ネへミヤ記1章 2021.1.13
ネへミヤ記1章 ネへミヤの祈り
1. エルサレムの窮状
エズラ記1章で学んだことであるが、エズラ記とネヘミヤ記を含める歴史は、BC538年のキュロス王による本国帰還からBC420年ごろまでのおよそ100年の期間を扱っている。この時代になされた特筆すべきことは、ゼルバベル(総督)とヨシュア(大祭司)による神殿再建(BC525-515)、ペルシアの宮廷より派遣されたネヘミヤによるエルサレムの城壁再建(BC445-)及びエズラによるユダとサマリアに対するモーセの律法の強化である。
神は、総督ゼルバベル、総督ネヘミヤ(8:9)、祭司であり書記官のエズラを立てて、イスラエル国家の形成を図られた。
これらの活動によって分かることは、ペルシア帝国が支配した二世紀間はユダヤの歴史にとって最も国家形成が盛んな時期の一つであったということである。
ネヘミヤの主な活動はBC445年の春と夏に集中している。この時期、ネヘミヤはペルシア湾近郊からエルサレムへ旅しただけではなく、エルサレムの城壁と城門を修理してエルサレムの防備を始めた。
1節の第20年は、エズラがエルサレムに旅立ってからおよそ13年後である(エズラ7:7)。ペルシアの主要な都はバビロン、スサ及びペルセポリスである。そのうち、スサはペルシアの王たちの冬の避寒所であった。
ネヘミヤはキスレウの月(ユダヤ教暦第9月・太陽暦11-12月)に、スサで献酌官*として王に仕えていた。
*献酌官とは、王室における高級職の一つで、基本的な務めは葡萄酒を選んで毒見をし、王に差し出 すこと。創世記40:1以下のヨセフ物語に出てくる献酌官と同語。務めの立場から、頻繁に王の面 前に出ることができ、影響力を持つ人物になる可能性があった。旧約外典トビト1:22に出てくる アヒカルは、献酌官であるだけではなく、アッシリアの王エサルハドンの総理大臣として描かれて いる。
そのネヘミヤのところへハナニ*が他の人たちと連れ立って訪ねてきた。
*ネヘミヤの兄弟の一人か、単なる親類の一人か、と考えられているが、ネヘミヤにとっては信 頼のおける重要な職務を託すことができた人物であった。(参照 7:2)
ネヘミヤがハナニに尋ねたこと
・「残っているユダの人々」について
この表現はイザヤが好んで用いた「生き残った者」「残りの者」という表現に似ていることに
注目しておきたい。(参照 イザヤ4:2、同10:20、同46:3)
イザヤ4:2 「その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさと
なり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。」
この時、ネヘミヤは「生き残った者」「残りの者」という約束を意識ていたのではないかと考
えることもできる。そのような者たちは単に破滅を免れただけではなく、「主に真実をもって
頼る」者たちであった。
・「エルサレム」について
ゼルバベル(総督)とヨシュア(大祭司)による神殿再建のことを知っているネヘミヤには、
再建後の状態について知ることが関心事であったに違いない。
ハナニたちが答えたこと
・ 残っている人々 不幸の中にあり、恥辱を受けている。
・ エルサレム ハナニがバビロニアの王ネブカドネツァルによる破壊後の瓦礫のことだけを語っ
ていると受け止めると、大きな誤解になる。
ネブカドネツァルによるエルサレム崩壊(BC587)は歴史上の出来事であった。
ハナニたちが答えているのは新情報である。考えられる背景はエズラ4:7-23の結果であ
る。すなわち、城壁修復の計画がアルタクセルクセス王に報告されるや、直ちに「強引に武
力で工事を中止させた」(エズラ4:23)ことに関して、である。事態は険悪になっていた。
エルサレムは無力化されただけではなく孤立化されたのである。
2. ネヘミヤの祈り
ネヘミヤがハナニたちの情報を耳にして第一にしたことは祈りであった。祈りこそネヘミヤの生涯を貫く問題解決の力であった。
4節「これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた」。6節「…あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。…」
ネへミヤ記2章 2021.1.20
ネへミヤ記2章 ネへミヤの祈り
ネヘミヤ記2章には瞑想の材料となる要素が多い。祈り(継続的な祈りと瞬時の祈り)について、神の主権的な導きの確証について、リーダーの資質についてなどを学ぶことのできる宝庫と言える。
1.エルサレムへの派遣
アルタクセルクセス王の第二十年は、エズラがエルサレムに旅立ってからおよそ13年後にあたる(エズラ7:7)。ペルシアとユダヤの年初め「ニサンの月」(大まかに言って4月)に言及しているが、このことから何を教えられるだろうか。1:4とあわせて考えると、ネヘミヤはいかに長く祈り続けてきたかに気づく。 ネヘミヤが祈り続けて四か月、彼の祈りは1:11節に記されている局面、すなわち行動に出る時期に達していた。その時期、つまり祈りの答えが現される時の場面が王妃同伴*の王の宴席の場である。
* 「王妃同伴」 王妃が公式の宴席に姿を見せることは慣例上なかったので、この席は非公式なも のと考えられる。政治的な障害もなくネヘミヤは王の前に仕えていたのである。
ネヘミヤは「今日」(1:11)語り出すことに決めていた。祈りの四か月は、神の答えを待つ期間であった。(このところを読み、わたしたちは祈って待つことを教えられる。)
エレミヤは、王に仕える身として王の前で暗い表情をすることはなかった。家来の個人的な感情は自身の中に秘めておくのが通常は最良の策なのである。だが、祈りですでに勝利をしていたネヘミヤである。自分の心の内を表情に現すにやぶさかではなかった。
しかし、王とのこの時の会話がネヘミヤにとってどれほどの覚悟を要したかを、わたしたちは考えておきたい。彼は、都再建の工事中断という王の決定(政策)を見直すことを頼むつもりなのである(参照:エズラ4:21)。エルサレムにとって不利な王の決定は公認のものであった。だが、命令には変更への抜け道もあったのであり、ネヘミヤは熟知していたに違いない。けれども、急な方向転換を王に求めることは命がけの大変な取引であった。「王の怒りは死の使い。」なのである(箴言16:14)。 4-5節に見る、王とネヘミヤの語りの場面は生き生きと読むわたしたちに伝わってくる。その上、彼はひるむことなく7-8に記されているように、現実的で大胆な要求をしたのである。ネヘミヤの十分な祈りと信仰がこの裏打ちとなっている。
この時の王との会話の決定的な要因は何だっただろうか。エレミヤの信仰ではなく、その信仰の対象となるお方、ネヘミヤの神であられる神、そのお方の「恵みの御手」が彼の上にあったことである。(参照:18節、エズラ7:6)
2. 建築にとりかかる前に
ネヘミヤは神から心に示されたことを、すぐに公開せず、先ず自分で十分に吟味した(11節~)。反対者が出ることを彼は予想していたに違いない。また、この事業が基本的に彼自身のものではないという確信があった。これは神からのものであり「エルサレム」(12節)のためであって、ネヘミヤ自身から出たことでも彼の名声を高めるためのものでもなかった。(この思いは、神の御業の奉仕にあたるにあたって、わたしたちは見習うべき 大切な点である。)
神の計画が妨害されないために彼は慎重で、しかも用意周到な準備と計画を立てた。すべては神がなしてくださるのであるが、ネヘミヤ自身もそのために備えているのである。その意味で、以下のことに注目しておきたい。
(1) 崩されたエルサレムの城壁の現状をつぶさに自分の目で確かめたこと
(2) だれにも知られずに、極秘で調査したこと
(3) 協力を要請する上で内的な「動機づけ」をしたこと
(4) 神のこれまでの恵みの導きを証ししたこと
(5) 成功の明確な確信をもって呼びかけたこと
特に(3)の「動機づけ」は事業を行う上で大切な点である。ネヘミヤはエルサレムの人々に物質的な報酬は何一つ約束しなかった。彼は「そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」と言い、自分に神が良いことをしてくださったことを証ししたのである。これに、人々は「早速、建築に取りかかろう」と応じた。城壁再建の事業はネヘミヤ一人で出来ることではない。協力してくれる者たちのこうした内部からの動機づけが必要なのである。
(付記)10、19節より:ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤは、影響力のある権力者。二人とも大祭司の一族と関係を確立していた(13:4以下、28節)。外部資料によると、サンバラトはサマリアの総督であると言われ、トビヤというユダヤ名は、数世代にわたりアンモン人の強力な一族につけられていた。ゲシェムは、外部資料ではこの出来事からおよそ40年後に、ケダルの王ゲシェムの子カインに名が記録されている。ネヘミヤは、エルサレム市民の誇りをもって、これらの部外者たちの過去、現在、未来をエルサレムから退けたのである。
ネへミヤ記3章 2021.1.27
ネへミヤ記3章 エルサレム城壁の工事
1. 城壁の修復
1,2章で読んだように、異国の地ペルシアで王の献酌官をしていたネヘミヤが、神からの志を与えられて、神の導きのもとにアルタクセルクセス王の支持を得て、故国エルサレムの城壁再建という困難な仕事を遂行することとなった。
3章は、その再建工事がどのようにして進んで行ったか、その奇蹟的な再建プロジェクトを記している。一見、無味乾燥とも思える章であるが、この章からは大切な事柄が伝わってくる。
この章で目につくことは、「〇〇に次いで〇〇が補強し」「続いて、〇〇が補強した」といった具合に、再建工事が緊密な連係を保ちながら行われていることである。この連携がなければ、組織の力は弱い。キリストの教会においても然りである。
大祭司のエルヤシブからも教えられる。彼は率先してエルサレムの北側にあった羊の門の建築に取りかかった。最高の位にある大祭司が率先して工事に携わっている。このことは重要、決して号令だけではない。同様なことは、9、12、14節以降で「〇〇地区の区長〇〇が」補強したという表現にも表れている。主立った指導者的な立場にあった人々が共に労しているのである。
この工事は肉体労働を余儀なくされたにもかかわらず、彼らは率先して工事に当たったのであり、12節に見るように女子もまた加わった。
聖書は、上に立つ人は良い模範を示す人であることを求めている。主イエス自身がそうであった。参照:ヨハネの福音書13:12-15、ペテロ一5:2を参照。
さらに注目すべき言葉がある。10、23、28、29節にある「自分の家の前を補強した。」という言葉である。城壁の再建工事に携わった人々は、自分の家に面する所、自分の務めにかかわるところをそれぞれ修理した。大祭司も神殿での礼拝に最も大切ないけにえとなる羊が通る門を修理した。つまり自分の務めの領域に対する責任を持ったのである。わたしたちの教会でいえば、奉仕担当の務めか…。
(33節からは、外からの試練である。次の4章に続く内容となり、70人訳ヤウルガタ訳は33節から4章としている。)
エルサレム城壁の工事に反対する敵対者たちの攻撃が始まる。33-38節は「言葉での攻撃」、続く4章では「武器を手段としての攻撃」である。この33節からは、4章の内容とあわせて考えていきたい。

ネへミヤ記4章 2021.2.3
ネへミヤ4章 外からの試練 3章33節ー4章17節
神に従う者にとって、直面する問題は避けられないと言える。神の御心に沿った動きが始まると、必ず悪魔はそれを妨害する。このため、主に忠実に生きようとする時、神への奉仕に携わる時、妨害や試練にぶつかる。
・パウロの惜別の言葉から - 使徒言行録20:28-32 「どうかあなた方自身と群れ全体と に気を配ってください。…わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込ん できて群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなた方自身の中から、邪説を 唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。…目を覚ましていなさい。」
・主イエスの最後の晩餐の言葉から – ヨハネ16:33より
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている 。」
神は試練を通してわたしたちに神への信頼を促し、より強力な神の民とされるのである。ネヘミヤ3:33-38、4:1-17では、ネヘミヤが外からの試練に対してどのように対応していったのかに注目したい。
1.士気への攻撃
城壁再建が半分も築かれていない時、神の働き人は敵から嘲りという妨害を受けた(3:33)。なぜサンバラトは、城壁が建てられていることを聞いて怒り、激しく憤慨して、ユダの人々を嘲ったのだろうか。それはユダの人々が一致団結して工事を始めたことによって、サマリアとユダヤとの力関係に大きな変化が起こると知っていたからではないだろうか。人はしばしば自分が置かれている立場や権力が危うくなると、怒ったり憤慨したりするものである。サンバラトの場合もまた然り。サンバラトに加わったトビヤもユダの人々を嘲った(3:35)。
注目したいのは、批判は批判を呼ぶということである。悪意の連鎖である。批判には正しい批判もあり、それがなければ、人は正しく軌道を修正することができないかもしれない。だがここでは、非常に破壊的な言葉による妨害であった。この城壁再建はペルシアの王の許可のもとに行われているので、サンバラト等は直接的な力による妨害は当面差し控えた。出来るのは言葉による暴力である。嘲りによって、ユダの人々の気力をくじこうとしたのである。辛辣な言葉がユダの人々に向けられた(35節)。 これに対してネヘミヤはどのように対処したか。この世では攻撃されたなら、すぐに報復するというのが常(参照:マタイ5:38)。だが、ネヘミヤは敵の策略には乗らなかった。ネヘミヤがしたことは、敵に一言も答えず、議論することもなく、神に祈ったことである(3:36-37)。
上に立つ者は誰かに批判されるものと覚悟すべきである。しかし、その一つひとつの批判に対して戦い、報復するなら、最悪の道に踏み込むことになる。なすべきは、ペトロがその手紙一の2:23で言っているように、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せに」なられた主イエスを模範とすることである。
2.武器を手段とする
敵の嘲りも祈りの前では何の効果もあらわれない。それどころか、祈りは、神の民たちに働く気を起こさせ、城壁再建工事ははかどり、破損の修復(割れ目もふさがり始めた)までにも進んだ(4:1)。敵からすれば想定外。サンバラトを中心とする敵は危機感を強め、「エルサレムに攻め上り、混乱に陥れようとした」(4:2)。すなわち、ついには暴力的行為による妨害である。
これに対するネヘミヤの対応は(4:3)、「祈り」と、昼夜を分かあった。だが、内部から思わぬ事態が起きてきた。それは、見える現実に対する失望落胆と、いつ奇襲されるかもしれないという恐れである(4:4-6)。この二つが組み合わさるだけでかなりの破壊力を持つ。こうした危機的状況からは、敵の妨害はまさに成功しようとしているかに見える。
ここでネヘミヤがしたことに注目したい。
4:8 わたしは見まわして立ち、貴族や役人やその他の戦闘員に言った。「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」
ネヘミヤがここでしたことは、問題や現実に目を向けることから、目を畏るべき主に向けさせることであった。
「恐れるな」は、聖書全巻が繰り返し語っているメッセージである。わたしたちが主から目を離して、見える現実にのみ目を留めるとき、人を恐れ、不安に陥り、その結果、気落ちして、思い煩い、失望落胆に陥る。イエスが言われた「わたしにつながっていなさい(とどまっていなさい)」(ヨハネ15:4)の言葉に生きることが問われている。
ネへミヤ記5章 2021.2.10
ネへミヤ記5章 内からの試練
イスラエルの民は、外からの敵の妨害から切り抜けたが、それに劣らぬ深刻な問題に直面した。共同体自身が内部から分裂し、自己崩壊する危険性のある問題である。ネヘミヤがこの重大危機に対してどのように対処したかに注目したい。
1.深刻な経済問題
ここでの問題は飢餓と搾取に絡む共同体内部のひずみである。これは、城壁再建工事が始まってから生じたのではない。今まであったものが、敵からの防衛のための一斉行動によって表に出たと考えられる。1節には、鬱積していた問題が火山が爆発するかのように、「民とその妻たちから、同胞のユダの人々に対して大きな訴えの叫びがあがった」と記されている。
「訴えの叫び」を意味する「ツェーカー」という言葉は、聖書にはよく使われている。最初に出てくる個所は、ソドムとゴモラの罪は非常に大きいと訴える「叫び」。それを聞かれた主によって三人の者が遣わされた(創世記18:21)。次は、弟ヤコブに祝福を奪われた兄エサウがそのことを知った時に上げた「叫び」(創世記27:34)。そして、エジプトでのイスラエルの民の「叫び」(出3:7,
9)。この時、しいたげられている民の叫びを聞かれた主は、モーセを召し出し、エジプトから彼らを連れ出すように命じられた(出3:7, 10)。
主は、貧しい者の叫びを決して無視なさらない。
外部の敵に対しては、一致して戦った民たちも、内部の一致には困難を抱えていた。1節に記されている訴えの叫びをあげた「民とその妻たち」とは「貧しい人々」のことである。また、「同胞のユダの人々」とは、貴族と役人(7節及び3:5を参照)ら富裕層である。貧しい人々が富める同胞に対して強い抗議の声を上げざるを得ない状況に達していたのである。
状況は深刻である。「貧しい人々」には次のようないくつかの要因が重なり合っていた(2~5節)。 ・ 多くの家族が食べて生きのびる食糧さえ満足に得ることができない。
・ 飢饉のために、穀物を得るためには畑や家を抵当に入れなければならない。
・ ペルシアの王に支払う税のために、多額の負債を抱え込んだが返済の力が ないため、自分たち の息子や娘を奴隷として売らなければならなかった。
貧しい人々の「大きな訴えの叫び」は、同胞の富める者たちが貧しい人々に配慮することなく、むしろ「飢饉」といった自然災害の中で利益を上げ、財を増やし、同胞を奴隷として売ろうという現実に対して発せられたものである。隠されていた共同体の内面的なひずみは表面に出る必要があったといえる。
初代教会においても、似たような教会内部のひずみの問題が使徒言行録6:1に記されている。「その頃、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブル語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」
生まれたばかりの教会は、使徒言行録2:43以下に記されているように、毎日のように多くの人々を教会に引きつける魅力を持っていた。だが、そのような教会においても、苦情が起こったのである。こうした生活にかかわる問題は、どれほど小さくても、悪魔に利用されるなら、教会を内側から崩壊させる危険がある。このため、問題を重視した使徒たちは解決するよう対処した。
2.ネヘミヤによる救済策
民の嘆きと訴えを聞いたネヘミヤは「大いに憤りを覚え」た(6節)。彼の憤りは彼の配慮や愛の大きさを示すものと言える。教会の歴史において霊的改革をした多くの人はその意味で「憤る」ことのできた人である。何よりもイエスがそうであった(参照:ヨハネ2:14、マルコ3:5)。パウロ然り(コリント二11:29)。ネヘミヤは、富める者たちが神の律法に従っていないことに対する憤りでもある。
ネヘミヤの救済策は徹底していた。何よりも、救済にあたっての基本姿勢を自らの生き方をかけて現した。給与を一切受け取らず無償で働いたのである。それは的を射た「動機づけ」となった(14-18節)。
そのネヘミヤの提言は「よく考えた末」(7節)*のことであった。
* 7節 新共同訳「居たたまれなくなって…」は、「わたしの中でよく考えた末」が本意。共同訳は「よく考えた末」。新改訳2017は「わたしは考えた末で」と訳されている。
提言による救済策
・富める者への叱責 ―7節「重荷を負わせている」(新共同訳)→「あなたが
たはみな、自分の同胞たちに、利子をつけて金を貸している。」(2017訳/共
同訳も基本的に同じ)/―8節「あなたたちはその同胞を売ろうとしている。」
・神の律法による負債の免除(参照:レビ25:36,37) ― ネヘミヤの提案は「負債を帳消しにする」(10節)ことであった。彼らはそれに答えた。「お言葉どおりにします。」そして、この約束をネヘミヤは祭司たちの前で誓わせたのである。(12節)
ネへミヤ記6章 2021.2.17
ネヘミヤ記6章 敵の脅迫 ネヘミヤ6:1-19
城壁工事は完成直前までサンバラト、トビヤ、ゲシュムなどの敵の陰謀によって完成が危ぶまれた。その中で、ネヘミヤの卓越した指導力と民たちの協力によって城壁は完成を見たのであるが、そこには神の助けがあることをネヘミヤ記は教えるのである(16節)。
1.陰謀
工事は、あと城門に扉をつける大詰めの段階になった。これは、出入り口が開いているということであるから、敵にとっては工事を妨害する最後の機会でもあった。扉が付けられてしまうと、ネヘミヤに敵対するためには包囲攻撃を始めなければならなくなり、それ自体、同じペルシアの従属民に対しては不可能なことであった。
サンバラトとゲシュムは、ネヘミヤに危害を与えるためにオノの谷にあるケフィリム*で会おうと呼びかけた。
* 70人訳とヴルガタ訳は「一つの村」と読む。エルサレムの北西52㎞ヤッファの南東10㎞の所に位置している。サマリアとエルサレムからほぼ等距離にあたる。
ケフィリムはネヘミヤにとっては北西方向への彼の領域の限界線である。この
地域は、反友好的な地域であった(参照 4:2,7)。それで、ネヘミヤにはサンバ
ラトたちの計画には欺瞞の予感がしたのであろう。ネヘミヤは賢明にも大きな工
事(NEBの訳:わたしは重要な仕事を自分の責任として抱え込んでいる)を理由に断った。
サンバラトたちは、四度目の誘いの後で、彼は戦術を変えた。公開質問状を送
り、その中に記されている悪意に満ちた風評が遅かれ早かれ公に知られるようにし、ネヘミヤもそれに気づくようにした。
ネヘミヤにはこれを払いのけるには勇気が必要であった。「神よ、今こそわ
たしの手を強くしてください。」という祈りは、そのことをよく伝えている。
<ネヘミヤが抵抗しなければならなかった三つの攻撃>
1) おびきだして一人にさせる
この攻撃は、優先順位を変えさせようとする誘惑である。敵は四度も「会
おう」と話し合いを提案してきた。ネヘミヤは(3節)「わたしは大きな工事をしているので、行けません。」と断った
わたしたちのまわりにはしなければならないことが多くある。だが、何を第一に優先させているかが明確でなければ必ず足をすくわれる。
2) 悪口やうわさを流布する
四度にわたる誘いを拒絶された敵は、悪意に満ちたうわさを流した。そのうわさとは、ネヘミヤが謀反を起こすために城壁を再建している、自分が王になろうとしていると言ったものであった。
敵はそうしたことを記した開封された手紙を送りつけることにした。その中身を他のユダヤ人にも知らせることで、ネヘミヤを窮地に追い込む作戦を取った。
その上で、窮地にあるネヘミヤを助ける姿勢をあらわして「いっしょに話し合おう」というものであった。
うわさを流したのは、敵のサンバラト自身。これに対して、ネヘミヤが取った行動は神に祈ることであった(9節)。
3) 味方の裏切り
ネヘミヤを待ち構えていた誘惑の最後は「味方の裏切り」であった。しかも、この裏切りは神の言葉を扱う預言者によってなされた。預言者シェマヤは、敵に買収されていたのである。
危機の中で預言者シェマヤを訪ねてきたネヘミヤに、預言者は家に入れずに「神殿で会おう、聖所の中で。聖所の扉を閉じよう。…」と言った。この言葉には、棘があった。ネヘミヤは祭司ではないので聖所に入る権利を持っていなかった。ウジヤ王が不信の罪を犯したとき重い皮膚病だけで責任を免れることができたのは幸運だった(歴代下26:16以下)。ネヘミヤが自分の命を救うために(参照:10節「あなたを殺しに来るものがある。夜、あなたを殺しに来る」)預言者の言葉の通りにしていたら、命を失うか名誉を損なったに違いない。そればかりか主の事業という大目的そのものが頓挫したであろう。
ネヘミヤの返答には、当を得た誇りと謙遜があらわれている。
誇りの事例…ルカ13:31-33のイエス、 使徒言行録21:10-14のパウロ
謙遜…ネヘミヤ記6:11
2. 勝利と存在する脅威
15節の文頭には「こうして」という言葉が記されている(新共同訳には記載なし)。重みのある言葉である。外部からの言葉による妨害、内部の鬱積していた問題、ネヘミヤへの執拗な攻撃、これらを乗り越えての城壁工事の完成である。そこには、神の御手があり、祈りがあることを覚えたい。
17~19節では、全計画を妨害する恐れのある脅威の存在が示されている。
ネへミヤ記7章 2021.2.24
ネヘミヤ記7章 共同体への第一歩 ネヘミヤ7:1-72
1.城壁の完成と都市としての機能
ネヘミヤのもとで主の民は城壁の完成にまで導かれた。6:1と6:15に記されている最終防備の段階を経て、ついに扉が取り付けられた。しかし、これですべてが完了したということではない。52日間で城壁再建工事が完成したことを受けて、城壁を守る門衛、神殿礼拝に奉仕する詠唱者、レビ人、そしてエルサレムを治めるハナニ*、ハナンヤ**が任命された。
* 1:2参照 ネヘミヤが都スサにいた時、エルサレムについての悲しい知らせをもたらせた者。これがきっかけとなって、ネヘミヤの活動は始まった。
** 7:2に「誠実で、だれよりも神を畏れる人物」と記されている。ネヘミヤ
の判断によって、ハナニと権限を分かち合う決め手となった資格は、神へ
の信仰と品性であった。
こうして城壁工事から礼拝へ、外側のことから内側のことへ、見えるものから見えないものへ、周辺的な事柄から、より中心の事柄へと内容が進んで行ったのである。
防備の環境が伴うと、イエス様がたとえで言われた「愚かな金持ち」(ルカ12:19)のように、それで人は満足するものである。同じように、おそらく城壁や城門が完成すると、それに依存しようとする誘惑はやってくるに違いない。もしそうであったとしても、ネヘミヤはその誘惑には負けず、内を固めた。
何よりも、エルサレムを敵から守るためには、城壁の多くの門の警備は極めて重要である。このため、ネヘミヤはハナニとハナンヤに引き続き敵の来襲に備えて警備を堅くするように命じた(3節)。
また、エルサレムが町としての機能を果たしていくためには、組織化、制度化、秩序化をする取り組みが必要であったであろう。ところが、エルサレムの町の実態はそれ以前の様相である。4節で「町は二方向に大きく広がっていたが、その中に住む民は少数で、家屋は立てられていなかった」というのが実情であった。
要するに、神殿が再建され、城壁も修復が終わったのであるが、なお周辺諸国からの脅かしは続いており、しかもエルサレムが町として機能するには程遠かったのである。
そこで、ネヘミヤは「心に神の指示を受けて」人口調査-家系に従っての登録
-に乗り出した(5節)。エルサレムに人々を移住させる計画をつくるためであったと考えられる。ところがすでに調査はなされていて、最初に帰還した人々の名簿が発見されたのである。
2.帰還した捕囚の民
6節から72節まではその名簿の長い記録である。これらの節は、ほとんどエズラ記2章の転写である。ところどころに細かな異同がみられるのは、筆写中に起こったものと考えられる。
そこで旧約学者の中にはこのリストはエズラ記が元なのか、それともネヘミヤ記が先かといったことが議論されるのであるが、ここではそうした議論よりも、同じリストが二つの書物にそれぞれ収められているところに注目しておきたい。それは、それぞれの書物にはそのリストを記した目的があると考えることが大切だからである。その点で、ネヘミヤ記7章が語りかけてくる大切なメッセージを受け取めたい。
まず、エズラ記のリストの目的を知るには、エズラ記4章の理解が大切である。この時、ユダとベニヤミンの敵たちは、一緒に神殿を建てたいと言って近づいてきた。エズラ記4章1節には、ユダとベニヤミンの敵たちが、神殿を一緒に建てさせてほしいと申し出てきたこと、これに対してゼルベブルが、建築はあなたたちに関係はない、と言って断ったことが記されている。
このことから考えると、エズラ記の人名リストはイスラエルの民だけが神殿工事に関わることを証明するための根拠資料、イスラエルの血筋を証しする資料であり、過去に遡って自分たちの神の民としてのアイデンティティーを示すためのものということができる。
一方、ネヘミヤ記の人名リストは神殿再建や城壁の完成はしたものの、まだ住む人のいなかったエルサレムに新たに人々を住まわせるためのもの、未来に向かって神の都を再建するためのものということができる。ここからうかがえるのは、神殿再建は単なる神殿、城壁の問題ではなく、そこには生きる人々がいなければならない、ということである。その人々を通して、主なる神を礼拝する共同体が建て上げられていく、そのことこそが、ネヘミヤ記の目的と言える。
ネヘミヤ記のリストは冗長で退屈な名前の羅列に見えてしまうが、実は新しいエルサレムをこれから建てていくのは一体誰なのか、という視点、これから先の未来を見据えていく眼差しがここにはあると理解したい。5節-神がネヘミヤの心を動かされたのは、主の民としての新しい始まりのためなのである。