聖書の学び

1.詩編を読む

詩編を読む・2017.6.14   詩編79篇 1~13節

詩編79篇
1.詩編79篇を読む
 4節「わたしたちは近隣の民に辱められ 周囲の民に嘲られ、そしられています」という悲惨は、いつまでも限りなく続くかに見える。しかし、その悲惨を被っているのは「わたしたち」ではなく、「あなたの嗣業(相続地)」であり、「あなたの聖なる神殿」であることに先ずは心を留めておきたい(1節)。
 悲惨な状況にある試練の苦しみは、いつまでも続くものではない。(5節)「永久に憤っておられる」かに見える神の憤りには、「熱情」(新改訳「ねたむほどの激しい愛」)という別の面があることを理解しておきたい(参照:ゼカリア8:2)。
 これに関連してアモス書を読んでおこう。アモス3:2「地上の全部族の中からわたしが選んだのは お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを すべての罪のゆえに罰する。」
 それにしても、6節の祈りは慈愛の心に反するように思えないだろうか。わたしたちは、自分に降りかかる災禍を憂えるとき、同じようにわたしたちと同様に他の人たちも慰められるようにという心を持つことが大切と思うからである。それでは、御名を呼び求めない者を滅ぼしてくださるように祈ることは、向こう見ずなことなのだろうか。このことについては「あなたを知ろうとしない」という言葉から理解しておきたい。「知ろうとしない」というのは、意図的に知ろうとしていない者、テサロニケ二1:8でいうところの「神を認めない者」「福音に従わない者」である。神はそのような者に、罰をお与えになられるのです(参照:テサロニケ二1:6以下、ローマ1:18—23)。
 すべての人が救われるように願うとしても、教会全体の救いを心がけるとき、神の義が明らかにされるように、との祈りが心にわき上がる。
 9節も、熟考し味わいたい御言葉である。「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し わたしたちの罪をお赦しください。」
 この御言葉に示されている主題は、罪の赦しが神の栄光であるということである。罪が赦されるのはわたしたち人間だと考えるのが普通であることを考えると、意外ではないだろうか。それで、いくつかのことを考えておきたい。
・「御名」  聖書では、「名」というのは、実態そのものの意味で使われる。その意味で、「神の御名」「主の御名」といえば、神そのものと受けとめて差し支えない。
  したがってここでは、罪の赦しは神のためであるというのである。
・「罪」   聖書では、「罪」は、神に背くこと、神への敵対。人間が神の主権を犯し、自分を神の位置に置いているのである。それは確かに神の栄光を傷付けていることになる。神を神の座から追い落とし、その座に自分をつけているのである。
・「罪の赦し」  聖書では、「罪の赦し」のおとずれは、福音。神に敵対し対立している者を、神が愛のうちに包み込むことであるといえる。対立に対抗すれば、さらに新たな対立が生ずるものであるが、内に包まれるとなれば、反逆はできない。
 罪の赦しが、自分のためであるだけではなく、主の御名の栄光のためであるということを知る。このことを知って、わたしたちは、信仰とは自分のことだけにとらわれて終始するものではなく、実に壮大な出来事であることに目が開かれるのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 6節「御怒りを注いでください あなたを知ろうとしない異国の民の上に あなたの御名を呼び求めない国々の上に。」   参考:テサロニケ二1:8「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めないものや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)これは甚だしい苦難の中にあった教会の訴えそのものであり、嘆きである。その中で、信仰者たちが、その惨めで残酷な破滅を悲しみ、その敵どもの反逆を非難しているのは確かであるとしても、しかも彼らは、自分たちがこのように懲らしめを受けるのは、当然のことである、と認め、謙虚に神の憐みにすがろうとする。
 9節「ああ、われらの神よ、御名の栄光の愛のゆえに、われらを助けてください。われらを救い出し、御名の愛のゆえに、われらの罪を憐れんでください。」  彼らが神の和らぎを得ないかぎりは、災禍の中にある彼らにとっては、何の慰めもないことをくりかえし語る。彼らは自分自身の心のうちで、多くの違反行為について有害であることを感知するので、いろいろな言い方を通して、慈悲を懇願しようと望む。…神がわれわれを懲らしめられるとき、単に外的な懲罰の軽減されるように願うだけでなく、何よりもまず、神と和らぐことを熱望すべきである。病気の症状が取り除かれることだけを願って、病気の根本原因が癒されることを問題としない病人の真似をすべきではない。
 13節「しかし、あなたの民、あなたの牧場の羊たるわれらは、とこしえにあなたを告白し、あなたへの賛美を語るでしょう。」  預言者がこのように語るとき、その背景に留意しなければならない。アブラハムの末裔は、神のみ名がほめたたえられ、またほめ歌がシオンに響き渡るために選び出されたのであるが、この民が滅び去ったのちは、神のみ名の記憶もまた廃絶されたというのであろうか。この章句がイザヤの預言に対応していることは疑いない。イザヤは言う。「わたしはこの民を、わたしの賛美を唱えさせようと、わたしのために造りだしたのである」(イザヤ43:21)。

詩編を読む・2017.6.7    詩編78篇 1~72節

詩編78篇
1.詩編78篇を読む
 「ツォアン」(12節)から「シオン」(68節)へのイスラエルの歩みは、エジプトの奴隷時代からダビデの統治時代に至るまでの動乱の成長期の歴史である。ここに語られているのは、二度と繰り返してはならない神への反抗であり、その反抗に対する裁きを通じてなお一貫してとどまり続ける恵みである。
 ここに記されている歴史に、キリスト者は何らかの神の御業へと思いが導かれる。
 ・この歴史は繰り返され、最終的には選ばれた民族が、それも選ばれた都(68節)で自分たちの王を拒絶した。
 ・この詩編では、イスラエルの歴史は突然に打ち切られている。それは、続く世代の者がこれを完成させ、そこから学ぶためであることを知る。(キリスト者の草創期の歴史が、使徒28:30,31で打ち切られているのは、わたしたちがこの歴史を継続するため。)
1-8節 歴史からの訓話
 「箴言」は、「たとえ話」と言う語である。主イエスの教え方も、このたとえ話をよく用いられた(マタイ13:35)。生活のある領域のことを使って、別の領域のことを明らかにする格言である。この詩篇の中心となる要旨は何か。それを詩人は7節の三つの言葉 -子らが神に信頼を置く、神の御業を忘れない、戒めを守る-で言い表わす。即ち、過去の歴史の中から、信仰の三つのより糸ともいうべき事柄を指し示すのである。それは、神への信頼、知識に基づいた謙虚な思索、従順である。
9-16節 忘れ去られた奇跡
 登場する「エフライム」は、分裂した諸部族の中で最大の部族であった。このめにエフライムの人々は、ホセア書4ー13章の各所で記されるように、イスラエルの堕落と背信の象徴となった。10,11節は、わたしたちへの警告でもある。神との間で立てている「契約」をしっかりと生活の中心に置くことが肝要である。
17-31節 不満のつぶやき
 17,18節は、人の心を探る。神から与えられれば与えられるほど、ますますわたしたちはそのことに感謝しなくなる。一連の経験をした後に、神に恨みがましいことを言っているのである。5千人に食べ物を与えたイエスの奇跡の後におきた出来事に似ている。そのとき、彼らはさらなる優れたしるしを求めた (ヨハネ6:26、30—31)。
 21-31節は民数記11章に基づいている。「飽きるほどの糧」(25節)の頂点にあるのが、26節以下の鳥(うずら)である。また「マナ」も身にしみるような恵みの賜物であった。マナを食べるためにはいくつかの条件が付いた(出エジプト16:4)。それは従順であるかを試す優しいテストと言える。このパンが天から来たのなら、命のパンであるイエスは、父から来たのである。イエスは、肉体の養い以上に大きな飢えを満たし、不死を与える食べ物となってくださる(ヨハネ6:30—51)。
32—53無意味な悔い改めと出エジプトについての忘恩
 (35節)「神は岩」、「神は贖い主」と唱えながら、神を侮る、その舌は欺く。これはキリスト者も肝に銘ずべき(ヤコブ1:22以下、2:14以下で指摘する罪)。罪の悔い改めが、ここで指摘されているように、うわっつらでしかないのなら、それは心が神に定まっておらず(誠実でない)、神の契約に不忠実という重大な罪となる(37節の重要性)。
 40,41節の「どれほど」「繰り返し」と言う表現からは、なぜ30—31節以下の突然の裁きが下されたのかが分かってくる。
 (52—53節)悲しいことに、他の者たちが滅ぼされていたときに、イスラエルは羊のように保護されていたのを忘れてしまったのだろうか。
54—64約束の地についての忘恩
 荒れ野においてだけではなく、約束の地でもイスラエルの態度は56節「神を試み、反抗し」ているのである(40,41節と比べよう)。その罪は、偶像崇拝にあった。
この背後にある歴史の事実は、サムエル記上4章に語られている。60—61節の神御自身が立ち去ったことを象徴していることは、再び起こることである。(イカボド・栄光は失われた)
65—72節新たな始まり
 このところにはイスラエルの絶頂期への進展が記されているが、半世紀前には誰が予想できただろうか。このような進展に、神の不変の愛を知る。イスラエルの記録とは、イスラエルの恥であったとしても、そこに神の不変の愛と善意を見る者には、希望となって(イスラエルの、そしてわたしたちの)未完の物語へと続くのである。
           
2.関連する新約聖書の聖句
 2節 引用:マタイによる福音書13:35b「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」   
 15節 参考:コリント一10:4「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずついて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」
 18節 参考:コリント一10:9「また、彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。…。」
 22節 参考:ヘブライ3:19「このようにして、彼らが安息に与ることができなかったのは、不信仰のせいであったことが分かるのです。」
 40節 参考:エフェソ4:30「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」

詩編を読む・2017.5.31   詩編77篇 1~21節

詩編77篇
1.詩編77篇を読む
 作者は苦難の中で嘆き呻き(4節)、神に向かって叫ぶ。その思いを、心を読み取る神は知っておられる。
イエス御自身、激しい叫び声と涙をもって、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられたからである(参照:ヘブライ5:7)。
 5節以下が、この作者の苦しいと嘆きの内容である。ここには苦難についての深い洞察がある。「あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます」という表現は深刻である。眠ろうにも眠れない。ものを言うこともできないほどに悩む(5節)。こうした嘆き悲しみの中で、作者はいにしえの日々を思い、遠い昔の年々(とこしえに続く年月)を思う。
 こうした嘆きに襲われて、作者は、(7節)「夜、わたしの歌を心に思い続け わたしの霊は悩んで問いかけます。」というのである。
 参考:7節口語訳「わたしは夜、わが心と親しく語り、深く思うてわが魂を探り、言う」
      フランシスコ会訳「夜通し心の中で思い煩い、わたしの霊は思い詰めて問いかける。」
 衝撃的に出所進退を決めるのではなく、静かな夜、自分の心と語り合って、深く思い、魂を探るのである。わたしたちは嘆きの中に落とされるとき、どれほど自分の心と語り合うことがあるだろうか。しかし、作者は自分の心と語り合って言う。「主はとこしえに突き放し 再び喜び迎えてはくださらないのか。」(8節)。
 この8節の懸念が、9-10節では更に明確に述べられる。すると、懸念の内側にある矛盾が見え始め、それとともに答えの可能性も出て来る。そのことを、ここから読み取り教えられる。作者が導かれた鍵となる語は大切である。
 [主の慈しみ][約束] … 慈しみは、契約への忠実を意味する語である。「慈しみ」が主の契約の中で保証されているとすれば、「慈しみ」が消失することはない。また、主の「約束」が無に帰してしまうこともない。
 魂を探る言葉は、心の陰をも明るみに出す。10b節の一つの質問は、嘆きの中で必ず向き合わなければならないことであり、それだけに、一層不安をあおる。
(10b)「怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」― 罪だけが神の「怒り」を引き起こし、悔い改めないことだけが、神の怒りをもたらすからである。そして、もし、作者であれわたしたちであれ、神の怒りが生じたのなら、それは問題ではなく、取り組むべき課題なのである。
 このように、作者は、苦難の根源にあるものを洞察し、衝動的になり自らを見失っていくことから守られ、神の契約のもとにある確かさへと導かれる。この時、今まで思い描いてきた過去の出来事の中に確かな神の御業を見て、勇気を得る(11-16節)。
  参考、キドナーの注解より  
10節の名訳(PBV prayer book version,1662)
       「その時わたしは言った。それはわたし自身の弱さである。しかしわたしは長い間のいと高き神の手を思い起こす。」
 11節は、6節の内容を止揚し、さらに高い地平へと高めている、と考えることができる。(「いにしえの日々、遠い昔の年々だって?」「神の右の手が守ってくれた年々ではないか!」)
 17-21では、神の御力が擬人化された表現で、力強く述べられる。
結びの21節には民を導かれる主の姿がうつしだされている。神が最も気にかけておられるのは、ご自分の「民」、ご自分の「群れ」である。
           
2.関連する新約聖書の聖句
 9節「…約束は代々に断たれてしまったのであろうか。」  参考: ローマ9:6「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。…」、 ペトロ二3:9「ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編の作者が誰であったにせよ、聖霊は作者の口を通して、教会が出会う苦難に対する祈りの共通の形式を口述したように思われる。残酷な迫害の中にあっても、信仰者が天に向かって祈ることを止めないためである。なぜならば、作者はここで単に一私人としての悲哀を表しているだけではなく、選ばれた民の嘆きと呻きとをも 言い表わしているからである。
 1節(新共同訳2節)「わたしの声は神に、そしてわたしは叫びました。わたしの声は神に、そして神はわたしに聞かれました。」 預言者は、多くの者が悲しみの中にあって、限度も根拠もなしに叫ぶ声をあげるように、愚かな叫びを宙に放つのではないと述べる。やむを得ず叫び声を発するときには、その言葉を神に向かって発する、と彼は言う。「わたしは神に向かって呼ばわりました。なぜならば、神は常にわたしに対し好意と憐憫とに満ちておられるからです」と言うかのごとくである。
 11節(新共同訳12節)「わたしは神のみわざを思い起こすでしょう。わたしは確かに、初めからのあなたの驚くべきみわざを思い起こすでしょう。」 預言者は神の恵みと賜物とを思い見ているが、それらでさえも、彼の悲しみを和らげ、あるいは減少させることはできなかったのである。

詩編を読む・2017.5.24   詩編76篇 1~13節

詩篇76篇
1.詩編76篇を読む
この詩編の形式は分かりやすい。2-7節の前半ではすばらしい救出について、8-13節の後半では裁きと救いが述べられている。
2節.ユダにおいて神が自らを示されたことは、全人類の祝福となった(参考:ヨハネ4:22「救いはユダヤ人から来るからだ」)。
教会にとっても、このことは重要である。教会の中で神は「知られ」(*1)御名は崇められた(*2)。
  *1 フィリピ3:10「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、…」
   *2 ヨハネ1:28「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
「サレム」は、エルサレムの短縮形(創世記14:18、ヘブライ7:2)。
「シオン」は、ダビデが占領した丘の頂にあった要塞の名。エルサレムの町そのものをも指す(イザヤ33:14)。シオンは、他国に侵略されることのない聖なる都(詩編125:1-2)として、終末においては世界の中心(詩編50:2)として描かれている。
 5-7節には、無力なものとされる侵略者が描かれている。このところで思い出されるのは、主の御使いによって一夜のうちに、アッシリアの王センナケリブの軍隊が抹殺された出来事である(イザヤ37:36)。なお、5節の「餌食の山々」は、70人訳では「永遠の山々」と記されている。山を神の永遠の住まいに結びつけているのである。
 8-10節では、神による裁きは、もはや昔の出来事ではなく、またある局地に限られたものでもないことが示される。いたるところの悪に対して、神の最終的な鉄槌がくだる時である。その時には、キリストの十字架のもとにいなければ、「誰が御前に立ちえよう。」(8節)。
 神は裁きのために立ち上がられるが、地の貧しい者すべてを心にとめて救われる。裁きの目的は、神にすべてを委ねる者の「救い」にあることを知らされる。「地の貧しい人」について、聖書はどのように語っているか(例:マタイ5:3、コリント二8:9等)。
 この神の審判について、黙示録6:12-17はよい解説となる。あわせて読んでおきたい。
 11節の最初の行を「人の憤りはあなたを賛美することへと変わります」とカヴァデール訳(*3)には書かれている。定評のある訳である。解釈に難解な11-13節をよく言い表わしている。
   *3 カヴァデール(1488-1568):聖職者。新旧約聖書のはじめての完全英語訳編纂。1535年出版。
(参考)11節フランシスコ会訳「まことに、ひとの憤りもあなたを讃え、憤りを免れた者は、あなたを帯びる。」
  11節で描写されている様子を知る上で、イザヤ59:17は参考となる。「帯とされる」(新共同訳)は、熱情を上着として身を包まれた、と解することができる。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう。」    参考: ヨハネの黙示録6:17「神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。誰がそれに耐えられるであろうか。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)ここでは神の恵みと信実とが、ほめたたえられている。神はそれによって、エルサレムの町の保護者となることを約束され、信ずべからざる権勢を用いて、戦いを好み・戦闘に必要なすべての装備を整えた敵軍に対し、この町を守り・保たれたのである。
 1節(新共同訳2節)「神はユダにおいて知られ、そのみ名はイスラエルにおいて偉大です。」 この詩編の冒頭において預言者は、敵軍が何事をもなし得ずに敗退したということが、人間的によって起こったのではなくて、記憶に値する神の助けによる旨を説諭する。神が未曽有の仕方でその御手を開示され、エルサレムの町も、その民も、共に神の防備と保護の下にあることを、明白に知らせたからでないとすれば、ここで言及されているような、神の知識とそのみ名の偉大さとは、いったいどこから来るのであろうか。そこで預言者は、神がかかる奇跡によって、その敵を敗走させられたことによって、神の栄光はあらわに示されたと言う。
 次の節において預言者は、アッシリア軍がなぜ敗走したか、その理由を付け加える。それは神がこの町を、ご自身の守護のもとに置くことを、よしとされたからである。すなわち、神はここを住まいと定め、み名がその地で呼び求められることを選ばれたからである
 2節(新共同訳3節)「そして幕屋はサレムにあり、その住まいはシオンに。」
 要旨はこうである。エルサレムの町の救出は、少しでも人間に帰せられるべきではない、ということである。神はその地で尊貴のうちにご自身を知らしめ、天からその大能をあらわに開示されたからである。…
神が教会に対して果たされたもろもろの恵みの賜物を、われわれ自身の忘恩によって覆い隠してしまうようなことのないために、常に細心の注意を払うべきことは明らかである。…もしもエルサレムの地上的な聖所でさえも、助けまたは支えとになったとすれば、神がわれわれをその宮として選び、聖霊によってそこに住むをよしとされる以上は、われわれを等しく配慮のうちに置かれることは、少しも疑うべきではない。

詩編を読む・2017.5.17   詩編75篇 1~11節

詩篇75篇
1.詩編75篇を読む
 詩編74:22-23の緊急の祈り(22節「立ちあがり…争ってください」、「主よ御心に留めてください、…」、23節「決して忘れないでください」)に続くようにこの詩編は置かれている。神はここでは裁判官であり、緊急の祈りに答えておられる。
 (2節)神のなされた驚くべき御業を思い、神に感謝をささげる。
神がなされた御業を繰り返し語り告げることは、今でも礼拝に欠くことのできない要素である。(その最たる例として 参照:コリント一11:23-26)
 2節 驚くべき御業
2節「…御名はわたしたちの近くにいまし 人々は驚くべき御業を物語ります。」(字義どおりには「あなたの御名は近くにあります。あなたの奇しいわざが(御名を)告げています」)。
 考察 「御名」について
  ・ご自身がどのようなお方であるかを示す啓示(出エジプト記34:5~、14節)
  ・わたしに呼び求めよ、との招き(使徒2:21「主の名を呼び求める者は皆、救われる。)
 神のすべての御業によって、「御名」は近づけられているのである。
 3-6節 神による裁きの宣言
3節 裁判官が決めたときに裁判は開かれる。判決にあたっては 妥協はない。「時を選び」の時とは、「定められた時」である。それは、必ず来る終わりの時である(参照:ダニエル8:19、ハバクク2:3)。
参考:フランシスコ会訳「まさに時が熟したとき*、わたしは正しく裁く。」 *罪悪が満ちたときの意
 この「定められた時」はわたしたちに知らされていないが、それは近づきつつある終末の時である。その終末に臨んでも、主により頼み、主を「信ずる者は慌てることはない」(イザヤ28:16)。神は「自ら地の柱を固めて」おられることを知っているからである。神は、社会を支え、すべてのものを保ち(使徒17:25)、さまざまな出来事を御手で導き、ある人たちの生活を通してでもご自身の真理を示しておられるのである。
 しかし、(5節)自分が柱だと考えている者が、実は角をそびやかして神に逆らう者である。「誇るな」「角をそびやかすな」との5,6節の「警告」を軽んじてはならない。
 7-9節 心に留めるべきこと
 7節では、裁きの権威者は神以外にはいないことが告げられる。その裁判官は「公平な裁き」をなさる方、「ある者を低く、ある者は高く」される。その裁きの時は、すでに熟しているのである(9節)。このことを神から教えられるわたしたちは、ペトロが言うように(ペトロ一4:7)「万物の終わりが迫っている」ことを心に留めて「思慮深く、身を慎んで、よく祈る」ことに努めたい。
 9,10節‐「公平な裁き」(3節)が行われるがゆえに、忍耐と苦痛ですべてが終わることはない。栄光があっても誇り高ぶらないという時代がやって来るのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「神が必ず裁きを行い ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう。」    参考: ルカによる福音書1:52「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、」
(神の大逆転ともいえる御業を喜ぶということは、この詩編の特徴である。この特徴は、「マリアの賛歌」や「ハンナの祈り」(サムエル記上2章)にも通じる。)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この世が統べ治められているのは、端的に神のみこころと配慮とによること、また、教会を支えるのは、ただ神の恵みと力のみであることを、教会が考察するに至るとき、これを喜びとして、感謝をささげるのは当然のことである。このような信頼の念のおかげで、教会は神を軽蔑する者に対して立ち上がる。彼らの狂気じみた大胆さは、彼らを逸脱した放縦へと転落させるからである。
 6節(新共同訳7節)「高挙は東からでも、西からでも、荒地から来るのでもありません。」ここには高慢を矯正する最善の途が示されている。そこで預言者は、崇高さが地からではなく、ただ神のみから発出すると諭告する。人間がある時は右を、ある時は左をと眺めやり、そしてあらゆる富と手段と助けとを蓄積し、罰せられないままに、その快楽と貪欲とを成し遂げるとき、人間の目を眩ますことがはなはだ多いからである。
それゆえに、彼らがこの世にとどまっている限りは、彼らははなはだしい誤りを犯している、と預言者は言う。高めることも、低くすることも、ただ神のみ手のみのうちにあるからである。それが一般的経験にとって不快なのは事実である。この世の大部分は、たばかりと策略によるか、あるいは民衆の好意のおかげによるか、それとも何か他の人間的手段によって、栄誉を勝ち取るのが常だからである。
また、7節(新共同訳8節)「なぜならば、神が裁き主であられるからである」という原因の提示は、冷ややかに思われるかも知れない。しかしわたしはこう答えよう。「たとえ多くの人が、あるいは悪しき謀略によって、あるいは世の助けによって、出世をしようとも、それは偶然によるのではなくて、神の隠された知恵によって高く上げられたためである。それはしばらく後に、まるでわらくずか汚物のように、遠く投げ捨てるためである」と。…この教説の有用性はここにある。すなわち、「信仰者(キリスト者)は、全面的に神に服従し、一抹の空しい信頼の念をもって立ち上がることはない」と。

詩編を読む・2017.5.10   詩編74篇 1~23節

詩篇74篇
1.詩編74篇を読む
 この詩には、イスラエルの国家が被った災厄の痕がある。災厄とは、前587年にバビロン人がエルサレムとその神殿とを破壊した出来事である(エルサエム陥落は、第一回捕囚の 前587年)。
 破壊だけではなく、預言も止んでしまったことは最も衝撃的なことであった。なお、この詩に満ちている苦悩については、哀歌2:5-9と合わせて読んでおきたい。
 バビロン捕囚から帰還した民は、荒廃したエルサレムと神殿を前にして、神への嘆願を始めた。1節「なぜ、あなたは…永遠に突き放してしまわれたのですか。」2節「どうか御心に留めてください。」復興の嘆願である。3節「永遠の廃墟となったところに足を向けてください」。(4-8節) 敵は会堂までもすべて焼き払ったのである。
 9-11節 預言者はいない。回復の兆しは見えてこない。その中で民は廃墟となった神殿で、いつ敵から襲われるかもしれない中で礼拝をささげ祈る。(参考:ハガイ書には神殿再建を志した民が、生活の苦しさや敵の妨害で一旦挫折する様子が記されている)
 12-17節 しかし、詩人は信仰を失ってはいない。天地万物を創られ治めておられる神への信仰である。揺るぎない神に目を上げるとき、信仰は確かとされる。― このところから「わたし」に人称が変わっていることに留意したい。
 18-23節 試練は続いている。その中で、全能の神への信仰は、暗闇の中にあっても光を見て待ち望む(参考:マタイ4:16)。今は神殿が荒れるままにしておられるが、神は絶望を祝福に変える力を持つお方である。その神に、詩人は必死に祈り訴える。
18、22節「主よ御心に留めてください、…」、19、23節「永遠に(23節決して)忘れないでください」、20節「契約を顧みてください」、22節「立ちあがり…争ってください」、との緊急の祈りをもって詩編は閉じられる。
 しかし、意義深いことであるが、18-23節の祈りには1-11で発せられていた「なぜ」「いつまで」という質問はやんでいる。契約の神であるから、神は必ず契約を果たされるからである。神の「契約」に訴えていることが、他のすべての行動の確固とした足場となっている。
 現実の政への期待は崩れ、神に見捨てられた状態が終わる見通しもない中であるが、詩人は、かつて救いの御業を果たされた(12-15節)神への信仰を失っていない、神への信仰がある限り、誰も失望に終わることはないのである。
 ローマ9:33「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

2.関連する新約聖書の聖句
17節「あなたは、地の境をことごとく定められました。夏と冬を造られたのもあなたです。」 参考: 使徒言行録17:26「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を定め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」
 18節「主よ、御心に留めてください、敵が嘲るのを 神を知らぬ民があなたを嘲る。」 参考: 黙示録16:19「あの大きな都が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い出して、ご自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった。」  同18:5「彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 表題 アサフのマスキールの歌 
 マスキールという語は、時としては喜びの歌にも用いられるが、しかも神のさばきについて論じられるときに、はるかに多く現れる。人間はそのさばきによって自分自身のうちに沈潜し、その罪を探索し、神の前でへりくだらざるを得なくされる。(参考:マスキールの原語の意味・聖書事典より・ 注意深い、賢い。詩編では、おそらく教訓的な詩編を示すものと考えられている。)
 1節「ああ神よ、なにゆえわれわれを永久に捨てられるのですか。なにゆえあなたの鼻孔は、牧場の群れに対して煙を発するのですか。」(参考:新共同訳「怒り」の語の直訳は「あなたの鼻が煙を吐く」 18:9の直訳「かれの鼻から煙が上がり」)
 もしもこの嘆きがバビロニア俘囚の時期に書かれたとすれば、たとえエレミヤが解放までに70年の年月を割り当てていたとしても、民らがかくも長い間、呻きつつ待ち望まなければならなかった以上は、彼らがひどく心を悩ましたとしても、少しも不思議はない。かくも長い期間というものは、彼らにはまるで永遠に続くように思われたからである。…
 信仰者らが異邦の民らによってかくも苦しめられつつも、これらの惨害のすべてが、ただ神のみ手によって起こったかのごとくに、その目を神に向かって挙げたことに注目しなければならない。と言うのは、異邦の民らがかくもほしいままに危害を及ぼすのは、神が民らに対して怒っておられるからに他ならないことを、彼らは熟知していたからである。それゆえに、彼らは血肉に対して戦っていたのではない。彼らは神の正しいさばきによって、苦難に遭っていることを確信していたので、自分たちの災禍すべての真の原因と源泉とに目を留めていた。…
 信仰者が恵みと憐れみとを獲得するためには、彼らが神の子として受け入れられた根拠である神の思いと契約とを、避け所とするのである。彼らが自分たちを神の牧場の群れ(1節)と呼ぶとき、神の自由な選びをほめたたえていることになる。

詩編を読む・2017.5.3    詩編73篇 1~28節

詩篇73篇
1.詩編73篇を読む
 この詩では、周囲の状況から来るつまずきや心の動揺を隠すことなく表現する作者の真実にうたれる。作者は、13節「わたしは心を清く保ち 手を洗って潔白を示したが、むなしかった」と言っているように、正直に自分の心を見つめ探索する。この作者の心には偽りがない。まさしく「イスラエル」である(2.「関連する新約聖書の聖句」1節)。
 この作者の信仰の危機は、どこから生じたのか。神に逆らう者らが、安泰で平和に暮らし(3節)、「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」(11節)といって、平気で神を蔑ろにして生きているのに、神の前に清く歩もうとする自分はといえば「日ごと、…病に打たれ 朝ごとに懲らしめを受ける」のである。このあまりにも大きな矛盾した現実に心の動揺を覚えるのである。作者の苦しみは、「彼らのように語ろう」(15節)と望む誘惑に駆られたほどである。
 しかし、この詩の最後を見ると、作者はこの探索を通して、信仰を告白し、最高の発見をしてそれを伝える。
 27‐28節「見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。わたしは神に近くあることを幸いとし 主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。」わたしたちは、この作者の告白に、最初の声「心の清い人に対して、恵み深い」1節の真実が証されているのを悟る。
 ところで、動揺と信仰の危機から信仰告白への転換は、どのようにして生じたのだろうか。それを指し示しているのが17節である。「ついに、わたしは神の聖所を訪れ 彼らの行く末を見分けた。」聖所を訪れる、とは、神に心を向けることである。それも、思索の対象としてではなく、礼拝の対象として神に心を向けるのである。そのとき、光が射し込んできた。
 永遠にして主権を保っておられる神に対しては、これらつかの間の人たちの行く末は、彼らが生きがいとしていたすべてのものが壊されてしまう将来のことである(17-20節)。作者は、自分自身を「はらわたの裂ける」ほど、恥じて、「わたしは愚かで知識がなく あなたに対して獣のようにふるまっていた。」(22節)と告白する。作者は、自分の不幸を見つめ、神の懲らしめに痛みだけを覚えてきたが、24節「神の御計らい」によって、栄光への道を歩んでいることに心打たれたのである。
 
2.関連する新約聖書の聖句
 1節「神はイスラルに対して 心の清い人に対して、恵み深い。」 参考: ヨハネ1:47「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
 14節「日ごと、わたしは病に打たれ 朝ごとに懲らしめを受ける。」  参考:黙示録3:19「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」
 25節「地上であなたを愛していなければ 天で誰がわたしを助けてくれようか。」  参考:フィリピ3:8「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
 27節「見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。」  参考:ヤコブ4:4「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」
 28節「わたしは、神に近くあることを幸いとし 主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。」  参考:ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。…」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(難解とされている10節*をカルヴァンはどのように理解しているのだろうか)
 10節「それゆえその民はその所に帰り来たり、大杯に満ちた水は彼らから絞りとられます。」
 わたしの考えでは、この節は前の文章に依拠しており、その意味はこうである。「神の民と考えられていた多くの者たちは、このような誘惑によって転向し、全く堕落してしまった」と。ダビデがここで選ばれた民について語っているとは、考えられないからである。彼は単に、教会の中に所を占めている偽善者や、仮面をかぶったイスラエル人に攻撃を加えているにすぎない。このような人々は速やかに滅亡に陥る、と言っているのである。彼らは愚かにも悪しき者らを羨望し、彼らに見倣わんとして、神と信仰心とをいっさい投げ捨てるからである。
 もちろんこのことを選ばれた民と結びつけるとしても、少しも不条理ではない。彼らの多くはこのような誘惑によって強く心を動かされ、ついには道を踏み外すに至ったからである。
 そうすれば、文意は次のようになる。「一般に世俗の人間ばかりでなく、神に仕えるという目標を持つ信仰者でさえも、羨望と邪曲な競争心によって誘惑される」と。
 *(10節) 口語訳「それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちに過ちを認めない。」
     新改訳「それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。」
     フランシスコ会訳「それ故、神の民は彼らに走り、その滑らかな言葉を鵜呑みにする。」

詩編を読む・2017.4.26   詩編72篇 1~20節

詩篇72篇
1.詩編72篇を読む
 第二巻の最後の詩である。王の詩篇として、在位中の王のために祈り、王の高い召しを思いおこさせるばかりか、王の統治には限りがない*、と語ることによって、この召しを人間が到達しえないところにまで高めていく。そのようにして、詩人は完全なる王を指し示す。それを成し遂げるのはキリスト以外にはない。(その意味でメシア詩編。旧約聖書のアラム語訳「タルグム」では、1節では「王」のあとに、「メシア」の語を付け加えている。)
* 8節「王が海から海まで 大河から地の果てまで、支配しますように。」
 1-7節「王の義」
 この詩編の初めの主要なテーマは「義」である。
  1節「恵みの御業」=「義」your righteousness、
  2節「正しく」=「義をもって」with righteousness、 
  3節「恵みをもたらし…」=「義によって」 in righteousness
 聖書では、「義」こそ政治における第一の徳であり、12-14節のテーマとなるが「同情」につながるものである。
 参考:出エジプト23:3「また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。」
     同   23:6「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。」
     すなわち、貧しいものをひいきにするのであっても、豊かなものをひいきにするのであっても、裁判における不公平は禁じている。義は貫かれねばならない。
 義に伴い、義の次に来るのが「平和」シャローム3節である。義こそ平和が花開く土壌である。
  7節 「神に従うもの」=口語訳「義」the righteous    参照:イザヤ32:17
     すなわち、平和に先立つのは「義」。
 5-7節、8-11節「終わりなき統治」と「果てしない領土」
 5節「王が…代々に永らえられますように」、7節「生涯、…月の失われるときまでも」の表現に見るように、永続的な統治が義なる王によってなされ、それは太陽や恵みの雨のように豊かさを造りだす。8-11節王によるその繁栄は地の果てにまで及ぶ。
 シェバとセバ ― どちらもノアの孫クシュにまでさかのぼる(創世記10:7)。
 12-19節「王による統治」
 この王による統治が憐れみに富むものであることに、わたしたちはキリストを見る。
14節「王の目に彼らの血が貴いものとされますように」では、イザヤ書43:4を参照。
また、16,17節からは、国々に及ぶ終わりなき祝福がわたしたちにも約束されていることを示される。これに関連して、ヘブライ12:28をあわせて読み、そこに記されているように感謝の念をもって主に仕えたいものである。

2.関連する新約聖書の聖句
 5節「王が太陽と共に永らえ 月のある限り、代々に永らえますように。」 参考:ルカ1:33「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 17節「…国々の民は皆、彼によって祝福を受け 彼を幸いな人と呼びますように。」
参考: ルカ1:48「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな人と言うでしょう。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(新約聖書には72篇をキリストを指し示すメシア詩編として引用しているところはないが、内容的にはメシア預言(参考:イザヤ書11:1-5,60-62章)に近いので、72篇のメシア預言としての見解をカルヴァンによる5節の注解から学ぶ。)
5節「彼らは太陽と共にあなたを恐れ*、来るべき代々にわたって、目の前であなたを恐れるでしょう」   参考: 「恐れ」は、ヘブル語本文をもとにした読み方。「永らえ」は70人訳をもとにした読み方。
この表現は、王についての表現と理解できるが、これを神御自身についてと解釈して味わいたい。
 王が、臣下の尊敬を勝ち取る理由となるのは、王に属するものを万民に平等に与え、貧しく惨めな人々には人間味に満ち、柔和なものとして示し、また、悪しき者らの大胆さを抑制するに当たり、自らを峻厳なものとして示すことにあるのである。しかし、王に属するこれらのことは、神礼拝においてはさらにまさる価値を持つものなのである。
 それゆえにダビデが、聖なる統治の実をわれわれに推奨するのは、理由なくしてではない。なぜならば、それは神への崇敬と恐れとを自ずともたらすからである。
 それゆえに見よ、聖パウロは王たちのために祈るようにと勧めながら、祈りの目標は、「わたしたちが彼らのもとで安らかに、正直さと神への恐れをもって生きる」ことにある、と言う(テモテ一2:2)。
 それゆえに、政治的秩序が乱れ、宗教は離散し、神への礼拝が消滅する恐れがあったので、ダビデはその名と栄光とに目を留め、王を守り保たれるようにと、願い求める。同じような論議からダビデは、王たちに彼らの義務を守るように戒告し、民には祈りを勧める。なぜならば、われわれの祈願のすべてによって、神礼拝と神の栄誉とを獲ち取ろう、と努める以上に望ましいことは、あり得ないからである。
 真実の敬虔と神への恐れとは、他のどこでもなく、キリストの支配の中にあるので、われわれがキリストに至るとき、このことが本当となるのである。
 ダビデは神への礼拝を、この世の果てにまで広げつつ、神が約束された永遠の統治へと、霊によって上昇する、と簡潔に言い表わす。

詩編を読む・2017.4.19   詩編71篇 1~24節

詩篇71篇
1.詩編71篇を読む
 詩人はこの詩で、高齢者を見放さない神として神を描く。このことには注目したい。年老いた者にとっての苦悩は、誰からも見放されることだからである。こうしたわたしたちの生活の感情が、今から数千年も前にすでに記されているのである。
1―3節は、31:1-3とほとんど同じであり、大岩であり砦である神への信頼が祈りとなっている。
 神の恩恵は人生のどの段階においても満ち足りている。このことを詩人は幼少のころにまでさかのぼり、神の恩恵なしにあり得た日はないと歌いあげる(5-6節及び詩編22:9-10)。詩人は、幼少の人生の早い段階で、未来に向けて祈りをもって神に信頼を置くことを学んだ。そして、信頼する神は確かに彼を恥に落とされることがなかったのである。
 参照:テモテ二3:15「また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」
 神に信頼を置くその信仰は、人生の様々な局面で立ち向かってくるものへの防壁となり(4ー5節)、老齢に及んでは信仰者の唇は喜びの声をあげ、彼が災いに遭うことを望む者ははずかしめを受けるのである(23-24節)。
〔味わいのある言葉〕
〇7節「しかしあなたは」(口語訳参照)
 岩波訳「証拠(神に捨てられたものであることを示すしるし)のように私はなりました、多くの者に。しかしあなたは、わが堅固な逃れ場です。」
詩人が味わっている苦難を見て、そこから最悪の、そして自分たちにとって最も満足のいく結論を引き出す人を前にしても、詩人はひるまず神を希望とし、神により頼む。神が自分の身にかつて始められた御業を最後まで見通すためにも神にしっかりと目を向けているのである。
 「しかしあなたは」と言って、彼は注視する方向を、自分や自分を取り囲んでいる災い(敵)から神へと向け直す。
〇14節「繰り返し」
 訳出に知る味わい: 
  口語訳「しかしわたしは絶えず望みをいだいて、いよいよあなたをほめたたえるでしょう。」
  新改訳「しかし、わたし自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。」
  岩波訳「しかし私は常に待ち、あなたの賛美のすべてに賛美を重ねます。」
 賛美は、多くの事実によって膨らみを増していく。神がしてくださったことに、わたしたちが目を向けるとき、祝福は数えきれず、「神の豊かさのすべてに与っている」(エフェソ3:19)ことを知る。(参考:詩編103:2「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」 エフェソ5:19「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」)。“数えよう、恵みを、一つ一つ名を挙げて”

2.関連する新約聖書の聖句
 5a節「主よ、あなたはわたしの希望。」  参考: テモテ一1:1「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され…」
 7節「多くの人はわたしに驚きます。…」  参考: コリント一4:9「考えてみると、神はわたしたち使徒を、丸で死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。」
 19節「…あなたはすぐれた御業を行われました。…」 参考: ルカ1:49(マリアの賛歌より)「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」
 
3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(この詩篇は、高齢のための詩編、とも言われているので、9節に着目してカルヴァンの注解に学ぶこととする。なお、カルヴァンはこの詩編の作者はダビデであるとしている。)
9節「わたしが年老いた時、わたしを退けず、わたしの力が衰えるとしても、わたしを見捨てないでください。」
ダビデは神が、彼の幼少の時代から、彼を保護し、ついでその若い頃にこれを養い育て、彼の全生涯を通じて、その救いの保証人であることを明らかにされた、と先ほど(5-8節)述べたばかりであるが、今や老齢に打ちひしがれて、神の父性的なひざの上に身を投げかける。
われわれの力が弱り衰えれば衰えるほど、神を尋ね求めることが必要となり、神がいっそう迅速に、われわれに助けを与えてくださるように、と願い求めることが大切である。
要するにダビデはこう言いたいのである。「人生の盛りに、わたしを活力に満ちた勇士として保ってくださった主よ、わたしが力弱り、ほとんど枯れ果てたこの時において、わたしを見放さないでください。かえって、わたしの衰弱が、あなたに憐れみの念を起こさせますように。わたしはいっそうあなたの助けを必要としているからです。」

詩編を読む・2017.4.12   詩編70篇 1~6節

詩篇70篇
1.詩編70篇を読む
 この詩は、40:14-18とほぼ同じである。カルヴァンは、このところについては「ただ本文をくりかえすことにしよう。その解釈は別のところに求めらるべきである」とだけ記しているに過ぎない。従って主な注解は、詩編40篇を見るとして、ここでは、特徴的なことを取り上げる。
〇 詩編40:14以下に比べ、随分短いということである。このことから、切迫感が強く伝わってくる。2節の強調点は「急いでください!」である。救い出されること、助けが確かに来ることは、神を信頼する信仰のゆえに確信しているが、それを「急いでください!」と祈る。
この「急いでください」(フ―シャー)は、6節にも繰り返される。「速やかにわたしを訪れてください」と訳されているのが、それである。
参考: 岩波訳 2節「神よ、私を救い出しに、ヤハウェよ、私をたすけに、急いで下さい」。  
6節「しかし私は、乏しく貧しい、神よ、わたしのところに急いで下さい。…」
 ここには、内容の緊急性が強調されている。一刻の猶予もない。少なくとも地上のレベルではそう見える。このような状況のもとにあるとき、わたしたちも思いっきり神に懇願の祈りをささげたい。
 参考:緊急のもとにある状況の例  イザヤ60:22「救いの到来」、ダニエル10:2-3「終わりの時についての、ダニエルの祈り」、ヨハネ11:5-6「ラザロの死の時」
〇 詩編40篇と読み合わせてわかることであるが、ここには絶望的な状況のもとにある者に助けの手を差しのべているキリストが指し示されている。
 40篇の前半は、7-8節がヘブライ10:5-7で引用されているように、キリストについての預言であり、そのキリストが「ご覧ください。わたしは来ました」と言われているのである。「わたしは来ました」と言われるキリストを見ているダビデには、助けは必ず来るのである。その助けを必死になって嘆願する。
 祈りにおける確信と嘆願と大胆(聖句より)  
詩編121:1-2「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来
    る 天地を造られた主のもとから。」
詩編5:3「わたしの王、わたしの神よ 助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。」 
ヘブライ4:16「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆
    に恵みの座に近づこうではありませんか。」

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「神よ、速やかにわたしを救い出し 主よ、わたしを助けてください」及び6節「…速やかにわたしを訪れてください。…」    参考:コリント一16:22「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」  黙示録22:20「以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。」
(このように主を待ち望んでいる祈りに、『主イエスの恵みが、すべての者と共にある』(黙示録22:21)と主は答えられる。)
 6節「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。…」  参考:マタイ5:3「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
先にふれたように、カルヴァンは、このところについては「ただ本文をくりかえすことにしよう。その解釈は別のところに求めらるべきである」とだけ記す。
しかし、ここでは5節(新共同訳6節)の御言葉についての注解として、詩編40:17(新共同訳40:18)の注解から取り上げる。
 5節(新共同訳6節)「わたしは貧しく、かつ乏しいのです。神よ、急いでわたしのもとに来てください。あなたはわが助け、わが救いです。主よ、ためらわないでください。」
 40:17(新共同訳40:18)「わたしは貧しく、かつ乏しい。主はわたしのことを思いやられます。あなたはわたしの助け、わたしの救い主です。ああ、わが神よ、ためらわないでください。」
この詩の終結部でダビデは、感謝の意の表明のうちに、一つの祈りを混入する。この祈りでダビデは「わたしが惨めで貧しかったとき、主はわたしの困窮を顧みられた」と言っている、とわたしは読もう。惨めで貧しいそのような事情によって、ダビデは神の恵みをいっそう大いなるものとしているのである。
神はあらゆる助けと望みを失った人間に対して、その御手を差しのべられた。そのためにダビデでさえ極度の境地に追い込まれる必要があるとすれば、一般の人々がしばしば屈辱を味わうとしても怪しむには当たらない。それは、彼らが、自分たちの陥っていた絶望の中から救い出されたのは、神の御手によるということを正しく感得し、認知せんがためである。
さらに、この祈りの素朴で自然な意味はこうである。「主よ、あなたがわたしの助け、また救出者であられますからには、わたしを救われるにためらわないでください」。
…いい加減の気持ちで、疑いつつ神に向かって呼びかけるのは、愚かなことである。

詩編を読む・2017.4.5    詩編69篇 1~37節

詩篇69篇
1.詩編69篇を読む
 この詩は22篇と同じように受難の詩篇である。10節や22節などが福音書で引用されているように、ダビデの苦難のヴェールを通してキリストの受難の場面にわたしたちは導かれ、十字架の贖いの業へと心が向かう。
 詩編は、いきなり、今まさに溺死せんとする人の叫びで始まる。足がかりを求めようとしても、深みに深みに沈んでいくだけである。受難とはこのことである。このようにして、救い主は人々の嘲りを受け、父なる神からは引き離され、犠牲となられた(5節、20-22節)。参考:ヨハネ⒖:25「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法*に書いてある言葉が実現するためである。」*詩編35:19,69:5
 イエスは、見捨てられたと思ったとき、神を父として呼んではいなかった(マルコ⒖:34)が、受難の一切は、ただ御父に栄光を帰する熱心と人々を救う愛のためであった(10節、14-18節)。参考:ローマ⒖:3「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』*と書いてあるとおりです。」*詩編69:10
 ダビデは、過酷な苦難がどれほど人に影響するかを強く訴える(12,13、21,30節)。その苦痛の中で、ダビデは怒りの感情に激しく打たれる(25-29節)。このことをキリストに当てはめて考えるとき、わたしたちは、「小羊の怒り」(黙示録6:16、参照.ヨハネ2:17)の神秘をわずかでも実感的に知るのである。
 30,31節 苦難から救われるとき、そこには高らかな賛美が響き、御名が崇められる。

2.関連する新約聖書の聖句
5節「理由もなくわたしを憎む者は この頭の髪よりも数多く …」  引用:ヨハネ⒖:25「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」
10節「あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしているので あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。」  引用:ヨハネ2:17「弟子たちは、『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」 
 ローマ⒖:3「キリストも御自分の満足をお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです。」
14節「あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに 神よ、豊かな慈しみのゆえに わたしに答えて確かな救いをお与えください。」  参考:コリント二 6:2「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神はいっておられるからです。」
22節「人はわたしに苦いものを食べさせようとし 乾くわたしに酢を飲ませようとします。」  参考: マタイ27:34,48「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとはされなかった。」、「そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。」(マルコ⒖:36、ルカ23:36、ヨハネ19:28-30)
23節「どうか、彼らの食卓が彼ら自身の罠となり 仲間には落とし穴となりますように。」  引用: ローマ11:9-10「ダビデもまた言っています。『彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となりますように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。』」
26節「彼らの宿営は荒れ果て 天幕には住む者もなくなりますように。」 参考:マタイ23:38「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」(ルカ13:35)
28節「彼らの悪には悪をもって報い 恵みの御業に 彼らを決してあずからせないでください。」 ローマ1:28「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」
29節「命の書から彼らを抹殺してください。あなたに従う人々に並べて そこに書き記さないでください。」  参考:フィリピ4:3「…二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために共に戦ってくれたのです。」 黙示録13:8「…屠られた小羊の命の書。」、同20:15、同3:5、ヘブライ12:23「天に登録されている長子たちの集会…」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
13節(新共同訳14節)「しかしわたしとしては、主よ、わたしはあなたのよしとされる時に、あなたに祈り ああ神よ、あなたの寛慈の豊かさのゆえに、あなたの救いの真実のゆえに、わたしに応えてください。」
ダビデはここで「たとえ今悩みの時であり、わたしの祈りが無益に見えるとしても、しかも神のよしとされるところは、必ずやその時を得るであろう」ということを冥想したとき、どのような慰めを受けるかを語っているとわたしは考える。
なぜならば、確かな望みが暗闇のただ中でわれわれを明るくし、神のよしとされることへの期待が、われわれを支えるのでないかぎりは、勝利を獲得する道をわれわれは持たないからである。ダビデはこのように、自らの堅忍を強めたのち、直ちに付け加えて、「あなたの慈愛の豊かさのゆえに、わたしに応えてください」と祈る。ダビデは、苦しみに遭うとき、気力を失うことがないように、すべての思いを神に向けつつ、暗闇が消え去ったのちには、神のよしとされる時がついには到来する、と確信しているのである。

詩編を読む・2017.3.29   詩編68篇 1~36節

詩篇68篇
1.詩編68篇を読む
68篇は長い詩であるが、神の勝利の行進、力と威厳をもってなされる統治がほとばしるように高らかにうたわれる。ところが、20、21節では「主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神 主、死から解き放つ神」とうたって、力と威厳の神が低くなられた神であることに信仰者の心を結びつける。
教会はその歴史の早くから、この詩編を五旬節(ペンテコステ)のための詩編として用いてきた。8-19節に見る、エジプトで始まりエルサレムで最高潮に達する神の勝利の行進は、イスラエルの救いと預言の観点からうたわれているものであるが、19節を引用しているエフェソの手紙では、この箇所は更に大きな上昇の型として取り上げられているからである。即ち、エフェソ4:7-16では、キリストは高いところに昇ること(上昇)により、さらにすぐれた戦利品を、聖霊による賜物において分け与えてくださる、というのである。
長い詩から、このたびは神について三つのことだけを取り上げる。
〇そこにいてくださる神
2節「神は立ち上がり、敵は散らされる」で詩編は始まる。ところで、わたしたちにとって神は目に見えるであろうか。一方、わたしたちを取り巻く敵の存在をわたしたちは現実の状況や出来事の中で知っている。そして、信仰者は、実に目に見えない神が立ち上がり、周りの現実の敵が「必ず吹き払われる」と確信するのである。敵にはいささかの確かさもない。だが目に見えない神は、そこにいてくださる。
参考:ヘブライ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(参考となる事例:列王記下6:15-17より「神に目を注いでいるエリシャと包囲する敵」)
〇解放してくださる神
 6,7節 聖なる神は「孤独な人に身を寄せる家を与え、捕らわれ人を導き出し清いところに住ませてくださる」。神は、歴史の始まりから一貫して「憐れみ深く恵みに富む神」(出エジプト34:6)である。このところに、福音がある。それゆえに、ダビデの詩に合わせて、わたしたちも解放者としての王なる神をどのような状況におかれても賛美したい。王なる神への賛美は、信仰者にふさわしい。
  参考:ルカ4:18,19「主がわたしを遣わされてのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるために。」
〇低くなりたもう神
  20,21節 主は「日々、わたしたちを担い、救われる神」である。これは、まさしくイザヤが預言し(イザヤ書53:4)、十字架であらわされた低くなられた神です。天の高きにおられる威厳に満ちた神が、この低さ(フィリピ2:8)に身を置いてわたしたちを永遠の腕として支え、わたしたちを担い、罪と死に打ち勝たせてくださる。

2.関連する新約聖書の聖句
 19節「主よ、神よ あなたは高い天に上り、人々をとりことし 人々を貢ぎ物として取り、背く者も取られる。彼らはそこに住みつかせられる。」  引用:エフェソ4:8「そこで、『高い天に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた』と言われています。」
参考:黙示録21:3「…『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。』」   ヨハネ14:23「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわた
      しとはその人のところに行き、一緒に住む。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
28節(新共同訳29節)「あなたの神は、あなたの力を命じられました。ああ神よ、あなたがわれわれのうちでなされたことを、強めてください。」
人間は何よりも、本来神のものとして認め、保たれるべきものを自らに帰する傾向を持つので、ダビデは、その民が敵に対し勝利を得たのは、自分の武力や権勢によってではなく、その力は高いところから与えられたものである、と二度くりかえして言う。ダビデの言うところによれば、イスラエルが勇敢に戦ったとき、その創始者は神だったのである。
このようにして、ダビデは彼らが、このような善き物を認識するようにと勧め、この世が一様に神の恵みを暗くし、窒息させている原因である傲慢を矯正する。さらに彼らをいっそうのこと謙遜ならしめるため、ダビデは同時に、将来も同じ恵みが続けて与えられる必要がある、と教える。というのは、われわれがみずからの貧しさを忘れ、全き謙卑のうちに神により頼んで、神がわれわれの欠陥を補ってくださるように、祈らないからでないとすれば、われわれの驕慢はどこから生じるのであろうか。
しかして、われわれは、この個所において、神がその恵みによってわれわれに先回りするだけで、われわれの生活全体を、その助けによって支えられるのでないかぎりは、不十分であることを教えられる。…もしも神が、われわれを堅忍へと強くされないなら、われわれは必ず倒れ伏し、毎分ごとにくずおれてしまうことであろう。また、救いのはじめだけでなく、堅忍もまた神からのものである。
(アウグスティヌス: 救いへの願いも、その持続も、完成も、神の恵みである。)

詩編を読む・2017.3.22   詩編67篇 1~8節

詩篇67篇
1.詩編67篇を読む
 この詩編を読むとき、わたしたちは、神の祝福が 詩人が立っているところに始まり、そのところを超えて全地にあふれる出る豊かさにふれる。アブラハムが祝福されると同時に、地を祝福する者となるように、神からの祝福はすべての人に及ぶのである。
  参考: 創世記12:2,3b「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの
     名を高める 祝福の源となるように。…地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入
     る。」
 2節「神がわたしたちを憐れみ、祝福し 御顔の輝きを わたしたちに向けてくださいますように」。ここには、民数記6:24-25の「アロンの祝福」が詩人の心に響いているかのように、民数
記6:24-25のキーワードが反映している。
 その祝福から溢れ出るものは何か。その一つは、3節「あなたの道をこの地が知り 御救いをす
べての人が知るために」である。神が御自身を知らしめることであり、それゆえに命を与える知識
が広まることである。それは、真理と救いを授けるという聖書に満ちている二重の希望である(テモテ 二 3:15,16)
  参考: 使徒言行録17:27「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求め
     さえすれば、神を見い出すことができるようになるということなのです。」
 御顔の輝きに照らされ祝福の中を歩むとき(コリント二4:4のパウロの言葉を用いれば、キリストの福音の光を見るものには)、4節と6節に繰り返されている祈りに見られるように、すべての民が 神に感謝をささげるようにという 大きなヴィジョンと大胆な祈りが伴ってくる。
 喜びもまた祝福から溢れ出て来るものである。その喜びは、神による完全な公平さからくる。5節「諸国の神が喜び祝い、喜び歌いますように あなたがすべての民を公
平に裁き この地において諸国の民を導かれることを。」
 7,8節では、最初の行だけが「大地は作物を実らせました」と、過去のことが語られている。そのあとは、期待であり祈りである。それも繰り返し「祝福してくださるように」と祈っている。
 わたしたちは大胆にそう祈ることができる。なぜなら、神は「わたしたちの神」だからである。しかし、わたしたちの神であるということは、神をわたしたちが独占している、という意味ではない。神の民すべてが神の前に頭を垂れるときも、神は、わたしたち自身の神なのである。
 7節「神は大地を実らせた」と詩人はうたっている。畑の収穫物が豊かであるのと同じように、神は、恵みにおいても物惜しみしない方である。(参考:イザヤ55:10,11)
 わずかなものから多くを生み出し、それを愛のうちに分配してくださる神が、わたしたちにそのような祝福を与え、今度はわたしたち自身を世界の祝福としてくださいますように。(このように祈りに導かれるようにと、この詩編はわたしたちを励まして
いる。)

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「あなたの道をこの地が知り 御救いをすべての民が知るために。」 参考:ルカ2:30,31「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、」  テトス2:11「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 3節(新共同訳4節)「ああ神よ、もろもろの民があなたをほめたたえ、すべての民があなたをほめたたえますように。」 5節(新共同訳6節)「ああ神よ、もろもろの民があなたをほめたたえ、すべての民があなたをほめたたえますように。」
 預言者は前に、すべての民が救い主なる神の認識に与る者となるであろう、と言ったので、今や彼らが、かくも大きな恵みに似つかわしい賛美によって、神をほめたたえるであろう、と言う。そして同じように、彼らに対して、けっして恩を忘れてはならないと勧める。
 彼が用いている反復は、ここで言及されている事柄が、未曽有で、ありきたりのものでないことを、いっそう明白に表現せんがためである。もしも問題になっている事柄が、神は常のごとくまたありきたりの仕方で、アブラハムの子孫らに対して、その恵みを絶やされない、ということであるならば、預言者はこれほどの激しさを用いる必要はなかったであろう。
彼はまず、「もろもろの民があなたをほめたたえ、すべての民があなたをほめたたえるように」と言い、ついで少し後に、これと同じ賛嘆の辞をもう一度くりかえす。しかして預言者は、二つの喜びと、それに加えて、それが生ずる原因を挙げる。
なぜならば、まずもって、心が平安で喜びに満ちていないかぎり、真実にまた自覚的に、神をほめたたえることは不可能だからである。神との和解を遂げているとき、われわれは確かな救いの望みを誇りとし、人知のすべてを越えた神の平安が、われわれの心を満たし、これを支配するものである。〔フィリピ4:7〕
 フィリピ4:7 (感謝を込めて祈りと願いをささげ。求めているものを神に打ち明けなさい)「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

詩編を読む・2017.3.15   詩編66篇 1~20節   

詩篇66篇
1.詩編66篇を読む
 この詩編は、感謝の詩篇である。1節「全地よ、神に向かって喜びの叫びを挙げよ」と、全地を賛美へと呼び出すところから始まり、5節「来て、神の御業を仰げ」、13節「わたしは献げ物を携えて…」と、一個人の感謝へと焦点が絞られる。この一個人は、16節「神を畏れる人は皆、聞くがよい」といって、信仰深い者たちに自分の証しを 聞くように呼びかける。そこで彼は、献げ物をもって祭壇の前に立ち、神の配慮が世界や国全体に及ぶだけではなく、「わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう」と、個人にも及ぶと語るのである。
 3節「御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。」救いについての厳しい現実をごまかさないのが、聖書の特徴である。その現実には、いつも裁きの要素が含ま
れる。神がその現実を支配されていることが基本となっている。 
  参照: ヨハネ3:17-19「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。」
 神への望みの根拠は、神のなされた御業にある。葦の海を渡りヨルダンを渡ったことは(6節)、神の民を救い、逆らう者を裁く神の力と意志を決定的に証明するものである。したがって、出エジプトは、旧約、新約の聖書を通して決して死文ではない。過去の出来事でありつつ、それは「とこしえに」(7節)波及するものであり、神のすべての救いの御業の中で再現される。このことは、個人の救いにおいても然りである。
 9-12節.キリストへの信仰者は、「あなたは」が繰り返されていることから分かるように、すべての出来事の中に神の手を見る。そうするとき、苦難は解放と同じくらい意味あるものとなる。苦難は「試みる」(新改訳・調べる)ことであり、「火で練る」(精錬)ことである。それによって、信仰者は日々新たにされていく。
  参照: コリント二4:16-18
   12節「火の中、水の中を通った」では、イザヤ43:2を参照したい。キリストの信仰 者は、厳しい試練からの解放だけでなく、試練のまさにその中に神がおられることを
確信するものである。
 17、18節は、祈りの実践について二つのことに光を当てているといえる。一つは、祈りと賛美について。たとえ助けを求める緊急の叫びであっても(14節)、そこには賛美がある。次いで、祈りと誠実さについて。18節はその典型的な表現であり、ヨシュア7:12-13はその典型的な説明である。

2.関連する新約聖書の聖句
10節「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。」
参考: ペトロ一1:7「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」
18節「わたしが心に悪事を見ているなら 主は聞いてくださらないでしょう。」  参考: ヨハネ9:31「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。」  ヤコブ4:3「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 10節「ああ神よ、あなたはわれわれを試みられたからです。あなたはわれわれを、銀のように吟味されました。」  われわれが逆境の中にあるときは、いつでも、われわれを苦しみに会わせられるのが、神の御手であること、またそれは、われわれの救いに備えをするために他ならないことを、認識するにまさって、有益なことは一つも存しない。そこでは、預言者が触れている試みと吟味とが結びついている。
 たとえ、主がその民を、もろもろの悪徳から浄化せんがため、銀のように練り清められるとしても、預言者は同時に、民らがその忍耐とあかしと標識を、身につけているということを知ってもらいたいのである。銀からとられた比喩によって、ダビデは彼らが厳しい試みを受けたことを言い表わそうとしている。銀は一再ならず火中に投ぜられるものだからである。
 たとえ、信仰者が、苦難によって験されながらも、全く滅ぼしつくされなかったことを感謝するとしても、試みの大きさと多様さとは、この語ばかりでなく、文脈全体から明らかに表現されている。そこでは(11節)彼らが網の中に陥り、極度にまで追いつめられるに至り、人がその頭上を越えて行った。一言にして、彼らは水と火との中を通り過ぎた、と言われている。信仰者らが、絞めつける縄、あるいは鎖が、彼らの腰に縛りつけられたと言うとき、彼らは少し前に網について述べたことを拡張しているのである。「火と水との中を通って(12節)」という句が、さまざまな惨禍や艱難を現わすことに疑いがない。
ここで注目すべきことは、預言者は民らがその敵の暴虐のすべてを、神から下された懲罰として語っていることである。しかし、神はたとえしばらくの間、その民を手厳しく罰せられるとしても、「潤沢な地へ(12節)」われわれを導かれる。これはカナンの地の享受に限ることではない。単に荒れ野が言及されているだけではなく、民を謙虚ならしめたもろもろの苦難を、あらゆる時代にわたって、包括しているのである。