … マタイ21:16 イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」
 5節 … ヘブライ2:6-8で引用
 7節 … コリント一15:27で引用

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
〔2節〕 自然のあらゆる秩序の中には神の栄光をほめたたえる十分な材料は揃っている。…人類に与えられる特別な恵みをきわめて明白に賛美している。
〔3節〕 幼子が神の栄光の告知者であるとはどういう意味だろうか。
幼子が一言も語ることのできぬうちから、神が人類に対していかに寛慈に富んでおられるかを声高く明らかに述べることを示すためである。
〔6節〕 <栄光と威光を冠として>についてのカルヴァンのコメント
・人間が理性を授けられ、それによって善と悪を区別できること
・彼らの中に宗教の種子が刻みつけられていること
・相互の間で、聖なる絆によって結びつけられた交流が可能であること
・廉直(心が清くまっすぐなこと)なものに目を注ぎ、悪を恥じ、また法によっ
て統治されること
こうしたことすべてが、至高で天的な知恵の明瞭なしるしである。

〔参考〕 アウグスティヌスの言葉より
「指の業」についての理解
 わたしたちは律法が神の指で記され、神の聖なる僕モーセを通して与えられたことを読んでいる(出エ31:18、申命9:10)。この神の指を多くの人たちは聖霊と理解している。

詩編を読む・2016. 2.17   詩編9篇

詩編9篇

1.詩編9篇を読む
 9篇と10篇は、全体がほぼ連続したアルファベット順に配列されており、かつては一つの詩であったと考えられている。70人訳とラテン語訳では、この二つで9篇となっている。内容的には、9篇で敵の手から救い出してくださる神への賛美、10篇で救いのための嘆きの祈り、がうたわれている。
〔2節〕 ダビデは、心を尽くして主に感謝をささげる。「心を尽くして」は、“わが心のすべてで”が本来の意味。これと対置する言葉は、“ふたごころ”である。
「驚くべき御業」は詩編によく出てくる表現で、詩編106:7、22に見られるように、特に大きな贖いの奇跡を指して用いられることが多い。
 ダビデの心から、「訴えを取り上げて、正しい裁き」(5節)をしてくださる神の救いの「驚くべき御業」のゆえに、賛美が溢れ出るのである。それだけではなく、ダビデの思いは、(わたしの)敵(4節)、わたしの訴え(5節)といった自らの事情を超えて、神の全面的勝利(6、7節)と、世界規模の永遠の義の統治(8,9節)へと広がる。神こそ栄光の神、力ある方である。わたしたちも、わたしという個人の事情に目を向け心を砕いてくださる方が、世界を統治される力ある方であることを覚えるとき、わたしたちの心は励まされ、ダビデと同じように、神への賛美に満たされる。
〔10節、11節〕は、祈りであり、励ましである(砦の塔とせよ、…御名を知る者により頼ませよ、との英語訳NEBもある)。かもの助けがないように見えても、信仰者が苦しめられるまさにその時、神は必ず助けられる。神はどのような時にもそば近くにおられるのである。神は御自身を尋ね求める人を決して捨てられることはない。(参照:詩編27:10「父母は、わたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」、ヨハネ14:18「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」 )
〔14節〕からは9篇の後半となる。「死の門からわたしを引き上げてくださる方」と記されていることから明らかなことは、ダビデがこのとき、非常なおそれに取りつかれていたことである。その中からの個人的な嘆願から、確信に満ちた預言へと進み(16-19節)、最後に行動を求める大胆な訴えに至る。
 ダビデの詩を通して、わたしたちもまた神の御心を知り、神をほめたたえよう。
 ・神は救いの大いなる御業をなさる方。
 ・神は、死の門からも、極度の危険からも守ってくださる方。
 ・神は、貧しい者や苦しむ者を決して放置されない方。
〔20、21節〕で、「人間」と訳されている語は、一般的に人のもろさを強調する語である。人は自分だけではちりであり(創世記2:7、3:19)、ただの息のようなもの(詩編144:4)でる。人の尊厳は神から来るものである(詩編8:5-7)。そして、自分がただ人にすぎないこを知るとき、神からの恩恵の豊かさに目が開かれる。

2.関連する新約聖書の聖句
 この章からの直接的な引用はないが、12節「諸国の民に御業を告げ知らせよ」との関連では、ローマ15:8-12をあげることができる。
 パウロは、9篇12節の御言葉が遂行されていく様子を、詩編18:50、申命記32:43、詩編117:1、イザヤ書11:10などを引用して語り、まさに今、御業を告げ知らせる「時」が来ていることを知らせている。

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
〔2節〕 「心を尽くして」ということに関連して、カルヴァンは次のようなことがないかを語る。― 神から恵みを受けた、あるいは何か輝かしい勝利を勝ち取ったのち、神に讃辞をささげるのだが、一言二言神について語ったのち、巧みに自分を誇り、自分の勇敢さを歌い上げていることはないだろうか。彼らは、神に表向き犠牲をささげた後、自分の思慮深さ、振る舞い、器用さ、能力、知力、武力に献げ物をするのである。
〔12節〕 「シオンにいます主をほめ歌い」― 全天さえも神を容れることはできない。故に、神を特定の場所に限定することは正しくない。しかし、神はこの場所にこそ憩いの存すべきことを約束されたのである(参照:詩編132:13「主はシオンを選び そこに住むことを定められた」)。シオン(つまり見える聖所)は、信仰者を天にまで上る梯子として、神は用いようとされたのである。こうした目的のために、聖礼典もまた神は定めておられる。
〔19節〕「貧しい人の希望は決して失われない」 ダビデが、はっきりと希望または待望について語るのは、われわれを祈りへと励ますためである。神がわれわれの悲惨を目に留められないかの如くにされる理由は、われわれの中に祈りの力を奮い起こすことを神が望んでおられることにある。
〔20節〕 敵がどれほど勇ましそうで、高ぶっていようとも、彼らは神の御手のもとにあり、神が彼らに許される以上には何一つなしえない。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 2節 ―主の摂理に対してどこか疑いを抱く者は、主を心からは賛美しない。しかし、神の知恵の隠れたものを認める者はそうする。彼らは「艱難の中でわたしたちは喜ぶ」(ローマ5:3)と言う者への目に見えない褒賞がいかに大きいかを認め、自分にもたらされるあらゆる苦しみは、悔い改めた者たちを神に向けて鍛錬するか、悔い改めるように戒めるか、あるいは頑なな者を最後の正しい断罪へと準備するべきものであって、神の摂理の支配に関係づけられるべきだと認めるのである。

詩編を読む・2016. 2.24   詩編10篇

詩編10篇

1.詩編10篇を読む
 緊密なつながりがある9篇の重点は、来たるべき審判と神への賛美にあった。続く10篇は、不義がほしいままにされている様相を描き出す。まさに今の時代のことでもある。
 ダビデは、この新しい局面を取り上げる。一言でいえば、「悪人の道は常に栄える」ということである。神に逆らう者(悪しき者、暴君)の自慢と傲慢が支配的なことがはっきりと指摘されている。彼らは、人を傷つけるだけでは飽き足らず、神を中傷する。神を侮り(3節)、罰せられることはないと繰り返し自分に言い聞かせる(5、6、11、13節)。実際には、「口に呪い、詐欺、搾取を満たし、舌に災いを隠す」(7節)。自らを守るすべを持たない人を自分の餌食になるものとして扱っている(2a、8-10節)。
 一方、神はどういう態度をとっておられるのだろうか。暴君の傲慢さを見るにつけ、神は遠く離れて立っているようにしか見えない。そして、暴君は自分でいうようにうまくやっているのである(5節)。11節が記すのは、まさに暴君の傲慢。悪しき者は、すべてが思いどおりになるのを見て、何の憂いもなく生きることになり、神がしばらくの間、彼らを忍耐されたのち、恐るべき裁きを下されるとは考えず、「神は忘れている」とうそぶくのである。
 そこで12節。詩人は、人生の道が栄えている悪しき者に目を向けたため、神の沈黙はいよいよ深く、その隠れておられるかの様子に耐えがたくなって、「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください」という言葉になって祈る。沈黙されているかに見えるその神の沈黙を破ってほしいという祈りは、悪しき者がはっきりと見えるからこそ生まれているのである。(参照:詩編18:7)
 13節の「なぜ」の問いは、1節からのものであるが、まだ答えはない。「立ち上がってください」(12節)という神への呼びかけも答えられていない。それでも、問題に直面して立つことができる。というのは、ひとりで問題に直面しているのではないからである。「あなたは必ず御覧になって」くださるのである(14節)。神がこのようなお方であることを知る者は、「あなたにすべてをおまかせします」という信仰に立つ。(参考:「あなたにおまかせします」の直訳は、「自分を放棄します」 関連ー詩編37:5、ルカ9:23)
 神の態度は、17、18節で具体化する。悪が栄えている。神の裁きはまだ遠いようにも思われる。しかし、たとえ裁きの日がどれほど遠くにあるとしても、貧しい人の願いを聞き、その心を確かにしてくださる、という約束が遅れることは決してない(参照:17節)。
   ― 参考:コリント二12:8-10で、パウロが受け入れなければならない、そして尊重することを学んだ答えに通じるところがある。
「…わたしは弱いときにこそ強いからです」

2.関連する新約聖書の聖句
6節 … 参照:黙示録18:17 彼女は心の中でこう言っている。「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」
7節 … 引用:ローマ3:14 口は、呪いと苦みで満ち
16節 … 参照:テモテ一1:17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。
         黙示録11:15 この世の国は、我らの主とメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
〔1節〕ダビデは継続的な禍からの救いを求めつつ、神に向かって真っ直ぐに言葉を発している。わたしたちが困難や不安の中にある時、神の摂理の内に慰めを見いだすのが、正しい順序である。
 ダビデは神が遠く離れておられることを嘆き悲しんでいるが、しかも神の現臨を固く確信している(そうでなければ、神に助けを求めるは決してない。)
〔2節〕無慈悲さはいつも思い上がりを伴うことは事実である。そして、傲慢は、あらゆる暴虐と強奪の母である。
〔8節〕<隠れ場にひそみ> 強盗どもは村里の小路に隠れ、また至る所にその罠を仕掛ける。そして、洞穴にひそむ獅子のように、獲物に襲いかかる。その残忍さは、強盗以上で、まさに野獣に匹敵する。もしも神が天から助けを与えられなければ、神の子らはいかに悲惨であるか、がよく示されている。 
〔14節〕神がこの世界や人間のために配慮なさると一般的に告白するよりも容易なことはないが、この教えを毎日の必要に応じて適用することは極めて困難である。(参考:マタイ7:24 御言葉を聞いて、行うことの重要さ)
〔18節〕ダビデは、神が彼らを救い出されることを決して疑わない。この神への確信という大原則を、極度の困難と動揺の中にあっても、心の内にしっかりと留めておきたい。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
1節 闇においては、光がいっそう恵みあるものとなる。同じように、異端者の存在が一時許されることによって、神に知られ受け入れられている人たちが、人々の間で明らかにされるのである。
8節 「不運な人に目をつけ」から。…不運な人とは、貧しい人である。すなわち、「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)といわれる正しい者たちを、とりわけ迫害するだろう。

詩編を読む・2016. 3. 2   詩編11篇

詩編11篇

1.詩編11篇を読む
 この詩編の主題は「神への信頼」といえる。その信頼は、現実の危機から直接生まれたものである。
「ダビデの詩」と1節には記されている。そのダビデが苦境のどん底に陥っていた時の経験に基づいてこの詩はうたわれている。
 参照:サムエル記上23-24章 ― ダビデは、自分の命をねらうサウル」の手を逃れるべく、ジフの荒れ野(23:14、19節)、マオンの荒れ野(23:24)やヱン・ゲディ(24:1)の要害にあって洞穴等での逃亡生活を余儀なくされていた。
 兄弟をはじめ、困窮している者、負債のある者、不満を持つ者など400人ほどの周りにいる者を除いて(サムエル上22:1、2)、すべての人が手の平を返したかのように、しかも先を争うかのように、ダビデを絶望へと追い込んでいった。その窮状にあるダビデに、人々は言う、「鳥のように山へ逃れよ」*と。
 *「鳥のように山へ逃れよ」 
新改訳:鳥のようにお前たちの山に飛んでいけ
フランシスコ会訳:鳥のように山に飛んでいけ  
岩波訳:小鳥のように山をさまよえ
ある教師の解釈  急迫して逃げ場がない時、翼があるならば鳥のように安全な山に逃れたいという実感を表している。
カルヴァンの解釈 極度の窮境にあったダビデに、すべての者は荒れ野に逃亡するように、強いた(岩山へ追いだそうとした)のである。
このときダビデは、神の僕にふさわしく生活を送りながらも、決して安全な所とはいえない「山をさまよえ」といわれるほどに、絶え間なく追放をこうむっていたのである。
2節では、迫ってくる危機の場面が目に見えるようである。
3節  口語訳:基が取りこわされるならば。 
70人訳:お前が据えたものを彼らが崩す。
 建物からその基礎が取り去られるとき、必ずその建物は倒壊する。そのような状況にダビデは置かれていた。そのダビデに、いったい何ができるのか(「主に従っている者に何ができようか」、フランシスコ会訳「正しい者に何ができようか」)。
 この暗闇の中で、ダビデはなお神に信頼する。主に従う人(「正しい人」/キリストにあって義とされた人)には、その正しい立場のゆえに、神はその人の側に立たれ、憐れみ深くあられる。ダビデはこの神への信頼を揺るがすことはなかったのである。
 今の建物の基は取りこわされ、建物は倒壊したとしても、ダビデもまた、アブラハムと同じように、「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都」(ヘブライ11:10)を見ていたのである。建てられたものが崩れるのは痛ましいことでも、それは新しい始まりとなる(ヘブライ12:27)。
 4節以下は、確信と栄光の表白である。「闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者」(イザヤ50:10b)の信仰である。(このダビデの信仰に励まされる。)
 6節では、裁きの決定的な瞬間が述べられている。火と硫黄によって滅ぼされたソドムの滅亡には、神の最終的な裁きとして永遠に思い出させる出来事であり、主イエス御自身が終末を指し示して話されたことである(ルカ17:28-32)。5節で「調べる」が繰り返されて用いられていることからは、決定的な瞬間が来る前まで主が沈黙しておられるのではなく、時が熟する備えをされていることを知る(ペトロ二3:8-13)。
 7節 この詩編は、始まりと同じように「主」で終わる。「正しい」(義)という主の属性は、1~3節の恐れや葛藤すべてに答えを与える。主がどのようなお方で、何を愛しておられるのかを「正しい」(義)は表している(7節)。
 最初の行が、信じる者の安全がどこにあるかを示すとすれば、最後の行は、信じリ者の心がどこにあるかを示しているといえる。神を「避けどころ」として求めることにはきわめて利己的な動機からの場合があり得る。しかし「御顔を仰ぎ見る」ことは、愛だけが関心を持つ目標なのである。
 7b節 新改訳:直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。(参考:口語訳は「であろう」がついている。)
    岩波訳:心のまっすぐな者は主の顔を仰ぎ見る。

2.関連する新約聖書の聖句
 4節 … 参照:マタイ5:3、4 「しかし、わたしは言っておく。いっさい誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。」   マタイ23:22、使徒言行録7:49
 7節 … 参照:ヨハネ一3:2「…しかし、御子が現れるとき、御子に似た者になるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
〔4節〕ダビデは人間の側からの助けはなかったが、神の摂理によって助けを
得た。肝要なことは、神の摂理により頼み、絶望的な事態のうちにあっても、
そのさばきによる癒しを待ち望むことである。
 「調べる」の二重の意味 ・神は常に義を行う者を守られる。
             ・神はその目を彼らからそらされることがない。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
1節 どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか「鳥のように山へ逃れよ」と。
わたしがより頼む一つの山をわたしはしっかり握っている。わたしは主に信頼するのである。

詩編を読む・2016. 3. 9   詩編12篇

詩編12篇

1.詩編12篇を読む
 ダビデの詩 ― ダビデは、地が悪しき者らによってかき乱され、義も公正も見られなくなったことを嘆き悲しみ、神がその民を直ちに助けてくださるように祈る。このダビデの実例にならって、すべてが絶望的に見えるとき、神により頼むことを学びたい。
 3節には、偽り、滑らかな唇、二心が出てきて、4-5節の「威張って語る者」すなわち傲慢な者がこれに続く。「信仰のある人は消え去りました。人は友に向かって偽りを言い 滑らかな唇、二心をもって話します」(2、3節)という事態は、事柄を悲観し、絶望するほかない深刻な事態である。
 3節「偽り」 ― より正確には「空虚」 ― は、不誠実*¹と無責任*²の意を含む。  *1 例 詩編41:6「むなしいこと」 心に悪意を満たし、外に         
出ればそれを口にする。
      *2 例 出エジプト20:7「みだりに」 みだりに唱えてはならない。
  「なめらかな」 ― 喜びを与えて、常習癖をつくり出す(そこから来る喜びなしではいられなくなる)から、恐ろしい。後のイスラエルの歴史が、このことを示している。*³
      *3 例 イザヤ30:10 彼らは先見者に向かって 「真実をわれわれに預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。…」と言う。
(ティンデル詩編注解を書いたデレク・キドナーは「言葉の違いは、決して
枝葉の事柄ではない。ここに弱さがあると、敵が幅を利かすのである」と
言っているように、聖書の言葉の違いについては大切にしたい。
4ー5節 ここに見られるのは大言壮語する尊大な神への反逆の言葉である。
彼らは人間の言葉に信頼し、神の言葉など眼中に置かない。神の誠実は無にされているのである(参照:ローマ3:4)。
聖書は大言壮語の及ぼす影響を決して軽くは見ていない。 以下、参照聖句
ヤコブ3:5 同じように舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧
なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。
 ペトロ二2:18 彼らは(偽教師のこと2:1)、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出てきた人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。

2節にあるように、まわりにいる「主の慈しみに生きる人は絶え」(新改訳:聖徒はあとを絶ち、口語訳、フランシスコ会訳:神を敬う人は絶え)た。キリスト者が見出されないのである。地の塩や世の光の役目を果たす者はそこにはいない。嘆くばかりの深刻な事態である。神は、神を神とも思わぬ悪しき者らがこのように思い上がっているのを、見過ごしにしておられるのだろうか。ダビデは、この絶望するほかない深刻な事態の中で、「今わたしは立ち上がり*⁴彼らがあえぎ望む救い*⁵を与えよう」と言われる主の言葉を聞くのである。
 ここに見られるダビデの祈りと信仰を通して、わたしたちは、主が「主の慈しみに生きる人」を見捨てることは決してないとの確信に導かれる。その確信は、このときのダビデの経験が語るように、試練によって本物と証明される信仰でもある。
     *4「わたしは立ち上がり」 これは注目すべき言葉である。今までは人間の側から、主よ立ち上がってください(10:12)と言ったのであるが、神御自身が言われるのであるから、救いの確かさへと導かれる。
     *5口語訳  彼らをその慕い求める安全な所に置こう。
       フランシスコ会訳 脅かされた者を安全な所に置こう。
 7節の「主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀」と言う表現は、詩編では初めてである(七はイスラエルでは完全数)。その確かな言葉をもって神は“虐げに苦しむ者たちを安全な所に置く”と言われるのである。
 8節の「あなたの仰せを守り」について ー 「仰せ」という言葉は用いられておらず「彼ら」となっているので、この文脈では6節の「虐げに苦しむ者」「呻いている貧しい者たち」を指す。(参考) 口語訳:主よわれらを保ち/新改訳:主よ、彼らをお守りになります/岩波訳:あなたが彼らを守ってください/フランシスコ会訳:わたしたちを庇い
このように神によって確かな救いに置かれているのであるが、9節に見るように、試練は試練として厳然とある。しかし、その試練に打ち勝たせてわたしたちを保ち、悪しき人々から免れさせてくださる神への信頼をうたうのである。
2.関連する新約聖書の聖句
 3節 …「二心をもって」(もとの表現は「心と心の中で」)
     参照:ヤコブ1:8「心が定まらず」

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
〔6節〕「今や」 この語はきわめて意義深い。それによってダビデはわれわれの救いが神の御手の中にあることを言い表そうとしている。神が裁きを行うために立ち上がられるときのあることを想起させる。ほかならぬこの教えが、またわれわれの心に忍耐強くあることを学ばせる。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
6節 「わたしは救いに置こう」(新共同訳 救いを与えよう)
 何を置くのかは言われていないが「救いに」とは、キリストと取るべきであり、ルカ2:30「わたしの目はあなたの救いを見たのだから」と同じである。

詩編を読む・2016. 3.16   詩編13篇

詩編13篇
 
1.詩編13篇を読む
 ダビデは極度の苦難の中で、あらゆる禍と艱難に押しつぶされたように感じ、神の助けと支えを乞い求める。神のみが彼に残された唯一の慰めであり光であるからである。信仰(6節「あなたの慈しみに依り頼みます」)によって立ち上がった彼には、今も変わらぬ禍と艱難のただ中で、神の救いの約束が生の確かな保証となるのである。どのような深い淵であっても、彼から信仰の喜びを奪うことはない。

 2節で、「いつまで」とダビデは四度繰り返している。彼の訴え自体の痛切さがこの言葉にある。長い間、あまりにも禍の中に置かれ、そして神の助けのしるしが一つとして得られないと感じるとき、神はどこにおられるのかといった考えが、心の中に忍び込んでくるのは避けがたく、「いつまで」という祈りの声となる(参照:40:18)。
 ダビデには、神が彼を見捨ててしまわれたように思われた。外的な状況を見て判断する限りはそうであったに違いない。それにもかかわらず、彼は信仰の光に導かれ、神の恵みを瞑想するまでに高められた。
 3節 神は自分を忘れたのではないか、御顔を隠しておられるのではないか、そのようにまで思う試練が続くと、死の眠りに陥る。これが怖い。「わたしの目に光を与えてください」という言い方は、言語では「生気を与える」というのと同じ。主がダビデに新しい活力を吹き込まれないならば、彼はすでに魂を失った人間のようになるに違いない。
 6節 この節の冒頭は「しかし」で始まる(口語訳では5節)。死の眠りの中へと滑り落ちようとするときに「しかし」が出てくる。「しかし」ダビデは神の慈しみに信頼するのである。
 カルヴァンはこのところを次のように注解する。
< ダビデは、神の言葉によって抱いている望み、すなわち救いの望みにより頼む。それによって、彼は少しも驚き恐れることはない。また、同じように、彼はひどく苦しみ、彼を絶望へと誘い込むような、もろもろの思いと憂いを抱いているとしても、しかも彼は神の恵みと救いのうちにしっかり留まろうと決心する。すべての信仰者もまた、祈りのうちにしっかりと留まることができるように、同じ信頼によって支えられ、守られることが必要である。そこからわれわれは、肉の判断には隠されている神の恵みを把握できるのは、信仰によるということを知るのである。 >
この6節の「報いてくださった」*¹の意味を諸訳から味わってみよう。  「豊かにあしらわれた」  口語訳、新改訳
 「恵みを与えてくださった」  フランシスコ会訳
 「よくしてくださった」  岩波訳
 「わたしの願いすべてを聞き入れてくださった」と訳している聖書(NEB)もあるが、神はただ人の願いの一切というに限らず、その願いをはるかに超えて与えてくださるのである。ここに表現されているのは「主の豊かな恵み」。
 〔参考〕マタイ6:32、33  あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
     エフェソ一3:20  わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に
    *¹ この単語の基本的概念は「完全性」
 ダビデは、今まで導かれた歩み全体を振り返り、これからも賛美をささげるようになる、と確信しているのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 1節「いつまで」…黙示録6:10 彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の報酬をなさらないのですか。」

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 6節 わたしは主に向かって歌います
 ダビデは、熱望するところのものを未だ手に入れていないが、しかも神が救
い主としてその責務を彼に果たされるであろうことを既に確信し、神に対して
感謝をささげる。即ち、われわれが悲しみと苦痛から完全に救い出されていな
いとしても、ダビデのような信仰の喜びが、われわれの心の中にわき上がり、
未だわれわれのものとはなっていない喜びのゆえに、唇に歌を上らせることが
必要である。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 5節 決してわたしの敵に、「彼に勝った」と言わせないでください。わたし
を苦しめる者たちは、もしわたしが動揺させられれば大喜びするでしょう。
 「悪魔の罵りは恐れなければならない。信仰者の信仰が動揺させられれば、大
喜びするのです。義人ヨブを苦しめたとき、彼が動かされなかったので(ヨブ
1:12)、つまり信仰の堅固さから後退しなかったので、この者たちは喜ぶことが
なかった。

詩編を読む・2016. 3.23   詩編14篇

詩編14篇

1.詩編14篇を読む
 14篇は、詩編53篇とほぼ同じである。違う点は、本詩が神の固有名詞「ヤー
ウェ」(主)を、2、4、6、7節で使っているのに対して、53篇では一貫して「エロヒ
ム」(神)が用いられていることと、5、6節とこれに対応する53:6が異なる点で
ある。
  参考 「エロヒム」― 神が強く力のある方、したがって、恐るべき方であることを示す。
     「ヤーウェ」― ユダヤ人に常に神聖視されてきた名(エホバ)。神が常に同じであること、特に神が契約関係おいて不変であり、約束された方は必ず実行される方であることを示す。(参照:出エジプト3:14、15、6:2、4)
    5,6節の相違については、詩編53篇は、侵略や包囲の恐怖などの国
家的危機に合わせて改訂されたものであると考えられている。
 この詩から浮かび上がってくるのは、1a*¹、2b、4aに見られる放逸な愚かさであり、邪悪さである。この詩編は、その情景を神が見るように「天から見下ろしている」。だが、最後の節では、その視点は、地上のイスラエルの救いに向けられる。   
*1 「愚か者」と訳されているヘブル語はナーバールで、攻撃的なつむじ曲がりというニュアンスがある。サムエル上25:25のナバルがその典型。 口語訳、新改訳、フランシスコ会訳、岩波訳では「愚かな者」、新共同訳では「神を知らぬ者」と訳されている。
 ローマ1:22における「愚か者」― 1:22では、「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり」(新改訳)と述べて、無神論について言い尽くされている。神について知られることは、彼らに明らかであるのに、神を知ろうとしたがらないのである(1:19、28)。
 
1節「善を行う者はいない」(参照:ローマの信徒への手紙3:10)は、3節でさらに強調されて「ひとりもいない」と言われる。これは決して誇張ではない。アダムの罪は、自分の方が神よりも物事をよく知っているかのように振る舞わせる。善よりも悪を愛するように仕向ける。
 主が、天から人の子らを見渡して、見つけたのは腐敗だけであるという光景は、ノアの洪水を思い出させる(創世記6:11、12)。この状態が人類に普遍的・永続的であることをパウロは鋭くローマ3章で告げるのである。
 4-6節 愚か者の姿が描き出される。彼らは、パンを食らうかのようにわたしの民を食らう。他人を犠牲にし、搾取するときには物食らうように人間を食い尽くしていくという。今世紀の人間の姿でもあると思わされる。
 この状況は5節をひっくり返す。「見よ、彼らは恐れおののく。神が、正しい者の集いの中におられるからだ」(フランシスコ会訳)。神の登場である。神が、救いの御業をなさるのである。わたしたちは、そのときの恐れを、イザヤ2:19以下や黙示録6:15で知るのである。
 参考  この恐れについての、C・S・ルイスの説明「ついには、宇宙的喜びでもあり宇宙的恐れでもあるその顔が、わたしたちそれぞれに必ず向けられる。…言い尽くすことのできない栄光が与えられるのか、あるいは決して癒やされることがなく覆われることのない恥を被るかのいずれかとして」。(C・S・ルイス「栄光の重み」より)

2.関連する新約聖書の聖句
 1節 「善を行う者はいない」 ― ローマの信徒への手紙3:10-12

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 6節「あなたがたは貧しい者の計画をはずかしめる。しかし、主はその望みである」― ダビデは、不義な者たちが虐げられた貧しい人々を嘲り、彼らが神の保護のもとに身を委ね、その禍にも気を落とさない、というので彼らを愚か者と見下すそのことが、彼らの滅びの原因となるであろう、と明言する。
 同時に、ダビデは主に依り頼むということ以上に確かなものは存在しないと教える。われわれがもろもろの禍に取り囲まれている時でも、神の救いと、神がわれわれに約束された助けに身を寄せることこそが至上の英知なのである。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
5b節「主は正しい人の群れにおられるからだ」
― つまり、主はこの世を愛する者たちの中にはおられない。なぜなら、世々の創造主を捨ておいてこの世を愛し、創造主よりもむしろ被造物に仕えることは不義だからあである。

詩編を読む・2016. 3.30   詩編15篇

詩編15篇
1.詩編15篇を読む
 15篇は教訓詩編とも言われており、神と共にあることを許された義人について、聖所に来た礼拝者が中に入る条件を問い、祭司が答えるという型で教えられている。
 予想される答えとしては儀式上の条件(参考:出エジプト19:10-15)も考えられるが、主の返答はそうではなく、心を探るものである。同じことは、詩編24:3-6やイザヤ書33:14-17にも見られる。この頂点は「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5:8)であり、この詩編が全般的に伝えていることである。
 1節の「あなたの幕屋」「聖なる山」は、主(ヤーウェ)が現臨される場所。ここではエルサレムという定められた聖所である神殿を指している。「幕屋」は形式が整った礼拝といけにえの世界(出エジプト29:42)を指す一方、「宿る」(正確には“客となる”)*¹や「住む」という語が使われていることからも分かるように、もてなしの世界を指す。
  *1 詩編5:5「悪人は御もとに宿ることを許されず」― 悪はあなたの客となることはできない。
 詩編は、この二つの世界の観念を合わせて、礼拝者を熱心な客とみる(例23:6、27:4-5、84:2~)。その故に、「どのような人が…宿り…住むことができるのでしょうか」という問いは、心を一層深く探るものとなる。「悪はあなたの客となることはできない」からである。
 神への問いかけに対する答えが2節以下に記される。
2a節「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人」。この句が提示したことがあと次々に語られる。ここに描かれているのは義人の特徴を示し尽くしているリストではない。詩編24篇やマタイ5章の至福の教えやコリント一13章などでもその特徴は述べられている。そして、このような人は、何よりも偽りのない、誠実な(2節の「完全な」)人である。
 「心には真実の言葉があり」 口語訳「心から真実を語る」 ― ここには、確かさがあり、信頼がある。このような人の語ることは、その人のあり方と一致している。→イザヤ29:13と対比してみよう。
 ここには、ことばの問題、ことばを制することの大切さが教えられていることに心を留めたい。
 3節は、箴言10:12を参照したい。「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。」この言葉を拡張したものともいえる。
 4節「悪事をしないとの誓いを守る人」
   口語訳「誓った事は自分の損害になっても変えることなく」(カルヴァン訳もほぼ同じ)
ここで問題になっているのは、他人の損害ではなく、「自分の損害」である。それでも、箴言6:1-5は、自分の間違いに気づいたときは、その約束から解いてもらうことを願ってもよいと教えている。(この箴言の訳は、口語訳が分かりやすい。)
 ここに示されたことで、直接祭儀に関わる問題は一つもない。礼拝行為に関わるのに、外面的な犠牲の動物の要件を吟味せず、宗教と生活、礼拝と日常倫理の関係の一貫性を問うところに、聖書の宗教の特徴がある。
 福音は、礼拝のときなどだけに聞くようなものではなく、その生活全体の中で聞き、生き方そのものを吟味させるものである。神礼拝は、そのような生の在り方をいつも新しく問う場でもある。この詩編はこのことを明らかにして、「これらのことを守る人はとこしえに揺らぐことはないでしょう」といって結ばれている。

2.関連する新約聖書の聖句
 2節 「正しいこと行う」
   参考 マタイ6:1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」
     「真実を語る」(口語訳 「心から真実を語る」、新改訳「心の中の真実を語る」)
   参考 エフェソ4:25「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 2節 第二の板に照らして、各人が、隣人に対して正義と公正とを守るならば、彼は神を恐れていることを証しするのである。よき信仰者は、その生み出す正義の実によって識別される。(参照 ガラテヤ5章の「霊の結ぶ実」)

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 5節 「隣人に誓いを立て、罠にかけない人。金を貸しても利息を取らず、賄賂を受け取って無実の人を陥れたりしない人」これらは大したことではない。しかし、これらのことさえできない人には、心で真実を語り舌で偽らずに、心にあるがままに真実を持ち出して、口で「しかり、しかり、否、否」を言い、隣人に、つまり誰に対しても悪事を働かず、隣人に対するそしりを聞き入れないことなどは、はるかに不可能である。

詩編を読む・2016. 4. 6   詩編16篇

詩編16篇
1.詩編16篇を読む
ミクタム   (詩編16、56-60篇)意味不詳の表題。ある人たちは、アッカド語katamu「おおう」からの派生語と考え、「おおう」のは口をおおうことを意味するとして「無言の祈り」だと提案している。また、罪、汚れが覆われることがうたわれているとの考えもある。カルヴァンは「ある種の曲調である」との理解にとどめている。

 神への全き信頼の詩である。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」非常に明確かつ徹底した告白である。この告白に対して、わたしたちには「その通りです」と言うか、言わないかだけが残っていると言える。神は、確固とした信仰によって神のうちに憩う限り、進んでわたしたちを助け支えられる。この信仰にダビデは支えられて嵐や暴風の中でも、固くとどまることができたということを、わたしたちはしっかりと心にとどめておきたい。
 「あなたのほかにわたしの幸いはありません。」という告白の裏側には、わたしたち人間が幸いであると思い込んできたものの、むなしさが暴露されているはずと考えることができる。本当の幸いを与えるためには、神は本当の幸いでないものを明らかにして、それを打ち砕かれるのである。偽りのものが打ち砕かれて初めて真実なものが現され、与えられる。あれやこれやに幸せを求め、そこが生きがいだと考えている人生が何であったのか、聖書は露にする。
 ダビデは、4節で「ほかの神」を拒絶したすぐそのあとで、神御自身が自分の「与えられた分」(嗣業、ゆずりの地)であると言う。「与えられた分」(嗣業、ゆずりの地)をある聖書学者は「宝」と言い換えてもよいのではないか、と言う。わたしたちはいろんな宝、財産を持っていると思い、あるいはそれを追い求めているかもしれない。しかし、それらは変わり行き、はかなく消え失せる。神こそが与えられた分である、この確信は何とわたしたちにとって不変の本当の宝であろうかと思う。
 神が自分の幸いであり、杯に受くべきものであると告白するその人生は、神の測り縄が示したところ、それは麗しく好ましいところなのである。この確信は、(8節)自分の前に神を見、神と共にあることを知ることからくる。その人は揺らぐことなく、心は喜びで満たされる、ダビデはうたう。その喜びにわたしたちも満たされる。それは、10、11節で理解できるように、復活の主と共にある永遠の命の喜びである。
 「わたしは揺らぐことがない」という主に相対する幸いを歌う詩編16篇こそ「わたしたちの生きた信仰」。
(参考までに)3、4節は、原文の意味がはっきりしないので訳が分かれるところである。まず、諸訳に目を通しておく。
① 口語訳  地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。
      おおよそ、ほかの神を選ぶ人は悲しみを増す。わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、その名を口に唱えることをしない。
② 新改訳 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて彼らの中にあります。ほかの神へ走ったものの痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口にしません。
③ フランシスコ会訳 地上の聖なるものら、すべてわたしの喜びであった力ある者ら、―他の神のもとに走る者の苦しみが増すように―わたしはそれらに奉納の酒を手ずから注がず、その名を口にすることもない。
④岩波訳  この地の聖なる者らと わが悦びの無い偉大な者らには、
      彼らの悩みが増すがよい…彼らの灌祭に私は血を注がず、彼らの名をわが唇に挙げません。
①②では、「地にある聖徒」は、主に忠実な者らと解釈して訳されているが、③④では、異教の神々を指すと見ており、作者の皮肉的表現とも、偶像礼拝者の用語とも解されている。しかし、新約聖書の場合と同じように字義どおりに受け止め、ダビデは(神々のように)単なる威厳ある者と呼ばれている人々にではなく、「主の地にいる聖徒と共にいることは、この上ないわたしの喜び」といって聖なる威厳ある性格を真に持っている人々に引き付けられているのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「聖なる人々」 参考 ペトロⅠ2:9あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。
 8-11節  引用 使徒言行録2:25ー28 “ペトロの説教”より
 11節「命の道」 参考 マタイ7:14しかし、命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 5節 ダビデが呼ぶとき、彼は自分が神のみのうちに全く満足し、神の外には何物も欲せず、邪悪な欲望によってくすぐられることはけっしてない、と公言しているのである。
 われわれもまた、「わたしの嗣業、わたしの分け前、わたしの杯に受くべきもの」と言われる神を呼び、神のうちにある幸いを学ぼうではないか。

詩編を読む・2016. 4.13   詩編17篇

詩編17篇
1.詩編17篇を読む
 祈り。ダビデの詩。 詩編86、90、102、142篇と共に「ダビデの祈り」が表題。
ダビデはまず、内を見られる神の前に心を開く。1節「わたしの唇に欺きはありません」にはじまり、自分の無実を訴えることは度を越しているかのようであるが、ダビデが考えているのは自己主張や自己満足ではなく、神の前での誠実さである。自分の心を探り、自分の信仰が見せかけではないと確信しているので(参照:ヨハネ一3:18-21)、それに従って判決を下してくださいと神に訴える。
 4、5節「汚れた思いは何一つご覧にならないでしょう」や「暴力の道を避けて、あなたの道をたどり」といった言葉の真実の一例を、わたしたちはサムエル記上25:15-16のナバルの一人の従者の言葉や同25:32-34でアビガイルに語るダビデの言葉に見る。
 7節の「慈しみの御業」は、70人訳では「慈悲」(英訳例:「不変の愛」「真実の愛」)。保護者である方に、ダビデは神の不変の愛に訴えて懇願しているのである。8節「瞳のようにわたしを守り」という表現は、詩編では珍しい。瞳は大事なものの代表ともいえる。神は人間を、ちょうど御自分の瞳を守るように守る、と言われる。(自分は神の瞳だと思っているだろうか。)この神の守りは9節以下が前提となっている。9-12節は、非常に厳しい状況である。そういう状況から神がわたしを守ってくださる。それが「瞳のように」なのである。
 13-14節は欲望への報い語られていると言ってよい(参照*)。悪人には報いが用意されている。その一つは神に直面すること(13節)。それは、裁きのときである。今一つは、彼らがまさに彼らの好むものを多く与えられることである。彼らは「この世の人」なのだから、この世で満たされる。しかし、神以外のすべてを得ること自体が、すでに裁きとなっている。(参照:ルカ12:15-21
―有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。―、同16:25)
(参考までに)14、15節の解釈。今まで述べてきたこととの対照を明らかにし
て「しかし」と強調句を入れている個所に、二通りある。
*14節後半で、悪人に与えられたこの世の過ぎ去る富や快楽を語り、15節で「しかし」と言って天にある命の豊かさに高く心を上げる。
14節後半から「しかし」と言って、神の子らの祝福として理解する。
 訳例 ・「主よ、み手をもって人々からわたしをお救いください。すなわち自分の分け前をこの世で受け、あなたの宝をもってその腹を満たされる世の人々からわたしをお救いください。彼らは多くの子に飽き足り、その富を幼子に残すのです。しかしわたしは主にあって…」(口語訳)― 新改訳、岩波訳、文語訳、カルヴァンも同じ解釈
   ・新共同訳と同じ解釈に立つもの    フランシスコ会訳

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「試されますが」 参考 ペトロ一1:7あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
8節「翼の陰」 参考 マタイ23:37、ルカ13:34 “エルサレムのために嘆かれるキリスト”
14節「彼らの分」 参考 マタイ6:2、5、16 はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。  ルカ16:25も参照
15節「御顔を仰ぎ望み」 参考 ヨハネ一3:2愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかはまだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 1節「主よ、わたしの義を聞き、わたしの叫びに御心を留め、偽りのない唇から出るわたしの祈りに耳を傾けてください。」 ダビデは、偽りによって語ることをしない、と公言する。彼は自分の罪を覆い隠すために、旗幟を明らかにする(表立って主張する)のではなく、真実をもって何の虚飾もなしに神の面前に立つのである。このような祈りによって公正と無実のうちに生きるように、聖霊は教えているのである。
 15節「しかしわたしは義にあって、御顔を仰ぎ見る。目覚めるとき、みかたちを見て、満ち足りるでしょう。」義のゆえに、ダビデの良心は清くされ決して失望させられることはない。…ダビデはここで救いの根拠を行いに帰しているのではない。彼はただ、だれでも神に仕える者は、その苦痛を無駄にはしないということを、心に固く確信しようとしているのである。神がその御顔をしばらくの間隠すようであっても、最後にはその明らかな御顔と、慈しみに満ちたまなざしとを見せてくださるからである。
(1,15節で表現されているダビデの義、の持つ意味について考えてみよう。)

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 6節 アウグスティヌスは「あなたはわたしを聞いてくださったので、神よ、わたしは叫びました」との意であるとして、「弱々しいわたしの祈りを聞き届けてくださったから、強い熱意をもって、神に祈りを向ける」といって祈りについて教える。

詩編を読む・2016. 4.20   詩編18篇

詩編18篇
1.詩編18篇を読む
 ダビデ王のあふれる感謝の詩である(サムエル記下22章に表題までもがほとんど同じ詩が見られる)。この詩は、ダビデの統治の早い時期を指している。権力の絶頂期であり(参照:サムエル下13、14)、あの大きな罪が生涯の汚点となり、ダビデの王国に暗い影を落とす(参照:サムエル下13)以前の時代であると考えられている。51節に及ぶ長い詩編であるので、キドナーの五つの区分に従い、詩の特徴を理解する。

⑴ 避け所(1-4)
2節の「慕う」は、「愛する」。70人訳では、「わたしはあなたを愛します。
主よ、わたしの力よ」でこの詩は始まる。神への愛と神への感謝が冒頭からあふれている。隠喩を用いて、ダビデの数々の逃亡と勝利をたどらせてくれる。「岩」は、ダビデが思いがけずサウルから救い出された所でもある(サムエル上23:25-28)。

⑵ 救出(5-20)
ここに描かれている情景の規模の巨大さと、この詩を歌う人間の小ささを思う。この人間を救い出すため、神御自身が「死と滅び」とにじかに戦っておられるのである。個人にはそれほどまでに価値があり、その人は神に対してそれほどまでに大きな負債を負っている。ダビデが祝福された者であるのは、神が彼を「喜び」とされたからであって(20節)、単に彼が民の代表だからではない。そして、教会がキリストのゆえに祝福されているのと同じように、民は彼のゆえに祝福されることとなる。民のゆえに彼が祝福されるのではない(参照:列王記下8:19、イザヤ55:3)。

⑶ その道は完全(21-31)
21-25節は、17:1-5で見られたが、独りよがりの自己義認ではなく、誠実さを言っているのである。だが、ダビデがこれらの言葉を用いることができたのは、この詩編が究極的にはメシア的であるからである。この詩編は、キリストへの理解のもとで読まれるときに新たな深さを得ることとなる。(表題の「主の僕」と「ダビデ」)
⑷ 勝利と敗走(32-46)
 勝利も敗走もすべては神から来る。ここに見られるのは唯一神信仰(32)。そして繰り返し用いられる「岩」はモーセの歌を思わせる(参照:申命記32:31)。
 35節「わたしの手を戦いに慣らされた」(口語、新改訳)―神が人に力を与えるときには、戦いに慣らされるということが背後にある。それによって青銅の弓を引くことができる。
⑸ 頌栄(47-51)
主は生きておられる(47)。この神に感謝をささげ、御名をほめたたえる。

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「救いの角」 参考 ルカ1:69「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。(角は力の象徴であった。それゆえ「力の角」は「大いなる救い」または「強力な救い主」を意味する。
 26節「あなたの慈しみに生きる人にあなたは慈しみを示し」参考マタイ5:7
 27節「心の曲がった者には背を向けられる」―使徒7:42、ローマ1:28「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され…」
 31節「神の道は完全」 参考 マタイ5-48「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい。
 50節 引用 ローマ15:9 小見出し“福音はユダヤ人と異邦人のためにある”

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 われわれはダビデがどのような困難を通じて、またどれほど大きな妨げにも関わらず王位に即くに至ったかを知っている。サウロの死まで彼は逃亡の身、多くの脅威と危険の間で、恐れおびえつつ辛うじて生命を保った。神がその御手によってダビデを王位に上らせたのちも家臣らの騒乱と謀反によって苦しめられた。また彼に敵する者の力が強かったので、しばしば破滅の淵に陥った。
 もし、神の力によって助けられなかったとすれば、彼はこれら禍のすべてに打ち勝つことは決してなかっただろう。何回かの勝利を経験したとき、彼は、自分自身に賛美の歌をうたうことはなかった。かえって神をその真正の創出者として崇め、ほめたたえるのである。
 この詩編は、神が彼に対して示された王国を手にし、さらにそれを保つという驚くべき恵みをダビデが大いにたたえる詩編の最初のものである。ダビデはその支配のうちに、キリストの支配の似像、また型があることを示している。このことによって、キリストが、この世からのどのような抵抗があろうとも、父の大能によって常に勝利者であることを、信仰者が確信を持つようになるためである。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 3節 「主よ、あなたはわたしの強い支え、わたしの避け所、わたしの救い手です」。 主よ、あなたはわたしを強くされた。わたしがあなたに逃れたから。またわたしが逃れたのは、あなたがわたしを解放されたからです。
 「わたしの盾、わたしの救いの角、わたしの贖い主です」。わたしの盾であるのは、あなたに対抗して高慢な角を振り上げるかのようにわたしが自分について思い上がらず、あなたが角そのもの、つまり救いの堅固な砦だと見出したからである。それを見出すようにと、あなたはわたしを贖われたのだ。

詩編を読む・2016. 4.27   詩編19篇

詩編19篇
1.詩編19篇を読む
 この詩編は二つの部分に分けられる。第一部(2-7節)でダビデは、もろもろの御業を通じて考えられる神の栄光をほめたたえる。宇宙における神の啓示の広がりに、魂は圧倒される。第二部(8-15節)でダビデは、御言葉のうちに十分以上に輝いている神の知識を崇め、大いなるものとする。12-14節の心を探る内容は、この偉大な神の前にある礼拝者の応答である。
 1-6節に語られている「自然の雄弁さ」については、パウロがローマ1:19で記しているように、どの時代にも思い出すべきことである。
 古代人は、日や月や天の万象に「口づけを投げかける」という誘惑に駆られた(ヨブ31:26、27、列王記下23:5)。現代人はどうであろうか(天の万象は偶然のもの、雨乞いに見られる霊の領域?)。キリスト者だけが、天の万象を創った方を思い、子としての驚きと喜びへと動かされる。
 5,6節では、太陽が神によってしかるべき場所(幕屋)と走路(道)を設けられた。広がる天空も、太陽にとっては「幕屋」に過ぎず、通り道に過ぎない。そのようなものが、神の僕であり目に見える秩序なのである。このことを考えるにつけ、神の壮大さはいかばかりか。
 参考 5b-6節(新改訳)「神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出てくる花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る」
    ヨブ記26:14「だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。」
8節.律法については、カルヴァンが述べているように、完成するために来られたキリスト(マタイ5:17)にあって、その霊に導かれて初めて、神の御言葉に従う喜びを知る者とされることに心を留めたい。
 参考 ヨハネ15:3「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。」 同 15:5「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
13節.「心の思いや考えを見分ける」方(ヘブライ4:12)は、人の動機をご覧になられる。人には外面的にささいな事柄であっても、神は重大なこととされる。悔い改めに導かれ、絶えずキリストにあって聖くあることを求めていく祈りがここにある。
14節の「驕り」は、70人訳では、高ぶって自分を神と思うことの意。
 参考 フィリピ3:19(口語訳)「彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、…」
2.関連する新約聖書の聖句
 2節「天は神の栄光を~」 参考 ローマ1:19-20なぜなら神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。~
 3節「その響きは~」 引用ローマ10:18それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
 8節「主の律法は~」 参考 ローマ7:12こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
 8節「無知な人に知恵を与える」 参考 マタイ11:25 …これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。  コリント一1:27及びテモテ二3:15も参照。
 13節「知らずに犯した過ち、隠れた罪」 参考 コリント一4:4自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
14節「支配されないようにしてください」 参考 ローマ6:12従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。(同6:14も参照)

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 2節「もろもろの天は神の栄光を語り」  人が天を瞑想することによって神を知るに至るとき、彼は草木の最も細き茎に至るまで、地の面において示された神の知恵と大能とを思い、これを賛美することを学ぶ。そして、もろもろの天の明るさのうちに、神の生ける似像がわたしたちの眼前に示されていることの素晴らしさに、圧倒される。
 8節「主の律法は完全であって、魂を生き返らせ、」  神の言葉についての最初の言葉は、それが欠けが無く完全であるということである。(このことをカルヴァンはキリストをも含めて理解する。)ダビデが律法をほめたたえるとき、彼は律法という語のもとにキリストをも含めているのである。もしもキリストの御霊が律法を生きたものとしないなら、律法は単に無益なだけではなく、むしろ従う者にとって死をもたらす。なぜなら、キリストの外にあっては、おそるべき峻厳さだけが律法のうちに存するからである。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 1節 この詩は、主イエス・キリストについて語られているのである。この意味で、8節の主の律法は法律を廃止するためにではなく、完成するために来られた(マタイ5:17)主御自身である。彼は魂を奴隷の軛で押さえつけるのではなく、自由の中で回心させ、自分(の謙遜)に倣うようにさせる(ヤコブ4:6)。


詩編を読む・2016. 5. 4   詩編20篇

詩編20篇
1.詩編20篇を読む
 この詩にタイトルをつけるとすれば、2節の言葉「苦難の日」といえる。
 8節の「戦車」からもうかがえるが、今まさに戦いが始まろうとしている。この戦いを前にして、王が出陣の準備をしている様子が描かれている。王の祈りといけにえは献げられ(4節)、部下たちは軍旗のもとに集められる(6節)。民は、王の幸運を願い、集団で祝福を祈る(2-6節)。これに応えて一人の声(王自身)が、「今、わたしは知った」(7-9節)と、神の答えの確かさについて語る。それに民は、王のための緊急の身近な祈りをもって応える(10節)。
 このように歌われる20篇を、デレク・キドナーは「この詩には、生死の問題が間もなく解決されることを緊張のうちに自覚しているという点で、心を掻きたてられる一篇である」という。
 この詩編を通じて記されている「あなた」はただ一人を指し(単数形)、7節で分かるように「油注がれた」者である。民は、この一人の人物を民としての歩みを維持する存在として見ていた。
 参考: 哀歌4:20 主の油注がれた者、わたしたちの命の息吹 …
異国民の中にあるときも、その人の陰で生き抜こうとしていた。
     サムエル記下21:17 … イスラエルの火を消さぬように心掛けて
ください。
 こうした役割を担える者は、現実にはメシアをほかにしてはいない。その意味で、この詩編は、メシアの型を指し示しているのである。後述のように、アウグスティヌスは、この詩編にはっきりとキリストを見ていた。
 神の御名(2節)は、イスラエルでは異教の信仰に見られる魔術的な効き目のあるものとはみなされていなかった。神自らの啓示なのであり、祈りに答えることのしるしなのである(7、8節)。神は、御自身のその御名を祭司の祝福によって「イスラエルの人々の上に置き」(民数記6:27)、御自身の所有であるしるしともされる。民はまた、この御名をもって神のために行動するのである。
 参考: 歴代誌下14:10 わたしたちはあなたを頼みとし、あなたの御名によってこの大軍に向かってやってきました。… (アサ王の公言)
 このようなことの一つ一つが、新約聖書にも見られる。― ヨハネ14:14、
同17:6、使徒言行録3:6、黙示録3:12
 10節の最後の行は、文字通りには「わたしたちにお答えください わたしの呼ぶ声の日」である。この「日」は、2節をはっきりと反響している。苦難の時が、祈りの時とされたという事実は、7~9節でうたわれている「救いの力」や「力に満ちて立ち上がる」といった明るさが、単なる希望的な楽観ではなく、現実に働く信仰によるものであることを確信させる。

2.関連する新約聖書の聖句
 4節「供え物をことごとく心に留め」 参考 使徒言行録10:4 …すると天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
7節「今、わたしは知った」  ここで信仰者は、神が王を守り、保たれたことのうちに神の慈愛を体験したと述べるのである。それとともに、ダビデの王国は神の召命の上に成り立っているので、彼の王国が固く立てられているのは、神の大能によることを神は力強く示しておられる、という信仰の教えが付け加えられている。そこで、信仰者は、ダビデがかくも大いなる危険から救出されたことを、神の恵みに帰するのである。
8節「戦車を誇るものもあり…」  わたしは多くの注解者がするように、これをイスラエルの敵だけに限ろうとは思わない。わたしはむしろ、これを信仰者とその他のこの世全体との間のことと考える。
ある人が富や権勢や兵士を多く持てば持つほど、心安らかで確かに思うのが、ほとんどすべての人に自然であることをわれわれは知っている。それゆえに、神の民はここで、ダビデが人間に通例の仕方で自らの能力と武力とにではなく、ただ神の支えのうちに望みを置くというのである。
われわれは、魂が肉的な信頼によって占められるようになるやいなや、神を忘れることに注意しなければならない。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 1節 「終わりまで。ダビデの詩」 この表題は周知のとおりである。語るのはキリストではなく、預言者が来たるべき事柄をうたいながら、祈り願うかたちでキリストに向かって語っているのである。(このように述べて、アウグスティヌスはどの節にもキリストを見る。)
 例 6b節「あなたのすべてのはかりごと(新共同訳「求めるところ」)を実現させてくださるように」  すべてのはかりごと、つまり一粒の死んだ麦がより豊かによみがえるために(ヨハネ12:24)、あなたが友のために自分の命を捨てた(同5:13)そのはかりごとのみならず、更に異教徒たちが満ちるために民の一部が頑なにされ、こうして全イスラエルが救われる(ローマ11:25,26)というはかりごとも、実現させてくださるように。

詩編を読む・2016. 5.11   詩編21篇

詩編21篇

1.詩編21篇を読む
 この詩編の3節を20:5と比較すると、20篇と21篇は願いと答えが対になったものとみなすことができる。また、構造も、二つの大きな部分からなるという点で似ている。この詩編ではまず王の信仰が語られ(2-8節)、次いで会衆が王に応答する(9-13節)。そして20,21篇とも、最後の節で、祈り及び賛美をささげているのである。20篇の「苦難の日」と21篇の「喜びの日」は、二篇が組み合わさって,キリストにある者の信仰の姿をうたっているといえる。
 2-8節に登場するのは「王と主」だけである。
 2節の「御救い」は20:6の「勝利」と同じ語であり、単なる救出という意味を超えてさらに積極的な内容を伴わせている。万物を生かす救い,それは主だけがなしうる真の勝利である。
 9-13節では「王とその敵」が記され,最終的な勝利を約束する。
 ここで描かれているのは、全力を注いですべての敵を追撃し、敵のすべてに及び(「及ぶ」は「見つけ出し」「尋ね出し」と敵の先手を封じるさま)、世の中から敵の仲間を断ってしまう(11節)気迫である。このようなこともまた地上の王の力をはるかに超えている。出来事の規模は、メシア(キリスト)にだけよるものである。
 このことを、新約聖書ではキリストによることとして詳述している。キリストの出現、そしてそれに伴う火と裁きが明確にされている。参照:テサロニケ二1:7b-9
21篇の締めくくりの14節は、20篇の最終節に呼応する。主への賛美である。

2.関連する新約聖書の聖句
 直接引用されている個所はないが、次の聖句は、内容的には新約と深く関連している。
 6節の「栄光…栄えと輝き」については、キリストにおいてその深みと高さを十分に明らかにしている。
  ヨハネ13:31-32 …「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。」
  黙示録5:12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」
 10節の「あなたが怒りを表されるとき」は、字義的には「あなたの御顔のときに」である。すなわち「あなたの臨在のとき」なのである。
  黙示録6:16 山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 カルヴァンは、この詩編には王の幸せな状態と繁栄に対する厳粛な感謝が含まれている、と言う。そして、「聖霊はここではとくに、この王国の目標であり、完成であるキリストに向けて、信仰者の心を確かにしようとしている」と語る。
 3節「あなたは王の心の望みをかなえ 唇の願い求めるところを拒まず」 ここでダビデは預言の霊によってとくにキリストに目を向けていた。キリストは御自分のためではなく、われわれの福祉のために支配されるのであり、その唯一の熱望(願い求めるところ)はわれわれの救いに向けられている。それゆえに、ここから有益な教えを引き出すことができる。それは、われわれが教会のために祈るときにはいつでも、われらの天の王が先立ち行かれるゆえに、神がわれわれの祈りを退けられるはずがない、ということである。
 8節「王は主に信頼し、いと高き者のいつくしみの中にあるゆえ、よろめくことはありません。」信仰者が彼らの王に帰することすべては、教会全体に関わることである。だから、この世をかき乱すような嵐の中にあっても、われわれは安らかに保たれる。この世はあたかも車輪の上にあるかのごとく、上になり下になりして回転し、上にあった者は一瞬のうちに低くされることが起こるが、ユダの王国、そしてその比喩のもとに、キリストの王国は、これから自由である。しかし、このような確かさによって支えられるのは、信仰の確信によって神のふところに退き、その憐れみ深さにより頼んで、その救いを神に委ねる者であることを、われわれは想起させられる。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 この詩編でも、アウグスティヌスはキリストを見ている。
〔例〕5節「願いを聞き入れて命を得させ…」 彼は復活を願い求め、「父よ、子に栄光を与えてください」(ヨハネ17:1)と言った。そしてあなたは叶えられた。「生涯の日々を世々限りなく」。教会が持つであろうこの世での長い時間を、また続けて世々限りない永遠の時を、与えられたのである。
   8節「王は主により頼む。…」王は自ら誇るのではなく、へりくだった心で主に望みを置く。「いと高き神の慈しみに支えられ 決してゆらぐことはない」。十字架の死に至るまでのその従順は、いと高き者の慈しみの中にあって彼の謙遜を揺り動かしはしないだろう。

詩編を読む・2016. 5.18   詩編22篇

詩編22篇
1.詩編22篇を読む
 キリスト者にとって、この詩編は、十字架の情景を生々しく思い起こすことなしには読めない(2.関連する新約聖書の聖句 参照)。この詩編は、細部まで成就した預言であるだけでなく、復讐の訴えの片鱗さえ見られぬ受難者の遜りと、異邦人が世界規模で一つの集められるという受難者の幻が主題となっている。
 わたしたちはキリストの十字架の場面を思いながら2-3節を読む。そして内容から考えると、続く4-6節は、2-3節の内容を少しチェックするような内容となっており、いわゆる神信頼の詩となっていることに気付く。そして7節からは主題に戻る。このような神信頼が疑う余地無く出てくる。10-11節、そして20節。続く23節から最後までは神賛美と神信頼で結ばれる。その意味では、この詩は十字架の叫びであるとともに、深い神信頼の叫びでもある。
 「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫んだ方は、単なる人間ではなく、神の子であった、つまり神御自身であった。このことはキリスト教の心臓部といえる。
 神が神によって捨てられたということが起こった。どういうことなのだろうか。この詩編の内容が、神の内側にまで持ち込まれたのである。普通、わたしたちはこの叫びは人間の叫びだと思う。神から捨てられるなどというのは人間のことだと思う。しかし、イエスは単なる人間ではない。神そのものであるイエスがこの叫びを叫ばれた。22篇でダビデが歌う人間の痛みが神の内側に持ち込まれ、神から捨てられるという絶望状態が神の口から出た。22篇のような状況にある人間を本当に救うことのできる救い主は、無傷の救い主ではなく、自ら傷を負う永遠者なのである。神の前にある一人として、このことを深く心にとどめたい。(ペトロ一2:24)

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」 引用マタイ27:46、マルコ15:34「三時にイエスは叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
 6節「…あなたにより頼んで、裏切られたことはない」 参考 ローマ9:33
 8節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い…」 参考 マタイ27:39-43、マルコ15:29-32、ルカ23:35-36
 17節「犬どもがわたしを取り囲み さいなむ者が群がってわたしを囲み 獅子のようにわたしの手足を砕く。」 参考 マタイ27:35、マルコ15:24、ルカ23:33、24:40、ヨハネ19:23、37、20:25
 18節「…彼らはさらし者にして眺め」 参考 ルカ23:35
 19節 引用 ヨハネ19:24、(マタイ27:35、ルカ23:34)
 21節 参考 フィリピ3:2、黙示録22:15「…犬のような者…」
 22節 参考 テモテ二4:17「そしてわたしは獅子の口から救われました。」
 23節 引用 ヘブライ2:12「わたしはあなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します。」 参考 マタイ28:10、ヨハネ20:17、ローマ8:29
 25節「…助けを求める叫びを聞いてくださいます」 参考 ヘブライ5:7
 27節 参考 ヨハネ6:51「…このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。…」

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 この詩で、ダビデの一身のうちに示されているのは、キリストの姿である。ダビデは預言の霊によって、キリストが父によって高く挙げられる前に、考え得る限りのあらゆる種類の虐待を蒙り、卑しめられなければならないことを知っていた。
 2節「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」
 この節には注目すべき二つの文章が含まれている。それは相矛盾するようであるが、信仰者の心に食い入るものである。ダビデが神によって捨てられ、退けられた、といっていることに関して、これは絶望した人間の嘆きのように見える。人がもはや神のうちに支えを持たないと感ずるに至るとき、信仰の輝きは一条さえもそのうちに残ることがあるだろうか。しかも、ダビデが二度も神に呼ばわり、そのうめきの声を神に向けて発することのうちに、きわめて明白な信仰の告白が見られるのである。…肉の思いに従えば神に捨てられたと考えながらも、信仰によっては隠された恵みを把握するということを、来る日も来る日も体験しないような信仰者は一人もいないであろう。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 2節 わたしたちはこの句を十字架から聞いた。この時、主は、何を言おうとされたのか。というのは、神は彼を見捨ててはいなかったからなのだ。なぜなら、彼自身が神であるからだ(ヨハネ1:1)。神である御言葉は肉となってから十字架につけられ、そして言われた。「わたしの神よ、わたしの神よ、わたしを顧みてください。なぜわたしをお見捨てになったのですか。」なぜそう言われるのか。わたしがそこにいたからでなければ、教会がキリストの体であるからでないならば。何らかの仕方でわたしたちの注意を喚起し、「その詩編はわたしについて書かれている」というつもりでないならば。


詩編を読む・2016. 5.25   詩編23篇

詩編23篇

1. 詩編23篇を読む
 この詩編は、羊飼いと羊のたとえを用いて、神と人間との関係を簡潔に、それでいて深く力強く取り上げている。ここにある平安は逃避ではない。ここにある充足は自己満足ではない。ここには、深い闇と、さしせまる攻撃に直面する用意がある。クライマックスは、何よりも物質的な目標に向かってではなく、主御自身に向かって進む愛である(6節)。
 まず、羊のことを考えてみよう。動物は、自分の巣や住まいに帰る本能を持っているものであるが、非常に珍しいことに、羊の特色は迷いやすいことにある。一匹で迷い出て荒れ野をさまよい、ついに飢え死にしてしまう。その羊がたとえに使われて、わたしたち人間が指し示される。わたしたち互いは、他ならないこの羊なのである。(この自覚をもって、この詩のメッセージを読み取りたい。)
 神が羊飼いにたとえられ、わたしたちに対する神の配慮が徹底的であることがうたわれている。羊飼いは、羊の群れと共に住み、導き手、癒し主、守り手というように、羊の群れにとってすべてである。(参考 詩編18:32「主のほかにわたしたちの神はない。」)
 魂がなえ衰え、疲れ果てるとき、神は生き返らせてくださる。そして正しい道へと導かれる。滅びの淵に陥ることを避けさせてくださる。そういうことを神は「御名のために」(口語訳、新改訳)なさる。神の名が、これによってはっきりしてくる、という含みがある。神とは、つまり神の名は何なのかと知ろうと思えば、神のなさることを見るほかはない。すると、神は羊飼い、牧者ということになり、神が羊であるわたしたちをこのように配慮して扱ってくださることによって、神の本質が現れるのである。
 5節からは、羊飼いのたとえとは直結しないような内容になり、苦しめる者(「敵」口語訳、新改訳)の前での宴がうたわれる。今ダビデは敵を前にしている。敵は文字通り人間である敵ともとれるし、いろいろな逆境というふうに理解することもできる。すなわち敵対する強力なものである。そのようなものが目の前に現れると、人間は余裕がなくなり慌てふためくといった落とし穴に陥る。
 しかし、神は敵の前で、わたしに杯があふれるまでの食卓・宴を設けてくださる。神に養われる者の幸いと豊かさが、どのような場面においても信仰にはあるのである。神の恵みの豊かさに感謝したい。6節は、わたしたちの生きていく人生はいつどのようになるかたいへん危ないと見えるが、そういう人生を歩いていく時に、神の恵みと慈しみが両側からわたしたちを守ってくれているというのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 1節「何も欠けることがない」 参考 マタイ6:33「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
 5節「食卓を整えてくださる」 参考 ヨハネ6:51「わたしは天から降ってきた生きるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 カルヴァンは、詩編23に、神への感謝に注目して、次のように記している。「この詩編には祈りも含まれず、助けを得るための嘆きの訴えも含まれていない。そこにはただ純粋な感謝だけがある。ダビデは大いなる繁栄の中にあって、世俗の人間がするように、調子よくいく時に、いわば神を足元に踏みつけ、欲情と快楽にふけることがないため、彼は享受する良きものおよび、時間の創始者にあって喜ぶ。」
 1節「主はわたしの牧者であり」
 神は、父としてのやさしさの味わいによるかのごとく、その恩恵によってわれわれを、やさしくご自身のもとへと引き寄せられる。だが、われわれが安息と歓喜のうちにあるとき、神を忘れ去るということほど容易なことは、ひとつもない。幸せでさえも多くの心を奪って、法外な陽気さわぎに至らせるだけでなく、彼らのうちに傲慢さを生み出し、驕慢にも自らを高くして、神に逆らい立つまでにさせるのである。
 それゆえに、ダビデのこの詩編でうたっている彼の範例に注意深く目を注ぐことが、われわれにふさわしい。ダビデは、王としての豊かさと輝き、愉悦の中にあって、神を覚えていることを証しすることのみならず、神から受けているもろもろの恩恵を覚え、これらをもって一層神に近づき昇るための梯子とするのである。(参考 箴言30:7-9)
 神が牧者であられるのは、神の保護を必要とすることを認め、自ら進んで神の牧場の中に留まって、神の統治に身を任せる者にとってだけである。(参考 ヨハネ10:14)

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 4節「たとえ死の陰の谷を行くときも」
 つまり、わたしが死の陰であるこの世の中を歩くときも、「わたしは災いを恐れない。あなたが共にいてくださるからである。」わたしはもろもろの悪を恐れない。信仰によりあなたがわたしの中に住んでおられるからだ。そして今わたしと共にいてくださるのは、死の陰を過ぎた後、さらにわたしがあなたと共にいることができるためである。「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づけた。」あなたの鍛錬は、羊の群れへの鞭のように、動物的な生から精神的な生へと成長しつつある者への杖のようなもので、わたしを力づけてくれた。なぜなら、あなたがわたしを覚えていてくださるからだ。

詩編を読む・2016. 6. 1   詩編24篇

詩編24篇

1.詩編24篇を読む
 この堂々とした詩編は、一言でいえば「神の栄光の賛美」である。
 三部からなる。⑴ 1-2節 すべてを創造する方 ― 神の尊厳を歌う
⑵ 3-6節 すべて聖なる方 ― 真のイスラエルに目を向けさせる
⑶ 7-10節 すべてに勝利した方 ― わずかな語数で、目に見えない王の高くそびえる姿と歴史におけるかつての救出の御業とのつながりがクライマックスとして、わたしたちの目の前に示される。
 詩編の中で、神がこれほどに華麗と威厳をもって描かれることは珍しい。そして、この栄光の方こそ、イザヤが「もはや人の面影はない」(イザヤ52:14)と表現したキリストなのである。代々の聖徒たちは、この24篇に復活のキリスト、再び来られるキリストを見ていた。
1節「地とそこに満ちるもの、世界とその中に住むものは、主のもの」。すべてに神に支配がある。これがダビデの確信であった。すべてを創られ、統べ治めておられる主を思うほど、主への賛美が声高らかに歌われる。
 ダビデのこの主への賛美は彼のどういうところから生まれた賛美だろうか。
 ダビデの歩みは大いなる苦難と苦悩の連続であった。サウルをはじめ多くの者がダビデを襲い、攻めたてた。また、自らの情の弱さにも苦しみを味わった。そうした中で、ダビデは主に訴え続け、そして神の揺るぎない御手を知らされたのである。
 自らの小ささや無力さを知らされることは、同時に神の絶大なる力、その大いなる御手の事実を知らされることと結びついている。その絶大な神の前に、人は、聖所に立つことのできる者はいない、一人もいないということを知るのである。3瀬「どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか。」まさにこれこそがダビデの思いであり、自らを真に知るものの言葉といえる。わたしたちもまた、神の前に自らを知り、神の力と威厳に圧倒され、ダビデのように、「地とそこに満ちるもの、世界とその中に住むものは、主のもの。主は大海の上に地の基を置き 潮の流れの上に世界を築かれた」と心から告白し、神の栄光をたたえるのである。
 参考までに:
 この詩編は伝統的に昇天日(キリストの復活から40日目)に歌われた。しかし、この詩編のテーマは待降節*であると考えるほうがふさわしいとの指摘もある。ここでは神の最終的な到来がクライマックスとなっているからである。ダビデと契約の箱が、エブス人の要塞を主の山および主の町に変えたように、勝利の主が到来するのである。(参照:歴代誌上16章) 
*降誕への期間。また、主の降誕に想いを寄せることを通して終末と再臨への熱い待望を新たにする。

2.関連する新約聖書の聖句
 1節「地とそこに満ちるもの、世界とその中に住むものは、主のもの。」
引用 コリント一10:26「『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。」(黙想のために10:31節との関連)
 4節「清い心をもつ人」参考 マタイ5:8「心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る。」
 7節「栄光に輝く王が来られる」 参考 コリント一2:8「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
〔24篇要旨より〕ユダヤ人にとって、神の恵みは神殿が建てられたとき、いっそうよく示されたので、ダビデは信仰者が益を得、神に熱心に仕え、神をほめたたえるようにと、高らかにうたう。聖所はすべてのユダヤ人に対して開かれてはいるものの、神はすべてのユダヤ人にとって、そば近くにおられるのではなくて、清い心をもって神を畏れ、神に仕え、この世のもろもろの汚れから身を退く者だけに、近くあられることを示すのである。
 8節「この王とはだれか」
 今や、神の御子がわれわれの肉をまとい、栄光の王、また万軍の主として現れられたが、その神殿に入られるのは、象徴としてではなく、われわれの直中に住まわれるためである。今日ではもはや、シオンの丘は聖所として定められた場所ではないし、契約の箱もケルビムの間に座られる神の似像ではないが、われわれの父祖たちと同じ状況、すなわちみことばの説教と聖礼典によって神に結ばれているので、これらの助けを、尊崇の念をもって受け入れることが大切である。

詩編を読む・2016. 6. 8   詩編25篇

詩編25篇

1.詩編25篇を読む
(「アルファベットによる詩」は聖書に出る用語ではなく、学術用語。各行とか各節とか、ほぼ一定の間隔を置いて最初の字母がアルファベット順になるように作られた詩)
 この詩編では、敵からの圧迫、導かれることの必要、罪の重荷が語られ、その中で主への深い信頼がうたわれている。個人的な願いが目につくが、最後の節は、ダビデが自分のために願ったことをイスラエルのためのことと宣言している。それによって、個人の願いが全会衆のための賛歌となっている。
 この詩編で注目しておきたいこと。
〔敵〕  ダビデの詩には、敵の陰がよくつきまとっている。敵が勝利するならダビデが信用を落とすだけではなく(2節)、彼が確信し擁護していることの信頼性も失われる。ダビデは、人は自らの才覚によってではなく、神の助けによって生きるべきだ(3節)との確信に立っているのである。その確信を、敵は軽蔑するだろうが、ダビデは21節で明快に語る。「どうか、誠実と潔白がわたしを守ってくれるように。わたしはあなたを待ち望んでいます。」(口語訳)
 こうして敵は、ダビデを引きずり込むことに失敗している。そして、この詩を歌う者たちは、ダビデと同じ態度を公言しているのである。
〔導き〕  導きは、この詩編の中心的なテーマと言える。まず、4節に注目したい。ここには、特別な導きを願う動機ともなるような利己心はなく、正しい決断の土台が据えられている。また、導きを願う上で大切な点が取り上げられている。①祈りの粘り強さ(5c節、15節)。②悔い改め…罪人であることの自覚。③謙遜…9節「へりくだる者」(口語訳)。④主への畏れ…14節(新改訳参照)。その畏れに主は親しく応えてくださる。
 これらのことをわたしたちも大切にしたい。
〔罪責〕  罪責は、時が過ぎれば解決するものではない。それを解決するのは、契約によって約束された神のめぐみである(7節)。ダビデ自身、自らの咎を悲しみ(11節)、それが16-18節の深い悩みとなっている。
〔信頼〕  「信頼」(依り頼む)は、詩の冒頭(2節)で使われ、3、5、21節など神を待ち望むところでも貫かれている。信頼とは、望みつつ熱心に待つことでもあり、あきらめではない(イザヤ30:18)。

2.関連する新約聖書の聖句
 10節「主の道はすべて、慈しみとまこと」  参考ヨハネ1:17「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
〔25篇要旨より〕この詩編には祈りを交えた冥想が含まれている。ダビデは、敵の無慈悲さによって手荒く扱われ、はなはだしく苦しめられたので、神の助けを得ようとして、このような仕方を用いてダビデを懲罰しその罪を正しくこらしめるのは神であることを認め、神がその憐れみを示されるよう、神の赦しをまずもって乞い求める。そののち、彼は聖霊の恵みを懇望する。聖霊によって支えられて、もろもろの誘惑の直中にあっても、神への畏れのもとに固くとどまることができるためである。
 17節「わたしの心の艱難を」  ダビデはただ外の敵と戦うだけではなく、内側からの悲しみや苦悩によって苦しんでいると告白する。ダビデの心が、時には苦悩によって全く押さえつけられていたことを、押しつぶされわれわれは知っているので、われわれもまた時折、誘惑の重さに押しつぶされそうになるとしても、もはや驚きにはあたらない。むしろダビデとともに、われわれが絶望の淵にあるときでも、神がわれわれを支えてくださるように、願い求めようではないか。


〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 7節「わたしの若いときの過ちと、わたしの無知の過ちを思い起こさないでください」…わたしの厚顔な大胆さの過ちと、わたしの無知の過ちを処分のために蓄えるのではなく、いわばそれらをあなたの記憶から消し去ってください。神よ、「あなたの憐れみに従ってわたしを御心に留めてください」…まことに、わたしがそれに値する怒りに従ってではなくて、あなたのそれがふさわしいあなたの憐れみに従って、わたしを御心に留めてください。「主よ、あなたの恵みのゆえに」…主よ、わたしの功績のゆえにではなくて、あなたの恵みのゆえに。(詩編の神の言葉によって祈るアウグスティヌス自身の祈りがここにはある)
 10節「主のすべての道は憐れみと真理」…では、主が和らげられうる方である憐れみと、主が朽ちない方である真理以外に、どんな道を主が彼に教えるだろうか。それらのうちの一方を、主は罪の赦しにおいて提示し、他方を功罪の裁きにおいて提示したのである。それゆえ、主のすべての道とは、神の御子の二つの来臨であり、一つは憐れむ方の来臨、もう一つは裁く方の来臨である。        「主の契約と主の証しとを探し求める人にとっては」…実際、主が第一の来臨においては憐れみ深い方であることを理解して、そして第二の来臨においては審判者であることを理解するのは、柔和にして従順で、主が御自分の血によってわたしたちを新しい命へと贖われた時、主の契約を求め、そして預言者たちの中に、更に福音書記者たちの中に主の証しを探し求める人である。
 (アウグスティヌスは「憐れみと真理」の言葉に、はっきりと主キリストによる救いと裁きを見ている。参考:ヨハネ12:47-48)

詩編を読む・2016. 6.15   詩編26篇

詩編26篇

1.詩編26篇を読む
 詩編の注解者キドナーは、この詩編に「一途な敬虔」との題をつけ、次のように言う。…神の臨在をしたい、神の臨在を喜ぶ信仰の告白が、この詩編の核心となっている(6-8節)。
 1節.ここでダビデは自分が正しいと主張しているのだろうか。このことについては、詩編32:1-5や同143:2を参照したい。
 ダビデは道徳面で綿密に吟味されたなら、裁き主の正しさによって罪ある者として滅ぼされていたであろう。しかし、その主の正しさが、今不当な攻撃からダビデを守る避けどころなのであり、その主への信頼という点においては「よろめいたことはない」というのである。
 参考までに、1節「完全な道を歩いてきました」は、口語訳、新改訳では「誠実に歩み」、フランシスコ訳、岩波訳では「汚れなく歩み」と訳されている。これらの訳語の基本的な意味は、過誤のないことというより、二心でないことを意味する。
 4-5節のように言うのは傲慢だと考えてはならない。ここに出てくる者たちは、味方になる可能性もあれば、敵になる可能性もある。ダビデはその選択をしているのである。
 表現されている「集い」は、会衆や党派を指しており、神御自身のグループと競合するグループのことである。ダビデがどのような仲間を選ぶか、彼と彼の王国の両方がかかっているのである。このことは、どのような事業の性格にもあてはまることとして、心に留めておきたい。(参考:列王記上12章レハブアムの判断)
 6-8節では、主を愛し、主を慕い求める信仰と生活とが、余すところなく歌われている。わたしたちも、主を慕い求め、主の臨在の中に敬虔をもって歩み、主の家に住まう幸いを歌うものである。
 11-12節では、信仰者の特質とでもいうべき要素が、取り上げられているのに注目したい。
・「誠実」…ふたごころでないこと(上記)。ダビデは1節で「わたしは…歩いてきた」と言い、11節では「わたしは…歩きます」と言っている。このことは神への信仰に堅くとどまる意思の表明である。
・「謙遜」…贖ってください、と祈っているように、ダビデは主の助けなしには何もできない。そして、助けを当然の権利として主張する資格もないので、ただ「憐れみ」を求めるのである。
・「確信」…「まっすぐな道に立っています」とダビデは告白する。主に信頼すること(1節)も、「わたしを憐れんでください」という願い(11節)も、決してむなしくは終わらない。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います」…参考 ヨハネ1:14「言葉は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」
― 栄光が宿る ― 神の栄光は、荒れ野では目に見える形で幕屋に満ちた(出エジプト40:34以下)。すなわち、神が人の間に宿られたのである。そしてユダヤ教では「宿る」を意味する語が、栄光を意味する基本用語となった。ヨハネは、荒れ野で雲と火の中に予表的に示されていた現実について、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と告げ知らせているのである。

3.何を教えられるか(主にカルヴァンの注解に学ぶ)
 1節「主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、主を信頼し、ぐらつくことがないからです。」 「さばく」という語は、ヘブル人の間では、「ある立場(主張)を認める」という意味になる。ここでダビデは、みずからの正しい保証人として、神を呼び求めているのである。
 神がしばらくの間でも、われわれを敵の暴虐と無礼とに放置されるとき、神はわれわれの主張を無視されたように思われる。しかし、神がこの敵を鎮定されるとき、神はわれわれの権利を守られることを明らかに示されるのである。それ故、われわれが他からの助けを欠くとき、ダビデにならって、神のさばきにより頼み、その保護に身を任せようではないか。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
(4,5節の「座る」について)ダビデは言う。「わたしは虚栄の会議と共に座らなかった」(4節)。座るとはどういうことか。それは、そこに座っている者たちと同じ思いを持つことである。もし、あなたが出席していても同じ思いを持つことをしなかったならば、あなたはそこに座らなかったのである。もしあなたが欠席していても同じ思いを持ったならば、あなたはそこに座ったのである。

詩編を読む・2016. 6.22   詩編27篇

詩編27篇             

1.詩篇27篇を読む
 1節.「光」は、ほとんどすべて好ましいことの象徴である。
例:真理 ⇒ 「あなたの光とまことを遣わしてください」(詩編42:3)
善 ⇒ 「災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし」(イザヤ5:20)
喜び ⇒ 「神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには 喜びを種蒔いてくださる」(詩編97:11)
生命力 ⇒ 「命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る」(詩編36:10)
 ここでは、光は「恐れ」(1,3節)や悪の勢力(2節、さいなむ者)に対する解答である。2節で、さいなむ者・敵が肉を食い尽くそうとする、と言われているように、恐れや悪の勢力は過小評価*されてはいない。「命の砦」は、まさに恐れや悪の勢力が本人の「命」を脅かすものであることを示している。
  *エフェソ6:11、12をあわせて読んでおきたい。
 3節で語られている「恐れ」がどのようなものであったかについては、サムエル上23:26-27でのダビデの絶望的な状況、または列王記下6:15でのエリシャの状況から想像できる。出エジプト14:19-20、24も参照しておきたい。そこでは、主は、そばを歩む光であり、追跡する者たちを防ぐ、手で触れることのできない防御壁なのである。
 4-6節で述べられているのは、絶えることなく神の臨在を喜んでいたい、という願いである。注目したいのは、目的ひとすじであること。(4節「ひとつのことを」)、そしてその目的が「主を仰ぎ望む」ことにあることである。まさに、礼拝の本質が示されている。6節「わたしは主の幕屋でいけにえを捧げ、歓声をあげ、主に向かって賛美の歌をうたう。」
 7-12節.ダビデは「御顔」を求める礼拝者(8節以下)であるだけではない。神の道を歩むことを決意している信仰者である(11節)。その道を一歩進むたびに戦いに出会う。彼はまさにこの世の中にいる。彼が「平らな道」を祈り求めているのは、安楽のためではないだろう。足がすべっただけでつけ込まれかねない中で、なおまっすぐに歩むことを願っているといえる。最後の節に「主は言われる」(詩編12:5-6)の言葉はないが、「御顔を尋ね求める」者への、主からの答えとしての託宣と考えられる。それに応えることによって、なお一層神への信頼は高められ確かなものとされる。わたしたちも、13節の「わたしは信じます」の言葉を自分の言葉としたい。

2.関連する新約聖書の聖句
 4節「命のある限り、主の家に宿り」 参考 ルカ2:37「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。
 6節「主に向かって賛美の歌をうたう。」 参考 エフェソ5:19「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」 コロサイ3:16「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」
 12節「偽りの証人、不法を言い広める者が わたしに逆らって立ちました。」
参考マタイ26:59-60「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、」。マルコ14:56-57。

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1節「主はわたしの光、わたしの救い、わたしはだれを恐れようか。主はわたしの命の力、わたしはだれをおじ恐れよう.」
聖書の中で、「光」という語が「歓喜」あるいは人生を幸いなものとする、もろもろの良きものの完成を表すことは、極めて一般的である。さらに強調のために、ダビデは神が「救い」、また「命の力」であると付け加える。神の助けによって彼は確かであり、死の暗黒から保たれるからである。
 われわれが深く思いめぐらすならば、われわれを苦しめるすべての恐れの念は、われわれがあまりに己の生命を愛し、神がその保護者であることを知らないところから生ずることに、気づくであろう。同様にわれわれの生が豊かに備えられ、いわば堅固な砦で囲まれている(なぜなら、神がその御手と力とによって、これを守られるからである)ことを確信するまでは、心の中に平安を持つことは、決してない。

〔参考〕 アウグスティヌスの言葉より
(5節の「幕屋の奥深く」について-27篇の説教から)「主が、わたしの災いの日に、わたしをご自身の幕屋に隠してくださったからである。主はわたしをご自身の幕屋の隠れ場に保護してくださった。」(5節)
 主の幕屋の隠れ場とは何か。実際、幕屋は外から見られる。しかし、奥の密かな所と言われる、いわば至聖所、宮のより内なる所がある(ヘブライ9:3)。これは何か。ひとり祭司だけが入っていたところである。そして恐らく、かの祭司ご自身が神の幕屋の隠れ場なのである。彼はその幕屋から肉体を受け取り、そしてわたしたちのために幕屋の隠れ場を造られた。彼ご自身が幕屋の隠れ場となるためである。
 使徒は言う。「実際、あなたたちは死んだのであって、あなたたちの命は、キリストと共に神の内に隠されているのである」(コロサイ3:3)。

詩編を読む・2016. 6.29   詩編28篇

詩編28篇

1.詩篇28篇を読む
 1、2節の背景にあるのは、深い絶望である。その中では、多くの者は絶望に打ち負かされてしまうものだが、ダビデは神の内にのみ避けどころを持つという。ダビデが神を「わたしの岩」と呼ぶとき、平安の中にあるときだけではなく、極度の試みに遭う時でもいっそう神の助けを確信しているのである。
「嘆き祈る…声」「救いを求めて叫び」という言葉に、祈りの熱烈さ、激しさを教えられる。燃えるような願いをもって神に向かって両手をあげてダビデは祈る。
 3節「わたしを引いていかないでください」との祈りは、神を畏れない者たちによる友愛の見せかけへの警告でもある。彼は、平和を口にしてもその心には悪意がある。
 4節で願い求めている「報い」は、審判の日に現実となる。神の選民は「昼も夜も叫び求め」、神の怒りにすでに火がついているのを、この終末の時に知るのである。  (ルカ18:7、8a「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」)
 6節からは、この詩編の後半である。ダビデは感謝をささげ始める。ダビデはさまざまな危険の直中にあって祈ってきた。感謝は、その祈りが空しくなかったことを教えてくれる。このダビデの経験に、わたしたちは、偽りのない心で神を求めるとき、神はいつでもそば近くにあって助けを与えてくださることを知る。わたしたちも、神を「わたしの力」「わたしの盾」と呼んで、ますます神への信仰を明確に公言したい。  8ー9節、今ダビデは、自分が一信徒以上の存在である「主の油注がれた者」という事実を前にして祝福を祈る。ダビデが配慮しているのは、自分の救いというよりは、教会全体の救いなのである。彼が生き、統治したのは、ダビデ個人のためではなく、神の民全体の益のためであった。ダビデは自分が王として選ばれたのは、それ以外の目的ではないことを知っていた。まさにこの点でも神の御子の予型なのである。
 8節については、以下の諸訳参照。
「主はその民の力、その油注がれた者の救いのとりでである。」口語訳
「主は、彼らの力。主は、その油注がれた者の、救いのとりで。」新改訳
「主はわたしたちの力、油注がれた者を救う砦」フランシスコ会訳 
(参考)アウグスティヌスは、8節について、「その民は、神の義を知らずして自分の義を立てることを欲する民(ローマ10:3)ではない。というのは、その民は自分自身で強いとは考えなかったからである。なぜなら、主がご自分の民の、この人生の諸々の困難の中で悪魔と戦っている民の力だからである。…それで主は、ご自分の油注がれた者(キリスト)によって救われたその民を、力強い戦いの後で、最後に不朽の平和によって保護してくださる。」と注解。

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「わたしの手をあなたの聖所に向けて上げるとき。」(参考) テモテ一2:8「…清い手をあげてどこででも祈ることです。」
 4節「その仕業、悪事に応じて彼らに報いてください。」 (参考) 黙示録18:6「彼女がしたとおりに、彼女に仕返しせよ、彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯にその倍も返してやれ。」                             マタイ7:2、テモテ二4:14も参考に

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (4節の注解で述べている「復讐」について)
 4節「彼らの行いに従って、その企ての邪悪さに従って、彼らに報い、彼らの手のわざに従って、彼らを罰してください。」ここから復讐心に関するきわめて困難な疑問が持ちあがるが、次の点を心に留めておきたい。
 もしわれわれの肉がわれわれを駆り立てて、復讐を求めさせる場合には、その情念が神の御前で悪であることは、極めて確実である。神はわれわれが私的な害を加えられたからといって、われわれの敵の上に禍が起こるように望むことを、禁じておられることの他に、すべて憎悪から生ずる情念は、邪悪で、禍に満ちていないはずがないからである。それ故、激怒に押し流されて、恨みが晴らされるようにと求める者は、ダビデの実例を隠れみのとすべきではない。ダビデが怒りのあまり、敵が混乱に陥れられるように願うに至ったのではないからである。ダビデは肉の思いをいっさい取り去って、事柄そのものからだけ判断しているのである。
(カルヴァンは、この箇所でルカ9:53-55におけるキリストを記し、破滅を企み、誓うように思われる者たちの回心を願うことに目を向けさせたうえで、次のように記す。)ダビデはこの祈りによって、自分自身と信仰者に悪しき者がしばらくの間、罰せられることもなくあらゆる悪をなしたとしても、ある日ついに、神のさばきの座の前に出頭しなければならないであろう、と戒告しているのである。

詩編を読む・2016. 7. 6   詩編29篇

詩編29篇

1.詩篇29篇を読む
 主の威厳がそびえ立っている詩編。「栄光と力を主に帰せよ」、と主を敬意する情景に始まり、激しい雷雨が海からカナンの全域と砂漠にまで通っていく。雷鳴が鳴り止んで穏やかな頂点に達し、主は世界の審判者として座に着く一方で、その民に祝福を与える。
 3-9節 主の御声とは、「雷鳴」(3節)であると言い表されているが、それは主の声であって、単なる自然の力ではなく創造者の力の宣言の強調である。海について言えば、轟音を立てる波の上でとどろく雷鳴は、主権者であり裁判官である主の力を指すと考えられる。このことは、10節で確認される。
 5-8節では、嵐の範囲が明らかにされている。それは、はるか来たの「レバノン」と「シルヨン」(ヘルモン山。申命記3-9)から、遠い南の「カデシュ」にまで至る。その荒れ野をイスラエルはモーセとともにさまよった。5、6節をイザヤ2:12以下と比較してみよう。そこには、主の日のことが予見されている。その「日」、杉の木と山々が、人に感銘を与えるものすべてとともに、ついには低くされる。傲慢なものは低くされる(イザヤ2:17)。神の力を指し示す一言一言が最後の審判を思い出させる。
 しかし、この詩編を貫いているのは9節に見られる主に捧げる歓喜である。「栄光あれ」とすべての者が賛美する。その賛美の声は、へりくだりと喜びと理解といえる。その理解は、嵐は、無意味で恐ろしい諸力が溢れ出ているものとしてではなく、実に主の業すべての中に聞こえる御声として聞こえているということである。
 ところで、神の「栄光」を賛美するという内容については、先に読んできた詩編24篇もそうであった。そしてこれをさらに23篇と結びつけると、羊飼いであり非常に細やかにわたしたちを配慮してくださるその神が、(24,29篇と読み進む中で)同時に威厳に満ち世界のすべてを統べ治められている神である、ということを示される。野性的で荒々しい自然の上に座しておられる神、剛毅なる神、その神が細やかにわたしたちを配慮してくださる牧者なのである。
(参考までに) ・古代ヘブル詩歌は繰り返しの多いのが特徴。それが29篇に見られる。―「海の歌」(出エジプト15)、バラムの託宣(民数23、24)、「デボラの歌」(士師5)
・9a節の訳「主のみ声はかしの木を巻き上げ、また林を裸にする」(口語訳)
 「主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする」(新改訳)
 「主の声は雌鹿をのた打ち回らせ、森を裸にする」(フランシスコ会訳)

2.関連する新約聖書の聖句
 11b節「…主が民を祝福して平和をお与えになるように。」 参考フィリピ4:7「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」 

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
〔29篇要旨より〕 ダビデはすべての人間を ― 最大の者から、もっとも卑小な者に至るまで ― 神の前にへりくだったものとするため、自然のもろもろの奇跡を通じて、神の恐るべき大能をほめたたえる。それによってダビデは、神がそのみ声によってその支配と尊厳とを認可されたと同様に、神に栄光を帰するため、われわれも目をさまさなければならない、と言う。
 
11a節「主は力を与え」  われわれはこの詩編から、神の尊厳への崇敬の念を保持することを学ぼう。われわれがすべての繁栄を神のみ手から期待し、更に神の大能が無限である以上、われわれは無敵の守りによって武装されていることを、しかと確信しよう。

〔参考〕 アウグスティヌスの言葉より
(この詩編でも、アウグスティヌスはキリストの声を随所に聞いている。)
3節「主の御声が水の上にある」キリストの御声が諸国の民の上にある。6節「そして主は、それらをレバノンの子牛のように粉砕するであろう」。 主は彼らの高慢さを伐って、彼らを御自分の謙遜にならうようにと引き下ろすであろうが、その主は子牛のように(イザヤ53:7)、この世の高貴な者たちによって「いけにえ」へとひかれていった方である。すなわち、「実際、地上の王たちは立ち構え、そして支配者たちは結束して主に逆らい、また主の油注がれた方に逆らった」(詩編2:2)。

詩編を読む・2016. 7.13   詩編30篇

詩編30篇

1.詩編30篇を読む
 表題には「神殿奉献の歌」とあるが、ダビデが建てたのは神殿ではなく家(すなわち王宮・参照サムエル記下7:1-3)であることから「家をささげる歌」とも訳される(新改訳他)。
1-6節は、「あなたが引き上げてくださいました」(1節)という生き生きとした言葉や「魂を陰府から引き上げ」(4節)の言葉で表されているとおり、苦境からの救出である。「引き上げる」という言葉は、井戸から桶を引き上げることを表わす語である。その井戸は「陰府」のように深い。それほどの苦境の中でも、ダビデは敵に最後の勝利を許さないようにと、叫び求めたのである。それに答えられる神を崇め、主の慈しみに生きる幸いをうたう。6節の美しい表現は、多くの人を慰めてきた。新約聖書の中にも、その概念は次のように反映されている。
・悲しみが喜びを生み出す/つかの間と永遠の間の対比/ほとんど重さのない艱難と栄光の重さ
  コリント二4:17(2.関連する新約聖書の聖句を参照)
  ヨハネ16:22「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと
  会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
7~11節 「平穏なとき」に人は何を思うか。カルヴァンは「ダビデはその繁栄の誘惑に目を奪われたとき、永遠の憩いを神のことばのうちよりも、むしろ自分自身の感覚のうちに期待した」と記す。万事が自分に微笑みかけ、自分の願いの通りに事が運び、恐れなければならないような危険が目の前に現れないのを知ると、魂は眩惑されて、自分の幸福はいつまでも続き、万事がいつでもこのように運ぶ、と信じ込んでしまう。「飽き足りれば、裏切り 主など何者か、というおそれがあります。」(箴言30:9)
 7節の御言葉は、「平和がないのに、『平和、平和』という」とのエレミヤの言葉に通じる。そして、肉の安心感が人の心の内側で勝ちを占めてしまう。
 平穏なときにこそ、恐怖に陥らないように、絶えず目の前に十字架を見、神の恵みを熱望しなければならない。11、12節「嘆きを踊りに変え」 ダビデは悩み、艱難の中で嘆き祈る。神は、その嘆きを喜びに変えられる。この変えられる最後の大切な点を「粗布」という語が指し示す。心からの悔い改めである。「神の御心に適った悲しみ」コリント二7:10は悔い改めを生じさせ、13節の神賛美へとわたしたちを導いてくれる。

2.関連する新約聖書の聖句
 6節「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」参考 コリント二4:17、18「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
〔30篇要旨より〕 ダビデは何か大きな危機から救われたあとで、一私人として神に感謝をささげるだけでなく、同時にすべての信仰者らに対し、同じようになすようにと招き、勧める。そののち彼が繁栄の中にあって、肉的な確信を招き、はなはだしいうぬぼれに陥ったので、神は正当にも彼の上に禍害を送り、彼の驕慢を正そうとされた、と告白する。第三に、彼は手短に自分の悲しみを語ったのち、再び感謝の言葉に立ち帰る。
 6節「その怒りはただつかの間であるが、命はそのよしとされるところの中にあるからである。夕べには嘆き悲しんでも、朝には喜びがやってくる。」
 繁栄の中にあるとき、われわれは神の恵みの賜物をよく味わうこともなく呑み込み、少なくとも、怠慢のゆえにこれらをただ流れ去るに任せてしまう。反対に、わずかばかりの禍や悲しみが起こるやいなや、あたかも神がただの一度もわれわれをやさしく、親しみをこめて扱ったことがないかのように、神の峻厳さを悲しみ嘆くのである。
 一言にして、われわれの不満や悩みの中にあって味わう悲しみというものは、一瞬間をさえ、まるで一世紀もあるように感じさせるのである。他面、われわれの忘恩のゆえに、神の恵みが長期間われわれに注がれているにもかかわらず、わずかの時も続かないように信じさせる。神の怒りは短期間だけで、その恵みは生涯変わらず、われわれに向けられることを、まったく実感するのを妨げるのは、他ならぬわれわれ自身の邪悪さである。

詩編を読む・2016. 7.20   詩編31篇

詩編31篇

1.詩編31篇を読む
 この詩編を読み、「苦悩からの確信」が二回にわたって取り上げられているのに気づく(2-9節、10-25節)。神信頼の詩であって、神を城砦にたとえ、その神により頼むことをうたっている。ここでは、10-14節に注目したい。苦しい状況が強い表現でうたわれている。神への信頼をうたう時、その神を信頼しなければならないという状況が前提にある。その前提の描写である。
 わたしたちが、何か苦しい状況に陥ったときに、言葉になかなか表せないことがある。そうしたときにこの詩を読むと、これがわたしたちを代弁してくれるのである。
 「わたしの力は苦しみによって尽き、わたしの骨は枯れ果てました」(11節bの口語訳)。骨は枯れ果て、器が粉みじんに砕かれ、自分を取り巻く者たちが「至る所に恐るべきことがある」(14節の口語訳)とひそひそと言っている。
 こうした状況を前提にして、ダビデは15節「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します」とうたう。この神への信頼の言葉の力強さには、骨が枯れ果てるほどに苦しいとの状況がある。壊れた器(13節)となっている粉みじんな自分の姿が神への信頼の前提になっているのである。それだけに、詩人の心は神の慈しみを深く知り、神をたたえる。22,23節「主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を 都が包囲されたとき、示してくださいました。恐怖に襲われて、わたしは言いました。『御目の前から断たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを 嘆き祈るわたしの声を あなたは聞いてくださいました。」
 読みながら、この神信頼の信仰へと励まされる。
(参考までに)描き出される聖書の人物(極限の危機の中で)
 7節  ヨナの祈り(ヨナ書2:8)
 14節  多くの人の言葉に悩まされていたエレミヤ(エレミヤ書20:10)
 2-4節 老齢に至り詩編71篇を書いた人は2-4節の祈りでうたい始めている。

2.関連する新約聖書の聖句
 6節「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」 引用 ルカ23:46「イエスは大声で叫ばれた『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」 (使徒7:59)
 12b節「親しい人々は…外で会えば避けて通ります。」 参考 マタイ26:56(マルコ14:50)「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」
 14b節「人々がわたしに対して陰謀をめぐらし 命を奪おうとたくらんでいます。」 参考 マタイ27:1「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
〔31篇要旨より〕 ダビデは何かある重大な危機、多くの危機から救い出されて、まず死の恐れが押し迫っていたときに、神に祈りをくりかえし、そののちまことに優れた感謝を表す。その救いを、もろもろの語り方によって、ほめたたえてやまない。そしてダビデは、信仰者に対して、望みを固くするようにと勧める(24,25)。その一身のうちに、神の慈愛の実例が示されているからである。

15b節「わたしは言いました。『あなたはわたしの神です』」という言い方に注目することが必要である。 全世界がわれわれの信仰を嘲笑うのを目にするとき、ただ神のみに言葉を向けわれわれの良心がこれこそは神であると証しすることに、全面的により頼むことほどに困難なことはない。まことに、信仰の真実の証明はこのことのうちにある。すなわち、激流がわれわれに逆らって起こり、激しい攻撃が押し迫るとき、それにもかかわらずわれわれは神の保護のもとにあるというこの原理を固く保ち、ダビデとともに「あなたはわれらの神であられる」と率直に言うことが大切である。

 〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
2b節「そしてあなたの義によってわたしを救い出し、わたしを連れ出してください。」というのは、もしあなたがわたしの義に目を留めるならば、わたしを断罪することになるから。「あなたの義によってわたしを救い出してください」というのは、わたしたちに与えられるときわたしたちのものとなる神の義が存するからである。事実、使徒パウロはこう言っている。「不信心な者を義とされる方を信ずる人は、その信仰が義と認められます」(ローマ4:5)。しかしユダヤ人は、自分の力によって義を成就することができると考えたので、躓きの石(ローマ9:32)、悪しき行為の岩に躓き、キリストの恵みを知ることがなかったのである。   (参考までに) この31篇2b節の言葉は、ルターが宗教改革に導かれるに至る代表的な個所と言われている。ルターは、神の義とは何かと尋ね求めていた。ここに言われている神の義は「あなたの義をもって、わたしを助けてください」というように、単に人間を裁く神の正しさとは違うのである。このことがルターに力を与えた。この聖句によって、ルターは、律法的な神の義から福音的な神の義へと転換するきっかけを得たのである。

詩編を読む・2016. 7.27   詩編32篇

詩編32篇

1.詩編32篇を読む
 6篇でふれたように、この詩編は、詩編全体で7編ある「悔い改めの詩編」(6,32,51,102、130,143篇)と呼ばれている。しかし、ただ悔い改めで終始するのではなく、自ら経験した罪の赦しを喜び、感謝をもって歌うのである。そしてダビデは、自分の個人的な経験の中から、すべての信徒に対する教えを引き出している。
 1、2節 冒頭でダビデは「いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」と、罪の赦しに与った幸いを心から感謝し、賛美の歌を歌う。そして、3-5節では、この幸いを知ったのは、いかにしてであったかを語り、罪の問題を真正面から描き出す。罪の告白をしなかったときの苦しさを彼はまず取り上げる。「わたしは黙し続けて(口語訳:わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は)絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。」そして、「わたしの力は夏の日照りにあって衰え果て」たのは、神の御手が昼も夜も重くのしかかっていたからだというのである。人が神の現実の前に置かれるとき、真の姿が露にされる。このことを、詩編そのものが語り尽くしている。心静かに読み、深く味わいたい。
 ダビデは、罪の赦しの恵を得て、神の慈しみに生きる信徒の幸いを、自分の信仰の告白を込めて、6、7節で語る。「あなたはわたしの隠れ家。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方」。
 まさしくこの方が、私たちの主なる神である。
 神の慈しみが自分に注がれていることを知る者にとっては、信仰は自発的になるものである。そのことを9節は語る。馬と言うのは手綱で引っ張られなければ動かない。人間はそうあってはならない。自発的でなければならない、と言うのである。
 手綱で引っ張られ、いやいや歩くというのではなく、自発的にいそいそと歩む信仰に生きる教会生活、家庭生活、社会生活を全うしていきたいものである。

2.関連する新約聖書の聖句
 1節「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」引用 ローマ4:7、8「不法を赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があるとみなされない人は、幸いである。」 参考 ヨハネ1:29「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」
 2節「いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、」
 参考 コリント二5:19「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」 同2節「心に欺きのない人は。」 参考 ヨハネ1:47「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』」
 5b節「わたしは言いました『主にわたしの罪を告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」  参考ルカ15:18(21)「ここをたち、父の所に行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』」 ヨハネ一1:9「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
 9a節「分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。」 参考ヤコブ3:3「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 11b節「すべての心の直き者よ、歌え」 ダビデは、信仰者だけに言葉をかけて彼らを「心の直き者」と呼ぶ。それは外的な見せかけの義が、どれほど人間には快いものであっても、神の御前ではそうではないことを、われわれが知るためである。…信仰は新生の霊とは切り離されえない。それゆえに、彼がみずからを神に献げ始めるやいなや、神は彼らの廉直さ(心が清くまっすぐなこと)を、あたかもそれが完全に欠けがないかのように、受け入れられるのである。なぜならば、信仰はただに人間を神と和解させるだけでなく、また、その中にある完全ならざるものすべてを、聖化するからである。その結果、自らの功績によっては、かくもすぐれた善きものを、決して獲得できないような人間をも、神は自由な恵みの賜物によって、義なるものとみなされるのである。

詩編を読む・2016. 8. 3   詩編33篇

詩篇33篇

1.詩編33篇を読む
 この詩には、主が、創造者であり、主権者であり、審判官であり救い主であることが言い表わされている。そして、そのゆえに、主に賛美を捧げ、主をほめたたえるのである。その意味では、この詩編は賛歌の好例と言える。
 1節で、詩人は、「主を賛美することは正しい人にふさわしい」と告げる。なぜ、ふさわしいのか。正しい人とは、信仰によって義とされた人のこと、つまり、神の慈愛によって神が御自身のもとへと引き寄せられたことを味わい知っているのである。そうであれば、彼らが心の底から、神への賛美をうたうのは、当然のことではないか(詩編147の賛歌をも味わいたい)。心からの賛美は、主と主の御業を知ることによって、自ずとわき上がってくる。詩人は、明確に語りかける。
 4-9節では、天地創造に表わされている、語られたら実現するという主の御言葉の偉大さを思い見るようにと言う。そして、10-11節では、主の深いご計画のみが堅く立つその神の至大さを思い見よと言う。続く12-19 節で、主は愛する者 の上に目を留め、勝利に導かれるお方であることを知って、その御前にひれ伏せと言い、最後の20-22節では、これらのことを知って主に信頼し、主に期待せよと勧めるのである。
 わたしたちも、この詩編を読むごとに、主をいよいよ深く知り、主の御業に目が開かれて、神をほめたたえよう。
 詩篇にはいくつも味わい深い言葉がある。この詩では7節について考えてみよう。「深淵の水を倉に納められた」と詩人は語る。深淵とはおさまりのつかないことを言う表現だと考えると、収拾できるものは深淵ではないということになる。深淵の水は倉になど納めようがないのである。しかし、聖書に示されているわたしたちの神は、「深淵をも倉に納める神」だと言う。この言葉のすばらしさに、神の深み(コリント一2:10)を教えられるものである。

2.関連する新約聖書の聖句
 6節「御言葉によって天は造られ 主の口の息吹によって天の万象は造られた」  参考 ヘブライ11:3「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」 ペトロ二3:5、ヨハネ1:3をも参照。   10節「主は国々の計らいを砕き 諸国の民の企てを挫かれる。」  参考 ルカ1:51「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、」
 18節「見よ、主は御目を注がれる 主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に」   参考 ペトロ一3:12「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
 19節「彼らの魂を死から救い…」  参考 使徒12:11「ペトロは我に返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。』」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ) 
  (要旨より:この詩編の作者は、神がその民に対して抱かれる父としての配慮と特別な保護によって、  彼らを守り保たれていることに目を向け、神をほめたたえるように励ます。)
 17節「馬は救うに足らず、その力の大きさによっても、救わないであろう」
 自分の生が、この世のもろもろの手段の上に確固として立てられていることを頼りにする者は、きわめてしばしば、何の心配もないと思い込み、はなはだしい屈辱のうちに滅びる。神は、その愚かさを彼らに対して目の前に示される。王たちが剣によって武装しているのは、確かに空しいことではないし、馬を用いるのも決して無益ではない。同じように、神が人間の生に役立たせる手段や助けは、決して無効ではない。各自はその使用に際して、正しい限度を守ることが必要なのである。しかし、大多数の人は、もろもろの手段を持ち、確かな武装を備えていれば、偽りの想像によって、確かな安息を得た、憂いや不快は近づくことがない、と思い込む。神がこのような狂気沙汰を罰せられるのは当然であり、彼らを恥じ・誤ったままに放任されるのも、そのためである。
〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 3節「新し歌を主に向かって歌いなさい」。  古いものを捨てよ。あなたは新しい歌を知っている、新しい人、新しい契約、新しい歌である。新しい歌は古い人には属さない。新しい歌は、天の国である新しい契約に属している新しい人だけがそれを学ぶ。わたしたちのすべての愛は息を深く吸い、新しい歌を歌う。その歌を言葉ではなく、生き方によって歌いなさい。
 同節「新しい歌を主に向かって歌いなさい。美しく歌いなさい」。  聞かれる神に対して誰が美しく歌うのであろうか。彼があなたにいわば歌い方を教えてくれる。言葉を求めようとするな。「歓びの叫びをあげて歌いなさい」。実際、美しく歌うことは、すなわち歓びの叫びをあげて歌うことである。歓びは、語りえないことを心が生み出そうとしている音を意味している。こうした歓びこそ言葉に尽くしえないまさしく神にふさわしいことである。神はあなたが語ることのできない言葉を超えた方だから。もし神に語ることができず、そして黙すべきでないなら、歓ぶよりほかに何があるだろうか。(参照:フィリピ4:4.テサロニケ一5:16)

詩編を読む・2016. 8.10   詩編34篇

詩篇34篇

1.詩編34篇を読む
 この詩には、行き詰まりの中で、それを打ち破り救い出される神に対する感謝が全体にあふれている。詩編のきっかけとなっているのは、表題に見るように、サムエル上21:10以下の出来事である。
 サウルから逃れて、こともあろうにゴリアテの故郷であるガトへとダビデは向かった。ガトの王アキシュだけがサウロの手が及ばぬところだったからである。しかし、そのアキシュにとって、ダビデは同じ天の下には生かしてはおかないほど恨みや憎しみの深い敵である。ダビデがそこに向かうしかなかったということは、自分が民に対してどのような立場にあると判断していたかを示している。ダビデに従う者は少数であり、サムエル上22:2に記されている四百人ほどの者はまだ集められてはいなかった。アキシュのもとでどのように事が運ぶのかの見通しはなかったに違いない。ただ、そこにしか行く術はなく、ただ神に委ねたのである。
 この危機的な状況の中から、二つの詩編が生まれた。56篇と34篇である。56篇は危機的状況の最初のもの、そして34篇は行き詰まりが主によって打破されたダビデによる高揚感あふれる歌である。 1-11節(詩編の前半部分)個人的な証し(2,3a,5,7節)と、賛美に加わって信仰を新たにするようにとの呼びかけとが交互に繰り返されている。ダビデは、自分が得た幸い、神が何をなしてくださったかを語るだけではなく、会衆の真ん中におられる主を共に賛美するように呼びかける。
 ダビデがこの時おかれている状況から、1節の「どのようなときも」の重みをわたしたちは教えられる。「その時その時」が、わたしにとってどんなに絶望的であったとしてもいつも御手の中にあるのである。
 新約聖書は、このことをさらに明白に呼びかける。テサロニケ一5:18「どんなことにも感謝しなさい。…」(NEB他「何が起こっても…」) ローマ8:28,36,37も参照。
 7節「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。」 ダビデは「この貧しき者」と言って自分の実例を指し示す。このところを「ここに貧しく哀れな者がいて、この者が主に叫び…」と訳している英語聖書もあり、ダビデの瀕した危機と、命を救うために演じたみじめな姿が的確に表わされている。神は、今でも、神に向かって呻き苦しみ、叫ぶすべての貧しき人に、耳を傾けられる。(マタイ5:3)
  12-23節(詩編の後半部分)ダビデは主への畏れを、正しく聖く生きる教えとして取り上げる(12節)。主を畏れることこそが、困難な時に対する答であり20-21節、最も究極的な問いへの答えに通じるのである(22-23節 ローマ8:1、33,34節参照)。キリストにある代価と無限の赦しが、ダビデの口を通して歓びに満ちてうたわれている。

2.関連する新約聖書の聖句

 2節「どのようなときも、…」  参考 エフェソ5:20「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」 テサロニケ一5-18(前出)。  4節「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。」  参考 ルカ1:47a「わたしの魂は主をあがめ、…」
 5節「わたしは主に求め 主は答えてくださった。」  参考 マタイ7:7「求めなさい、そうすれば、与えられる。」
 8節「主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。」  参考 ヘブライ1:14「天使たちは皆、奉仕する霊であって、…」
 9節「味わい、見よ、主の恵み深さを。」  参考 ヘブライ6:5「神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら」  ペトロ一2:3も参照
 12-17節「子らよ、わたしに聞き従え。…」  引用 ペトロ一3:10-12。
 14節「舌を悪から…」  参考 ヤコブ1:26,3:2 ペトロ一2:1,22 黙示録14:5
 15b節「平和を尋ね求め、追い求めよ」  参考 ローマ14:19 ヘブライ12:14
 19b節「悔いる霊を救ってくださる。」  参考 ルカ15:17-24
 20節「主に従う人には災いが重なるが…」  参考 テモテ二3:11,12 
 21節「骨の一本も損なわれることのないように…」  参考 ヨハネ19:36

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ) 
 (要旨より) ダビデはここで、記憶すべき救出のゆえに、神に感謝を捧げる。その機会に彼は、信仰者に対する神の永続的な恵みをほめたたえ、彼等に信仰と敬虔の熱意とを推奨する。さらに、幸せにまた願い通りに生きる唯一の道は、この世において神に仕え、神を畏れつつ、聖く平和な生活を送るにある、と確言する。
 表題からも、ダビデが想い起しているのが、どのような神のわざであるかは明らかである。ダビデは、もっとも不俱載天の敵であったアキシュのところへ逃れざるを得なくなるまでに苦しめられたので、そこから逃れることができるとは、とても信じられないことであった。…アキシュがアビメレクと言われているのは、エジプトは王をファラオ、ローマは皇帝をカエサルと呼んだように、ペリシテ人の間ではこの名が一般に用いられていた。…ダビデは狂態を演じた。ダビデがこのような計略で逃れることができたとしても、彼を救い出したのは神であることに、疑問の余地はない。そして、ダビデが神の恵みを言い表わすのは、単に救われたことだけではなく、狂態というような手段に頼ったその自分の欠陥を、神は憐れんで、彼にその責を帰せられなかったという、いっそうの神の恵みを述べていることにあることを心に留めておきたい。

詩編を読む・2016. 8.17   詩編35篇

詩篇35篇

1.詩編35篇を読む
 この詩編が34篇の後に置かれていることは意味深い。34篇で取り上げられ、追い払われたばかりの苦難や悪と言った暗闇が大きく取り上げられて語られているからである。34篇で祝われた救出は、必ずしも速やかで、そして何らかの痛みを伴わないものではなかった。むしろ、神が意図されるのなら、救出はそれこそ苦しいほどにも遅延にさらされるものなのである。そうした状況にダビデが置かれていることを、先ずは考えておきたい。
 救いはまだ来ないが、それでもダビデは救いの日が来ることを微塵も疑ってはいない。助けを求めるダビデの一つ一つの嘆願には、その救いの時をかたく望み見ている彼の信仰がある。それが、三つの区分(1-10節、11-18節、19-28節)のすべてが希望で結ばれていることに、現れている。
 4-6節からは、どれほどの困難があっても、34:6-8節と同じように「主の使い」によって確かな救いに導かれているかを教えられる。「主の使い」に聞き従うか否かは、救いか滅びかのいずれかなのである(参照:出エジプト23:20-22、マタイ7:24-27)。参考までに、旧約では通常は、「主の使い」は地上に降りる神御自身をいう時に用いられている(例 創世記16:7以下、同16:13)。
 7節では「ゆえもなく」(新共同訳:「無実なわたし」)が原文では二回、そして19節でも一回使われている。繰り返されるこの言葉に、わたしたたちはダビデの苦しみの髄に触れる。その痛みは、11-18節の段落で明らかとされている。
 「ゆえもなく」憎むことは、善に対する悪の基本的ともいえる反応である。主イエスは、19節と69:5を、ダビデの不幸としてではなく、御自分の予定された運命であると見ておられた。それは、「律法に書いてある言葉」(ヨハネ15:25)であり、永遠の計画に基づいて起こらなければならないことの、権威ある啓示であった。
 主イエスが完全にそして純粋に経験されたことは、ダビデには断片的に認められていたことであり、わたしたちにとっても定められていることなのである。
参照:ヨハネ15:18~25節 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んだことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。…」27-28節 この詩編の前半部分と同様、賛美がダビデの口をついてほとばしり出る。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「どうか思わぬ時に破滅が臨み。彼らが自ら張った網に掛かり 破滅に落ちますように。」  参考 テサロニケ一5:3「突然破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやってくるのと同じで、決してそれから逃れられません。」
 9節「…御救いを喜び楽しみます。」  参考 ルカ1:47「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」
 13節「彼らが病にかかっていたとき わたしは粗布をまとって断食し、魂を苦しめ 胸の内に祈りをくりかえし」  参考 ルカ10:6「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」 マタイ10:13参照
 19節「無実なわたしを憎む者が」(口語訳:ゆえなくわたしを憎む者ども)  引用ヨハネ15:25「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (要旨より) サウルはダビデの敵だったので、司らや権力の座にあった者はすべて寄り集まり(王への追従はいつもつきものである)、無実なダビデに陰謀をたくらみ、亡き者にしようとした。その上、一般大衆にも、同じ憎悪を持つ仲間となるように取り計らったのである。それで、身分の上下を問わず、彼に向かって飽くことのない激怒に燃え立たない者は、一人もいないほどであった。 →35:19がヨハネ⒖:25で引用されていることから、カルヴァンのこの要旨から十字架に臨まれる主イエスの状況を黙想する。 

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より
 1節「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしを滅ぼさんとする者を滅ぼしたまえ」。「もし神がわたしたちに味方するなら、誰がわたしたちに敵対し得ようか」(ローマ8:31)。では、神はいかにしてわたしたちに助けを与えたもうのか。「武具と盾を執って、わたしを助けんと立ち上がりたまえ」(35:2)と言う。神があなたのために武具を執るのを見るのは、偉大な光景である。では、神の盾、神の武具とは何なのか。ここで語っているダビデは、他の個所で言う、「主よ、あなたは善き意思という盾でもってわたしたちを囲んだ」(5:13)と。確かに神の武具は、わたしたちを守るものであるだけではなく、敵を倒すことにもなるものであって、わたしたち自身が神の武具となるであろう。神は自らの創ったものによって武装するが、わたしたちは自分たちを創ったお方から受け取ったもので武装するのである。使徒はわたしたちのこうした武具のことを、ある個所で「信仰の盾」「救いの冑」、そして神の言葉たる「霊の剣」などと呼んでいる。わたしたちは誉れある、無敵な、凌駕しがたい輝かしい武具でもって武装しているのだ(エフェソ6:16~)。

詩編を読む・2016. 8.24   詩編36篇

詩篇36篇

1.詩編36篇を読む
 この詩編に見られるのは、人間の邪悪さの極みと、多方面に満ちている神の恵みの対比である。それと同時に詩人は、一方によって脅かされ、もう一方によって勝利を確信させられている。短い中で、実に大きな領域が取り上げられている詩編として特筆される。
 2節の表現は衝撃的である。まるで、罪それ自体が、彼の神か預言者であるかのように語りかける。いわば「罪の託宣」である。
 「わたしの心の奥に」は、口語訳や新改訳では“悪しき者の心の中に”の意で訳されている。しかし、新共同訳のように訳することも可能なので、欽定訳なども「わたしの心の内に」すなわちダビデのことと理解している。この場合は、ダビデがこのような者を支配している事柄の意味を懸命に聞き取ろうとしている、との意味と考え得る。
 「神への恐れはない」と言うのはいかにも強い表現である。これを、16:8の「わたしは絶えず主に相対しています」(口語:わたしは常に主をわたしの前に置く)と対比しておきたい。信仰者は神御自身に向けて進路を定めるが、この人物は“主を恐れること”さえ考えない。
 これこそ、ローマ3:18に書かれている罪の症状の最高潮である。その個所でパウロは、この詩編の描写を特別邪悪な人間にではなく、堕落した人間の特徴として人間一般を指しているのである。 神から目がそらされていると、確かな視点を失ってしまう。それが3節に記される。自分の悪を認めることはなく、ますます向う見ずになり、破壊への道をたどる。4,5節に見るとおりである。このところの内容を、パウロはローマ1:28節以下で明確にわたしたちに語る。
 6-10節で歌われているのは、神のあふれる善の世界である。その世界は究めがたく(6節「天」「大空」)、揺るぐことなく(7節「神の山々」)、尽きることのない(7節「大いなる深淵」)、それでいて、温かく迎え入れてくれる世界である(7c-10節)。7cの「人をも獣をも」については、詩編104篇で詳しく述べられているので、104篇に目を通して主の御業の理解を深めたい。さらに、マタイ6:25以下でも取り上げられている。
 “翼の陰に身を寄せる” ことについては、ルツ2:12のボアズのルツに対する言葉やマタイ23:37の主イエスのエルサレムについての言葉を味わいたい。わたしたちもまた、翼の陰に身を寄せるとき、神からの安心と謙遜へと導かれるのである。
 11-13節はダビデの祈りである。彼は、人間の邪悪さ(2-5節)と神の恵み(6-10節)の間に立って、熱心な祈りへと向かう。6節、8節で、ダビデは神の恵みをほめたたえており、今その恵みを人々の上に届かせるのである(11節)。

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「…彼の前に、神への恐れはない。」  引用 ローマ3:18「彼らの目には神への畏れはない。」  7節「恵みの御業は神の山々のよう あなたの裁きは大いなる深淵。…」  参考 ローマ11:33「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか。誰が、神の定めを極めつくし、神の道を理解し尽くせよう。」  9b節「…あなたの甘美な流れに渇きを癒す。」  参考 黙示録22:1「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。」
 10節「命の泉はあなたにあり…」  参考 ヨハネ4:10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 同4:14「しかし、わたしが与える水を飲む物は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」、同5:26も参照
 10節「…あなたの光に、わたしたちは光を見る。」  参考 ヨハネ1:9「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」 使徒26:18、ペトロ一2:9も参照
 11節「あなたを知る人の上に 慈しみが常にありますように。」  参考 ガラテヤ4:9「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 7節「あなたの義は高い山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようである」。 ダビデは、神のさばきが大きく深い淵のようであるという。その言葉によってわれわれが知らされるのは、高いところにある者も、低いところにあるものも、すべては神の正しい判断によって配置され定められているということである。たとえ、人々の間にどのような悪の深淵が存在しようとも、それが全地を覆いつくすまでに膨れ上がる洪水のように見えるとしても、神の摂理の深淵は、万事を正義によって配置し、抑制するに足るほど、さらにいっそう大きい。それで、われわれが人生の事象によって心動かされ、信仰が動揺するようなときにはいつでも、神のさばきが天と地に充満する深淵にたとえられていることを、思い起こすことが必要である。

詩編を読む・2016. 8.31   詩編37篇

詩篇37篇

1.詩編37篇を読む
 神の慈しみを知り、神への信頼に心が動かされる詩である。例えば、5-6節や23-25節には、神の細やかな愛情がこもっているのを知る。たとえ、正しい生活をして倒れる(零落する)ようなことがあっても、決して絶望に陥ることがない、主に従う人が捨てられたり、子孫が物乞いになったりすることはない、という。 この詩編は、山上の説教の第三の至福(マタイ5:5)の最高の講解であるとしばしば言われる。信仰者の人生について語り、義なる人の安全というメッセージが中心的話題となっている。
 1-11節 不正な者が一時的に成功しているように見えても(1節)、神に向かい神を信頼することが永遠の報いをもたらすのである(7-11節)。ここから、いくつかのことを心にとめておきたい。①今の状況がいかようであれ、神の時を「待つ」(7,9節)。②敵対する者事へのとらわれは簡単に払拭できるものではないが、主に心を注ぐこと(特に3-4節)。③周りの状況に左右されず(8節)、善を行うことに心を向ける(3,6節)。
 12-26節 主に逆らう者と主に従う者のそれぞれの運命、それぞれの道が比較されている。その中から信仰者に向けられている神の恵みを教えられる。①迫害されているが、見捨てられることはない(12-15節)。②何も持たないようでも、すべてのものを持っている(16-20,25節)。③多くの人を富ませる(21,22,26節)。自己中心では人を富ませることはできない。物惜しみしないということについては、コリント二8,9章で詳しく扱われている。④倒されるが、滅びない(23-24節)。
 27-40節 このところでは、長期的な見方に立つことが教えられる。「とこしえに」(27-28節)、「いつまでも」(29節)、「時がたてば」(35-36節)、「未来がある」(37-38節)といった表現に心をとめておきたい。

2.関連する新約聖書の聖句
 4節「主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」  参考 マタイ6:33「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
 5節「あなたの道を主にゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」  ペトロ一5:7「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」 8節「怒りを解き、憤りを捨てよ。…」  参考 エフェソ4:26「怒ることがあっても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままであってはいけません。」
 11節「貧し人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」  引用 マタイ5:5「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
 16節「主に従う人が持っているものは僅かでも 主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。」  参考 テモテ一6:6「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得です。」
 20節「しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる 献げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。」  参考 ヤコブ1:11「日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消え失せるのです。」
 24節「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」  参考 コリント二4:9「虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」
 26節「生涯、憐れんで貸し与えた人には 祝福がその子孫に及ぶ。」  参考 マタイ5:42「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」  ルカ6:35も参照
 33節「主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ 罪に定められることをお許しにならない。」  参考 ペトロ二2:9「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。」
 40節「主は彼を助け、逃れさせてくださる 主に逆らう者から逃れさせてくださる。…」  参考 使徒12:11「ペトロはわれに返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。』」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 23節「人の歩みは主によって定められる。そして主はその道を喜ばれる。」
 参考:口語訳(上に同じ)、  新改訳「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」
 ダビデは信仰者たちに対する祝福を賛美し続ける。信仰者には、その企てることすべてが良く・幸いな結末を見るという。このことは記憶に値する。しかし同時に、われわれの人生において、われわれの企てることすべてを栄えさせ、正しく整えられる理由に、注目する必要がある。それは、われわれが神の御心に沿わないことを、一つとして期待することがないということである。それで、後半の文章をこのように解釈する。「信仰者の道は神の御心にかなうので、神は彼らの歩みを幸いな目標へと向けられる。」道とは信仰者の生き方である。

詩編を読む・2016. 9. 7   詩編38篇

詩篇38篇

1.詩編38篇を読む
 神への信頼をうたった37篇から一変して、38篇は淵のごとくに深い苦悩の詩である。苦悩がこれでもか、これでもかというふうに畳みかけてくる。この37,38篇を通して、山のように高い神の恵みと、淵のように深い神の裁き(詩編36:7)に思いをする。
 「重荷」(5節)は、内なるものでも外なるものでもある。その心身の苦悩をダビデは神の懲らしめとして受け入れている。この苦悩が罪の当然の結果であるかどうかは知る手立てはないが、それがダビデの目を霊的な窮状に向けさせていることは確かである。それでダビデは「わたしが過ちを犯したから」と告白する。ある人にとっては、気にも留めないような過ちであったかもしれない。しかし今、ダビデには「重荷」のように重すぎるのである(5節)。

単なるしずくに見えたかもしれないような罪(ヘブライ3:13「罪に惑わされる」)が、溺れるほどの洪水となる(5節)ことを心に留めたい。また、わたしたちが罪の苦悩に打ちひしがれ、何とか自分の言葉で告白したいと思いながら、自分の苦悩を表現しきれない時、この詩編の言葉はわたしたちの告白を代弁してくれるといえる。深く味わって朗読したい。

 10節.「わたしの願いはすべて御前にあり 嘆きもあなたには隠されていません」。ダビデは、心を見ることのできない人間たちの前にではなく、全知の神の前に立つている。アウグスティヌスがこの箇所から説いているように、ダビデは「わたしの願い」を「わたしの祈り」として、願いの続く限り「絶えず祈り」(テサロニケ一5:17)続けているのである。
 12節に訳されている「疫病」は「災い」と訳すこともできる(口語訳他)。「愛する者も友も避けて立ち わたしに近い者も、遠く離れて立ちます」という言葉から、重い皮膚病(レビ記13章)との関連があるため「疫病」「えやみ・新改訳」の語は選ばれているが、ダビデが人口調査をしたときに「重い罪を犯しました」と言って「疫病」による神の裁きを受けたこと(サムエル記下24章)も関連として考えることができる。
 ダビデの信仰に学びたいことの一つは、ダビデはどのような人々の中にあっても、神を「待ち望む」ことにすぐれていたことである。サウル王からの逃亡の年月、ヘブロン時代、アブサロムの反逆に対する態度、それらすべては38:16-17のダビデの祈りと、詩編37編にあるダビデの助言が心からのものであることを何よりも証明している。
 22-23節には、痛ましいほどに切実なダビデの嘆願がなされている。嘆願をこのようにできるのは、ダビデが神を名によって知り(22a主=ヤハウェ)、契約によって知り(わたしの神)、救い主、主人として知っている(23節)からである。この最後の嘆願は。このダビデの信仰を指し示している。

2.関連する新約聖書の聖句
 12節「疫病にかかったわたしを 愛する者も友も避けて立ち わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。」  参考 (避けて立ち)ルカ10:31,32「…その人を見ると、道の向こう側を通っていった。」  (遠く離れて立ちます)ルカ23:49「…遠くに立って、これらのことを見ていた。」
 19節「わたしは自分の罪悪を言い表わそうとして 犯した過ちのゆえに苦悩しています。」  参考 コリント二7:9-10「今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ
)(要旨)ダビデは重大で危険な病によって苦しみ(そのように推定することができるのであるか)、自分を懲罰するのは神であることを認めて、その怒りが彼から取り去られるようにと、その禍の大きさを嘆き悲しみ、神に祈る。
 (はしがきの「記念」にふれて)ダビデは彼が蒙った懲罰を、あまりにも速やかに忘れ果ててしまうことを恐れて、彼自身のためにも、他の人々のためにも、この詩編をいわば記念として執筆したのである。なぜならば、神がわれわれに下される処罰が、いかに速やかに、また容易に消え失せるものかは、彼の知るところであったからである。しかもこれらは、われわれの全生涯を通じて、教訓として役に立つはずである。  1節「主よ、あなたの憤りのうちにわたしを責めず、怒りのうちにわたしを懲罰しないでください。」  ダビデがここで願い求めているのは、全く罰せられないことではなくて、神がその怒りの厳しさを和らげられるように、ということである。このところから、われわれは、ダビデが肉的な欲望の手綱を緩めているのではなく、敬虔の念がしっかりと鍛えられることを熱望して、祈りを捧げているのだ、と結論する。   21,22節「主、わが神よ、わたしを捨て去らず、わたしから遠ざからないでください。主、わが救いよ、速やかにわたしを助けてください。」  ダビデは、この終結分で、希望の主要点と祈り全体の趣旨を包括する。われわれが人間によって捨てられ、極端なまでの苦しみを蒙っても、神は受け入れ再び立たせようと願っておられることを三つの表現で記す。まず、神は決して彼を見捨てたり心に留めることをやめられたりしない、次いで、神は彼から遠く離れることはない、そして、進んで神は助けを与えられる、ということである。ダビデは、神が常にそのしもべの傍近くおられるということを確信していたのは確かである。

詩編を読む・2016. 9.14   詩編39篇

詩篇39篇

1.詩編39篇を読む
 エドトンは、ダビデが公式の礼拝を導く者として任命した楽長の一人(歴代誌上16:41,25:1-3)。この詩は、エドトンの一族による聖歌隊の指揮者に合わせてうたわれたダビデの詩、と理解されている。
 この詩編で説明されているのは、父としての神による苦しい、それも恐ろしいほどの訓練である。38篇でも訓練としての厳しさが記されていたが、そこでの重荷は、友人や敵たちの残酷さであった。しかし、ここでの重荷は神の圧倒的な厳しさである。傍らでそれを見る人間は(9節)「神を知らぬ者」(ナーバール=愚か者)である。そのそしりを受けないことをダビデは願う。
 ダビデが悩んでいるのは、罪を犯す人間は非常にはかなく傷つきやすい存在であるのに、厳しい取り扱いを受けるからである(11,12節)。このことをダビデは自分自身の経験を越えて見ている、と考えられる。この詩編は、ヘブライ12:5-11と合わせて読んでおきたい。この書には、神による訓練が、どのような影響(<義という実>へブライ12:11)を与えるのかが説明されている。
 また、マタイ6:19以下、ペトロ一1:4以下にも目を通して置きたい。 マタイ6:19~「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍びこむことも盗み出すこともない。」 ペトロ一1:4~「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。…あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです。」
 見てきたように、39篇は5節以下で徹底して人間のはかなさを述べているが、その中の8節に注目したい。「主よ、それなら何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」人間のはかなさというものがいかに深淵のようであるかを体験しながらも、ダビデは、高い山のような恵みや望みをうたうことを忘れていない。

2.関連する新約聖書の聖句
 4節「心は内に熱し、呻いて火と燃えた。…」  参考 ルカ24:32「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」   7a節「ああ、人はただ影のように移ろうもの。…」  参考 コリント一7:31「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」  ヤコブ4:14も参照。
 7b節「…ああ、人は空しくあくせくし だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。」  参考 ルカ12:20「しかし神は『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」
 13節「…わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人。」  参考 ヘブライ11:13「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言いあらわしたのです。」  ペトロ一2:11も参照

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 カルヴァンは、「ダビデはこの詩編において、もっとも深刻で、長い間持続するような苦難の中にあって、極度の悲しみに浸り、その情念のはげしさに押し流され、不満と悔悟とを発するに至ったことを、告白しているのである」と注解の冒頭で説く。そして、12節の「『すべての人間は空虚です』(新共同訳:人は皆、空しい)という文章は、きわめて意図的にくりかえされている」と語る。
 それでは、「すべての人間は空虚です」ということについて、カルヴァンはどのように語るのかに目を留めたい。
・6節「わたしの一生は、あなたの前では無に等しいのです。」人間がいかに無であるかを正しく知るようになるのは、悲運によって苦しめられるときであることに、注目しなければならない。なぜならば、繁栄は彼らの心を奪い取り、その結果、愚鈍となって、この世において不死性を夢想するからである。
・8節「主よ、今やわたしの待ち望むものは、何でしょうか。わたしの望みはあなたに向けられています。」自ら空しさを確信することは、世俗的な人々にとっては、何の役にも立たない。彼らは、そのうちに安住するからである。そこで我々も、たとえ死んだ者と等しいとしても、神によって生きた者とされるために虚栄心を捨て全力を尽くして前進し、あらゆる事物を無から造り出すことが、神に固有の責務であることを知ろうではないか。
・12節「あなたは、シミのように、人間のあらゆる尊貴を食いつくされます。確かに、すべての人間は空虚です。」神の御手がわれわれを圧倒し、いわば地に打ち倒すまでは、我々は自らの空虚さを知ることによって、己のうちにあるすべての思い上がりを捨て、身を低くしようとしないからである。人間の生得的な傲慢からの唯一の救済策は、彼らが神の怒りを感じて恐ろしくなり、自分自身を不快に思い身を低くすることにある。

詩編を読む・2016. 9.21   詩編40篇

詩篇40篇

1.詩編40篇を読む 
(2節)主にのみ望みをおくダビデは、その望みのゆえにカルヴァンが要旨で述べている重大な危機から救い出された。(3節)かつては滑りやすかっただけでなく泥沼の中に捕らえられていたその歩みが、確かにされ岩の上に打ち立てられるという大変化である。この変化によって、ダビデは自分が受けた恵みの大きさをはっきりと知り、神を賛美する。神は、大変化という経験を与えて新しい歌を授けられたのである。わたしたちもまた、どのような方法で、どのようなことから助けられるとしても、主から受けている恵みの大きさを知らされる。そして主は、そのように恵みの賜物を与えてくださる毎に、わたしたちの口を開いて「あたらしい歌」を授けてくださるのである。まさに、信仰に生きる者にとって、「艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる」(コリント二4:17)、とパウロが言うとおりである。
 このように解放され、「新しい歌」を授かったあと、人は受けた数知れない御計らいのゆえに、何を献げることができるというのだろうか。(7節)神は、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださった。その神が求めておられるのは何か。「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく、神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)ことに尽きる。
 ダビデは、全き献身をもってその愛を表わすのである。全き献身を表わすのは牛、羊の「焼きつくす献げ物」であった(レビ1章)。ダビデは、「わたしは来ております」(8節)と言って、まさに自分自身を神に献げ、聖別する。このダビデの神への献身こそ、ヘブライ人への手紙10:5-10によって裏付けられているように、ダビデはメシアの代わりに語っているのである。10-11節 「口に新しい歌」(4節)を授かった者は、救いの知らせを人々に告げる。「恵みの御業を心に秘めておくことなく 大いなる集会であなたの真実と救いを語り 慈しみとまことを隠さずに語りました」(11節)。神が自分のために何をしてくださったのかを語ることは、「口に新しい歌」を授かった者が積極的になすこととして、詩編の中にはきわめて明確に述べられている(詩編22:23、40:10-11、116:14を参照)。そして、「神があなたがたになさったことはことごとく話して聞かせなさい」と主イエスは語っておられる。
 3節の「泥沼」がどのようなものであったにしても、苦境は大部分がダビデ自身が招いたもので、それが今彼に「追いせまって」(口語訳12節)きているのである。ダビデの罪が彼を落胆させるとしても、ダビデの敵たちにとっては嘲笑いの対象である。しかし、彼等にはダビデの失敗につけこむ権利はない。
 ダビデを低くするのは神であって、危害を加える者ではない。ミカ7:8-9参照。
 ダビデの最優先の関心事は何か。「主をあがめよ」(17節)との声によく現れている。この声が、「わたしのためにお計らいください」と「すみやかに来てください」に先行していることは、意味深い(考察:主の祈り)。神を知り、神をあがめることを知る者とされるとき、人は安定する。神の栄光を祈り求めることは、解放であり、勝利の道であり、ヨハネ12:27-28が示しているように、キリスト御自身の道なのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 7節「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました。  引用 ヘブライ10:5-7「それでキリストは世に来られたとき、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために 体を備えてくださいました。あなたは焼き尽くす献げ物や 罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたし言いました。『ご覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物に書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」
 8節「そこでわたしは申します。ご覧ください、わたしは来ております。わたしのことは 巻物に記されております。」  参考 ルカ24:44「イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
 9節「わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み あなたの教えを胸に刻み 」  参考 ヨハネによる福音書4:34「イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。』」  コリント二3:3も参照。 18節「…わたしのためにお計らいください。…」  参考 ペトロ一5:7「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)ダビデは何かある重大な危険 ― しかもただ一つではなく、多くの危険 ― から救い出され、神の恵みを大いにほめたたえる。そしてこの機会をとらえて、全人類に押し及ぼされる神の摂理への賛美に我を忘れる。次いで彼は、全く主に寄り頼むと公言し、いかにして清らかに神に仕え、神を崇め奉るべきかについて手短に語る。そののち、彼は再び感謝の言葉へと戻り、永遠者のいと高きわざと大能の数々をあかしして、神をほめ奉る。最後に預言者は、その敵について嘆きを発したのち、その詩を新しい祈りによって閉じる。

詩編を読む・2016. 9.28   詩編41篇

詩篇41篇

1.詩編41篇を読む
 詩篇41編は、14節の頌栄で終わる*。  
* 二重のアーメン ― 41:14、72:19、89:53、まるごと頌栄の150篇    アーメンとハレルヤ ― 106:48 この14節の賛美のほとばしりを、ダビデは、1-13で自分が受けた試練を生々しく述べ(5-11節)、そのダビデを生かして(3節**)くださる幸いをうたって、詩編として捧げる。  
** 「命を得させ」は、罪を赦し瀕死の状態から救うことを指す。神との関係の回復。 先ず、この詩編の区分について考えておきたい。詩篇を翻訳している言語学者・松田伊作氏は、2-4節の段落では4節の「立ち直らせて」だけが完了形であることを、注目すべきこととして記している。「力を失った」ダビデが、主によって癒されたことを言っているのである。そのダビデの祈り(回顧的に)が5-11節で記される。そして12節***に続く。4節後半の立ち直らせてくださったことを指しているのである。  
*** 新改訳「このことによって、あなたは私を喜んでおられるのが、わかります。」 岩波訳「このことでわたしは知りました、あなたが私を悦んで下さった、と。」(「このこと」を12節後半の「敵がわたしに対して勝ち誇ることはない」と理解する説もある。)
 ティンデル聖書注解は、「5節の引用符は11節の終わりまで閉じるべきではない。11節は、助けを求めるダビデの懇願に属するもので、その訴えは5節で始まる」と記す。
 詩篇は「いかに幸いなことでしょう」で始まる。この詩編の主題といえる。参照:マタイ5:7「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」   中間の5-11節で生々しく述べられている試練の内容から、詩編の始まりにある「いかに幸いなことでしょう」がどれほど心から言われたものであるかが明らかにされる。 
 ダビデを傷つける機会が数々の試練となってダビデを襲う。ダビデは、良心のとがめのため、弱い立場にある(5節)。しかし彼は、これまで助けてきた仲間からよりも(10節)、(彼がとがめを覚えるように)不当に扱った相手である神から、より多くの憐れみを受けることになる(5,11節)。10節まで読み進めながら、遅くともこの時点でわたしたちは自らに問わなければならない。このような人とはだれのことか、「彼ら」なのか、「わたし」なのか。10節に対するイエスの弟子たちの反応はそのようではなかったか(ヨハネ13:18,22)。13:22「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」12,13節  ダビデは自分の不完全さを十分に知っていて(5節)、自分がいつも正しいと思うことはなかった。シムイに対する柔和さが示しているとおりである(サムエル二16:11)。

2.関連する新約聖書の聖句
10b節「わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします。」  引用 ヨハネ13:18「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしはどのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」14a節「主をたたえよ、イスラエルの神を…」  参考 ルカ1:68「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ) 
 2a節「貧しい者について賢く判断する者はさいわいです。」  苦難がダビデに追い迫ったとき、多くの者は彼を滅び去り、救いの望みを失った人間と考えた。…苦難に打ちひしがれている人間を見ると、罪ありとされ、捨てられたものと考えるのは、大部分の人間に共通な悪徳であることは確かである。同じように、神の恩恵を移ろいやすい幸福によって判断する大多数の人間は、富める者や、(俗にいう)幸運が微笑んでいるようなものを称賛する。反対に彼らは苦しむ者を見くだし苛立たせ、勝手な判断から、神は彼らを憎んでおられると空想する。…このようにあべこべの判断を下し、物事を反対に取ることは、いつの時代でもこの世で支配的な悪徳であった。
 それゆえに、苦難の中にある兄弟には、彼らの救いを望みつつ、慎重な判断を下すことが大切である。それは、われわれが人間的な立場から、時に先立って彼らを断罪し、結果として、邪悪な峻厳さがついにわれわれの上に降りかかることのないためである。10節「しかしわたしが望みをかけ、わたしのパンを食した わたしの平安の人でさえも、わたしに向かってかかとをあげました。」  ダビデは災禍の頂点として、(7-9節に見られる)不真実を、彼の親友の一人、あるいは多数のうちに体験したという。…わたしのもっとも親しい友、さらには寝食を共にした友らまでもかかとを上げる。
 キリストはヨハネによる福音書13:18でこの聖句を引照しつつ、これをユダの身にあてはめておられる。実際、われわれとして十分留意すべきことは、確かにダビデはこの詩編において、自分自身について語ってはいるが、しかも一個人、一私人としてではなく、キリストの一身を代表する者として語っている、ということである。これは、われわれ一人一人が、同じ条件に従うように自分を整えるために、注目するに価する点である。なぜならば、ダビデに始められた事柄が、キリストの一身の内に完成することが必要であったように、同じこと、即ちその肢体すべてが、単にあらわで公然たる暴力や戦争によって苦しめられるだけでなく、内側からの裏切者がおこるのは避けられないからである。パウロも、教会には外でも苦しみや戦いのみならず、内側での恐れもあると述べている(コリント二7:5)。