御言葉に生きる

2017年10月22日「マタイによる福音書18章1-5節」小さき者

先々週学びましたように、イエスは、御自身は神殿税を納める必要はないけれども、ユダヤ人たちをつまずかせないために納めよう、と言われました。この言葉を聞いた弟子たちには、神殿税を集める側の頂点にある大祭司の権威も届かない高い所、つまり天の国をイエスは指して言っていることが分かったのです。それで、弟子たちは、「それでは、だれが天の国で一番偉いのでしょうか」と尋ねました。
弟子たちは、イエスから直接、イエスの死と復活を聞いたばかりでありますのに(17章22,23節)、弟子たちの心を占めていたのは、自分の罪のために十字架に死なれ自分を義とするために死人の中から復活されたことへの懺悔と感謝の念ではなく、イエスの活動の後にあらあわれる御国における順位争いだったのです。そこに見られるのは、神の国とは程遠いこの世の基準です。このことはわたしたちにとっても考えておかなければならないことです。十字架に死なれ、その死から復活されたキリストの贖いを忘れますと、わたしたちの間には順位争いや裁き合いが起きるのです。
十字架と復活が見えなくなったところでは、どれほど外目には立派な教会でありましても、この世と何ら変わらないのです。そこにはキリストの命はなく、愛と寛容は姿を消します。
「だれが偉いか」と尋ねる弟子たちに、天の国に入れていただけるのはだれかということが問題だと、弟子たちにイエスは答えられます。天の国は上下を問うようなところではありません。弟子たちの中でだれが偉いとか、教会の中での序列はどうかということではないのです。大事なことは、天の国に入れていただけるかどうかということなのです。
では、だれがそれにふさわしいのでしょう。イエスは彼らの中に立たせた子供を指して言われます。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
子どもの特色は他を「信頼する」ことです。幼児が母親の胸に信頼して抱かれるように、神を「父」と呼ぶ者は幼子のように神を信頼するのです。そして神を信頼する上でまず求められるのは「はっきり言っておく。心を入れ替えて…」とイエスが言われるように、「心を入れ替える」回心、つまり神に方向転換することです。
「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者」とイエスは言われます。当時子供は責任を負うことのできない無力なもの、といった意味で見られていました。そのような子供を受け入れるように、「受け入れる」とは、無力と思えることも、欠点も弱い点も、全部ひっくるめて受け入れるのです。わたしの主であるイエスが、このようなわたしを十字架の死に至るまでのへりくだりと従順をもって受け入れてくださっておられるのです。だれが偉いかと背伸びするようなこの世の基準によってではなく、キリストの従順にならって、わたしたちは天の国に入ることができるのです。

2017年10月8日「マタイによる福音書17章24‐27節」彼らをつまずかせないために

十字架への旅となるエルサレムに向かうイエスにとって、最後にしておかなければならない課題がありました。イエスの死の後に、福音を宣べ伝えていかなければならない弟子たちの教育です。それによって、イエスの十字架の死の後にも、御国の福音は宣べ伝えられていくのです。神殿税の問題をめぐって、この教育が進められておきます。
その一つは、弟子たちがイエスの死の受難の意味を悟ることでした。
神殿税というのは、出エジプト記30章11節以下に記されている規定に根拠があります。神殿の維持のために使われてしたが、税が意味していたのは、出エジプト記30章12節から分かりますが、「命の代償」贖いなのです。神殿税は、罪人であるわたしたち人間には、贖いが必要だということを教えていたのです。ところで、神の子であるイエスは神殿税を治めなくともよいお方でありながら、ご自分を贖いが必要な罪人の一人として、贖いの神殿税を納めておられたのです。ここに見られるのは、キリストの謙卑(へりくだり)です。神の身分でありながら、それに固執せず、わたしたちの罪を負い、へりくだって十字架の死に至るまで従順であられたのです。この受難の意味を悟るように、イエスは神殿税の取り扱いをめぐって、身をもって教えられたのです。
二つには、神にあって生きる信仰者の生き方です。それは、神から与えられている自由をいかに用いるかということです。
主はペトロに「地上の王は、税や貢ぎ物を誰から取り立てるのか」と言われて、神の御子であるイエス御自身はもちろん、信じて神の子とされた弟子たちも神殿税を納めなくともよいと説かれました。26節で「納めなくてよい」と訳されています言葉は、元は「自由だ」という意味を持つ言葉です。縛られていないのです。縛られていない、自由なんだけれども、主は「彼らをつまずかせないようにしよう。」と言われて納められました。隣人への愛と配慮の故に、みずからの権利を制限されたのです。ここに、真の自由の実践があるのをわたしたちは教えられます。
主イエスが教えるのは、神にあって生きる人の本当の自由の遣い方です。ここに信仰者の生き方をわたしたちは教えられるのです。

2017年10月1日「マタイによる福音書17章22‐23節」十字架の予告

イエス・キリストが多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することをご自身の口から弟子たちにに予告されたのは三回です。今日の個所は、その二回目です。
まずマタイは、「一行がガリラヤに集まったとき」と記します。これに先立ち、イエス一行は北の方にあるフィリプポ・カイザリアに行っていました。それで、「ガリラヤに集まった」ということは、これから南のエルサレムに向けての都上りのためであったのです。今までのガリラヤを中心とした働きから、十字架への道を踏み出されるのです。ルカは、このときのイエエスを「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記しています。
イエスは言われます。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして、殺されるが、三日目に復活する。
「人の子」というのは、今までもよく出てきました。イエスが御自身を指すときの表現です。聖書を調べてみますと、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」とか「人の子は安息日の主である」など、多くは神としての立場が表されています。その一方で、受難にあたっても御自分を指すのに使われています。ここでは、神の立場にあるキリストが人々の手に渡されようとしている、というのです。
「引き渡される」のはなぜなのか。パウロの言葉に耳を傾けましょう。ローマ書4章25節には「イエスは、わたしたちの罪のために、その御子をさえ死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」と記されています。渡すのは神ですが、それはわたしたちの罪のため、わたしたちが義とされるためなのです。
次いでで主は 、「三日目に復活する」と言われました。第一回の予告の時も同じです(16章21節)。十字架の死は救いの御業の大きな出来事ですが、必ずそれは復活と結びついているのです。十字架の死は悲惨な出来事ですが、勝利の前触れでもあるのです。主の十字架に従う人には、希望に生きる道を主は備えてくださっておられるのです。十字架の言葉は、救われる者には神の力となるのです(コリント一1章18節)。
先ほど読みましたエゼキエル書33章11節には、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。立ち帰れ、立ち帰れ。お前たちの悪の道から。イスラエルよ、どうしてお前たちは死んでよかろうか。」という神の声が記されていました。これが神のみこころです。わたしたちは、イエスの死と復活の予告の声に「お前たちは死んでよいだろうか」と言って身代わりになっておられるキリストのを聞いているでしょうか。」
弟子たちはイエスの死の予告のことを聞いてそこに敗北を見たのでしょうか、悲しみました。しかし、イエスの死は、決して敗北の結果ではなく、むしろその逆で、「どうしてお前たちは死んでよかろうか」と叫ばれる愛の極みともいえる救いの心のあらわれなのです。

2017年9月24日「マタイによる福音書17章14~21節」信仰による神の力

先週学びました山上でのキリストの栄光の場面とは正反対に、麓では混乱の場面が繰り広げられていました。このとき、山の麓にいたイエスの弟子たちの前に「息子を憐れんでください」と言っててんかんの子が父親に連れられてきました。ところが弟子たちはその子を治すことができなかったのです。マルコ福音書は、それを見た律法学者たちと弟子たちの間で議論が繰り広げられたことが記されています。
連れられてきた子供に何もできなかった無力な弟子たち、権威や力がないと見て攻撃の手を緩めない律法学者たち、何よりも病に翻弄されている息子。まさにそれは混乱が渦巻く世界でした。その様子をご覧になられたイエスは、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われました。イエスは、人々の混乱の中に、思いやりや慈しみの心からほど遠い神不在の事態を見て、心痛められたのです。
それとともに、イエスは弟子たちに「信仰が薄いからだ」、といわれました。弟子たちの、つまりはキリスト者の無信仰が、この時の大失敗の原因だったというのです。それでは、弟子たちに求められる「信仰」とはどういう信仰なのでしょう。それは「からし種一粒ほどの信仰」です。
それは、どんなに小さくても、その種は生きているのです。キリストの命が通っているのです。
それは、「山を移す」と言われるくらい大きなことを行う力を持っているのです。その力は、自分の信仰の力ではありません。力の源である神から来るものなのです。
では、どうしたらよいのでしょうか。それを指し示しているのが21節のみ言葉です。「祈りと断食」です。すなわち、神の御力を求める祈り、そして罪を悔い、身を悩まし自制を身につける霊的訓練です。弟子たちに欠けていたことでした。
そこで、わたしたちに主が求めておられる信仰のことを考えてみましょう。主が求めておられるのは、ただ「からし種」のようにしっかりイエスに結びついて「生きている」信仰です。へりくだってことごとに主の助けを求める信仰です。
主イエスは神のみ子であられるにもかかわらず、ことあるごとに、朝早く、あるいは山に登り、あるいは人里離れたところで祈られました。祈りの力とは、実に日ごと継続する祈りから来る神の力なのです。

2017年7月16日「マタイによる福音書15章1~20節」人の心から出て来るもの

「そのころ」(1節)は、イエスの癒しの御業や権威ある教えを耳にした群衆の間で、イエスを王にしようとするくらいにイエスへの期待が高まっていたときです。そして弟子たちも「本当にあなたは神の子です」とイエスを告白していたのです。こうした様子は、都エルサレムへもにも届きます。そこには、ユダヤ教に関する最高権威である最高法院が置かれていますが、その最高法院では、イエスについての期待を無視するわけにはいきません。それで律法学者たちを実態把握のために遣わします。
遣わされた彼らはイエスを厳しく詰問しました。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」当時のユダヤ人にとっては、食事の前に手を洗うことは、衛生上の常識というより宗教上の規定でした。こうした宗教上の規定は、信仰生活のルールとして聖書と同等の権威を持つと受け止められていたのです。問い詰める律法学者たちにイエスは、矢張り彼らが使っている宗教上の規定を取り上げて、本当の問題の所在は何なのかを明らかにされます。

2017年7月9日「マタイによる福音書14章34~36節」ここに救いがある

今日の個所は、「こうして」で始まりますから、内容が今までの出来事と深くかかわっているということです。それで、簡単に今までのことを振り返っておきましょう。
マルコの福音書6章30~34節には、ガリラヤの町々村々を宣教に遣わされていた12弟子たちが帰って来て、イエスに「残らず報告した」ことが記されています。その「残らず」の報告から、イエスは領主ヘロデやヨハネの事情をおそらくは聞かれたのでしょう。そして、この弟子たちの宣教の旅は、マタイ10章8節~分かりますように大変厳しいもので、弟子たちには休息が必要とされていました。このようなときに、5千人の給食というあの大きな奇跡が行われたのです。弟子たちはそれにも積極的に奉仕しました。
こうした事情を考えますと、イエスと弟子たちにとっての差し迫った事情が分かります。先ずは疲れている弟子たちに休息の必要がありました。領主ヘロデの追及を避ける必要もありました。それに加えて、十字架に向かうイエスにとっては、弟子たちの訓練を仕上げることが差し迫っていたのです。
しかし、これらの差し迫った事情のどれ一つも、今日の個所を読む限り、群衆の目には見えてはいません。彼らに見えているのは、自分たちの痛み、病、そして弱さなのです。その自分たちの境遇を託つことなのです。けれども、わたしたちの弱さをご存じの主は、ご自分に差し迫っていることがあるにもかかわらず、実に心を傾けて、人々の弱さ、わたしたちの弱さを担われるのです。今日のマタイ14:34-36の短い記事を通してマタイはそのような主をはっきりと示します。
ところで、この短い記事の中で、イエス・キリストは何も語らず、また、何の御業もご自分の方からはなってはおられません。それにもかかわらず、キリストの存在、キリストがそこにおられることが中心になっているのです。主イエスがそこに(そして今も、ここに)おられることが大切なのです。律法学者たちがキリストのもとに来た、という記事を読みましたが、自ら健康だと自認している人がキリストのもとに来ましても何の奇跡も起きませんでした。しかし、病める者、惨めな者、一人歩きできない者が、「服のすそにでも」という切実な思いでキリストのもとに来ますとき、御業はなされるのです。
信仰とは何かを教えられます。自分が正しくされるためには「服のすそにでも」という切実な思いがあるでしょうか。もしそうなら、先ほど読みましたナアマンの癒しのように、神の言葉を素直に受け入れて、その言葉に従いたいものです。そこに救いがあるからです。

 

2017年7月2日「マタイによる福音書14章22~33節」助けてくださるイエス

先週読みましたように、5000人を超す人たちを荒れ野で養われたイエスを、群衆は無理に王にしようとしました。弟子たちもまた、この奇跡に感激していたことでしょう。感激のあまり、群衆の声に乗せられてしまうかもしれません。しかし、その弟子たちにとって、このとき何より大切なことは、地上の王国よりも神の国をはっきりと学ぶことであり、そのための信仰の訓練でした。
この学びと訓練のためにも、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、御自身は一人山に登られました。きっと祈るためでありましょう。そのイエスの目には、船に乗っている弟子たちが、逆風の波に悩まされて漕ぎ悩んでいるのが見えたにちがいありません。
舟を出したものの、弟子たちの乗った舟は風との戦いで前に進むことができなかったのです。進むには困難、危険は増すばかり。夜の出来事。しかも主はこの船にはおられないのです。弟子たちには、今までになく高度な信仰の訓練の時でした。主イエスは弟子たちに、目に見えるものによってではなく、信仰によって歩むことを学ばせようとなさったのは明らかです。(参照:コリント二5章6節)
5000人の給食という大きな奇跡で養われながらも、やがて十字架に歩まれるイエスを大部分の人々は拒んでいくのです。その中にあって、死に至るまで信仰の従順に歩む真理の証し人が聖別されなければなりません。このためにこそ、主は弟子たちを「強いて舟に乗りこませた」のではないでしょうか。その結果はどうでしたか。弟子たちは、このときのペトロの経験をも共有して(28-32節)、主を信頼して絶えず主に助けを求めることがどれほど必要かを自覚させられました。
このように主がなさったことは、わたしたちがいついかなる時にも、主への信仰に堅く立ち、勝利の歩みができるためのものでもあるのです。ですから、わたしたちは確信しましょう。神は、あらゆる試みや嵐の中にわたしたちがあるとき、常に御自身が近くにおられることを教えてくださっておられるということを。
28-32節のペトロの経験からも、わたしたちは神への信仰の在り方を教えられます。ペトロのように、いかに神に忠実なものであったとしましても恐れや不安に陥ることがあるのです。しかし、イエスを目の前にはっきりと見ているときには、不安に満ちた荒れ狂う世の中を歩くことができるのです。けれども、いったんイエスから目を離してこの世の大波や嵐に目が奪われますと、ただちに沈んでしまいます。そして、もしイエスの手が差し伸べられなければ、押しつぶされてしまうのです。単純なことのようですが、これこそ信仰の真髄です。弟子たちが、この夜に体験したことは、弟子たちだけのものではありません。わたしたちが「助けてくださるイエス」から目を離さないためでもあるのです。

2017年6月25日「マタイによる福音書14章14~21節」深く憐れまれるイエス

「イエスはこれを聞くと」で、今日の聖書の個所は始まります。イエスが聞かれたというのは、14章2節に書かれている領主ヘロデの言葉です。ヘロデがイエス抹殺を考えていることを察知したのです。それで、イエスは人里離れた寂しい所に行かれました。それは祈りのためでした。福音書を読んでわかりますことは、イエスが人里離れて祈られときは、たいてい大切な出来事があるときでした。
この時に祈られたのも、大切なことが迫っているからに違いありません。それは、ヨハネがヘロデによって殺されたことが指し示していることでした。ヨハネとイエスの関係で大切なことは、ヨハネはイエスの先駆者だということです。つまり、ヨハネの言葉と生き方は、救い主として来られるキリストの生涯を指し示しているのです。ヨハネの最後はイエスの最後を表しているのです。ヨハネがこの世の権力者である 領主ヘロデの手で殺されたことは、イエスがこの世の権力者から殺される予表であるということです。イエスの生涯の歩み、イエスのなさった御業、イエスの教え、それはヨハネと同じように迫害され、最後には十字架に死ぬことにあるのです。この時のイエスの祈りは、まさに十字架への道をヨハネの死を通してはっきりと見ておられるがゆえの祈りではなかったでしょうか。
このイエスの後を追って大勢の群衆が人里離れた所にまでやってきます。人里離れた所という言葉は、荒れた所、荒れ野、荒廃した、といった言葉です。その荒れ野で、イエスは、飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている民衆を憐れみ、誰もが不可能と思えるような奇跡をもって彼らを養われました。この時の、五つのパンと二匹の魚、それは弟子たちが差し出すことができたすべてでしたが、それらを祝福されて群衆に分け与え、なんと男だけでも5千人もの人たちにお与えになりました。このことを読みまして、わたしたちは、かつてイスラエルの民が、出エジプトをしますとき荒れ野の中で天からのマナで養われた出来事に匹敵していることが、「わたしはパンである」と言われる方ご自身の手で再現されているのに気づくのです。
先ほど出エジプ記16章12—26で読みましたが、「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。」という言葉が、このときにも現実であることを知らされます。群衆を憐れまれた神は、わたしたちをも憐れまれる神です。その神は、必ず必要をあふれるばかりにまで備えてくださるのです。
最後に二つの聖句に注目しておきましょう。一つは19節です。このとき主イエスは賛美の祈りを唱えてパンを裂かれました。これは最後の晩餐をわたしたちには思い出させます。そう思いますと、この奇跡は、最後の晩餐の前触れであり、終わりの日に天の国にある神の食卓に連なる幸いを表していることとして味わい深い出来事であったと言えるのです。
もう一つの聖句は16節です。このとき主イエスは「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」と言われました。弟子たちを神の憐れみを実行されるイエスの手や足として遣わし、用いられたのです。このとき弟子たちは持てるもののすべて(五つのパンと二匹の魚)をささげました。聖餐に与り、主の食卓からあり余るものを受けていますわたしたちも、持てるものを主のもとにささげて、主から託されている務めを果たしてまいりたいものです。信仰は、持てるものを主にささげよう、自分の生涯を神に委ねよう、そのように決意することによって、形をとると言われます。心したいことです。

2017年6月18日「マタイによる福音書14章1~13節」赦しの道

「そのころ」とマタイは記します。イエスの故郷の人たちが「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と言ってイエスにつまずいていたころです。巷では、イエスについて、エリヤだろうとか、エレミやだろうとか、いろんなことが評判されていました。それを耳にしました領主ヘロデは、「あれは洗礼者ヨハネだ」と断言します。自分が殺したヨハネが生き返ったというのです。
3節からは、ヘロデがヨハネを殺すに至った事情です。ヘロデは、妻のある身ながら、自分とは異母兄弟にあたるフィリポの妻ヘロディアと不倫の恋に陥ります。そして、元の妻を追い出し、ヘロディアと結婚してしまいました。ヘロディアは兄弟の妻であるとともに姪でもありますから、このことは、レビ記18章に明記されている近親相姦の罪に問われる出来事です。この罪を洗礼者ヨハネが指摘したのです。そのヨハネをヘロデは投獄してしまいました。ヘロデの心は落ち着かず、ヨハネへの殺意と、その一方ではヨハネに喜んで耳を傾けたいという、相反する感情に揺れ動いていたのです。
ヨハネを殺そうと強く願っていたのはヘロディアの方でした。そのヘロディアの願いが、ヘロデ王が開いたヘロデの誕生祝賀会で実現したのです。舞を舞ったヘロディアの娘へのヘロデからの褒美として、ヨハネの首を求めさせました。こうして、ヨハネは殺されたのです。この出来事は、ヘロデの心には拭い去れぬものとなっていたことでしょう。
そのヨハネが生き返ったのがイエスだと断言したヘロデの心は、イエスを殺そう決心していたのです。そのことを知って、イエスは「ひとり人里離れた所に退かれた」のです(13節)。
さて、ヨハネの死はこの世の王の権力欲と不安の心の犠牲となって無残にも死んだということでしょうか。無意味な死だったのでしょうか。そうではありません。ヨハネは神から与えられた使命を全うしたのです。ヨハネは「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ荒野の声として、主の歩まれる道を人々に示し、来られる主に備えたのです。そして、マタイはここに、ヨハネの死をもイエスの死と十字架の先触れとして、記したのです。
ヘロデのもとでヨハネが死んでいったとき、神は沈黙しておられたかのようです。また、イエスが十字架につけられたとき、「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの声に、神はお応えになられませんでした。しかし、そのところで神のみ旨が果たされたのです。どんな罪人をも救う救いの道が開かれたのです。
ヘロデもヘロディアも、その娘も、自分が何をしているのか分からず、罪を重ねてもがいていたのです。彼らが悔い改めたとは記されていませんが、そういう罪人のためにキリストの十字架による赦しの道が備えられたのです。ですから、ヨハネが生涯をかけて語りかけたメッセージを、わたしたちもしっかりと受けとめましょう。「悔い改めよ。天の国は近づいた」「悔い改めにふさわしい実を結べ」。これがメッセージです。

2017年6月11日「マタイによる福音書13章53~58節」古き人の反抗

「古き人の反抗」と題しました。頑なで、イエスを神として受け入れず、それでいて自分については誇り高い自我が打ち倒されるのを拒む人たちの話です。
イエスは今まで教えておられたカファルナウムから御自分の故郷「ナザレ」に行き、会堂に入られて教えられました。ところが、ナザレの人たちの反応はカファルナウムなどの人々とは真反対。その教えを聞いて驚きましたが、喜んで「天の国のこと」を受け止めることはしなかったのです。どうしてでしょう。彼らは言います。「この人は大工の息子ではないか」。幼いときからのイエスをよく知っている彼らにとっては、イエスが神のもとからの方とは理解できなかったのです。
さて、ここで注目したいのは、イエスの知恵と奇跡を行う力に驚きながら、彼らにはイエスをただ「人」としてしか見ることができなかったということです。「隠された宝」「高価な真珠」としてのイエスに目が開かれなかったのです。イエスに対するこの不信は、ナザレの人たちだけに限られるものではありません。「故郷」ということばが、もともと「祖国」を表す言葉だということを思いますと、イエスに対する彼らの不信は同胞全体の不信をすでに予表していると見ることができるのです。そして、肉においてしかイエスを見ようとはしないその不信仰は、実は現在のわたしたちの姿でもあるのです。
この出来事には、「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」というヨハネ1:11に記されている聖書の言葉が、イエスのご自分の町であるナザレを例として、現実のこととして語られているのです。キリストを素直に、神の子、自分を救う神として信じることが問われているのです。
ゴルゴタの上でイエスが十字架につけられたとき、その両側に二人の犯罪人が十字架につけられていました。しかし、二人のイエスを見る目は違いました。一人はただローマの手で十字架につけられている「人」としてイエスを見たのですが、もう一人は、そのイエスに「神」を見たのです。イエスは「神の子」であるとともに「人の子」として生まれ、「まことの神にしてまことの人」でした。このもう一人の人は、十字架のイエスに「まことの神」を見たのです。
イエスを最もよく知っているはずの故郷ナザレの人たちは、どこまでも肉に従ってイエスを見て、イエスの前に、主よ、と言ってひれ伏そうとはしませんでした。わたしたちはどうでしょうか。自分のうちにある自己を誇るその肉の思いが打ち砕けれて、イエスの前に、わが神、わが主よ、と言ってひれ伏すものとされているでしょうか。そのことなくしては、天の国の隠れた宝、高価な真珠は、隠されたままなのです。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と聖書は語ります。肉に従ってキリストを知ろうなどとせず、キリストと結ばれる心を固めていきましょう。

2017年6月4日「マタイによる福音書13章44~52節」倉から取り出す宝

イエスは天の国を三つのたとえで語られました。
一つ目のたとえは「畑に隠された宝」のたとえです。「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」というのです。当時、ユダヤでは思わぬところから宝が出てきましても、それはその土地の所有者のものとなりました。ですから、この人は畑そのものを買ったのです。持ち物をすっかり売り払うに十分値する宝だったのです。
二つ目のたとえは「高価な真珠」のたとえです。「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」というのです。この商人も、その真珠を得るために持物をすっかり売り払ったのです。
一読して明らかです。何物にも替えがたいものとして、天の国が語られているのです。イエスがマルタに「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」と言われた言葉を思います。この地上の宝、それが通帳に蓄えられたものであれ、知識として身につけたものであれ、腕に叩き込んだものであれ、それらがどんなに値打ちがあると言いましても、死がやってきますと、すっかり取り去られてしまいます。けれども、取り去られることのないただ一つの宝、それはキリストにある天の国なのです。
三つ目のたとえは「湖に投げ降ろされた網」のたとえです。このたとえで語られているのは、最後の審判です。この時には、どんな犠牲を払ってでも、キリストにある福音を見い出しているか、それとも、真の宝に気づかず、地上のことに心奪われていたのかが明らかにされるのです。
ところで、「畑に隠された宝」と「高価な真珠」の前後42節と50節には、裁きについてのたとえが語られているのに気づきます。最後の審判では、「畑に隠された宝」と「高価な真珠」の奥義が深く関係しているのです。その宝を手に入れている者は、どんな裁きにも耐えうるのです。では、その奥義とは何なのでしょう。先ほど朗読しました箴言がこのことの理解を助けてくれます。それは、かけがえのない命の源として、すべてを投げうつに値する宝こそ、キリストだということです。「畑に隠された宝」と「高価な真珠」はイエスを指し示しているのです。
これらのことを学んだ弟子たちを、主は「天の国のことを学んだ学者」だと言われ、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と言われました。一家の主人は、その一家の最善のために心を配ります。宝や真理を出し惜しみしたり、独り占めにはしません。古いもの(旧約の律法)であれ、新しいもの(新約の福音)であれ、自在にそれらを取り出して、主の御旨を正しく伝え、天の国を隣人たちに分けていくのです。
最後にわたしたちも、イエスから「分かったか」と問われていることを知りましょう。「分かりました」と応える者とされて、キリストから学んだ福音を惜しみなく分かち合い、語り伝えていきたいと思います。

2017年5月28日「ヨハネによる福音書15章5~9節」無条件、それとも条件付き?(伝道月間・第3回)

週報の表紙「御言葉に生きる」に記されていますヨハネ福音書3章16節は、聖書の教えの集約とも言われます。聖書の中心的なメッセージをわたしたちに伝えているのです。伝えようとすることは、人間が「何をするべきなのか」ということよりも、「神がわたしたちのために何をしてくださったのか」ということです。それを、ヨハネ福音書3章16節は「神は独り子をお与えになったほどに世を愛された」ことだと語ります。聖書の中心的メッセージは、神がわたしたち人間を愛されておられるということなのです
ところで、わたしたちが考えている「愛」とは何なのでしょうか。多くの人が「ありのままの自分を認めて、愛してほしい」と叫んでいるのです。「好きな人と嫌いな人がいるのは当然」と思っているのに、自分はその嫌いな人にはされたくありません。「自分は無条件に愛されたい」、しかし、「自分は条件付きでしか愛さない」。これが現状です。
それでは、愛について聖書はどのように語っているのでしょうか。キリスト教の結婚式などで聞かれたことがあるかもしれませんが、コリントの信徒への手紙二はこのように語ります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みをいだかない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
この聖句の「愛」の語のところに「自分の名前」を素直な気持ちで入れてみてください。愛を基準にして、自分の姿が見えてくるのではないでしょうか。何と自分は愛が薄いことかと。そして考えます。愛とは、自分が満たされることだろうか、と。そうではない、相手を大切にし相手を生かすように働きかけることなのだと、気づきます。
しかし、わたしたちは、相手を生かすより相手を殺していることが多いのではないでしょうか。相手と一緒にいるよりも、相手と離れたいと思っているのではないでしょうか。そこには愛はありません。これが、わたしたちの内にある愛の実態です。
神の愛について考えましょう。親が自分の子を捨てる出来事が時折報道されます。しかし、天地を造りわたしたちをも造られた神は、造りっぱなしではありません。御自分の手のひらに刻みつけるまでするほどに、片時もわたしたちを忘れることはないのです(イザヤ49:15)。その愛を、預言者ホセアは「憐れみに胸が焼かれる」ほどの愛だと言います。わたしたちは、人をすぐに恨んでしまう、愛に貧しい者でありますが、そのわたしたちを神は「お前を見捨てることができようか」と言って、わたしたちを生かそう・生かそうとしてくださるのです。そのために神は最も大切な独り子イエスをわたしたちに与えてくださったのです。そこにあるのは、独り子の命を差し出してまでの無条件の愛です。
つらいとき寂しいときには、無条件にわたしを愛してくださるイエスのもとに行きましょう。罪や誘惑に負けようとするとき、わたしが滅んではいけないと、神が、憐れみに胸を焼かれておられることを思い出しましょう。死を迎えようとするとき、何の希望もなくこの世を去って行くのではなく、わたしを限りなく愛してくださる神の元に帰って行くのだという希望に満たされましょう。
先ほど読みましたように、キリストは「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われて、神の愛に応えるわたしたちを待っておられます。改めて今朝、わたしたちのために命をさえ惜しまれなかったキリストにつながる決心をしようではありませんか。

2017年5月21日「ルカによる福音書7章11-18節」もう泣かなくともよい (伝道月間・第2回)

「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

ルカによる福音書7章11-17節は「ナインのやもめ」の話として親しまれています。ひとりのやもめの家で葬儀がありました。一人息子が死んだのです。この息子のことをイエス様は「若者」と言っておられますから分かりますが、一人前の青年になっておりました。それだけに、この母親にとっては、自分の生活の支えそのものを失ってしまったのですから、悲しみのどん底に落とされてしまったのです。
この母親をイエスは見て、声をかけられました。この13節で「見て」と訳されています言葉は、原語では、注視するとか、眼差しを注ぎ出す、と言った深い意味のある言葉です。その深い憐みをもった眼差しをこの母親に注がれたのです。そして声をかけられます。「もう泣かなこともよい。」それからイエスは遺体が置かれていた棺に近づき、棺に手を触れられました。続いてイエスは死人に「若者よ、あなたに言う。置きなさい」と呼びかけました。その言葉で死人は起き上がったのです。
これが聖書が語ることです。手の込んだわざは何もありません。イエスが言葉を発し、そして奇跡が起こった。その若者が生き返った証拠として死人がものを言い始めた、とルカは記します。
福音書には、死人が生き返らせられた出来事が三つ記されています。ヤイロの娘の生き返り(マタイ9章、マルコ5章、ルカ8章)、ラザロの生き返り(ヨハネ11章)、そしてやもめの息子の生き返りです。この三つは別々の出来事ですが、深く関連していて、生き返りの意味を教えているのです。この関連していることを念頭にして、今日のところを読んでいきましょう。
イエスはなぜ「もう泣かなくともよい」と声をかけられたのでしょうか。多くの人は、正直なぜこのように言われたのか分からないと言われるのではないでしょうか。悲しい時には思いっきり泣いたらよい、そうした気持ちでその人の「思い」を分かち、悲しみの時を一緒に過ごしてあげたいと思うからです。
しかし、この母親は、自分に向けられたイエスの深いまなざしにふれて、イエスの口から出る「もう泣かなくともよい」との言葉に、悲しみや絶望をすっかりぬぐい取ってくださる神の御心を知ったに違いありません。人は極限の時に置かれますと、それがわずかの時でありましても、その時に実に多くのことを見たり知ったりするものです。この時、母親はイエスの眼差しと言葉に、イエスが生き返りで示そうとしておられる意味を知ったのです。それは、ヤイロの娘の時に教えられた主の御心であり、ラザロの時に主が教えられたことではなかったでしょうか。「子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも。決して死ぬことはない。このことを信じるか」、と。
そして、彼女は信じたのです。すると、イエスは棺に手をかけ「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われたのです。
主イエスの歩みは、わたしたちの罪を背負い、十字架に向かう歩みでした。十字架の上で贖いの業をなさって死なれましたが、三日目に復活させられました。その、死に打ち勝たれた主御自身がわたしたちにも呼びかけておられます。「もう泣かなくともよい」「起きなさい」と。この声に耳を傾け、この母親のように、イエスを救い主と信じようではありませんか。わたしたちは、死の恐れからも、死の悲しみからも解放されるのです。わたしを愛し抜かれる主は、わたしやあなたの涙の源を知っておられるお方です。

2017年5月7日「ルカによる福音書7章47節~8章3節」わたしの目にあなたは価高い  (伝道月間・第1回)

「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え国々をあなたの魂の代わりとする。」

先ほど 読みましたルカによる福音書8章2節に「マグダラの女と呼ばれるマリア」の名が記されていました。この人は「マリアさん」と呼ばれるよりも、「マグダラの女」と言えば「ああ、あの女か」と、誰にも分かるくらいよく知られていました。「七つの悪霊を追い出していただいた」とルカが書いていますように、かつて七つのの悪霊に取りつかれていたからです。
それにしても、七つの悪霊に取りつかれていたマリアは、どんな苦しみを背負っていたのでしょう。聖書が記す出来事から、その苦しみをある程度理解できるのではないでしょうか。
旧約聖書では、サウル王が悪霊によってさいなまれる場面が強烈です。ものに取りつかれた状態に陥れられたサウル王は物事の判断も行動もが狂ってしまいます。サムエル記上8章に記されていますが、最も有能な部下ダビデを槍で壁に突き刺そうとすることもありました。自分で自分を制御できないのです。
新約聖書からは、マルコによる福音書5章1~20節に記されている出来事から見てみましょう。ゲラサの一人の男のことです。彼は人と交わらず、墓場に住んでいるのです。人から見れば精神的に死んでいるような者でありますが、実は、彼は自分を打ちたたいたり、叫んだりするくらいのエネルギーをもって生きているのです。その彼がイエスを見ると走り寄ってきました。この場面を読んで、彼のほんとうの声が聞こえて来るようではありませんか。「俺は、生きたいんだ」「人間として思いっきり生きたいんだ」…、と。
人は誰でも適う限り善く生きたいと思っているのです。ですから、それができないとなると、生き生きと生きられない自分がいやになって、そんな自分が許せなくなってしまうのです。今も、たくさんの人がもっと善く生きたい、認めてほしい、愛がほしい、…と思って叫んでいます。その叫びが、あるときには、夫婦間の冷たくて深い溝、家庭内暴力、不登校、いじめなどになってあらわれてくるのです。それこそ自分を石で傷つけていくのです。その表面を見て鎖で縛ってみましても問題は解決しません。
さて、誰もが嫌うゲラサの人に会う、ただこのことのために嵐をついて来た人がいました。イエスです。「かまわないでくれ」というゲラサの男の声は、イエスには「何とかしてくれ、助けてくれ」という心深くの声として響いていたのです。
サウル王にしても、ゲラサの男にしても、悪霊に取りつかれたというのは、墓場に住むくらいの気持ちに落ち込み、自分を責め、苦しみ、自分でどうしたらよいのか行き詰まっているのだと言えます。そうであれば、七つの悪霊に取りつかれたマリアは、七という数から想像できることですが、彼ら以上に、うつろさや痛みを抱え、はた目にもひどい状態であったに違いありません。一体だれがそのようなマリアにいたわりの声をかけたでしょう。しかし、イエスはそのマリアに声をかけられるのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と。その愛に応えてマリアは十字架にまで主に従いました。
神は、その人がどんな状態にありましても、価高く、貴いものとしてくださるのです。悪霊にとらわれている者を解き放ってくださるのです。神様はあなたを愛しておられるからです。
大きな罪や過ちを犯してしまったら、人生は終わりになるのでしょうか。誰も、自分のことを理解してくれないといって、それで終わるのでしょうか。そうではありません。自分の名前ではなく「マグダラの女」と呼ばれていたマリアは、神の目には価高いものであったのです。そして、イエスに出会ったときに、自分を見失った人生ではなく、神の愛に生かされる人生を歩み出したのです。
神様は、わたしやあなたを、宝石よりも金銀よりも価高く貴い一人ひとりとしておられる造り主です。このお方の愛をさらに深く知ろうではありませんか。

2017年4月30日「マタイによる福音書13章24~43節」裁きと救い

「わたしに つながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」

先回は、「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」と言われたイエスの言葉を中心に、良い麦一本一本を失うまいとする愛に貫かれている神の御心を学びました。聖書は同じ個所からですが、今朝は「刈り入れの時~」と言われた主イエスの言葉を中心に読んでいきましょう。
麦にも毒麦にも必ずやってくるのは刈り入れの時です。この刈り入れの時、集められた毒麦は火で焼かれ、麦は倉におさめられます。主は、この刈り入れを「世の終わり」40節と言われました。
世の終わり、と聞きましても、多くの人は、確かに世の中には不安要素がある、それは現実だ、いつ戦争が始まり世界が破滅してもおかしくはない、そう思いながらも、そうした危惧はいつの時代もあったこと、「世の中のことは天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」(ペトロ二3:4)といって日を過ごしているのではないでしょうか。
しかし、どのように言ってみましても、世の終わりはあるのです。このことを聖書は一貫して厳然たる事実なのだと語ります。
わたしたちは先週の教理学級でウエストミンスター信仰告白の最後の章を学びました。世の終わりのことに関することです。世の終わりにはどうなるのか。「地上に生きたすべての人がキリストの裁きの前に出て、それぞれの思いと言葉と行いについて弁明をし、善であれ悪であれ、それぞれが自分の身でなしたことに応じて、然るべき報いを受けることになる」というのです。(このついでに、教理学級について理解しておくべきことをお話ししておきます。自分が出席するしないに関わらず、教理学級で取り上げます教理は、教会の信仰基準を指し示しているということです。それで、教理学級でウエストミンスター信仰告白を学んだということは、わたしたちの教会がこの告白の上に築かれている証でもあるのです。)
さて、すべての人ですから、キリストを信じている人の罪の一切も明るみに出されるのです。罪は必ず裁かれます。しかし、主イエスがわたしにかわってその裁きを受けておられるのです。それで罪は裁かれているのですが、わたしはキリストのゆえに無罪の判決を受けるのです。「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはない」(ローマ8:1)。これがキリストにある救いです。
死んだらそれで終わり、人生の意味は地上の生活に限られている、われこそがわが運命のあるじ(主)、こういった思い込みの人が多くいるのです。しかし、どのように理屈を考えましても、神が罪を裁かれる、世の終わりは来る、という神の御言葉は変わりません。世の終わりと裁きは、厳然とした事実なのです。刈り取りが来ることを軽んじないようにしましょう。ガラテヤ6:7,8「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は自分の蒔いたものを、また、刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」
この世にも教会にも、良い麦も蒔かれれば、毒麦も蒔かれています。しかし、毒麦に混じって麦が損なわれないように、主はしっかりと印をつけられます。旧約で読みましたエゼキエル書、そして今読みます黙示録7:3に記されているように、天の国の子たちが一人も漏れることのないように刻印を押されるのです。主にとっては、良い麦の一本一本が掛け替えのない大切なものだからです。
わたしたちは、周りばかりを見て、毒麦をどうしようかと思案や心配をするのではなく、裁きの日にもしっかりとわたしたちを受け止めてくださる主の愛にこそ、わがすべてを委ねて歩みたいと思います。そのとき、この教会は主の愛に育まれ、天の国にふさわしいものとされるのです。

2017年4月23日「マタイによる福音書13章24~43節」麦と毒麦

「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

13:1~23の「種を蒔く人のたとえ」と同じように、今日の「毒麦のたとえ」でも、マタイはその間に別のたとえをさしはさみます。これは、別のたとえが「毒麦のたとえ」を正しく理解するために必要なことだからです。
それで今朝は、31~35節を中心に学び、次の主の日にもう一度全体を読んでいきましょう。
31~35節には、主イエスが語られた二つのたとえが記されています。その一つ目は、「からし種のたとえ」です。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」このたとえで、「似ている」というのは、天の国を種そのものと比較しているのではありません。その種が蒔かれたら、結果としてどうなるのか、何が生じるのか、ということを言っているのです。
あるとき主イエスは、「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」と言われましたように、からし種は非常に小さいもの、という意味で使われました。初めは目に見えないほど小さくても、やがて眼を見晴らすばかりに成長します。それが神の御業なのです。天の国の生命力が成長させるのです。
二つ目は、パン種のたとえです。パン種によって大きなふくらみになることは知られていることです。それと同じように、当時の人々からは受け入れられなかったとしても、イエスによってもたらされた福音は、広くしみわたっていくのです。
その生命力によって、毒麦の中でも、良い麦は立派に育ちます。それで、主イエスは「刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい」と言われたのです。毒麦を抜くときに、良い麦まで抜くことになるよりも、良い麦の成長力に信頼を置いておられたのです。
「麦まで一緒に抜くかもしれない」という言葉のように、主イエスは麦の一本一本が、すなわちキリストに従う者が、痛まないように、害が及ばないようにと心を砕いておられるます。わたしたちをどこまでも支えてくださる神の堅忍の恵みに感謝しましょう。

2017年4月16日「マルコによる福音書16章1~8節」復活の朝  (イースター記念礼拝)

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に座に着いておられます。」

マルコはキリストの復活の出来事を実に簡潔に記します。週の初めの日に三人の女たちが墓に行った。死体がなくなっていた。墓の中にいる若者がキリストは復活したと言った。マルコはこの事実だけを簡潔に記して、復活は人間の理解を超える非現実なことですが、これが事実だ、とはっきりとわたしたちに伝えているのです。
この事実を前にして、もう死んでしまったイエスに会うために、まだ明けやらぬ早朝から主イエスへの愛と献身と熱心をもって墓に来た三人の女たちは皆、墓を出て逃げ去りました。主イエスが復活させられた、生きておられると聞いて、喜ぶどころか恐ろしいことだと思ったというのです。何故なのでしょう。
女たちは心からキリストを愛していました。だから死体に油を塗ろうと思ったのです。これが現実です。ところが、思いをはるかに超えるあまりにも非現実なことが、現実となっていました。それも、女たちが告げられたのは「復活させられた」という言葉です。彼女たちは、見たもの、聞いたことから、今ここに神の手が働いていることを強く感じ取ったのです。だからこそ、恐れに打たれたのです。
「恐ろしかった」と訳されている言葉は、怖いといった意味だけではありません。ルカ1章50節やフィリピ2章12節からも分かりますが、主に対する畏敬の念を表す意味でもあるのです。彼女たちは、単に恐れただけではなく、神の現実の前に畏敬に満たされ圧倒されて恐れを覚えたのです。理解するにはあまりにも偉大すぎたのです。
女たちが自らを失うほどの出来事を通して、キリストが復活させられ、ここに生きておられる、この事実を鮮明に記して、マルコは福音書を閉じます。
それで、マルコによる福音書の冒頭の言葉を思い出します。そこには、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記してありました。初めとは、創世記と同じように、神は新しい創造の業を始めようとされておられる、ということです。そして、今、マルコはその創造の業が、キリストを愛する女たちが神の臨在に圧倒された復活の場面を指し示すことによって、成し遂げられたと記しているのです。
キリストが墓から出られたのです。死んだ人を死の中に閉じ込めたままにしておく軛は砕けました。復活の主を信じる者には、もはや死は、恐れや嘆きで終わるものではなく、神と共にある幸い、この朽ちるべき者が、朽ちない者とされる時なのです。わたしたちは、もう墓の中を覗かなくてもいいのです。自分の体やこの世の生活のために労するだけではなく、目を高くあげて天にある命に目を向けましょう。病床にある人も、そうでない人も、悲しんでいる人も、そうでない人も、誰もがキリストと共に復活させられているからです。

2017年4月9日「マルコによる福音書15章33~41節」十字架こそ救い  (受難週)

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」

この週は、神の深いご計画によってイエス・キリストが十字架につけられた、その救いの御業を覚えて記念とする受難週です。
先ほど旧約聖書からはイザヤ書53章を読みました。主の僕が、わたしたちの病、痛みの一切を背負って、裁きを受け命を取られた、と預言者イザヤは語りました。キリストの受難の700年も前にキリストの十字架の刑が預言されていたのです。その預言が現実となった場面を、マルコの福音書から読みました。その中から、今朝は37-39節を中心にして教えられたいと思います。
イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、エルサレム市内では不思議なことが起こりました。このことをマルコは「イエスが息を引き取られました。そして、神殿の垂れ幕が裂けました」と記します。
神殿には、聖所とその奥には至聖所があります。至聖所は神の臨在の場ですから、そこに入ることのできるのは大祭司だけ、それも年に一度のことでした。マルコが裂けたと記しているのは、この幕屋と至聖所とを隔てている垂れ幕のことです。その幕が取り除かれてしまったのです。もう隔てはなくなったというのですから、誰もが至聖所・神の前に行くことができるようになったことを、この出来事は表していました。ブライ人への手紙10章は、そのことをはっきりと説明しています。
このことから、わたしたちは大事なこととして、次のことを確認し、しっかりと心に結び付けましょう。それは、イエス・キリストの死によって、わたしたち一人ひとりに、神に近づく道が開け、神にわが身をささげる道がついたということです。誰もが神を求めさえすれば神に近づき、誰もが神を見ることができるのです。そうであれば、神に向けて近づきましょう。神は、今ここにおられるのです。隔ての幕は取り払われ、ただわたしが神に近づくのを神は待っておられるのです。
幕が裂かれたとき、十字架の下で神を見た人がいました。39節に記されている百人隊長です。彼はローマの軍人、ユダヤ人からは神を知らぬ異邦人です。彼にとってはイエスはただの死刑囚にしか過ぎなかったことでしょう。しかし、職務上とはいえ刑執行の監督者となってイエスから目を離さず見ていた百人隊長は、「父よ、彼らをお赦しください」という祈りなどをも耳にし、まことに、この方こそ神の子である、と告白したのです。彼はキリストについて知ることは僅かだったかもしれません。しかし、正しく神の子と告白がしたのです。
信仰は、多くを知ることよりも、何を見つめるかが大事なのです。この受難の週、わたしたちは、主の十字架を見つめ、はっきりとキリストこそ神の子、わたしの主であると告白してまいりましょう。

2017年4月2日「マタイによる福音書13章1~23節」種を蒔く

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

礼拝でのメッセージは、見出しに記されているマタイによる福音書13章1~23節からです。先週と同じ個所になります。この箇所を、今朝は「神の御業」に中心を置いて学んでいきましょう。
13章1~23節は三つの区分になっていますが、主イエスが言われる「天の国の秘密」を悟るには、二つ目の区分、小見出しで「たとえを用いて話す理由」がとても大切です。主イエスがご自身の使命と神の御業について語っておられるからです。
イザヤ書が引用されていますが、預言者イザヤの使命は、神から離れてしまったイスラエルの民に悔い改めを求めることでした。しかし、イザヤが語れば語るほど、民は心をかたくなにして、神の言葉を受け入れようとはしなくなるのです。このことをあらかじめ見通しておられた神は、イザヤに前もって、そうした事態になることを知らせ、覚悟をしておくようにと言われました。引用されているイザヤの個所は、そのような内容になっています。
このイザヤの預言を主イエスが「種を蒔くたとえ」の中で何故語られたのでしょうか。
それは、イザヤが民に悔い改めを求めた宣教活動が、主イエスのお働きの予表となっていたからです。人々は、イエスが語られる神の言葉(種)を聞きましても、心をかたくなにして、それを信じようとはせず、やがては十字架にかけてイエスを殺すことになるのです。そして、このことも天の父はご存じで、天の国の奥義に含まれた神の御支配に置かれているのです。このように、イザヤの預言を真ん中に置いて種蒔きのたとえを考えますと、主イエスの十字架と復活という事実が鮮やかに見えてきます。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」」(4:17)と言って主イエスがガリラヤ伝道を始めて以来、蒔き続けられた種が、多くは奪い去られたり、茨にふさがれたりしてしまうのです。このことを主はご存じでした。主は、十字架に至る苦難を知りながら、それに向かって顔をはっきりと向けて、種を蒔き続けられたのです。
しかし、父なる神に見捨てられるという完全な挫折の中から、神はこのイエスを復活という人間には思いも及ばぬ方法で立ち上げさせられました。その復活によって、かつて蒔かれた種は、30倍、60倍、100倍という、人の思いをはるかに超える実を結ぶに至るのです。まさに「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」のです(ヨハネ12:24)。
種蒔きは伝道です。多くの蒔いた種は無駄なようになるのです。しかし、主の復活の命にふれる種は、必ず百倍にも至る実を結びます。この意味で、「種蒔きのたとえ」は主に続いて伝道にあたる弟子たちへの励ましともなっているのです。
わたしたちも主イエスの弟子です。「涙と共に種を蒔きますが」「歓びの歌と共に刈り入れる」のです。宣教に生きる群れとして、蒔かれた種が30倍、60倍、100倍にも実を結ぶ神の御業の豊かさにわたしたちが与る者とされたいと願います。

2017年3月26日「マタイによる福音書13章1~23節」実を結ぶ神の御言葉

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

今日の聖書のマタイ福音書13章の個所は、「種蒔きの譬え」として知られている主イエスによる教えです。3節から種を蒔く話を語られたイエスは、18節からはその話の解き明かしをされました。読んで気づきますのは、3節からでは、マルコやルカの福音書からはっきりと分かりますが、種とは神の言葉です。18節からでは「道端に蒔かれたものとは、こういう人である」と言って、種は人という意味で語られています。「種蒔きの譬え」を寓話としてつまり教訓を含めた話として、聖書を聞く人に重点を置いて、聞く者に神の前に歩む心備えをさせるのです。
それでこの「種蒔きの譬え」を二回にわたってお話しします。今朝は「人間の側」に重点を置いて考え、次週には「神の御業」に重点を置くことにします。
今朝は主に18~23節、次回は3~17節からを中心に学びましょう。
大勢の群衆がイエスの語る福音に耳を傾けます。しかし、その人たちの受け止め方の違いによって種は蒔かれても結ぶ実に違いが出てきます。三つのタイプが記されていますが、聖書をどのように聞いたらよいかがはっきりと示されます。一つ目に記されるのは、御言葉を聞いても悟らないうちに、「悪い者が来て」御言葉を奪ってしまいます。はじめから福音を受け入れようとはしないのです。二つ目は、福音を受け入れるけれどもその実を結びません。「御言葉のために艱難や迫害が起こる」とつまづき、「世の思い煩いや富の誘惑」のためにキリストから離れて行くのです。
それに対して、「御言葉を聞いて悟る」人には、思いも及ばない豊かな実りが約束されます。本当にキリストを神として、自分の救い主として信じている人です。
ここでのキーワードは何でしょうか。「悟る」という言葉です。悟るとは御言葉(聖書)が頭で分かったといった知識のレベルではありません。聖書を読んで、そこにわたしのために命を捨てるまでにして愛を注いでくださったイエス・キリストに心が向けられ、そのキリストが今わたしに語っておられる言葉として心にとどくのです。このとき、わたしたちは、聞いてただ自分の知識や思いが満たされていくにとどまらず、聞いて行おう、御言葉に従って生きよう、とするのです。先週学びましたように、聖霊によって「天の父の御心を行う人」とされるのです。

2017年3月19日「マタイによる福音書12章46~50節」まことの家族  

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

家族って本来一体何なのでしょう。わたしたちは普通、家族を血縁の関係だと見ています。けれども実は、親子と夫婦という全く本質に違いがある関係が共存しているのです。親子は血のつながりの関係、夫婦は約束の言葉で結ばれた契約の関係なのです。ところが、夫婦の契約関係が親子の血族関係に呑み込まれてしまっているのです。
契約ということは、相手の言葉を守ることにありますから、相手の心を無視してふるまいますと関係は崩れてしまいます。
人類の始祖アダムとエバの関係は、まさに相手を自分と同じだと受け入れるところになり立ったのです。そこから、親子という血縁の関係が生み出されたのですね。夫婦の契約関係が親子の血縁関係に先立つのですから、家族とは、(契約の)約束を守ろうとする人格をかけた真実の上に、築かれるべきものであったのです。ここに家族の真実をかけたつながりがあるのです。ですから、この世の中には、親子の関係が血のつながりではなくても、まことの家族として立派に歩んでおられる方々がおられるのです。
聖書のルツ記に登場するルツとナオミは、「あなたの神はわたしの神」という 神の御心を行う者として、血族以上の確かな絆で結ばれている幸をわたしたちに教えています。これが、主にあるまことの家族なのです。
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と言われる主イエスは、わたしたち一人ひとりに向かって「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言ってくださるのです。何と幸いではありませんか。キリストの大切な家族として、わたしたちの内に働いてくださる聖霊によって「天の父の御心を行う人」へと、日々歩んでいきたいと思います。