詩編を読む 42~150篇

詩編を読む・2018.10.31   詩編150篇

詩編150篇
1.詩編150篇を読む
 詩編の一巻から四巻は、どれも「主をたたえよ」、「世よとこしえに」、「アーメン」といった頌栄で閉じられていたが、第五巻だけは、賛美だけで出来ている一つの詩篇によって、実に詩編全体を終わらせている。「ハレルヤ詩篇」(詩編146-150篇)の最後であるとともに、詩篇全体の結論と言える。
 ここには、「息あるものすべて」(全被造物ではなく、神の息を吹きかけられた人間を意味する)に対する壮大な賛美への呼びかけがある。そこには嘆きもなく、信仰告白もない。ただ、「ハレル・ヤハ」1ということばだけが鳴り響いている。わたしたちも緩むことなく高らかに、「ハレルヤ」と応答することができる。
  1 「ハレルヤ」は、ヤハウェの短縮形である「ヤハ」(主)と「ハレル」(ほめたたえ
る)の合成語。ヤハウェは、ユッド・ヘー・ヴァヴ・ヘー(YHWH)の四つの子音文字で神聖文字と言われ、発音してはならず、かわりにアドナイ(ご主人)と読むようにフリガナ的に母音符号がつけられている。神は語りかけられる神であるが、モーセに啓示された神名(出エジプト3:14,15及び6:6~8の「主」)で「書かれるが、発音できない方」として現わされた。今日まで旧約が読まれるごとに、主(ヤハウェ)なる神は、子音文字で発音できない方としてご自分を啓示されておられる。今もユダヤ人はヤハウェが出て来るとアドナイと読んでいる。(日本語表記では、どうなっているのだろうか。訳を比べてみよう。)
  だが、この4文字がユッド・ヘーの短縮形になり、「ほめたたえる」と結びつき、
何の遠慮もなく、言葉に言いあらわしてヤハウェ・主・を賛美することができるようになった。詩編146⋯150編を読むときに、「ハレルヤ」「ほめたたえよ」「賛美せよ」
が同じ語根であることを念頭に、深く主を冥想したいものである。
150篇には、賛美の場所(1節・「聖所」「大空の砦」)、賛美の理由(2節・神の「御業・創造と救済の御業」と「御力」)、賛美の方法(3-5節)、賛美の主体(6節・「息2ある者」)、賛美の対象(全節・主なる神)、が記されている。しかしここには、時を越えて永遠に賛美されるべき主なる神については何一つ語られていない。それを語るならば、全聖書が必要であることを指し示しているかのようである。
  2 詩編の「息あるもの」の表現での「息」が使われているのは、この個所と詩編18:
16である。18:16では、神の怒りの荒いいぶきの意味で用いられているが、150編
での息を理解する上で創世記2:7節を参照しておきたい。
    創世記2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に息
を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」人間は神に由来する霊の息吹
を受けて、生きる者になった。すべての人間はその活力と存在理由をもたらす神の
息によって命を保っているのである(ヨブ33:4、イザヤ42:5)。もし、神がその
息を取り去られるなら、すべての生けるものは「直ちに息絶え」人も「塵に帰る」
(ヨブ34:14,15)。それゆえ、命の息を吹き入れられて生きものとなった人間は、そ
の息を用いて、あるいは角笛を吹き、あらゆる楽器を用いて、力いっぱい神を賛美
し、神を証しするのである。
(参考:サムエル記下6章「神の箱をエルサレムへ運び上げる」ときのダビデ。彼は、角笛を吹き鳴らし、喜びの叫びあげて、主のみ前で踊った。)

2.関連する新約聖書の箇所
 1節、6節「ハレルヤ」   参考:黙示録19:1、3、4、6「ハレルヤ」 - 新約聖書で「ハレルヤ」が出て来るのは、わずかこの黙示録の4語だけである。この場面は、キリストの再臨前の天における賛美である。まさに神の救いのドラマの完結にふさわしい言葉としての「ハレルヤ」と言える。

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1「神をほめたたえよ…」  この詩編はわれわれすべてに対し、賛美の捧げものによる霊的礼拝を「ほめたたえよ」と命じている。ここで「聖所」という語によって天を表していることは疑えない。預言者は、神の尊厳がこの世においても、それにふさわしい尊厳を受けるようにと、天のみくらに座しておられる神を何よりもはじめに指し示す。
 3「…音をもって、ほめたたえよ。…」  わたしはさまざまの楽器を表わすヘブル語について、多く心を惑わせないことにしよう。読者はここで、律法のもとにあって用いられたもろもろの楽器が言及されていることを覚えるだけで十分である。神の子らはどんなに熱心に神をほめたたえても多すぎることはない、ということをいっそう明白に言い表わすためである。
 6.「息のあるすべてのものよ、…」  このヘブル語は呼吸をするすべてのもの、また魂を持つすべてのものを意味するので、この文章はあらゆる種類の動物にまで拡張して考えることができる。しかし、「肉」という語のもとに人間だけが考えられると同じように、この文章は人間に向けられていると考えても不条理ではないであろう。というのは、預言者はここまでのところは律法の儀式に慣れていた民に向かって神への賛美を歌うように勧めてきたが、最後に全人類に向かって語りかけていると思われるからである。これまでユダヤの地のみで聞かれたこのほめ歌が至る所で響きわたり、われわれの間でも、絶えることのない賛美のささげものによって神が拝せられ、ついには天国に集められ、天使と共に永遠にハレルヤをうたうようになるのである。
  神に栄光あれ

詩編を読む・2018.10.24   詩編149篇

詩編149篇
1.詩編149篇を読む
 直前の詩篇148篇では、先ず高いところからの天使も含む全被造物が礼拝へと呼びだされ主を賛美するのであるが、「主のご自分の民」による賛美は最終節だけに現れた。詩編149篇では、その「主のご自分の民」による賛美に絞られて、勝利の祝典が記される。この詩編で場面の全体を占めているのは「主のご自分の民」の賛美であり、「主のご自分の民」の召命なのである。
 1節、今や主の民は「新しい歌」を主に向かって歌う。「新しい歌」というとき、それは新しい状況にあることを意味する。その状況とは「喜び祝い」「喜び踊る」勝利の祭典が捧げられる時である。
 注目すべきは、この「新しい歌」(主への賛美)が「両刃の剣」として捉えられていることである。一つは1-5節にうたわれている「神への称賛としての賛美」であり、今一つは「敵に対する武器としての賛美」である。こうした「両刃の剣」としての賛美を主の民(「主の慈しみに生きる人」)は理解し、教会に生かすべきであり、それを自らの誉れとすべきではないだろうか。
 しかし、「神への称賛としての賛美」は理解できるが、「敵に対する武器としての賛美」はどのように理解したらよいのか。かつて、イスラエルは民族国家として約束の地に入る時、聖戦という観点から7節の「懲らしめ」を文字通りに実行するように命じられた。そして、終わりの時には、天の軍勢の天使たちが、地を裁かれる主に同行して戦う(テサロニケ21:7以下、黙示録19:11以下)。終末の最後の裁きである。その間、詩編149篇の「両刃の剣」は、戦争の正当化のために誤用された不幸な歴史を持っている。30年戦争(1618‐48)においてローマ・カトリック教会に抵抗したマキオピウス(1576~1649年)は復讐心の正当化のために149篇を用い、農民戦争(1524⋯25)では、農民たちを鼓舞するために、ミュンツァ―によって、誤用された。
 では、キリストの教会に生きる者の聖戦とは何か。
・教会の敵 - 血肉ではなく、悪の諸霊(エフェソ6:12)
・教会の武器 - 霊の剣は、神の言葉(エフェソ6:17)であり、それは詭弁を打ち破り、神に逆らうあらゆる高慢を打ち倒す。
・王たちを鎖につなぎ、君侯に鉄の枷をはめる - あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせる(コリント二10:5、エフェソ6:12、ヘブライ4:12)。
 教会の勝利はカルバリにおける勝利と一致する(黙示録12-11・兄弟たちは、小羊の血と 
自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでも命を惜しまなかった)。
7-9節からは、神の正義と公正が貫徹されるための証人としての「イスラエル」の
召しがあることを知る。今日もこの原則は変わらない。「主の慈しみに生きる人」は、
神の正義と公正が貫徹されるための証人として召されているのである。

2.関連する新約聖書の箇所
 6節 口には神をあがめる歌があり 手には両刃の剣を持つ。」  参考:ヘブライ4:12「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」、  黙示録1:16「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」、同2:12「ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。…』」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 9節「それは彼らが記されたさばきを、彼らの上に果たすためです。このような栄誉は、そのすべてのいつくしみ深い者たちのものです。永遠者をほめたたえよ。」  一見したところ、ほんの少し前には「いつくしみ深い者たち」と呼ばれた人々が、ここでは両刃の剣を帯びて遣わされ、到るところで殺戮を行い、人間の血を流すというのは、不条理と思われるかもしれない。「いつくしみ深さ」とこれとは何の関りがあるだろうか。しかし、神御自身が報復の創始者であるとき、それは正当なさばきであって残虐行為ではない。それゆえにここで記されたさばきについて預言者が述べるとき、預言者はユダヤ人に対して、自分たちの自由を回復するために、神の御手により武装するように、と勧めていることになる。…しかし、もしも各自がそれぞれの激情に駆り立てられるならば、慎みは所を持たないことになる。
 キリストを見てみよう。キリストは叫ぶことなく、大声を発することもなく、折れた葦をさえ損なうことがなかったといわれている(マタイ12:20)。それにもかかわらず、キリストは血にまみれていると叙述されている。キリストは至る所でその敵を殺したのちも、殺りくに飽くことがない、とある(イザヤ63:2,3)。すなわち、全世界が頑迷と反逆とに満ちている以上、よこしまにも退けられたいつくしみ深さが、峻厳さに変えられるとしても、少しも不思議ではあるまい。
 この教えを今日の教会にあてはめてみよう。教会の身体全体としては、もう一つの剣、すなわち御言葉と霊の剣を取ろうではないか(エフェソ6:17)。それをもって我々は、かつて神の敵であった者たちを殺し、悔い改めないかぎり、永遠の滅びへと渡すのである。すなわち「主はその口から出る御言葉をもって悪しき者を滅ぼし、唇から出る霊によってこれを殺すであろう」(イザヤ11:4)。…神が記されたさばきへとわれわれが引き行かれるとき、われわれの心も手も制せられ、命じられている以上には大胆とならないようにされる。

詩編を読む・2018.10.17   詩編148篇

詩編148篇
1.詩編148篇を読む
 この詩を読む者は、すべてのものを創り、摂理をもって司っておられる方、全能の「創造者」の賛美へと招かれる。実にスケールの大きい全宇宙的な賛美への呼びかけである。5節「主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。」
賛美の合唱は、御使いの群れから始まって天を降り、地のさまざまな地形や被造物に至り、それから、人類、そして最後に選びの民を呼び出しての合唱となり、全被造物を一体にする。読むうちに、この詩編の焦点は、最後の14節にあると感動をもって知るのである。「主はご自分の民の角を高く上げてくださる。」(「角」とは、力を表す象徴)
 1⋯6節「高いところからの賛美」
 最初に出て来る御使いは、神に仕えるようにと創造された (黙示録22:8,9)。このことをカルヴァンは「そのように創造された以上、神への賛美にあたって、御使いが最初に取り上げられているのは、少しも不思議なことではない」と語る。ところが人間は旧約時代に限らずキリストの時代になっても、その御使いを礼拝する気になったり、日や輝く星々を運命に関係するもの(あるいは運命の決定者)として扱おうとしたりする誘惑に陥る。この詩編は、そうした愚かさを、二つの点を挙げて払い除ける。
 1.この詩編は、主を賛美するように、天の群衆と地の群衆の両方によびかける。神に対しての賛美を繰り返すのである。
2.天の群衆は、わたしたちと同じように、御言葉によって「創造された」ものであり、主のみ旨によって持ち場を割り当てられているのである。
 7⋯14節「地上からの賛美」
 今や1節の「天において」に対応して、7節「地において」応答の声が響く。先の5節では、天体はそれらが存在するということだけで、神を賛美するように招かれている。(参考:詩編19:2「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。」)。一方人間は、神が御自身を啓示されたのだから、意識的に主を賛美できるのである(11⋯13節)。中でも、主はとりわけご自分の民を「主に近く」賛美の列に加えておられる。
この「御自分の民」の存在なくしてまことの神とその福音が証しされることはない。この民が神を賛美することなくして神が崇められることはない。アブラハムを選ばれた神は、御自分の民を通して、賛美を受けることを望んでおられる。キリストにつながるわたしたちもこの神の期待の中にあるのである。日本において数少ないキリスト者人口の現実に臆することなく、今、自分の置かれている時代と場所で、神を神として崇めることが求められている。アブラハムから始まった神の救いの担い手・御自身の民(わたしたち)の角を主は高く上げてくださることを心にとめたい。
2.関連する新約聖書の箇所
 1節「ハレルヤ。天において 主を賛美せよ。高い天で 主を賛美せよ。」   参考:マタイ11:9「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。…いと高きところにホサナ。』」(「ホサナ」は詩編118:25で「(わたしちに)救いを」と訳されているヘブル語のギリシャ語形で、ユダヤ人の礼拝では、祈りと
いうより賛美の叫びとして多く用いられるようになっていた。)
 11節「地上の王よ、諸国の民よ 君主よ、地上の支配者よ」   参考:黙示録7:9「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民から集まった、だれにも数えられないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、」
 14節「…主に近くある民、イスラエルの子らよ、ハレルヤ。」   参考:エフェソ2:17「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)預言者は…この世界には、神への賛美が響き渡っていないような所はどこにもない、と言う。神は至る所で、その権勢、恩愛、知恵の明々白々たる証しを立てておられるからである。最後に預言者は人間の方に向く。神は彼らをこの世界での神への賛美の正当な宣言者と定められたからである。しかし、不信仰者は、神の御業を考察することができないほど、盲目であるのと同様に唖であって、神の御名をほめたたえることができないので、預言者はこの詩篇の最後で、イスラエルの子らを特別な証人として喚問する。神は彼らに対してとくに親しくご自身を顕されたからである。
 11、12節「地の王たちとすべての民よ、君侯らとすべての地の審き人らよ、…主の御名をたたえよ。」 預言者はすべての人間に言葉を向ける。王たちや君侯らを第一にとり上げるのは、彼らが他の者たちよりも多く神に恩義を負うているのに、神に帰せらるべき賛美を奪取しているからである。人間は当初いずれも平等な身分であるのに、だれにもせよ高い身分に昇り神の恵みを一層受けた者は、その神の恵みをほめたたえるように置かれているのである。王たちや君侯らは、他の者らの導き手、また教師として役立つべきであるのに、それを怠りその上で自分を一般人と異なるものとすることは、赦し難い悪である。預言者はすべての人にただ一語ですすめをなすことができたはずであるのに、再三にわたり君侯らと言葉を繰り返すとき、もし彼らがその強い励ましを受けないなら、彼らはまことに怠惰で、義務を果たそうとしない、と預言者は言いたいのである。そこからさらに性と年齢とによる区分が続く。すべての人間は例外なしに、それぞれの目的のために造られていることを理解するようになるためである。

詩編を読む・2018.10.10   詩編147篇

詩編147篇
1.詩編147篇を読む
 2節の「主はエルサレムを再建し イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる」には、神によるエルサレムの再建と神の民の再建計画がうたわれている。この詩の作者には、バビロン捕囚の中にある神の民たちのことが、念頭にあったのであろう。また、作者は、自然界における神の配慮にもわたしたちの目を向けさせる。星、雲、雨、草、獣、鳥、最良の小麦、ここには、天と地、水、すべての植物、すべての動物、農作物のすべてが含まれ、すべてを支配し、すべてを生かすことのできる神がおられることを伝えるのである。
 1⋯6節 7節「感謝の献げ物をささげて主に歌え」について、初めに考えておきたい。この詩編は、何を賛美するのかの前に、先ず賛美の喜びそのものについてわたしたちに語りかけてくる。賛美は常に「感謝の献げ物」である。献げ物であるかぎり、それは自己本位であってはならず、完全な献げ物でなければならない。神の純粋な栄光と優しさに心を向けさせるのである。
 3節「打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。」をイザヤ61:1と、4,5節「主は星に数を定め それぞれに呼び名をお与えになる。」をイザヤ40:26、28bと読み合わせてみよう。そこにはこの詩編の論点がはっきりと見ることができる。「それぞれに呼び名をお与えになる」お方は「あなたは知らないのか」と呼びかける。「御力」と「英知」の両方において、自分の民の問題を凌駕しておられるということである。
 8⋯11節 このところでの最初の主題は、ヨブ記38章以下や詩編104篇の主題と同じである。神の御業について、わたしたちも目を向けよう。神の御業の及ぶ領域は広大。その広さも、細部にわたる配慮も、何とすばらしいことだろう。神の配慮はかくも幅広いので、わたしたちも驚きをもって主をほめたたえ、礼拝する。
 しかし、10,11節「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人」には、新たな転換がある。これほど偉大な贈与者である神がわたしたちに求めているのは心からの謙虚な応答であって、わたしたちの力や知恵で何かをすることではないということである。そして、神は、わたしたちが神に信頼することを求めておられるのである。
 このことをマタイ6:25⋯34では、積極的に表現している(小見出しは「思い悩むな」)。
12⋯20節 ここでは、神からの賜物を喜び、わたしたちに基本的な必要なもの(安全、霊的な健康、繁栄など)も それらはわたしたちが成し遂げたものではなく神が与えてくださるものだとの告白に導かれる。
この詩人は、見事に「賛美するたましい」をうたい上げる。わたしたちが賛美を軽んじるとき、その信仰は人間の心と言葉と行いに重点が置かれ、また、信仰共同体の在り方に考えが集中して、人間本意の危険性に直面する。詩人は、わたしたちの多様な環境と自然の世界のすみずみにまで及んでいる神の恵みの配慮を覚え、何よりも神への賛美へと呼びかける。イスラエル(主の民)は神にとって特別な存在である。それゆえ、神のイスラエルに対する約束を神が実現させようとされる恵みも格別である。それに対する民の応答は、何よりも主を賛美することである。2-6節、8⋯11節、13⋯20節の三つの部分の前には、それぞれ神への賛美のうながしが見られるとおりである。「わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく 神への賛美はいかに美しく快いことか。/「感謝の献げ物をささげて主に歌え。 竪琴に合わせ わたしたちの神にほめ歌をうたえ。/エルサレムよ。主をほめたたえよ シオンよ。あなたの神を賛美せよ。」

2.関連する新約聖書の箇所
 9節「獣や、烏の類が求めて鳴けば 食べ物をお与えになる。」   参考:マタイ6:26「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編もまた、二つの理由から、信仰者に対し神をほめたたえるようにと招いている。すなわち、神の恩愛、権勢、知恵、その他の徳目は、この世の一般的な統治においても、天と地の各細部においても輝きわたっている、ということである。そして、何よりもまず、特別な恵みのゆえに、神は教会を守り保たれる、ということである。神は教会を自由な恵みによって選び出された。たとえ教会が滅びるようなときでも、神はこれを復元され、散らされるときでも、これを再び集められるのである。
 2節「主はエルサレムを建て、イスラエルの追い散らされた者を集められるでしょう。」   預言者は神が、教会を栄えあるものとしよう欲せられた、その特別な恵みを語る。すなわち、神はある民を子として採択し、他のすべてを退け、その民を呼ぶ特別な場所を選ばれたのである。ここで神がエルサレムの建設者と呼ばれているのは、外的な形、あるいは営造物についてというよりも、神を霊的に礼拝することと関りがある。教会が問題となる時には、この「建物」あるいは「宮」と言う比喩が用いられることが多いからである。
 すなわち、教会は人間的な方途によって建てられたのではなく、神の天来の大能によって建てられたのである。…そこに神殿(教会)が建てられた時、神が人間の労力と奉仕を用いられたのは事実である。それだからといって、神の恵みを曖昧にしてよいわけはない。神が、教会を御自身のものとして受納することをよしとされたからである。

詩編を読む・2018.10.3    詩編146篇

詩編146篇
1.詩編146篇を読む 
 詩編146から150篇までは、ハレルヤで始まりハレルヤで終わる‟讃えの歌”の喜びの詩篇である。キリストにあるわたしたち人生の包括的な縮図でもあり、途切れることのない祝福と喜びの中へと人生は招かれている。
 五編の冒頭のこの詩編では、自分の魂にむかって、その全生涯(「命のある限り」)を通して、全存在をかけて主をほめたたえるということを、確固とした意志で呼びかける。この呼びかけは複数形であらわされ、全員への呼びかけとなっている。それを受けて、各自が自分自身の献げものをささげるのだが、その決意には強い響きがある(1b-2節)。この点を良く表現しているのはフランシスコ会訳である。2節「わたしは、命のあるかぎり主をたたえ、永らえるかぎりわたしの神をほめ歌う。」と、当座の気分ではなく、きっぱり決意を表現する。
 その決意に立つ者は、決して君侯により頼むべきではない。「君侯」は、わたしたち通常の人間には次元がかけ離れているや に見えるが、現代これに等しい者は「有力者」である。その者から支持を得れば、神から支持を得るよりも確かで実際に役立つように見えるかもしれない。しかし、イザヤが語るように(イザヤ32:5)、「高貴な人」(146篇の「君侯」の複数形)が必ずしもその名には値しない。
 いかに君侯といえども、しばしば力がなかったり、意志が欠けたりしている。そのようなはかない者と明確な対照をなす方を、詩人は指し示す。6節「天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神」、創造者なる神である。しかもこの方は、同時に「まこと」真実を守られるお方である。ここに福音がある。
 その福音を7-9節は語っている。この7-9節をイザヤ61:1⋯2と対照して読み、ルカ4:18-21に記されているナザレの会堂でのイエスの姿と言葉を冥想したい。その中から、わたしたちはこの詩編の「主を賛美せよ」は、救い主イエスとこの方を送ってくださった父なる神に向けられているのが分かるのである。8節の「主は見えない人の目を開き」は預言されながらも旧約ではその実現が記録されていないが、イエスによって成就した(ヨハネ9章)。
 「ハレルヤ」(主を賛美せよ)という賛美の響きは、天においては永遠から永遠まで鳴り響いている。その永遠の賛美の渦の中に、わたしたちもイエス・キリストの福音によって招かれているのである。この地上において、わたしたちができることは、この永遠の賛美の中に信仰をもって身を置くことである。そして、その恵みを決してないがしろにすることなく、日々あふれるばかりに主をほめたたえよう。
 「主を賛美すること」と、「主を知ること」とは正比例の関係にある。日夜、終日、全生涯において主を賛美する生活は、同じく、日夜、主を知ることを意味しているのである。わたしたちの人生においても、あるいは、事業することにおいても、だれとパートナーを組むかは成否を決める重要な問題である。このことについて146編は「いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」(5節)とはっきりと結論を出している。そして、現実の実際生活の中でこの結論にかたく立つことが呼びかけられているのである。(参考) この詩編でも主の統治(御国)の特徴が語られているが、特に「弱者」に体する恩寵が目立っている。
 7節 虐げられている人のための裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち   8節 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し   9節 主は寄留の民を守り 皆仕事やもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

2.関連する新約聖書の箇所
 8節「主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し…」   参考:マタイ9:29,30「そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じている通りになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。」   ヨハネ9:7「そして、『シロアム—「遣わされた者」という意味—の池に行って洗いなさい』と言われました。そこで行って洗ったら、見えるようになったのです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 3節「もろもろの君侯らを頼みとしてはならない。人の子らの内には何の助けもないからです。」   この文章が挿入されているのは、確かに意図的である。人間が盲目となるのは、人間の思いがあれこれと多くの夢想に絡みつかれ、かくして抜きさしならなくなって、神をほめたたえるべく進み出ることが、できないからではなかろうか。それゆえに、全き賛美を神に帰し奉ろうとして、ダビデはわれわれが陥りがちな多くの邪曲な望みをすべて叱責し、廃絶する。ここでとくに君侯らを挙げるのは、われわれが彼らには、他の一般庶民に対する以上の顧慮を払うのが常だからである。しかし、預言者はこれらこの世の君侯らのうちでもっとも強大な者でさえも、人の子にすぎないと付言する。…預言者イザヤが31章3節で言うとおりである。「確かにエジプト人も人であって神ではない。彼は肉であって霊ではない」と。それゆえに、君侯らがどのように権力や金銀、兵力その他の手だてによって身を装うとも、われわれは死んで朽ち果てる人間に、望みを寄せてはならないのである。決して見出されもしない所に、救いを求めるのは、愚かさのあらわれ以外の何ものでもない。

詩編を読む・2018.9.26    詩編145篇

詩編145篇
1.詩編145篇を読む
この詩編には一切の嘆願もなく、神の王国*(御国、神の国)の支配と祝福が最大級の表現によって表わされている。聖書のいう御国の正しい理解へと導いてくれる詩編として味わいたい。御国の理解が深まるにつれ、日ごとに祈る「主の祈り」の中の「御国が来ますように」という祈りはより切実なものとなるに違いない。
  *11~13節で、新共同訳では「主権」と訳されている言葉。
 この詩編の特徴は、形式の上では、アルファベット詩で構成されていることである(ただし、アレフからタウまでの22の子音のうちヌンが抜けている)。
一方、表現の上では、神の偉大さ、その支配の領域、それらが時間と空間を越えて及んでいることに特徴を見る。 All(「すべて」「みな」)がなんと13回も使われている。詩人は、神の偉大さと万物に及ぶ神の配慮、その栄光に圧倒され、神を賛美しているのである。
 中でも13節では、語られてきた、恵みと憐れみ(9節)、御国の栄光と力強い御業のゆえに神を賛美し、世々限りなく続く御国を高らかに歌い上げる。その御国の特徴は、それ以下の節で記される。即ち
 14節 主は倒れようとする人を一人ひとり支え うずくまっている人を起こし
 15節あなたに目を注ぎ待ち望むと あなたはときに応じてて食べ物をくださいます。
16節 すべて命あるものに向かって御手を開き 望みを満足させてくださいます。
18節 主を呼ぶ人すべてに近くいまし まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし
19節 主を畏れる人々の望みをかなえ 叫びを聞いて 救ってくださいます。
20節 主を愛する人は主に守られ 主に逆らう人はことごとく滅ぼされる。
何とわたしたちの神は恵み深く愛に富んでおられることでしょう。
その愛と恵みに溢れる御国に、わたしたちはイエス・キリストを通して新しく神の子として生まれ、生かされている。わたしたちはこの地上で生きているが、目に見えない御国の民の一人として迎えられ、生かされているのである。その視点からすべてのものを見通して生きる者にされたいと願う。
更に、この詩編では、主への「信仰告白」が宣言されていることに注目したい。
即ち 3節、8節、9節、17節
大いなる主、限りなく賛美される主 大いなる御業は究めることもできません
  主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます
主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを憐れんでくださいます
  主の道はことごとく正しく 御業は慈しみを示しています
 このような信仰告白に導かれる時、わたしたちは祈りにも礼拝にも力を受ける。
そして、この詩編のように神を心から崇め、賛美へと導かれ、御業をほめたたえ、御業を告げ知らせ、御名をたたえ、賛美し、御業の数々を歌い、御力について語り、御業を数え上げ、御業について語り、あなたに感謝し、御国の栄光を告げ、待ち望み、主を呼び、主を畏れ、主を愛し、主を賛美し、御名をほめたたえる信仰者としての歩みへと日々に導かれる。

2.関連する新約聖書の箇所
 13節「あなたの主権はとこしえの主権 あなたの統治は代々に。」   参考:ペトロ二1:11「こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができます。」   黙示録11:15「この世の国は、われらの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」
15節「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと あなたは時に応じて食べ物をくださいます。」   参考:マタイ6:26「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
 18節「主を呼ぶ人すべてに近くいまし まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし」 
  参考:ヨハネ4:23,24「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝するものを求めておられるからだ。神は霊である。…」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)預言者の心の中で、第一にこの世の統治、中でも人類を守り保ち、これを統べ治めることに示される神の驚くべき知恵、その恩愛と義とを考え、立ち上がって神をほめたたえる。最後に、神が信仰者らに施すをよしとされた、かの特別な恵みへ移行する。
19節 「主は主を恐れる者たちの願いを満たし、その叫びを聞かれ、彼らを救い出されるでしょう。」   聖霊はここでダビデの口を借りて神はすべての善き者たちの願いを満たされると繰り返す。この表現はどれほどわれわれの心に深く印刻さるべきか、言いがたいほどである。神がその願いをかなえてくださるとは、一体人間は何者であろうか。「神の」とわたしは言う、「高さにこそわれわれは驚嘆し、その支配には謙虚に服すべきであるのに」。それにもかかわらず、神は自らを低くして、われわれの願いを喜んでかなえてくださるのである。しかし、神が彼らにその願望を聞き届けると確言するに先立って、彼らの心情のうちに従順と慎みの律法を与えられる。聖ヨハネの教えるとおりである。〔ヨハネ一5:14「神がわたしたちに何ひとつとして拒まれないことを知っている。わたしたちは神の御旨に従って願い求めるからである。」〕

詩編を読む・2018.9.19    詩編144篇

詩編144篇
1.詩編144篇を読む
 ヘブライ語の特徴の一つに、能動態・受動態と言ったどの言語にもある基本形のほかに、意味を強める強意形というのがある。この詩編で言えば、1節の「教える」、3節の「思いやる」と訳されている語である。144篇ではこの二つは密接に連動して、この詩編の特徴となっている。「教える」には、主の教えを身をもって(苦しみを通して)「学ぶ」という意味が込められている。ここでは、戦い方を絶えず教えられ、継続して学ぶという意味合いが強い。そのように、戦いの術を教えられ鍛えられたことによって勝利に導かれたことをダビデは感謝し、「人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは」(3節)と感動して告白する。神による鍛錬と神の思いやりが強調されていることを受けとめたい。
 この詩編には他の詩篇からの引用が多いが、内容的には三つの部分から成る。
・1⋯4節 わたしの岩、支え、砦、盾と表現されている「確固たるお方」と人間は息にも似たものと表現される「脆弱な者」への思いが綴られる。
・5⋯11節 1⋯4節に見られる回想から、「主よ、天を傾けて降り」とあるように、しっかり目を天に上げて救いの御業を求める祈りへと思いは高められる。
・12⋯15節 今までの大混乱(5,6節など)や背信行為(8,11節)とは打って変わり、「平和の中にある民」について語られる。神への賛美である。神を信じる者たちの祝福された様子が描かれている。具体的には、12節息子や娘たちの祝福(子孫の繁栄)であり、13節倉と羊の群れの祝福(生存と防衛の保障)である。
 この詩編で告白されている主の御名 (2節に記載の「支え」などのリスト)はすべて
防衛に関するものであり、ダビデに自分の小ささ、弱さを自覚させた御名である。
戦いには、「防御の神への信仰」、「人間の弱さの自覚」だけではなく、「神にあって攻撃へと向かう信仰」が必要。それでダビデは6節「飛び交う稲妻 うなりをあげる矢を放ってください」と祈る。防御も攻撃もすべて主がなしてくださるとの信仰である。わたしたちには、戦いのために「神の言葉と祈り」という武器が与えられていることを覚えたい。
 ダビデという人はその生涯において多くの戦いを余儀なくされた。その一つひとつの戦いにおいて、その都度、戦いの術を主に伺った人であった。たとえば、ペリシテ人のゴリアテとの戦いでは「万軍の主の御名によって」立ち向かい、サウルに追われる身となってからは油注がれた者に対して報復せずに主に委ねるという戦いであり、敵との戦いでもかつて成功した方法に頼らず、その都度、主に聞くという戦いであり、息子アブサロムのクーデターに対してはその屈辱に甘んじるという戦いであった。これらのいずれにも共通することは、主に信頼しての戦いだということである。
わたしたちキリスト者もこの世にあっては戦いを余儀なくされる。それゆえダビデから学ぶべきことは多い。ダビデは人の力や武器に頼ることなく、神に頼ることを選びとった。その結果、多くの戦いに勝利することができたのである。たとえ自分の判断で失敗しても、再度、主の指示を仰ぐ。そして聖霊に導かれる。そのようにして勝利に進む。聖霊(神の御霊)は戦いにおいて戦う術をわたしたちに教えてくれる神の賜物である。ですから、わたしたちは日々に、自分のうちにある「肉」を満足されることのないように、「聖霊」に導かれて進むのである。
ガラテヤ5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」

2.関連する新約聖書の箇所
 3節「主よ、人間とは何ものなのでしょう あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。」   参考:ヘブライ2:6「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。」(詩編8:4,5)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編のうちには、祈願と感謝とが混在している。ダビデは、神が自分を飾ってくださった賜物の大きさと、その卓越性とを壮麗な言葉で称揚しつつ、同時に神が同じ恵みを終わりまで継続してくださるように、と祈り求める。彼はすべての人生が、多くの惨めさと貧しさとにさらされていることを目にし、しかも依然として、邪悪な者たちとの格闘の中にあったからである。
1節 「わが力なる主はほむべきかな。主はわたしの手に戦うことを、わたしの指に戦争を教えられたからです。」   ダビデが、神をわが力と呼ぶとき、預言者は自分の持つ力はすべて、天から与えられたものであることを容認している。それは彼が野の羊小屋から出て勇敢な戦士になったからだけではなく、彼の堅忍の心もまた、神から特別に与えられたものだったからである。この「力」という訳語の方が、他の人々の「岩」という訳語よりも、ここでは適切と思われる。なぜならば、すぐ後で彼はいわば断言的に、神は彼を武器へと導く教師である、と述べるからである。このような語り方をするとき、彼はたとえ自分が勇敢で大胆な心を持っているとしても、しかも、神がいわば彼を造り直されなければ、戦争には向かなかったということを認めている。いったい、神はどのような根拠を先ずゴリアテにおいて示されたことであろうか。ダビデが知られざる神の大能によって武装され、一切の人間的な援助手段を必要としなかった、という理由以外には、かの攻撃法は笑い話以外の何物でもなかったに相違ない。

詩編を読む・2018.9.12    詩編143篇

詩編143篇
1.詩編143篇を読む
 「敵はわたしの魂に追い迫り わたしの命を地に踏みにじり とこしえの死者と共に 闇に閉ざされた国に住まわせようとします。」(3節)とうたわれているように、信仰者は追い詰められた状況の中で ただ神に心を向ける。
140⋯142篇で見てきたように、敵のさまざまな攻撃を受けてきたダビデは、「迫害する者から助け出してください」(142:7)と祈るのであるが、敵の攻撃の激しさだけが問題であったのだろうか。4節「わたしの霊は萎えはて」は、142篇4節の繰り返しで。142篇全体がここに反映していると考えられる。しかし、詩編143篇は、ただ敵の攻撃による苦難だけが問題なのではない。この詩編には、信仰者自身の深い罪の自覚が取り上げられている。自分の罪ために神の前に立てないという絶望感がある。140⋯142篇で見てきた敵のさまざまな攻撃と、この絶望感の両方が信仰者の魂をどん底に陥れているのである。
 深刻な人間の罪の現実にダビデは相対している。
   2節「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません。」(参照:ローマ3章)
 霊が萎えはて、心が胸の中で挫けた(別訳:荒れさびれる、衰えはてる)信仰者にとっては、回復の道はいつも神のみ前に静まることから始まる。(5節)ダビデは、いにしえの日々を「思い起こし」ながら、神のなさったすべてのことを「思い返し」、御手の業を「思い巡めぐらす(別訳:静かに考えている)」。ここにあるのは「想起」と「渇仰」。それを通して、神との関係は深められていく。神に選ばれた信仰者にとって必要なことである。
 「いにしえの日々を思い起こし」は、イスラエルの民(キリスト者)にとっては聖書が証しする神の大能の御業についての思い巡らしであり、同時に信仰者個人には過去の人生にあった主の恵みの御業を思い出すことである。それは、「すべてのこと」の思い巡らしであり、静かに考えることであるから、自分が思っていた救済の歴史や過去の人生に新たな光を投げかける。そして新たな視野へと導く。また、過去の罪や贖いの数々と神の恩寵の深さへと導いてくれる。そのようにして再び、赦しと憐れみに満ちた神のみ前に感謝をもって出るのである。
〔8ー10節に見られる導きを求めるダビデの三度の祈り―それぞれに独特な意味合い〕
・「行くべき道を教えてください」8節  わたしたち一人ひとりは、自分にだけに与えられた独自の立場におかれ、召し出されている。(ヨハネ21:21,22)
・「御旨を行うすべを教えてください」10節  わたしたちは何を優先すべきか。つまり自己を喜ばせることではなく、神を喜ばせ、神の御業の完成を目標とする。
・「霊によって安らかな地に(別訳:平らな地に)導いてください」10節  自分に正しい道を示してもらうだけでなく、自分に指導者が必要との謙遜さが語られている。

2.関連する新約聖書の箇所
 1節「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって わたしに答えてください。」   参考:ヨハネ一1:9「自分の罪を公に言い表すなら、」神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
 2節「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません。」   参考:ローマ3:20「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」  同3:23「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」   ガラテヤ2:16「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」   コリント一4:4「自分は何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 11節「主よ、あなたの御名のゆえをもって、わたしを生かしてください。あなたの義がわたしの魂を悩みから引き出しますように。」   
この語によって預言者は、自分の救いの確かさが神の純粋な寛慈以外のところには、どこにも求められないということを、いっそう明白にする。それこそは救いの唯一の源泉だからである。もしも彼が、何か自分自身のものと呼べる事柄を持ち出すならば、救いの原因は神のみのうちに留まるのではないことになるであろう。それにもかかわらず、神がわれわれを助けられるのは、その御名のゆえであると言われる。われわれ自身のうちには、神の恩恵を獲得するに足るものは、何ひとつとして見出だされず、われわれはただその恩愛のみによって招かれるのである。
 義という語も同じことを指している。神は信仰者の救いをもって、その義を大いなるものとされるからである。さらにこの個所で預言者が生き返らせられることを願い求めるとき、彼はもしも神が奇跡的な復活によって、彼を再び立たせられなかったなら、死へと渡されていたことを容認する。死からの脱出は、ただ神の御手のうちにあるからである(詩編68:21)。

詩編を読む・2018.9.5     詩編142篇

詩篇142篇
1.詩編142篇を読む
 1節に「ダビデが洞穴にいたとき」と記されている表題は、57篇の表題でもある。両編は対のようになって、苦しい体験の中でのダビデの信仰に光を投げかける。
 57篇: 3節「いと高き方を呼びます わたしのために何事も成し遂げてくださる神
を。」に見られるように、苦しい体験の中でなお勝利の結果を確信している。
 142篇:全体にわたって、憎まれ駆り立てられている強い緊張感の中で、信仰は最大限に働いている。この不屈の信仰はついには希望と結びついている(8節)。
 ダビデが洞穴にいたときという出来事については、アドラムの洞窟に難を逃れた時
か(サムエル上22章)、エンゲディの洞窟にとどまっていた時(同24章)が考えられ
る。142:5の神以外にダビデの誰も助ける者がいないということからは、エンゲディ
の洞窟にいた時のことではないかと考えられる。
なお、サウル王の迫害のもとで歌われた詩編には八つの詩篇があるが(34,52,54,
56,57,59,63, 142)、その最後の詩編である。
 危機的な状況に置かれたダビデの祈りがどれほど緊急なものであったかは、「声をあ
げ…」「声をあげ…」との二度の繰り返しからわかる。この緊急を要する祈りの中で、
三つの句に注目したい。この詩の三つの頂点ともいえる。
・ 4a「わたしがどのような道に行こうとするのか あなたはご存じです。」前途に危険「罠」があるのを知っているダビデであるが、それは神にとっては何の問題にもならないことに、ダビデは目を向けることができ、感謝を表すことができる。
・ 6b「あなたはわたしの避けどころ 命あるものの地で わたしの分*となってくださる方」。「避けどころ」はダビデの愛用語ともいえる。4ー5節に示されているようなあらゆる状況や感情と向かい合う中での断言である。
感情については、7a節「わたしの叫びに耳を傾けてください。わたしは甚だしく卑しめられています。」が簡明で雄弁に表している。その悲哀感は、まさにキリストの型であり、わたしたちの主御自身の告白を先取りしている。参考:マタイ26:38「わたしは死ぬばかりに悲しい」。  
  *「わたしの分」という言葉のもつ大きな力をTEVは「あなたはわたしの求めているすべてです」の訳で言い表わしている。
 ・ 8b「主に従う人々がわたしを冠としますように。あなたがわたしに報いてくださ
いますように。」4「どのような道に行こうとするのか」、6「命あるものの地で、
わたしの分となってくださる」、そこにうたわれているダビデの信仰が、今や希
望と結びついて将来を見つめているのである。
 ダビデは、暗黒の中におかれながらも、その信仰のゆえに、既に神からの報いを感謝
している。(おそらくダビデは、再び自由な身となった時に、公的な礼拝の場で感謝の
捧げものをささげたいと望んでいたのであろう。)
参考(別紙)    
ダビデの「洞穴」で象徴される祈りに指し示されているわたしたちの現実について、鍋谷尭司氏は別紙のように記して、詩編の味わいの深さについて言及している。

2.関連する新約聖書の聖句
 6節「主よ、あなたにむかって叫び、申します 『あなたはわたしの避けどころ 命あるものの地で わたしの分となってくださる方』と」   
参考:ローマ8:35‐37「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちはあなたのために 一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」   

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) サウル王がダビデの隠れた洞穴にやってきたとき、この聖なる人物はかくも重大な危急に直面して、恐怖のために全く死に物狂いになるか、あるいは驚愕の余り、何か不正なことを企てようとするに至ったかも知れなかった。周知のとおり、生きることに望みを失った人間は、気絶をした人間と全く同じようになるか、それとも狂気のように、あちこちと押しやられるからである。しかるにこの詩編においては、ダビデはその心の中で平静を保つことを決して止めなかったとあかしする。何か不正なことを企てることなく、神に信頼を寄せ、祈りのうちに身を保ったのもそのせいである。
 (黙想のために:なぜダビデは「その心の中で平静を保つ」ことができたのか。)
 1節「わたしは声を出して主に呼ばわりました。わたしは声を出して主に祈願いたしました。」   ダビデが恐れによって取り乱されることなく、また敵に報復を加えようとして怒りに押し流されることもなく、さらに絶望の余り、自ら生命を絶つようなこともなかったというのは、彼のうちの驚くべき恒常心のあらわれであった。…その恒常心は理由なくしてではない。彼が四方八方から、サウル王の軍勢によって取り巻かれ、墓の中に閉じ込められたように見えたとき、すべての試練に打ち勝つべく、祈りによって武装していなかったとすれば、彼の不俱載天の敵であったサウル王に対して、手を上げるのを抑えるというようなことが、いかにして可能であろうか。また、次の節において、預言者はいうなれば神のふところにあって、あらゆる不変の重荷を降ろしたことを、いっそう明白に言い表わすのである。

詩編を読む・2018.8.29   詩編141篇

詩篇141篇
1.詩編141篇を読む
 ダビデは、この詩篇を「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとして…夕べの供え物としてお受けください」と祈る。先に5:4節で学んだ朝の祈りと好一対をなしている。
  詩編5:4「主よ、朝ごとに、わたしの祈りを聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て あなたを仰ぎ望みます。」
 出エジプト記29:38以下には、日ごとの献げ物という祈りの生活に模範となる規定が記されているが、ダビデはこの規律正しくささげられた物の意味を理解していた。
  出エ38「祭壇にささげるべき物は次のとおりである。…」、41「また、朝と同じく夕暮れにも、雄羊に穀物の献げものとぶどう酒の献げものを加え、燃やして主にささげる宥めの香りとする。」
朝夕に神にささげる祈りは、時代を超えてキリスト者を生かすのである。
 ところで、このように敬虔な人であるダビデが厳しい試練の下に立たされている。ダビデの祈りの背景には敵の激しい攻撃があり、ダビデの魂は滅びるばかりの状態に置かれている。「あたかも地を裂き、血を割ったかのように わたしたちの骨は陰府の口に散らされている」のである。そうした中で、祈りは深まり広がっていく。
 その祈りは、
・3,4節に見るように、自分の「口」「唇」「心」を悪に向けさせないようにとの祈り。
  「わたしの心が悪に傾くのを許さないでください」という祈りは、まさに「わたし
たちを試みにあわせないでください」の祈りと同様にわたしたちに響いてくる。
 ・「主に従う人がわたしを打ち」とあるように、自分を懲らしめても、悪から離れることを願い、祈る。いつも神に目を向けている者は、同時に、人の忠告や叱責に対しても心を開く柔らかな心へと成熟するのであろう。(箴言26:6)
 そのような祈りを重ね、執拗な敵と対峙する中で、自分の目がどこへ向いているか、
自分がどこに身を避けるかということを自分に問いかけながら、その祈りはただ一点
に向かう。その一点こそは信仰者の唯一の拠り所である。
「主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け あなたを避けどころとします。」
という告白の祈りである。8節
困難な状態に切実に置かれているときも、目はあなた(主・キリスト)に向ける。詩編141篇があらわしているダビデの霊性である。

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし 高く上げた手を 夕べの供え物としてお受けください。」   参考:ルカ1:10「香をたいている間、大勢の民衆がみな外で祈っていた。」、 黙示録5:8「巻物を受けとったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、各々、竪琴と、香の入った金の鉢とを手にもって、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。」、 同8:3,4(第七の封印が開けれるとき)「また別の天使が来て、手に金の香炉をもって祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神のみ前へ立ち上った。」、   テモテ一2:8「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこでも祈ることです。」
 3節「主よ、わたしの口に見張りを置き 唇の戸を守ってください。」   参考:ヤコブ1:26「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。」
 4節「わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって 悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌に誘われませんように。」   参考:コリント一15:33「思い違いをしてはいけない。『悪いつきあいは、良い習慣を台無しにする』のです。」
 5節「主に従う人がわたしを打ち 慈しみをもって戒めてくれますように。」   参考:ガラテヤ6:1「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、‟霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1節「主よ、わたしはあなたに呼び求めました。急いでわたしのところへ来てください。わたしがあなたに叫ぶとき、わたしの声に耳を傾けてください。」   この書き出しから推測できるのは、ダビデがこのように祈ったとき、彼は自分が重大な試みによって攻め立てられていることに、気づいていたという事実である。彼は同じ祈りを二度くりかえし(「あなたに呼び求め」「あなたに叫ぶ」)激情をこめて援助を願い求めているからである。このダビデの祈りは、われわれがひたすら神を求めるようにとわれわれを招く、ダビデの範例である。われわれが、あちらこちらとさまざまの助けをほしいままに尋ね求めても、もっとも中心的なことすなわち神に祈ることを忘れないためである。預言者は、世俗の人間がまず第一に天や地や人間や、幸運の女神、その他ありとあらゆる自分がでっち上げたものに向かって叫ぶに対し、「神に向かって叫んだ」と言う。時には世俗的な人間も、神に向けてその叫びを投げかけることがあるが、しかも彼らは神に逆らってつぶやき、不平を漏らし、その結果、それは祈りというよりは、遠吠えとでも言うべきものである。

詩編を読む・2018.8.22   詩編140篇

詩篇140篇
1.詩編140篇を読む
 この140篇では、日毎に戦いを仕掛けてくる敵の存在があることを心に明記することを教えられる。それだけに、その敵にどのように対処すべきかが瞑想のテーマとなる。
 140篇全体は、三つのセラによって自然に四区分される。2-4,5-6は二つの区分だが、いずれも「さいなむ者」「不法の者」「主に逆らう者」「傲慢な者」が次々と信仰者に襲いかかる様子が記されている。4節のセラで区切られているのは、悪の襲いかかる様相の究極の姿を描き出すためではないかと思われる。
 次いで9節終わりのセラまでの区分まででは、信仰者は直接、神に向かって訴える。10-13節の表現からは、この訴えがどれほどの苦しみから出ているのかを痛切に知らされる。
 12節の「舌を操る者」と「不法の者」とは、同じ敵を指しているのであるが、「舌を操る者」は直訳では「舌の人」であり、詩編ではここだけにしか用いられていない(別訳:そしる者、毒舌を振るう者、悪口を言う者)。言葉を巧みに操りながら(人を引き付け、唆す言葉。創世記3:1-6の蛇)、「舌を蛇のように鋭くし 蝮の毒を唇に含んでいます。4節」 敵は言葉を通してわたしたちの思いを支配する。それが敵の策略である。ときには、横柄な言葉でわたしたちの心を傷つけ、あるいは、ほめて高ぶらせて、突き落とす。
 パウロはローマ3:13「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で欺き、その唇には蝮の毒がある」に、この140:4を特別な意味(罪の本質)を込めて引用している。そして、パウロは詩編を引用することで、キリストによる救いの道を確認したのである。
  参考:ローマ4:7-8「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」(詩編32:1,2よりの引用)
 8節からは、ダビデの「信仰の着眼」ということを教えられる。「わたしの主、神、わたしの救いの力よ」と呼びかけることができるのは、以前に今あっているよりも大きな危険の中にあったときに、神が助けてくださったからである。「武器を執る日」にダビデに役立ったものは、「たくらみ」に対しても十分役に立つはずである。(諸訳参考:8節は「~守ってくださった」と過去、9節は祈願) ダビデのこの信仰については、コリント二1:10のパウロを参照しておきたい。
   コリント二1:10「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも、救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」(新改訳2017)
 最後の節は、極めて前向きである。ダビデの心は御名に感謝をささげ、「御前に座ることができる」と言って、本当の故郷を見出している。

2.関連する新約聖書の聖句
 4節「舌を蛇のように鋭くし 蝮の毒を唇に含んでいます。」   参考:ローマ3:13「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。」、  ヤコブ3:8「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」
 11節「火の雨がその上に降り注ぎ 泥沼に沈められ 再び立ち上がることのないように。」   参考:マタイ3:10「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
 13節「わたしは知っています 主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ 乏しい人のために裁きをしてくださることを。」   参考:ペトロ一4:19「だから、神の御心によって苦しみをうける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂を委ねなさい。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1節「主よ、わたしを悪しき人から救い出し、わたしを暴虐な者から守ってください。」  (悪しき人)とはエドム出身のドエグ(サムエル上21:22章)一個人に限らない。サウル王、そしてサウル王を焚きつけることを止めなかったその司たちに、言及がなされているということである。サウル王自身もこの聖なる人物(ダビデ)の破滅を求めて激昂したのである。
 ダビデがキリスト御自身を表象していたかぎりにおいて、悪魔の手下どもが彼に対して、これほどの暴力沙汰と残忍さをもって、努力を重ねたとしても少しも不思議ではない。ダビデが彼らの不実ぶりと狂怒とに対して、これほどの叫び声を挙げる理由もそこにあるのである。彼らを「悪しき者ら」、また「暴虐な人々」と呼ぶとき、彼らはだれかによってけしかけられたわけでもないのに、自ら進んで他人に悪行を加え、これを喜びとしたことを、ダビデは言い表わしている。従って、ダビデは自分の立場を神に委ね奉り、彼らと和解を遂げようと努力し、彼らには不正を加えることをしないと申し出る。われわれも暴虐を蒙るときに保持すべきことは、これと同じである。すなわち悪しき者らの暴力と悪行に対し、神がわれわれを支えることをよしとしてくださることを願うべきである。ダビデは人々がするように、敵に対しても悪口を吐き出すことは決してしていなかったのである。
(カルヴァンは、ダビデを通してキリストを、悪に対しては原罪を正視していた。)

詩編を読む・2018.8.15   詩編139篇

詩篇139篇
1. 詩編139篇を読む
 138篇は、神の前に立つ「わたし」で全体が貫かれているのに注目した。続く139篇の全体を一貫しているのは、神と「わたし」の関係である。「わたし」(ダビデ・信仰者)は、「主よ」と三度呼びかけ(1,4,21節)、「神よ」と三度呼びかけ(17,19,23節)て、神と「わたし」との関係について理解を深める。
1節「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる」と23節の「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください」の聖句は、この詩の全体を囲い込み、その信仰者の前におられる神についての知識を豊かにわたしたちに伝える。2-6節では神の全知、7⋯12節では神の遍在、13-16では人を造られる神の全能、その上に立つ総括が17,18節、そして神に敵対する者への裁きと義である。このように、神の理解を深める信仰者は「あなたに感謝をささげる」(14節)とうたう。この14節の神への感謝の言葉が、詩編139篇を貫いていることを味わいたい。
7-12節を読むと、信仰者が神の前から逃げようとしているように思えるかもしれないが、実際はその逆を言っているのである。「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう」以下は、神がどのような時でも、どのような所でも、共におられることの表現であり、そのことは感謝以外にはない(上記14節)。
先に触れたこの聖句全体を囲っている1節と23節を読むと、1節では、神はわたしを究め信仰者のすべてを知っていると言いながら、23節では「わたしの心を知ってください」と願うのである。どうして「知っておられる」(1節)と言いながら「知ってください」(23節)と祈ったのだろうか。このことを明らかにしてくれるのは23b「悩みを知ってください」である。ダビデは、神は知っておられる、と思う。だが、その一方で「悩み」(新改訳「私の思い煩い」、岩波訳「不安な思い」、キドナー「私の疑念」)があり、自分の必要を敏感に自覚していたのである。(それは、マルコ9:24で告白されている落ち着かない複雑な思いに共通するものか?/わたしたちも、すべてを知っておられる神は、わたしをしっかり受け止めてくださっていると知りながらも、わたしをとらえてください、と祈るものである)。
わたしの創造主がわたしを知っていてくださるという驚き、いつでも、どこでも、どのような状況でも、わたしと共におられて関わってくださるという感動、これらが、果たしていつも自分の中にあるかどうか、23~24節は問いかけてくる。
「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。」「わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。」この祈りは、神とのかかわりの中に潜みこもうとする空虚感、孤独感、、無感動、無目的などが、自分の心の中を支配しないようにとの祈りと言える。神との親しいかかわりを求める者にとって、この詩篇は大切な知恵を与えてくれている。

2. 関連する新約聖書の聖句
2節「座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。」   参考:マタイ9:4「イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。』」、  ヨハネ2:24,25「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかを良く知っておられたからである。」
6節「その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。」   参考:ローマ11:33「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」
20節「たくらみをもって御名を唱え あなたの町々をむなしくしてしまう者。」   参考:ユダ15「それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。」

3. 何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)ダビデはその心をあらゆる偽善から浄めるため、この世の大部分が誤って巻き込まれている空しい言い訳のすべてを見分けつつ、多くの文章を重ねて、神の目が到達しないような隠れ場は存在しない、と結論する。このことを彼は人間の創造によって確認する。神は母親の胎の中でわれわれに形姿を与え、身体の各部分に、特有性と職分とを定められた以上は、われわれの行為やわざが、神の目の前で隠されているはずがないからである。その論議と聖想とによって、神への正しい恐れへと自らを励ます。
19節「ああ神よ、もしもあなたが悪しき者を殺されるなら、地を流す者らを、わたしから離れさせてください。」   この節をある人々のするように、この言葉を願望的にとることが正しいとは思わない。この人々は「ああ神よ、わたしの願いは、あなたが悪しき者を死なせることです」とか、「もしも、あなたが死なせてくださるならば」と読む。また、悪人どもが絶滅させられたことを喜んでいる、と考える人々とも合致しない。むしろ、ダビデは神の裁きを思い見ようと努めるのである。神が悪しき者らの上に復讐を果たされる度ごとに、神への恐れと愛とから益を得るためである。たとえダビデはすでに神への奉仕と恐れに心を傾けていたとしても、他の信仰者たち同様に、何らかの手綱の必要があったのである。すなわち、神への恐れのうちに従順にされるのである。

詩編を読む・2018.8.8    詩編138篇

詩篇138篇
1. 詩編138篇を読む
 ダビデによる八つの詩篇群がここから始まる。全体で詩篇集の半分近くを占めるダビデの詩篇の締めくくりとなる。ここでわたしたちは再び敵の存在に気づかされ、多くの脅迫に直面してなお守られてきた者の特別な感謝にも気づくのである。
 この138篇の感謝の歌の特徴は、「わたし」で全体が貫かれていることにある。(新共同訳では5回しか表現されていないが、そのほかに2節で1回、3節で2回、4節で2回記されている)。そのわたしが「あなた」・主なる神にまっすぐに向き合って、御名をほめたたえているのである。深い苦しみの経験も、そこから救い出された経験も、感謝と賛美の姿勢も、すべてが主の前に立つ信仰者のものである。
 しかし、2節の後半と4,5節とに見られるように、そうした個人的な経験はその個人にとどまらず、「仰せ」(御言葉)のゆえに、地上(地のすべて、全世界)に広がり行く。「その御名のすべてにまさって あなたは仰せを大いなるものとされた」(2b)の内容が、4,5節にうたわれていると考えることができる。神の御名は恵みとまことに満ち、どのような試練と悩みからもわたしたち信仰者を救い出すが、それはただ個人的な体験にとどめられず、全世界に響き渡っていくものなのである。つまり、信仰者個人の救いの体験が深められれば深められるほど、それは神の御言葉の証しとして全地に響きわたる。その例を、わたしたちはヘブライ人への手紙11章に記されている信仰者に見るのであり、あるいは宣教や迫害の中の信仰者たちに見るのである。そして、大切なことは、神はわたしたち個人をも神の御名のために広く用いられるということである。
 この真理を、イザヤ書は特に強調している。
 イザヤ12:4「その日には、あなたたちは言うであろう。『主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を知らせよ。』」
  同 42:10ー13「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの、島々とそこに住む者よ。荒れ野とその町々よ。…」
  同 44:23「天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びを上げよ。山々も、森とその木々も歓声をあげよ。主はヤコブを贖い イスラエルによって輝きを現わされた。」
  同 52:7ー10「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの善い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。…」
 パウロは、このイザヤ52:7を福音伝道の神からのメッセージとして記した。それに
よって、人間の理性には理解不可能な神の御名の深さ、高さ、聖さ、不思議さが、地の
すべての王たちに聞かされ、さらに聞かされるだけではなく、彼らが神に感謝し、主の
道について歌うほどになるのである。(138:4,5)
 信仰とその生活はきわめて個人的なものであるが、それは神の御計画によって個人にとどまらず頭なるキリストの体につながって、隣人の救いのために公に表明され、神の栄光を顕す御業なのである。
 8節の告白に目を留めたい。「主はわたしのためにすべてを成し遂げてくださいます。」
これこそ信仰のすばらしさではないだろうか。ここに告白されている信仰確信を、日々保つことこそ、どんな状況の中にあっても、自分が生かされる秘訣であると信じる。

2. 関連する新約聖書の聖句
 6節「主は遠くいましても 低くされている者を見ておられます。遠くにいましても 傲慢な者を知っておられます。」   参考:ルカ1:48「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。」   ヤコブ4:6「…それで、こう書かれています。『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。』」   ペトロ一5:5「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身につけなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。」
 8節「主はわたしのために すべてを成し遂げてくださいます。…」   参考フィリピ1:6「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

3. 何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
3節「わたしが呼ばわった日に、あなたはわたしに聴許し、わたしの魂のうちに力を増し加えられました。」  神はしばしば我らの祈りに先回りされ、(言ってみれば)われわれがまどろんでいる間にも進み出て、われわれのために善きわざをなされるが、しかももっと一般的には、その民に善きものを与えようと欲せられるとき、彼らを聖霊を通して祈りへと励まされる。それは自分らの祈りが空しく無効でないことを彼らが認める時、神の恵みがそれだけいっそうのこと明白に示されるためである。それゆえに、まことにもっともながら、ダビデは危険に巻き込まれそうになったとき、それは偶然であるとわれわれには言えない。このことのうちに、神がその祈りを聴許されたことがあらわに知られるからである。この節の後半で見るように、彼が災禍により打ち倒され、押しひしがれていたとき、(祈りを聴許される神により)その心のうちに新たな力を回復したのである。そこで見よ、全く同様に、われらの祈りが神の恵みの傍近くにあることを、それだけいっそうはっきりと示すのである。」

詩編を読む・2018.8.1    詩編137篇

詩篇137篇
1. 詩編137篇を読む
 紀元前586年に新バビロニア帝国のネブカドネツァルはエルサレムを攻め、主の宮と王宮とエルサレムの家々を焼き、城壁を取り壊した。南王国ユダの滅亡である。紀元前587年には、エルサレムの有力者たち約1万人を捕囚の民として連れ去っていたが、
その時に生き残っていた者たちが、ユダの滅亡時にバビロンに捕らえ移された。戦いにおいては、捕虜たちの前に待っている運命は苛酷である。
  「わたしたちを捕囚にした民が、楽しもうとして 『歌って聞かせよ、シオンの歌   
  を』と言うから わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして 『歌って聞かせよ、シオンの歌を』というから。」(3節)(この節を読むと、主イエスが十字架の上で人々から楽しみごととして嘲られた様子を思う。ルカ23:35⋯38)
 シオンは神の民の要の地であり、神の臨時の場であった。その地を失われたことは
自分が失われたことに等しかった。そして、賛美は神殿で神にささげられるものであ
る。その賛美を異郷の地で人々の余興のためにうたうことなどは到底できないことで
あった。それは、大変な屈辱であった。作者はこの思いを、2節「竪琴は、ほとりの柳
の木々に掛けた」(2節)と表現する。「竪琴は…掛けた」は自覚的な行為である。
 彼らは、心の底からシオンを思って泣いた(1節)。神の回復の御業がなされる前には、
いつの時代でもこうした涙が背景に存在する。5節「エルサレムよ もしも、わたしが
あなたを忘れるなら」、6節「もしも、あなたを思わぬときがあるなら 、もしも、エ
ルサレムをわたしの最大の喜びとしないなら」、自分の存在も自分に与えられたすぐれ
たものもなんら意味のないものだと告白する。」
 これほどに彼らは神を思いシオンを愛していた。わたしたちもまた、神の都エルサ
レムをわが魂のふるさととしてしっかり心にとどめたい。
 紀元前538年、バビロンを占領したペルシャ王キュロスは、ユダヤ人たちに帰国を
許し、その上神殿再建を命じて、多くの財宝や家畜を与えたことは、古代オリエント社
会では考えられないことであった。(参照:詩編126篇「主がシオンの捕らわれ人を連
れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。」)
 この詩編は、ユダヤに帰って来て間もない、かの地で受けた圧迫がまだ記憶に新た
な頃に歌われたものである。おそらく、紀元前537~520年ではないかと考えられてい
る(預言者ハガイ、ザカリヤの頃、紀元前515年に神殿奉献)。
 帰還したユダヤ人たちは、バビロン捕囚のあのつらかった時代のことを思い起こし
た(1⋯4節)。また、故国の町エルサレムをたえず思っていたこともつい最近のことで
あった(5,6節)。この思いに続いて、彼らは復讐の祈りを捧げる、7節からである。
 バビロニア軍と協力してエルサレムを攻めたエドムが徹底的に主によって裁かれる
ようにと祈る(イザヤ34;1-17)。さらにその上、すでにキュロスによって無血占領さ
れたバビロンについても、徹底的な裁きがなされるようにと祈るのである。
  参考:「娘バビロン」― バビロンの都を意味する。バビロンは住民の母という概念に関連する。
     「お前の幼子」 ― イスラエルの圧迫者バビロン住民のこと。
 捕囚から期間後、神殿工事を再開しながら、過去のつらかった経験を思い出すとと
もに、いつの間にか復讐の思いをたぎらせていたユダヤ人の思いが描かれているが、
その背後に神の沈黙を教えられる。時は経ち、エドム(ギリシャ語読みではイドマヤ)
はアンティパル二世の子ヘロデ大王の時代になるが、彼の死後王国は三分割し、衰退
の途をたどった。
 復讐の詩篇を前にするとき、解釈の困難を覚えるが、復讐については、ローマ12:
19⋯21をいつも出発点として聖書のメッセージを読み取りたい。

2.関連する新約聖書の聖句
 1節「バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。』(バ
ビロンは、かつての捕囚の地バビロンだけでなく、ローマをも意味するようになった。
さらに、神に敵対するすべての権威、権力の象徴的な用語となり、神の激しい怒りの裁
きの前に滅びることが預言されている。ヨハネ黙示録16:19,17:5)   参考:ペト
ロ一5:13「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言
っています。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1節「わたしたちはバビロンの川のほとりに座りました。ああ、シオンよ、わたした
ちはあなたを思い出して、涙を流しました。」 (バビロン捕囚の)悲しむべき亡国の
中で、ユダヤ人は信仰と宗教とを失う危険に面していた。何よりも、われわれが不信者
の間にあると、迷信に落ち込み、堕落しきるのが常なので、ユダヤ人もバビロニア人の
間にあって信仰を失う危険が大きかったのである。さらに、厳しい隷属状態、流浪、彼
らがその地で忍ばなければならなかった不義不正といったものは、信仰者らの勇気を
失わせるに足るものであった。そこでこの詩編の作者は嘆きのある型を口述した。そ
れは、信仰者たちが涙を流し、呻吟しながらも、ほとんど絶望と思われた救いの望み
を、なおその心の内で涵養するためであった。…彼らの涙は、悲しみのしるしであると
ともに、悔いと謙卑のしるしであったのである。このことは、彼らがシオンを想い出し
たことからも明白である。それによって、神への真実の従順と純粋な礼拝を捧げよう
と熱心であったことを表している。

詩編を読む・2018.7.25   詩編136篇

詩篇136篇
1. 詩編136篇を読む
 この詩編は、大ハレルとしてユダヤ人に知られており、113篇(小ハレル)に続き過ぎ越しの食事の時に唱えられたと考えられている。特徴は、各節に同じ繰り返しがあることである。
 日本語訳の詩篇には見出しが付いていないが、英文には見出しが付けられているものが多い。ESVでは繰り返し部分を見出しにして His Steadfast Love Endures Forever と付けられているが、そのように、救いの歴史の中に現わされてきた神の不変の愛について深く瞑想して味わいたい。神の愛に心を留めずにいると、この詩編は単なる退屈な繰り返しだけが心に残りやすい。
その経験を、ある牧師は次のように正直に語っておられた。讃美歌にはこの詩編が交読文として載っている。これを礼拝の中で会衆の一人として交読したその牧師は、ただ同じ言葉を無味乾燥に繰り返しているようで、その声が心にむなしく響いていた。
 この詩編の構造は、極めて簡明、三つの部分から成る。
(1) 命令(あるいは呼びかけ)
「感謝せよ」(あるいは「たたえよ」、「讃美せよ」)
(2) 感謝する対象としての主(神)
創造の御業から始まって、自分たちのこれまでの歴史において経験した神を観念的にではなく、歴史に現実に働かれる神としていろいろな表現で語られている。
(3) 感謝する理由
その理由とは、主の「慈しみはとこしえに」あることである。神の不変の愛、確固とした愛は永遠であることのゆえである。しかもこれは26回繰り返されている。(「主に感謝せよ。」と祭司の呼びかけと宣言に対して、「慈しみはとこしえに」と会衆が答える。)
イスラエルの歴史の中であらわされた神の救いの御業は、出エジプトの出来事から荒野の生活、そして約束の地に入るまでの戦いと約束の地に入ってから、そしてバビロン捕囚とそこからの解放までに及ぶ。新しくされた神の民として、彼らがしたことは、そのように歴史の中に働かれた神の御業を繰り返し思い、そこに神の不変の愛を受け止めることであった。それは今日のキリスト教会が聖餐式を通して、イエス・キリストの贖いのわざを繰り返し覚えることに相当するものである。
神の御業・神の救いの歴史をしっかりと掴み、この詩篇をより生き生きとして唱えたい。
1-3節 ここでは、神の性質(1節)、そして神の主権性(2,3節)が告白される。
4節以下は、神が造りそして行われたことである。4-9節にあるのは創造の御業であるが、ここでは、わたしたちを囲む環境が単なる仕組みではなく、「不変の愛」の働きであることを知って、環境即ち造られたものを喜ぶようにとわたしたちを招く。
10‐16節では、助け主である神にわたしたちの心を向けさせる。ファラオとその軍勢が打ち倒されたことは、キリスト者にとっては、「この世の裁き」(ヨハネ12:31)と「この世の支配者」(ヨハネ16:11)の裁きが意味しているのと同じ意味を持つ。それは、わたしたち自身の贖いと信仰の旅路の意味を明らかにするものである。
17-24節では、困難を克服させ約束の地へと導かれる勝利者なる主に心を向けさせる。 参考:ペトロ二1:10,11「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。…こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。」
25節「すべて肉なるものに糧を与える方に感謝せよ」を鍋谷堯爾氏はこの詩編のクライマックスだと、次のように注解する。
「毎日、わたしたちが食物を与えられていることの中に、神の恵みは現れている。イエスは、主の教えで『御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が地になされるように』と宇宙的な広がりを持った祈りと『日ごとの糧が与えられるように』との身近な祈りを結び合わせられた。慎ましい食事であっても、『その恵みはとこしえまで』という感謝の中で食事をいただく者は、そこから、創造の御業に働かれる神と、救済の歴史に働かれる神を見ることができる。」
 26節 この最後の節は、これらの御業をなした神こそが1-3節で告白した神であることを、効果的に言い表わし感謝をささげる。

2. 関連する新約聖書の聖句
 1節「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」 参考:エフェソ1:12「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」

3. 何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
1節「そのいつくしみはとこしえに続くからです。」  この句をこれほど何度も挿入するとき、それは愚かな反復のように思われるかもしれない。しかし、確かに万人があらゆる善き物の源泉は神の寛仁であることを容認するのであるが、しかもその自由な恵みによる恩愛は純粋かつ完全に認められていないからである。聖書は、恵みによる恩愛に対して至高の地位を割り当てている。それだけではなく、聖パウロの証示するごとく、神はそのすべてのわざにおいて、大いなる賛美に値するにもかかわらず、しかも主としてその恩愛と憐れみとのゆえにほめたたえられることを欲せられる。(参考:エフェソ1:12/カルヴァンが脚注の形で付した聖書の引用箇所)

詩編を読む・2018.7.18   詩編135篇

詩篇135篇
1. 詩編135篇を読む
 この135篇の各節は、聖書の他の箇所を繰り返したり引用したり、あるいは他の箇所に引用されたりしている。そうしたことから、ある注解者は、135篇は文学的借り物のモザイクだ、と評するほどである。
 しかし、その内容は、イスラエルの選び(4節)、創造における神の卓越した偉大さ(5-7節)、歴史に働かれる神の救いの恵み(8-12節)、偶像批判と裁きのことば(15-18節)となっており、モザイクではなく、まことの信仰者の持つべき信仰告白の内容が具体的で配列よく表現されている。創造主なる神は、イスラエルをご自分の民として選び、奴隷の地から解放し、新たな地カナンを相続させ、絶えず偶像礼拝に陥らないように警告される方であり、それは今神の民とされているキリスト者の信仰にも通じる。わたしたち信仰者は、「神の庭に居並ぶ人々」(2節)の一人として、まず「ハレルヤ。賛美せよ」(1節)と召し出されているのである。
 「主よ、御名はとこしえに。主よ、御名の記念は代々に(新共同訳2017:主よ、あなたの呼び名は代々に至ります。)」13節、と賛美することは信仰者の生活の土台であり、中心である。
 *賛美する理由について考えさせられる表現
(1) 135:3 主は恵み深い方(トーヴ・アドナイ)
具体的には、(4節)「主はヤコブをご自分のために選び、イスラエルをご自分の宝とされた。」方なのである。
※「宝」は詩篇ではここ135:4のみ。「宝」ということばは申命記において重要な用語である。
参照:
申命記7:6「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。」
申命記26:18「主もまた、今日、あなたに誓約された。『既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。造ったあらゆる国民にはるかにまさるものとし、あなたに賛美と名声と誉れを与え、既に約束したとおり、あなたをあなたの神、主の聖なる民にする』と。」
このように、イスラエルの第二世代に神の民としてのアイデンティティを確立させるために、モーセが繰り返し語った訣別説教である申命記において、イスラエルの民が神の特選の民であることが繰り返して語られている。


(2) 135:5 主は大いなる方(ガドール・アドナイ)
具体的には、
① 神の主権的なみわざのゆえに(6~8節)
② エジプトでのしるしと奇蹟のゆえに(9節)
③ 多くの国を撃ち、カナンの地を嗣業(相続の地)として与えられたゆえに 
(10~12節)
④ ご自分の民の裁きを行い 僕らを力づけられるゆえに(14節)
 *賛美のニュアンスについて考えさせられる表現
  (1)1節、3節 賛美せよ(ハーラル)
なりふりかまわず、大きな声を上げて喜びを表わす賛美
  (2)19-21節 たたえよ(バーラル)
ハーラルに対して、どちらかといえば、ひざまずいて、静まって、沈黙して、喜びを瞑想的に表わす賛美
  どんな形であれ、神への賛美が呼びかけられているのである。
  参考:マタイ21:16「イエスは言われた。『聞こえる。あなたたちこそ、「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」という言葉をまだ読んだことがないのか。』」

2. 関連する新約聖書の聖句
 4節「主はヤコブをご自分のために選び イスラエルを御自分の宝とされた。」   参考:ペトロ一2:9,10「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民でなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」

3. 何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要約) これは神への賛美を歌うようにとの勧めである。その理由は、神がその選民に対して特別な恵みを施されたこと、さらにまた、その権勢と栄光とは全世界のうちに明らかなことである。
 ついで、神性を表出するために偽造された偶像と、確かで明白なあかしによって、唯一のまことの神であることが明示された、イスラエルの神との対比が付け加えられる。信仰者たちが、いっそう軽やかな心をもって、神をほめたたえ、いっそう進んで神に従うようになるためである。

詩編を読む・2018.7.11   詩編134篇

詩篇134篇
1. 詩編134篇を読む
 メシェクとケダルという異邦人の環境で始まった(詩編120篇)「都に上る歌」は、「主の家にとどまり」「聖所に向かって」神に仕える調べで終わる。なお、「聖所に向かって」という句は「聖さ」という一語を訳したものであって(70人訳でもαγια)「聖性」「聖所」を意味する。したがって「きよさの中で」礼拝することを語っているともとれるし、関連する新約聖書の聖句にかかげたテモテ一2:8の「清い手を上げて」の根底にある内容を指すとも考えることができる。
 わずか3節の詩篇であるが、簡潔な表現の中に、巡礼、または人生の旅路のあり方を教えられる。詩編121篇では「あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。」と、人生の旅路のはじめから終わりまでの神の祝福と守りについて歌われた。そして、詩編126篇では、「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった」と、逆境から突然救い出された喜びが歌われた。127篇では労働の、128篇では家庭の祝福が歌われた。それらすべての祝福は主なる神から来る。主なる神は「天地を造られた主」(3節)であるから、その恵みと慈しみは無限。
 その主が「シオンからあなたを祝福して」くださる。シオンは、主の臨在が満ち満ちた聖なるところであり、天から注がれるすべての祝福の門である。そこにおいて、「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ」と呼びかける(1節)。「主の僕ら こぞって」とは、新約的にいえば、「主にあるすべての聖徒たち」と同義である。シオン・主の臨在が満ち満ちているところは、まさに四六時中、賛美がささげられるべきところなのである。
 参考:ヘブライ13:15「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」
 おもしろいことに、ここで「主をほめたたえよ」と訳されている言葉は、「祝福する」と同じ言葉である(「バーラク」)。
1,2節:「たたえる」(新共同訳の他の個所では、感謝をささげる、感謝する、告白する、とも訳されている言葉)
3節:「祝福する」
この詩の作者は、同じ動詞を使うことによって、信仰者から主への流れと、主から信仰者への流れを考えたのではないだろうか。ここには賛美と祝福の循環が描かれている。「賛美」は主からの祝福に対する人の応答であり、「祝福」は人からの賛美に対する神の応答である。その両者の循環が見事に描き出されている。
 詩編113:5-7で、主は、高い御座から天と地をご覧になり、低くまで降りてきて、最も低いところにいる弱い者、乏しい者を「芥の中」から高く上げる、と言われた。詩編123篇では、僕が主にすぐ従うことができるように主人の手に目を注ぐように、「嘲笑」と「侮り」で飽かされ、打ちのめされている信仰者が主の憐みを待って天の御座に目を向けている姿が歌われた。いずれにも、天の高いところから、地の最も低いところまでと一筋の線が伸びている。それは常識では考えられない線であり、主から信仰者への「祝福」の流れである。その「祝福」に応えて、地の最も低いところから、天地を超えた神の御座へと、「賛美」の流れが伸びていく。この信仰の世界の恵みとすばらしさに目を覚まし、わたしたちも「こぞって主をたたえよう。」動詞「バーラク」を使って、描き出される「賛美と祝福の循環」から教えられることである。
 この詩篇の冒頭は「ヒンネー」という語で始まる。この語は、口語訳、新改訳2017では「見よ」と訳され、新改訳では「さあ」と訳されているが、新共同訳では訳されていない。この言葉は大切な事柄を喚起させる言葉であり、詩編133篇の冒頭にも使われている。詩133篇では「兄弟たちが共に座っている」という不思議さに、詩134篇では「賛美と祝福の応答」の信仰の世界に、わたしたちが目を留めるようにと呼びかけているのである。

2. 関連する新約聖書の聖句
 2節「聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。」   参考:テモテ一2:8「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。」
  
3. 何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要約)この詩編は神に賛美を捧げるようにという勧めである。確かにそれはすべての信仰者に共通であるが、しかもとくに祭司やレビ人に向けられている。
(3節から。造り主について)
3節「天と地とを造られた主が、あなたをシオンから祝福してくださるように。」
造り主という称号は、その権威を表わすために用いられている。信仰者はそれによって、万事を神の御手から期待する望みを、あえて抱くようになるのである。
この世は神の大能を映す鏡以外の、一体何であるであろうか。恵み深い神を持つことで満足しないような者は、まことにも愚鈍である。万物はその支配のもとにあり、すべての良き物もその御手から発するからである。多くの者らは、この「造り主」という語を耳にすると、はるか遠くにいます神を尋ねなければならないかのごとくに、これに近づき得ることを否定するので、預言者は彼らの面前に、ある接近のしるしを提示する。それによって彼らが親しく心を開いて、神に近づく大胆さを抱くためである。もろもろの天を目にすることにより、彼らは神の権能を認知するに至るのである。また、シオンを見ることにより、神の父性的愛が知られるのである。

詩編を読む・2018.7.4    詩編133篇

詩篇133篇
1. 詩編133篇を読む
 1節「兄弟が共に座っている」ことについてでは、主にある共同体における一致の豊かさと祝福とが短い節の中に見事に描かれている。
考えておくべきは、一般論としては兄弟が共にいることは麗しいこととして理解できることであるが、それは決して当然のことではないということである。それだけに、詩篇133篇は主にある「兄弟たちが一つとなって共に生きる」(新改訳)ことのすばらしさに目を留めるようにうながしている。誰がうながしているのかといえば、それは「人称なき存在」である聖霊ということができる。
この理解のために、先ずは「兄弟」について聖書から考えておきたい。
・実際の「兄弟」としての意味 ― カインとアベル(創世記4:8ー11)、エサウとヤコブ(創世記25:26)、ヨセフと兄弟たち(創世記37:2以下、42:3以下)、アロンとモーセ(出エジプト4:14)
・広く「同胞」(出エジプト2:11)としての意味 ― 十二部族は互いに「兄弟」(士師1:3,17)、すべてのイスラエル人は助け合うべき「兄弟」(レビ25:35ー39)
・裏切りの現実 ― 人類のはじめから兄弟は仲違いをし、カインは無実のアベルを殺した。ヨセフの兄弟たちはヨセフを奴隷商に売り渡した。ヨブは兄弟たちの欺きを嘆いた(ヨブ6:15)、エレミヤは兄弟の欺き・裏切りを嘆いた(エレミヤ12:6)
 詩編は、このような裏切りを正面から取り上げる(詩編69:9)。こうした背景から「兄弟」を見ると、「兄弟が共に座っている」ということは、当たり前のことではないことが分かる。その当たり前ではないことが、実現することに視点を置いて読みたい。
キリストが来られて「兄弟」の意味は一変した。キリストを信じる人たちすべてを一つにした(使徒4:32)。御父と御子が一つであるように、主にある兄弟姉妹たちが一つとなること、「共に住むこと」は、初代教会において実現したのである。そこには麗しい一致が見られる (参照:使徒2章) 。
「一つとなること」、それは愛の交わりといえる。画一的な一致ではなく、それぞれが個性を持ち、多様性をもった相互依存という一致である。詩133篇はこの愛の交わりと一致を「なんという恵み、なんという喜び」と歌い上げる。「兄弟が共に座っている」祝福のすばらしさが、「かぐわしい油」と「ヘルモンにおく露」の二つのたとえで表現されているのである。
「油」と「露」は、いずれも「聖霊」の象徴である。そこから来る祝福は、「ひげにしたたり衣の裾に垂れる」までの広がり行く祝福、「ヘルモンにおく露のように シオンの山々に滴り落ち」豊かな命の水となって多くの実が結ばせる祝福である。(大祭司は旧約ではアロン、新約では主イエス・キリスト。その大祭司を通して人々は祝福を受ける。)聖霊が、主にある者にとっても、またキリストのからだなる教会においても注がれ続けるためには、一人ひとりが「聖霊に導かれる」ことが不可欠。ローマ8:14には(直訳すると)「神の霊に導かれる人は、だれでも神の子どもであり続ける」と記されているように、キリストを信じ神の子とされた者の生涯は「神の霊に導かれ続ける」ことである。このため、御言葉を通して日ごろから聖霊に導かれるとはどのようなことなのか思い巡らしたい。
イエス・キリストは「霊によって(御霊に導かれて)」(ルカ4:1)荒野で試みを受けられた。そこではたえず悪魔の誘惑を受け続けられたが、同時に聖霊の導きの中で、御霊から来る思いと悪魔から来る思いを識別し、御霊から来る思いを選び取っておられたのである。もしイエスが「御霊に導かれ」ていなかったならば、勝利することはできなかった。このことはわたしたちにも同様でる。、聖霊よ 導いてください、と切に祈る。

2. 関連する新約聖書の聖句
 1節「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」   参考:ヘブライ13:1「兄弟としていつも愛し合いなさい。」   ヨハネ17:21-23(キリストにあって一つとされている恵み「…(23)わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つとなるためです。…」

3. 何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1節「見よ、兄弟らが共に住むことは、いかに麗しく、また楽しいことでしょう。」
彼が壮麗な言い方を用いて、神の恵みと恩恵とをほめたたえるのは理由なくしてではない。神は追い立てられていた民を、再びひとつのからだへと集められたからである。ダビデが王位の尊貴を享受するに至ったのちも、国の大部分は彼から離反していた。それだけでなく、周知のとおり、ユダヤ人の間では致命的な抗争があり、一方の党派が全き破滅しないかぎりは、ほとんど和解の見通しさえもないほどであった。それゆえに、もしも何らかの和解が起こるとすれば、それは驚くべき、またおよそ期待すべくもない神のみわざであった、と言わなければならない。お互いに対して、狂気のような憎悪のような念をもって戦っていた者同士が、互いに抱擁しあうようになったのである。このような事情は、まことに残念ながら見過ごしにされてきた。それではまるでダビデが、一般論として、神に仕える者たちの間での、兄弟の和合をほめたたえることになってしまうであろう。
 見よという語のうちには、大きな激しさが込められている。それは単に事実を眼前に提示するからだけでなく、そこには彼らをほとんど破滅に陥れんばかりであった国内の戦争と、喜ばしくもまた望むべき平和との間にある対比が含まれているからである。そこで預言者は、神の恵みを大いなるものとしてほめたたえる。

詩編を読む・2018.6.27   詩編132篇

詩篇132篇
1. 詩編132篇を読む
 旧約のユダヤ人にとって、はるか遠方のシナイで始まった旅の頂点は神の箱(契約の箱・申命記10:8)がキリヤト・エアリムから新たに都とされたエルサレムへの短い距離を移動した時ではないだろうか。この日、「主はシオン(エルサレム)を選び そこに住むことを定められた」(132:13)ことが民の目に現実となったのである。このとき、「栄光の王」の神性さに、民は畏敬の念にうたれ、シオンをご自分の王座とされた神に、民は歓喜する。詩編24篇、68篇の二つの詩篇がこの出来事を鮮明に思い出させる。
この詩篇も「都に上る歌」の一つである。都に上る巡礼者たちも、シオンにおられる「栄光の王」をほめたたえ、「主よ、立ち上がり あなたの憩いの地にお進みください」「わたしたちは主のいます所に行き 御足を置かれる所に向かって伏し拝もう」と祈ったのである(8節)。
 1-5節は、ダビデが契約の箱をエルサレムに持ってきた動機を垣間見せてくれる貴重な個所である。(これなしでは、契約の箱をエルサレムに移すことが、新しい都エルサレムに最高の威信を持たせようとする政治的な策として誤解されたかもしれない。)ダビデは、神の栄誉に対して熱心で、自分の民の嗣業を意識していた。「ヤコブの勇者」の言葉がこのことを証する。「ヤコブの勇者」とは、創世記49:24でヤコブが12部族の運命について預言したときに、彼の口から最後に聞かれた称号である。
 契約の箱をエルサレムに持ってくることについての記述は、サムエル下6章、歴代上13‐16章参照。ダビデは、このことをどんな犠牲を払っても成し遂げ、しかもまどろむこともない位に全速力で行うことを、主に誓ったのである。なお、眠りの拒否は箴言6:4でも表現されているが、一般的な比喩的表現で、必ずしも文字通りに受け取る必要はない。
 6⋯10節では、シオンへの行進の様子がうたわれている。契約の箱は、この個所では単に「それ」と記されている。(6,7節)忘れてしまっている者を捜すかのような表現になっているが、確かにダビデが説明しているように、(歴代上13:3)「サウルの時代にこれをおろそかにした」のである。そして契約の箱はキルヤト・エアリムという場所にとどまっていた(サムエル上7:1-2)。
 (参考―地名について)  エフラタ―通常はベツレヘムとその周辺を指す語。探索は、ベツレヘムから始まったがキルヤト・エアリムで終了した、ともとれる。
   ヤアル―エアリムの単数形。キルヤト・エアリムは「森林地の町」を意味する。
 8節「主よ立ち上がり」は、モーセの時代に「契約の箱が出発するとき」の祈願であ
った。これと同じ表現が、先に記した、あの荘厳な詩編68篇を導いている。
 11-12は、ダビデに対する神の誓いである。ここからの詩篇の後半は、前半と見事
に対応し、神の誓いがダビデの誓いに合致している。ダビデの熱心に対する神の熱心
があらわされ、神の約束が民の祈りに栄誉を与えている。15‐16節「シオンの食糧を
豊かに祝福し 乏しい者に飽きるほどのパンを与えよう。祭司らには、救いを衣とし
てまとわせる。わたしの慈しみに生きる人は 喜びの叫びを高く上げるであろう。」こ
うした神の約束は、愛から生じるものであり、その約束の成就のためにはその愛に応
答する愛が求められているのである。しかし、人間はあまりにも自己中心的で、神の選
んだところを神の裁きに対しての身勝手なまでの避難所扱いにしたり(エレミヤ7:8-
15)、営利化できる資産と考えたりした(マタイ21:12-13)。
 17-18節は、メシア預言である。ここにメシア預言が記されているのは意味深い。
契約の箱は、エルサレムがBC586年にバビロンによって攻略されたとき地上から姿を
消してしまったのであり、また、ゼるバベルによって補修・再建され(エズラ5:2BC515)、
ヘロデによって大改築された神殿はといえば、AD70年にローマにより姿を消した。こ
れらのことを考えると、AD70年以降パレスチナを追われたユダヤ人たちは、シオンを
想いつつやがて来るべきメシア(17節)の来臨を待ち望んだのである。そして、キリス
ト者にとっては、この17節の預言は、イエス・キリストにおいて成就しているのであ
り、14-18節の内容は、ペンテコステの日に教会が誕生してから、豊かな霊の恵みと
なって注がれている。

2. 関連する新約聖書の聖句
 11節「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。『あなたのもうけた子らの中から 王座を継ぐ者を定める。』」  参考:ルカ1:32「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの座をくださる。」  使徒2:30「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。」
 14節「これは永遠にわたしの憩いの地。ここに住むことをわたしは定める。」 参考:マタイ23:21「神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方に誓うのだ。」
 17節「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。」   参考:ルカ1:69「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」

3. 何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編を書いた預言者がだれであれ、彼は信仰者らの名において、王国や神殿が衰滅するのを神が許すことなく、かえって双方ともに堅く立て、守り保ってくださるように、と神のその約束を想起させる。

詩編を読む・2018.6.20    詩編131篇

詩篇131篇
1. 詩編131篇を読む
 表題に「ダビデの詩」とあるように、ダビテの霊性がより濃く表わされた詩篇と言える。ダビデの霊性は、いつまでも、主の家に住み、主を信頼する者たちの模範であった。その意味において、御子イエスは、まさに、ダビデの「主」であられた。
 詩のテーマは単純明快、主を信頼することの重要性を簡潔に語っている。しかし、わたしたちには人間の原罪性があるがゆえに、信頼することは どれほど難しいことか。そのわたしたちに、神は、神を信頼するとは どういうことかを見せてくださった。それが、この詩編に見られるダビデの模範であり、それは紛れもなく御子イエスを指し示すものであった。御子イエスは、ご自分を無にして肉体を取られ この世に来られて、神を信頼することを表してくださったのである。イエスは、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか。」という弟子たちの質問に答えて、一人の子供を呼び寄せ「実物教育」をされたことがあるマタイ18:1⋯4。まさにその時主が教えられたことは、この慎ましいともいえる短かな詩編の内容そのものであった。
 短くても貴重なこの詩編を読みながら、捕囚前のイスラエルに預言者イザヤが伝えた言葉を思う。イザヤ30:15「まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」
 (参考までに) A 短い詩編であるが、諸訳を読み比べ、訳の苦心のほどと、うたわれている内容の深さに心を留める。
 <口語訳> 1.主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と くすしきわざとに関係いたしません。2かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりご のように、安らかです。3.イスラエルよ、今からとこしえに 主によって望みをいだけ。
 <新改訳2017>1.主よ、私の心はおごらず 私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに 私は足を踏み入れません。2.まことに私は 私のたましいを和らげ 静めました。乳離れした子が 母親とともにいるように 乳離れした子のように 私のたましいは私とともにあります。3.イスラエルよ 今よりとこしえまで 主を待ち望め。
<岩波訳>1.ヤハウェよ、わが心は思い上がらず わが目は高ぶらず、自分には大きすぎることや 不思議すぎることに、わたしは関わりませんでした。2.本当に私は、宥め 静めたのです、わが魂を。子が母親から乳離れするように、わが魂は私から乳離れしました。3.待て、イスラエルよ、ヤハウェを、いまより、とこしえまで。
 注:1節「関わりませんでした」の直訳は、「…の中を私は歩かなかった。」/2節「本当に」イム・ローの直訳は「もし私が…しなかったのなら」で強い肯定を表す。/2節最後の2行は、同節前半を比喩での言い換え。
<フランシスコ会訳>1.主よ、わたしの心は思い上がらず、わたしの目は驕り高ぶりません。わたしは大いなることも、身に過ぎた、奇しきことも追い求めません。2.むしろ、わたしは魂を鎮め、和らげました。乳離れした幼子が、母の懐に憩うように、わたしの魂はわたしのうちに憩うています。3.イスラエルよ、主を待ち望め、今からとこしえに。  
注:本詩は、主に対する幼子のような信頼を歌った珠玉編である。
<バルバロ訳>1.主よ、私の心は高ぶらず、私の目はおごらない。私は、身に余ることを、偉大すぎることを、追おうとしない。2.むしろ、私は魂をしずめ、やわらげた、母から乳離れした子のように。私の魂は、乳離れした子のようだ。3.イスラエルよ、主によりたのめ、今も、世々に。  注:平和な魂は何の不安も虚栄もなく、神に身を委ねる子供の心にたとえられている。
B 1節の 奢りと高ぶりは、詩編1篇の神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者 の本質といえる。実に、人類初の人殺しは神と隣人に対するカインの「高ぶり」から始まり、また、詩編2篇に描かれる主への反乱は、諸国の人々や王たちの高ぶりから始まった。奢りと 高ぶりは、今日にいたるまで、自らにも他者にも悲劇を招いている。

2. 関連する新約聖書の聖句
1b節「大き過ぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。」   参考:ローマ12:16「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」
 2節「わたしは魂を沈黙させます、わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。」   参考:マタイ18:3「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」   コリント一14:20「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」

3. 何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1節「主よ、わたしの心は決して高ぶらず、わたしの目は高慢でありません。わたしは大きく、そしてわたしには隠された事柄のうちを歩みませんでした。」  わたしの心は決して高ぶりません と彼が言うとき、あらゆる風評、厚顔、驕慢、不正な大胆さ の源に言及していることになる。人間がその欲望の手綱を緩めるに至るのは、彼らが空中に飛び上がり、この世の上と下とをかき混ぜ、混乱させるからでないとすれば、いったいどこから起こるのであろうか。手短に言えば、その大胆さのゆえに、彼らが無分別に身を投ずるのは、彼らが高慢にはじけ裂けているからにほかならない。反対に、このような心の高ぶりが正されるとき、万人は慎みのうちを歩むことになるであろう。

詩編を読む・2018.6.13    詩編130篇

詩篇130篇
1.詩編130篇を読む
 この詩編は伝統的に、「悔い改めの詩編」(6、32、38、51、102,130、143篇)と呼ばれている七つの詩篇の一つである。「悔い改め」とは、単に自分の犯した罪を後悔するのではなく、積極的に神の赦しを信ずることである。
冒頭の「深い淵の底から」は、まさにこの詩の表題にふさわしい。「深い淵」は、一般的に絶望に近いことの比喩としてそれ自体で説得力があるが、聖書で言う「深い淵」とは何だろうか。この理解のために、詩編69篇(3,15節)は光を投げかけてくれる。 
そこでは、自分の愚かさと数々の罪過の比喩として(69:6)、また、周囲の人々の憎しみ(5節)や嘲り(8,10,12,20,21節)を意味する言葉として用いられており、そこで明らかにされているのは、苦悩の深い淵に対しては、自力救済の手立ては何の答にもならないということである。
 聖書には、最も暗いどん底にありながら、その「深い淵」で試され、神への信頼が練られていく物語は多い。例えば、エジプトの牢獄の生活を余儀なくされたヨセフ、異邦人伝道のためにフィリピで牢獄に厳重に入れられたパウロとシラスなどを挙げることができる。ただし、彼らの「深い淵」は彼らの罪によってもたらされたものではなく、敵という存在によってもたらされた状況であった。
3,4節では、この詩編での苦悩の性質が明らかとされる。それは、先ほど述べたように、敵の迫害などによるものではなく、罪の意識による苦悩である。自分の「愚かさと数々の罪過」によって「深い淵」に立たされたとき、取り返せない人生に苦しみ、その人はこれで自分の人生は終わったとの絶望に置かれる。自分を助けるすべを見い出せず、自分ではどうすることもできない。ただ、心乱した自分が主にすがり、主を待ち望むのである…。
 この「耐ええない」罪に苦しむ者の贖いをなすのは誰か。「深い淵」にたとえられる罪と悩みや痛みの一切が、新約聖書では、イエス・キリストの上にふりかかったことを明らかにしている(ローマ15:3)。すべての人の罪を負い、悩みを叫ばれた主なるキリストが、深い淵のさなかにまで降りてきてくださった。まさしく、「豊かな贖いは主のもとに」(130:7)ある。
 この詩編も前編と同様、「わたし」は「イスラエル」を代表する集合人格になっている。これを読むわたしたちも、「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに。豊かな贖いは主のもとに。主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる。」とのキリストにある希望を力強く告白する。
最も暗いどん底にありながら、そこから解放されるのを信じて待つためには、神への信頼が不可欠である。その信頼は「深い淵」で試され、練られる。決してあきらめることのない神への信仰こそ「いのち」そのもの。この詩篇は失意の中にある者たちに今も呼びかけている。

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、だれが耐ええましょう。」   参考:エフェソ6:13「だから、邪悪な日に良く抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい。」  黙示録6:17「神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。」
 4節「しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。」   参考:ローマ2:4「あるいは、神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」
 8節「主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる。」   参考:ルカ1:68「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、」   テトス2:14「キリストがわたしたちのためにご自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだったのです。」  マタイ1:21「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨より)預言者は、災禍によって打ちひしがれそうなのに気づいて、熱心に救出を
願い求める。彼は自分が神の御手によって懲らしめられるのは当然であると思いなが
らも、確かな望みを抱くようにとすべての信仰者に向かって勧める。
 6節「わたしの魂は朝(を待つ)衛士にもまさって、主(を待ち望みました。)」  預
言者は、彼が衛士よりも早いと言うとき、このたとえを通して、自分がどのような熱心
さと心弾む思いをもって神を待ち望むかを示している。他方、彼がこの個所で用いて
いる反復は、堅忍のあかしである。このように語るとき、彼は自分がいつも同じ気分を
もち続けるということ、変わることのない恒常心をもつ、ということを意味している。
 門の夜警についての文意は単純に次のようである。すなわち、「門の夜警は朝には他
のすべての者よりも、もっと早く目を開け、他の早起きの者よりも、もっと早く起き
る。それぞれが割り当てられた場所につくためである。そのように預言者の心は神を
求め、大いなる熱意を込めて急ぐのである」と。
前述のとおり、反復は、彼がその細心の見張りを、いつも変わりなく守り通した、と
いうことを示す。

詩編を読む・2018.6.6    詩編129篇

詩篇129篇
1.詩編129篇を読む
 ほとんどの国は、自分たちが‘成し遂げた事柄’を回顧するものであるが、ここではイスラエルは自分たちが‘何を生き延びてきたか’を思い起こしている。それは「若いときから」の言及から察せられるように、出エジプト以来の苦難の旅路である。
イスラエルの歴史を見ると、エジプト、バビロン、ペルシァ、ギリシャ、ローマ時代の中で、幾度も民族絶滅の危機に遭遇した。まさに苦難の連続である。その絶滅の淵から、神の不思議な助けによって「彼らはわたしを圧倒できなかった」(2節)と告白し続けることができたのである。彼らは、苦しみの過去から勇気を得て、感謝をもって神と向き合い、敵たちには反対をもって向き合ったのである。
1、2節では、「イスラエルは言うがよい。…彼らはわたしを圧倒できなかった。」との宣言が告げられている。ここで、イスラエルとわたしは同一である。これは旧約聖書の特徴的な思考方法の一つで、「集団」と「個」が両極端にではなく、集団を代表する個人は集合人格として現わされる。その個人はバビロン捕囚二世であったとしても、出エジプト以来(つまり生まれたときから)苦しみの境遇にあったというのである。
 「彼ら」とは、5節「シオンを憎む者」であり、「主に逆らう者」(4節)「わたしを苦しめ続けた」(1,2節)者である。
 勝利の宣言の背景にあるものに注目したい。背景にあるのは、想像を絶する苦難である。それを3節では「耕す者はわたしの背を耕し 畝を長く作った。」と表現する。イスラエルを、鞭打たれた人物として示し、背中のみみずばれを耕された畑の畝と表現する。そのような苦難の中でイスラエルが生き延びたのは、彼らの保護者(神)の支えであることを、この句は沈黙のうちに証ししているのである。
 しかし、この証は、彼らが経験したことよりももっと高い水準へとわたしたちの目を向けさせる。それは、自ら進んで受け入れた苦難、キリストの苦難についてである。イザヤが「打とうとする者には背中をまかせ」(イザヤ50:6)と言って示している、イスラエル自体の力量をはるかに超えた代替的犠牲としての苦難である。このことをイザヤは「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」(イザヤ53:6)と告げる。
 一読して、この詩編全体が「呪いの詩篇」のような印象を持つかもしれない。しかしそうではない。そのことを、鍋谷堯爾氏は8節の訳に注目して解く。
 (参考) 岩波訳  そして通行人は言わない、「ヤハウェの祝福があなたたちに」と。われらはあなたたちを祝福する、ヤハウェの名において。
     鍋谷訳  通りがかりの人も、「主の祝福があなたがたにあるように」とは言わない。(しかし)私たちは主の名によってあなたがたを祝福する。
 鍋谷氏は、後半の5節からは、敵に対する呪いの言葉であるが、8節は、内容的には4節と同じ内容の言い換えをもって結びの言葉としているとして、注解する。
 「主にあっては、どのような逆境の中でも、それが祝福に変えられる。5-8aに表現されている敵を呪いたくなるような心境であっても、最後の結びの一言『わたしたちも、あなたがたを祝福する』、つまり、詩編全体の『幸いなことよ』のもとにあることを知って、呪いと憎しみは、赦しと愛に代わるのである。」

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが 彼らはわたしを圧倒できなかった。」   参考:コリント二4:8-10「わたしたちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨―カルヴァンはこの詩編が教えることを三つの部分に分ける)
・神は神の教会をもろもろの悩みや苦しみにさらされるが、それは教会が神を解放者、また保持者として、より明確に認知するようになるためである。
・神が、神の民がいつの時代にも、いかにみじめに苦しめられ、いかに奇跡的に守られてきたかを思い出せるのは、来るべき時への望みを、いっそう堅くするためである。
・後半部では預言者の祈願のかたちをとりながら、神は、何の理由もなしに神の民を苦しめる者たちすべてに対し、神の報復の間近いことを教える。
 1、2節「今こそイスラエルは言え。『彼らはわたしの若い時から、しばしばわたしを
苦しめた。かれらはわたしの若い時からくりかえしわたしを苦しめた。しかし、彼らは
わたしに対して何もなすことができなかった。』」   単語ひとつひとつが重さを持
っている。イスラエルよ、今こそ言え、と。すなわち、各自は昔日の経験を注意深く思い
見、そこからさらに、神の民はいつの時代でも苦難を忍ぶ他なかったこと、またもろも
ろの苦しみによって験されたのち、常に幸いな結末をもって終わったことを、推察す
べきである。預言者が‟敵ども”を彼らと一般的に語るとき、アッシリア人とかエジプ
ト人とか名指しで言ったよりも、もっと強烈に、受けた苦難を表すことになる。この世
が無数の敵で満ちていることと、悪魔が造作なく善人らを滅ぼそうとすることを知っ
てもらいたいからである。
 預言者が二度にわたって、彼らはわたしを苦しめた、彼らはわたしを苦しめた、と言
うが、この反復は決して余分ではない。神の民は一度や二度だけ戦うのでなく、その忍
耐は絶えざる修練によって試される、ということをわれわれが知るためである。

詩編を読む・2018.5.30    詩編128篇

詩編128篇
1.詩編128篇を読む
 主にある平穏な祝福が、この詩編では、敬虔な個人(神の前にある人)からその家族へ、そして最終的にはイスラエルへとたどられていく。敬虔が安定と平和への実を結んでいくのである。
 この詩の冒頭は「幸いなことか」(アシュレー)である。短い詩編の中に二回用いられている(1節,2節)。そして、「主を畏れる人」も2回現れる(1節,4節)。この「幸いなことか」と「祝福」(4節,5節)との間に、「主を畏れる人」の生活が具体的に描き出されているのである。
 1.「主の道に歩む」こと(1節)。
  これは義務としての歩みではなく、喜びと平和を伴った歩みである。
  参考:ヨハネ10:16「…その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、  一つの群れとなる。」
 2.「勤労の実を食べる」こと(2節)。まさに先週学んだ詩編127篇の内容である。
 3.「家庭が幸せである」こと(3節)。「妻」は豊かなぶどうの房をつける木にたとえられ、子らはオリ  ーブの若木にたとえられている。そこには、いじめ、反抗、暴力の影はなく、明るさ、笑い声、愛、喜びに満ちている様子が浮かび上がってくる。
 大切なことは、詩編の記者が、このような家庭がただ個人のもので終わるのではなく、「シオン」と「エルサレムの繁栄」と「イスラエルの平和」とに結びついていることを明らかにしていることである。
 個人や家庭の幸福は、教会の豊かさと平和とに結びついている。イエス・キリストのからだである教会は、夫婦のあり方(エフェソ5:22⋯33)、子供たちと親のあり方(同6:1⋯4)を規定して、そこにイエスの愛が反映するように導いているのである。
 (参考までに)
 ・「ぶどうの木」(3節)は、豊かな実りの象徴である。
 ・「食卓を囲む子ら」(3節)は、直喩「オリーブの若木」として鮮明に示されているように、将来の希  望と祝福である。
   なお、詩編にオリーブの木が出て来るのは、多くはない(52:10)。この木はどんな荒れ地にも耐  えて良く生育する活力をもっていると言われている。また、この古木の周辺からは多くの若枝が出てく  る。この若枝を切って冠を作り、マラソンの勝利者に与えたことから勝利者のしるし、祝福のしるしと  された。まさに主を畏れる者の子どもたちは祝福のしるしであり、確かな祝福の継承が約束されている。
 ・「主を畏れる」ことについて。
   日本語による「ヘブル語大辞典」を編纂した名尾耕作氏は「主を畏れる」ということについて、神を畏れた人物の例としてヨブやアブラハムをあげて、次のように説明している。
「これは、神を畏敬するということより、神を全身全霊をもって信ずることです。」「人にはまったく不条理に思える真理を信じるということです。すなわち、神への全幅的信仰であります。これが、人生の『知識』『知恵』の初めであり、基本であるのです。」
つまり、「主を畏れる」ことは、「主を信じる」ことと同義なのだというのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 5,6「シオンから 主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見 多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和。」   参考:ガラテヤ6:16「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」(個人と家族の将来はシオンの繁栄と「イスラエル」の繁栄とにかたく結びつけられている。神の民の敬虔さは個人主義的なもの自己充足的なものになる可能性があるが、上にある「天のエルサレム」(ガラテヤ4:26)の真の市民であることにかたく結びついていることに心を留めたい。)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) 「-者は幸いです」で始まるこの詩編には前の詩篇と共通な点があり、いわば付録である。預言は、全人類に及ぶとあかしされている神の祝福が、主として、真実で欠けのないしもべら のうちに認められる、と論ずる。
 1節「主を恐れ、その道を歩む者は幸いです。」   前の詩篇において、ただ神の恵みのうちに、すべての事象、およびわれわれの全生涯に、良い結末を期待すべきであると言われたので、この箇所で預言者は、神の祝福に与る者となることを願う者は、万事においてひたすら神に従うべきことを教え諭す。
 第1節に要旨が含まれ、他の節は説明的に付け加えられている。「神を恐れる者は幸いである。ことにこの現世に置いてそうである」との立言は、一般的な考えではなく、百人にひとりといえども、進んで同意を表すものはいないであろう。大部分の人間は盲目であって、神の摂理を考慮することも味わい知ることもないのである。
 ここで「主を恐れるものは幸いである」と言われているのは、一般的な考えとは反対のように思われる。それだけに、われわれとしては、「幸いである」ことを知るにあたっては、神の保護のもとに身を隠すこと以上に願わしいことは何ひとつとしてないことに心を留めて、このことについての瞑想を深めなければならない。

詩編を読む・2018.5.23    詩編127篇   

詩編127篇
1.詩編127篇を読む
 この詩編は、1,2節と3-5節の二つの部分から成る。このため、「内容的には全く関係のない二つにはっきりと分かれる」と言って、別々の詩歌だと考える者もいる。しかし、よく考えてみると、「内容的にはまったく関係がない」とは言い切ることはできない。
 人生の旅路を考えてみても、家を建てること(1a節)、地域の社会が平和であること(1b)、仕事があり勤労の報いに与ること(2)、子供が与えられ、しかもその子供たちが親を助け立派に成長していること(4,5)は望ましいことである。しかし、現実には理想を描くようには運ばない。
この鍵は、1,2節に三回用いられている「主(ヤハウェ)」という言葉にある。人生の旅路において、常に主を見上げ、主を愛して歩む人は幸いである。住まいを得るときも、居住する地域の安全も、職場や家庭での生活も、子供の教育も、すべては主から来ると告白できるのである。その確信を1節は仮定法「~のでなければ」で見事に表現している。これは、「主がこうしてくださるならば、必ずこうなる」という確信である。「主ご自身が建ててくださるならば、家を建てる者の働きは決して無駄にはならない。」等々である。
 しかしながら、この「ソロモンの詩」に述べられている教訓は、皮肉にもそのほとんどはソロモンにとって益とはならなかった。ソロモンは父ダビデの遺志をついで、神殿を建て終わったときに「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕がささげる祈りを聞き届けてください」と切に祈った(列王記上8:23ー53)。祈り終わって、イスラエルの全会衆を祝福して告げるのである。「わたしたちの心を主に向けさせて、わたしたちをそのすべての道に従って歩ませ、先祖にお授けになった戒めと掟と法を守らせてくださるように」(同8:58)と。肝心なことは、わたしたちの心を主に向けることである。
 ところが、そのソロモンが、背信に走った。(列王記上11:1以下)彼の結婚は神を否定する悲惨なものとなった。彼が外国の女性たちを愛したがゆえである。ソロモンは「あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」(同11:2)との神の仰せを軽んじたのである。このため、彼の死後、国はイスラエルとユダの北と南に分裂した。(参考:歴代誌下7:17-22)
(参考までに   デレク・キドナーより)神からの賜物は奇跡的であると同時に控え目なものである。この詩編の二つの部分は、創世記11章の最初の段落(シンアルの地に住みついた東の方から移動してきた人々)と最後の段落(テラの生涯)によってよく説明されている。そこでは人は栄光と安全確保のために建造するが、大失敗をもたらすだけである。一方、神は無名の人テラに静かに一人の息子を与え、この息子の祝福がそれ以後急激に増加したのである。
 
2.関連する新約聖書の聖句
 2「朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしことではないか 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」   参考:マルコ4:26,27「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。』」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) 預言者は、この世の政治的、また国内的な状態は、人間の勤勉、熱心、また知恵によるのではなくて、ただ神の祝福によって、完全な姿に留まり続けると証示する。しかし、子らの繁栄は神の時別な賜物である。
 2節「朝早く急いで起き、遅く床に就くこと、悲哀のパンを食することは、あなたにとってむなしくなります。なぜならば、このように、主は本当に愛する者に、憩を与えられるからです。」   今やソロモンは、人が空しく労して身を損ね、富を獲得せんとして欠乏からやせ細る、と言う。ソロモンはひとりびとりに向かって語りかける。「あなたがたが朝起き出すことは」と彼は言う「空しい」と。ソロモンはここで、富を積むにはなはだ有効と思われている二通りの途について述べる。労を惜しまずに働き、昼夜を勤労に用い、働いたものをわずかしか用いずに生活する者たちが、短期間で富を得るとしても、少しも不思議ではあるまい。(しかし、ソロモンは、もう一つの途を指し示す)ソロモンは、謹厳な生活も、勤勉さも、何の益ももたらさないと確言する。中庸を得た生活を送り、朝早く起きて労働につくことを彼が禁じているのではなくて、われわれに祈りと神への願いを勧め、神のもろもろの尊き物を感謝するように励まし、
神の恵みすべてを危うくするような者を顧みないようにさせるためである。それゆえに、われわれは神のみを頼りとするとき、始めて正しい出発をすることになる。結果もまた、われわれの願望通りになるであろう。もしもだれかが神を顧みることなく、せっせと急ぐとすれば、彼は大急ぎで破滅へと赴いていることになる。
 預言者の意図は、人間が何もしないように誘い、怠惰に終わるようにすることではない。かえって、神が彼らに命じられることを遂行するとき、彼らは常に祈願し、神の御名を呼び求め、神にその労働をささげ奉る。そのとき神は、それらを祝福されるであろう。

詩編を読む・2018.5.16    詩編126篇

詩編126篇
1.詩編126篇を読む
 ユダヤ民族の歴史は苦難に満ちている。シオンの復興の喜びをうたい上げるこの詩の背景には、バビロン捕囚の体験があると考えることができる。
 BC586エルサレムは新バビロニア王ネブカドネツァルによって破壊され、神の民は粉々に打ち砕かれた。飢えと戦いで死ぬことを免れた人々は、捕囚の身としてバビロンに移された。そして、彼らは痛み・苦しみの中「深い淵の底から」(同130:1)主に呼ばわった。その声に耳を傾けられた神はご自分の民を完全には見捨てられず、ペルシア王キュロスの心を動かし、エルサレム神殿再建のために民を帰還させたのである(エズラ1章)。キュロスは神を恐れてそうしたのではなく、ただ、異国の民を囲うような政策は益とならないという政治的な判断によって、彼らを元いたところに戻したのであった(宗教弾圧政策ではなく寛容政策)。
このことは、ユダヤ人にとっては1節にうたわれているように、夢のような出来事であった。彼らだけではない。諸国の人々も「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と驚嘆の声をあげた。
わたしたちの神は、この世のすべての権威、主権の上に立つ存在であり、この世の王たちをも動かすことができる。力と知恵の源は、主のみにある。奇跡的に捕らわれから連れ帰られた民は、この主により頼む。自分の力を過信して依り頼んだり、この世のなにものかにより頼んだりする必要はない。ネゲブの流れは、乾季には川床をあらわす一筋の道にしかすぎないが、雨が降ると川は溢れすべてを潤す。そのように、神が共におられるとき、今は枯渇しているように見えても、神は必ずあふれる恵みをもってきてくださるのである。
 5節6節は同義である。「涙と共に種を蒔く」とはどういうことだろうか。この箇所をしばしば伝道の働きにあてはめ、涙ながらに苦労して伝道するなら束を抱えるような収穫を得る、と理解されてきた。しかし、それに限らない。結婚式や献堂式などの場面にも適応されて、人生の奥義を短くうたい上げている句として味わい深い。
 主イエスが語られた種まきのたとえ (マタイ13:18-23ほか)を、この詩編と関連づけて読むことができる。「涙と共に種を蒔く人」は、福音書では「御言葉を聞いて悟る人」に相当する。前後関係からみると、艱難、迫害、世の思い煩い、富の誘惑、その他の困難の中で、涙を流しつつも、神の蒔かれた御言葉の種を心の中にしっかりと保ち続ける人のことである。
(参考までに)「種」とは神のことばであり、「種の袋」とは神の律法の書(トーラー)のことと理解したい。捕囚の身であっても、神の民はその所で神のことばの種を自分の心の中に蒔くことを、神は願われた。良い地に種が落ちて実るように である。良い地とは涙によって耕され、柔らかくされた心。

2.関連する新約聖書の聖句
 1節「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。」   参考:使徒言行録12:9「それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。」
5節「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。」   参考:ガラテヤ6:9「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨―カルヴァンは内容を三つの部分に分ける)
・信仰者たちが捕囚から帰国したのは、幸運とか人間の恩顧によるのではなく、神の導きによる救出である。預言者はその恵みを大いにほめたたえる。
・神がひとたび開始されたみわざを完成してくださるようにという祈りが続く。
・未だに信仰者の肉眼には明らかでないとしても、完全な回復は、長い待望から生ずる悩みを和らげる。さらに、現在においては種子は涙によって湿っていたとしても、刈り入れが喜ばしことを確言する。
 6節「行くときには、彼らは種子の代価をもち、涙を流しながら行くでしょうが、来るときには、束をかかえて、喜びのうちに帰り来るでしょう。」   ユダヤ人のバビロン移住は、彼らにとっては、いわば種播きの時期であった。神はエレミヤの預言を通して、彼らの心を刈り入れの望みにまで高められたのである。農夫は、苛酷でいとわしいことであるが、刈り入れを望みつつ種子を播く。しかも、飢饉の時期には農夫はすでに飢えを感じているのに、日常の食物を節約し、来るべき年の播種に備えるのでる。これら農夫が飢饉に際して貴重な種子を地に播くにも劣らぬほど、ユダヤ人が捕囚として連行されたときには悲しんだことは確かである。しかし、彼らが救い出されたとき、喜ばしい刈り入れが続いたのである。主が豊かな実りによって、彼らを喜びで満たされたからである。
わたしには、預言者が信仰者たちに向かって、将来に対し忍耐強くあるように、と勧めていると思われる。教会の復元はいまだに成就していなかったからである。(神の国の到来までは、)信仰者は常に、勇気を失うことなく、しかも刈り入れの確かな望みを喜びながら、もろもろの絶え間なき困難を通り抜けて前進しなければならない。やがて、よりよい結末が彼らの前に現れることであろう。

詩編を読む・2018.5.9    詩編125篇    

詩編125篇
1.詩編125篇を読む
 (1,2節)「主に依り頼む人」が揺らぐことがない「シオンの山」(エルサレム)にたとえられている。その揺るぎなさは、主が「取り囲んで」いてくださるからである。しかも、「今も、そしてとこしえに」(2節)。神の保護を賛美し、主への信頼をうたう。
 この詩編に出てくる「主により頼む人」(1節)、「主に従う人」(3節)、「良い人」(4節)、「心のまっすぐな人」(4節)は、みな同義語であり、原文では複数形であらわされている。
 ところで、「主により頼む」ということは決してたやすいことではない。イスラエルの歴史をみても、神は幾度も、主が言われることを守り、従うように教えられているが、神の民イスラエルはそうした歩みをしなかった(参考:エレミヤ6:14、14:19など)。危機に臨んで、預言者が主を信頼するように語っても、それを素直に受け入れず、神に頼ることなく軍事力に頼り、異邦人の神々に頼ったのである。主を信頼することは、本来の人間にはそれほどに難しい。
 では、「主により頼む人」、「主に従う人」、「良い人」、「心のまっすぐな人」とは、どういう人なのであろうか。3-5節の内容から考えさせられる。例えば、「主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように」「よこしまな自分の道にそれて行く者を 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください」という祈りは、「主により頼む人」が自己過信するのではなく、そうした危険から守られるように、積極的に言えば悔い改めの心を求めている言葉であることが分かる。そして、「良い人」と訳されている言葉は、本来、その人が正しさを持っている、そのような徳のある人ということではなく、自分自身のうちに何らの価値もないが、ただ憐れみに より頼んでいる者、それゆえに義と認められた「義人」の意を持っているのである。つまり、その人自身も、他人の地所を侵したり、悪に手を伸ばしたりする可能性があるのであり、だからこそ主の慈しみをいつも必要としているのである。
 それゆえに、主の民は、エルサレムが周りの山々に囲まれて安泰なように、主に取り囲まれ、どのような時にもあらゆる危険に対しても安全であるにもかかわらず、(5b節)「イスラエル」の上に「平和」があるようにと、祈るように求められているのである。
 「イスラエルの上に平和がありますように」という言葉は、(わたしには二重の意味で伝わってくる)闇に取り囲まれた主の民が、闇の力に負けることなく、主の憐みの中にとどまり続けることができるようにという願いであるとともに、神が「とこしえに、囲んでいてくださる」ことを確信する信仰の祈りでもある。
(参考までに)
「囲んでいてくださる」ということについて。
敵の手が届かないように完全に主によって防御されているという意味。
そうした防衛の保障の中に取り囲まれることによって、わたしたちははじめて何事にも恐れることなく、主の御心のうちに大切なことに専心できる。パウロは、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている*」と記す。コリント二5:14
*「囲んでいる」「しっかり捕らえている」「捕えている」「虜にしている」に訳されている。
左右、前後、上下、すべての領域において、キリストの愛に取り囲まれていることを堅く信じている者に対して、敵はその者を倒すことはできない。そうした神との信頼の絆が確かにされることによって、いろいろな環境においても動かされない祝福を受けることができる。

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「主に従う人に割り当てられた地に 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。」   参考:使徒言行録12:1「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、」
5節b「イスラエルの上に平和がありますように。」   参考:ガラテヤ人への手紙6:16「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)信仰者たちはこの世にあって、不信の徒と入り混じって生きており、人生につきもののあらゆる悲哀にさらされているので、預言者は彼らをエルサレムにたとえつつ、無比の防御壁によって守られていることを証示する。時として神は、彼らが悪しき者らの悪意によって苦しめられるのを許されるとしても、預言者は彼らの確かな望みを抱くように勧める。
 4節「主よ、善良な者、また心の直きものに、恵みを施してください。」  預言者はすべての信仰者に向かって、神の時宜に適った助けを、確かなこととして約束しているが、しかもなお祈りへと向かうのである。それは、決して理由のないことではない。たとえ信仰がわれわれを支えるとしても、われわれの肉の思いが揺れ動く限りは、われわれを強めるための祈りを混じなければならないからである。
それゆえに、われわれも預言者のこのような模範に倣うことにしよう。預言者はすべての信仰者に向かって、信頼を持つようにと勧めたのち、同時にただ手をこまねいて、惰眠を貪るのではなく、神へと向かい、祈りを通して、神がみことばにより待ち望むようにと命じられたものを、願い求めよ、と勧告する。

詩編を読む・2018.5.2    詩編124篇

詩編124篇
1.詩編124篇を読む
 124篇は「イスラエルよ、言え」で始まる。ダビデは、神の民全体に、救いの御業への感謝を勧め、呼びかける。その救いは、想像を絶するような困難な状況からの救いである*。それが、7節の「逃れ出た」という言葉によって、表現されている。
* 黒崎幸吉:イスラエルが非常なる危険にさらされし時、エホバの助によりてその危機を脱したる時の歌であって、その危険の思い出が未だ生き生きとして作者の胸にせまるものがある。
この「逃れ出た」と訳されている言葉は、(「のがれた、逃れた」(口語訳、岩波訳)、「助け出された」(新改訳))神の恩寵を表す言葉(マーラト)であり、人間的な力を越えた大きな力、死とよみの恐怖、滅びの穴、破滅の穴から救い出す、抜け出す、あるいは罰を免れるという意味で使われている。
 例: 聖書で最初に使われているのは、創世記19章。主がソドムを滅ぼすとき、ロトに対して、その町から命がけで山に「逃れる」ように、しかも振り返らずに「逃れる」ようにと言われた。
 124:7では、この言葉は二度使われているが、文法的には完了形である。ヘブル語の完了形は預言的完了形とも呼ばれているので、まだ起こっていないことでも確実に起こることは完了形で表わされる。従って、この詩編ではイスラエルの存続が危ぶまれる事態にあっても、確実に、「救い出される」ことを語っていると言える。
 困難な事態を、ダビデはいくつかの表象で描写する。2-7節の表象である。これをイスラエルの特定の歴史的な状況にはあてはめることは困難である。出エジプトからバビロン捕囚まで、どのようなイスラエルの逆境にも当てはめて考えることができるからであり、あるいは実際に起こった出来事に限らず、これから襲ってくると予想する困難にもあてはめることができるからである。
 表象として描きだされている事柄
  ・人々がイスラエルの民に逆らって立ち、呑み込もうとした。 
  ・敵意の炎(怒り)が燃え上がった。
  ・大水、激流、おごり高ぶる大水(逆巻く水)が、滅びる寸前にまで押し寄せた。
  ・(獅子にたとえられた)敵は、もう少しで歯のえじきにしようとした。
  ・鳥が仕掛けられた網に包み込まれた。
 この表象は、現在においても、わたしたち信仰者に襲いかかってくるさまざまな逆境に対して当てはめることができる。「わたしたちを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」という主の祈りの切実さは、このような背景から生まれるものである。
これらの困難な状の中で、なお信仰者には大きな支えがある。
「主がわたしたちの味方でなかったなら」が二度繰り返されていることをしっかりと受けとめておきたい。この表現は仮定法であるが、実際は「主はわたしたちの味方であられた」という内容を一層強く表現しているのである。
新共同訳、新改訳は「主がわたしたちの味方」であるが、他の訳も見ながら、原文の意味を少しでも深く受け止めたい。
文語訳: 今イスラエルはいうべし ヱホバもしわれらの方にいまさず 
人々われらにさからひて起りたつとき ヱホバもし我儕のかたに
在さゞりしならんには
口語訳:  主がもしわれらの方におられなかったならば
岩波訳:  もしもヤハウェが われらのものでなかったなら
ヴァザー: われらと共なる主がもしおられなかったならば
その実際は、わたしたちの信仰の確信に結びつく。最後の8節の「わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある」という確信である。
その信仰の確信をうたうダビデは、造られたものにではなく造り手に目を上げる。わたしたちもまた、わたしたちの 上を見上げる目は、わたしたちが逆境にあればあ
るほど、天地を造られた主が、このような取るに足りぬ小さな者を愛して、助けようとしておられる姿を、肉の目には見えなくてもはっきりと見る。

2.関連する新約聖書の聖句
 6節「主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。」   瞑想のために:マタイ6:13「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)教会がはなはだ大きな危険から、神によって救い出されたので、ダビデは信仰者たちに向かって、神に感謝をささげるように奨める。そしてこの記念すべき実例を介して、彼らの救いが、ただ神の恵みと大能のうちのみに、基を置くことを諭告する。
 2節「われらの味方なる主がおられなかったならば、人々がわたしたちに逆らい立つとき、」預言者が同じ文章を二度にわたって反復するのは、決して理由なくしてではない。危険に陥ろうものなら、われわれの恐怖は限度をこえるものであり、ついで、そこから救い出されたのちは、災禍の大きさを低く見るものだからである。悪魔はこのようなたくらみによってわれわれを騙し、神の恵みを忘れさせようとする。なんとしばしばわれわれは、主によって奇跡的に守り保たれたのち、神の恵みの記憶を拭い去ろうとして、もろもろの絵空事を捏造することであろうか。それゆえにこれらの言葉を通して手綱がわれわれに課せられている。われわれの出会った危険を冥想するのをやめることなく、心のうちから神の恵みの感覚が消えうせることのないためである。

詩編を読む・2018.4.25    詩編123篇

詩編123篇
1.詩編123篇を読む
先に120篇で記したように、「都に上る歌」と呼ばれている語は本来「上ること」の
意であり、文字通りには「見ることの歌」「見上げる歌」である。この123篇では、「恥」と「嘲笑」に苦しむ信仰者が、天の御座におられる神を見上げる。外からの攻撃は信仰者を打ち砕く。信仰者は、打ち砕かれたどん底から、ちょうど僕やはしためが主人のどんな小さな手の動きにも目を留めているように、天の御座に着いておられる主を仰ぐ「見上げる歌」なのである。
 1節では、目を上げるのは「わたし」であるが、2節以下は「わたしたち」と複数になっている。おそらく外からの苦しみで飽かされている(飽和状態になった・いっぱいだ)どうすることもできない逆境の中で、まず共同体全体の代表者が祈りはじめたと考えられる。それは、同時に一人ひとりの切なる祈りでもある。
 「目を上げて」(1節)は、信仰を持って神に心を向ける姿である。「目」はヘブル人には存在全体を意味している。作者は、全存在をかけて祈る。神に祈り求めることは、ただ一点、それは3節で繰り返されている主の「憐れみ」である。「憐れみ」は、キリエ・エレイソン(主・憐れみたまえ)の祈りの歌としてキリスト教の歴史の中では定着している。それほどに深く信仰と結びついたものであるので、聖書の記述の中から折に触れて冥想しておきたい。
例 ダビデが姦淫の罪を犯した後に祈った祈り―詩編51:3「神よ、わたしを憐れんでください。…深い御憐みをもって 背きの罪をぬぐってください。」あなたの豊かなあわれみによって、 わたしの背きの罪をぬぐい去ってください」
ルカ福音書1章(マリアの賛歌)(ザカリヤの賛歌)―強調されていることは、「主の憐れみ」。
ルカ福音書18章でイエスのたとえに示されている、義とされること―「罪人のわたしを憐れんでください」と祈った徴税人。
  これら、すべてはその人の全存在をかけての祈りである。
 用語:この詩編に出てくる二つの軽蔑用語
・「恥」(ブーズ)  「さげすみ」(新改訳、フランシスコ会訳、岩波訳)、 「侮(あなど)り」(口語訳、関根訳)、「恥」(新共同訳)
・「嘲笑」(ラアグ)  「嘲り」(口語訳、新改訳、フランシスコ会訳)、「あざ笑い」(岩波訳)
 この二つの意味をあわせたような軽蔑用語として、ヘルパーがあり、そしり、辱め、
ののしり、侮辱、恥、さげすみ、あざけり、非難、叱責といった意味にあたる。
 キリストの生涯において、最初は人々のイエスに対する称賛が見られたが、パンの奇蹟以後、次第に民衆はイエスから離れていく。そして、十字架においてはこの上ない嘲りとさげすみと侮りを受けられた。まさに十字架は恥辱の十字架。にもかかわらず、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」(ペトロ一2:23) 

2.関連する新約聖書の聖句
 4節「平然と生きる者らの嘲笑に 傲然と生きる者らの嘲りに わたしの魂はあまりにも飽かされています。」   (主の十字架を思う) 参考:ののしられてもののしり返さず

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編においては、敵どもの残虐さによって苦しめられた信仰者たちが、神を解放者として呼び求める。神の保護以外には、何の望みも見出さないからである。
 3節「主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちを憐れんでください。」
ここで用いられている反復は、激しく燃えるような感情を表わし、同時に極度のみじめさの絶頂を示す。更にまた、嘲笑に暴力が加わるとき、それは善い心の持ち主を、いっそうのこと蝕むのである。そこで預言者は、あたかもそれがあらゆる災禍の絶頂であるかのごとく、嘆き訴える。「富める者と高ぶる者」(4節)とは教会を嘲笑する、と彼は言う。この世において身分の高い者たちが、神の民を軽蔑し、嘲弄することはいつでも起こるからである。彼らの偉大さの輝きと勢力とが、彼らの目を眩ませ、神の霊的支配に対して何も考えなくさせるのである。悪しき者らにとって万事がうまくいき、言ってみれば幸運が彼らに微笑むとき、それだけ彼らは傲慢に膨れ上がり、いっそう激しく泡を吹く。同時にこの章句は、富み栄えるこの世の子らが教会を軽蔑するとしても、それは少しも目新しいことではない、と教える。
教会全体が悪しき者らの暴行、残虐、欺瞞、その他の法外な努力、それに汚辱と嘲笑とを重荷に感じてきたことを、常に心に留めなければならない。そのようなものは、風の運び去る塵、あるいはこの世のくず、糞土と見なさるべきである。聖パウロが言うとおりである。コリント一4:11-13「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。…侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまでわたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」
 似たようなことが今日われわれの上に降りかかるとき、邪悪な者らを傲慢に膨れ上がるままに放置しようではないか。そうすれば、彼らはついに破滅するであろう。われわれにとしては、神がわれわれを大切なものとみなされることで、足れりとしよう。

詩編を読む・2018.4.18    詩編122篇

詩編122篇
1.詩編122篇を読む
 1節「主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。」 
 なぜ、「うれしかった」のか、考えておきたい。神の民として選ばれ、同じ信仰を持つ同胞もいる。それは大きな喜びに違いない。その喜びをわたしたちも共有したい。目指すエルサレムは世界の中心であり、そこで主の十字架の贖いがなされ、キリスト教会が誕生した。そこから福音が全世界に伝えられていく。さらに、エルサレムは、天にあるエルサレムを指し示す見える形での象徴(天の都エルサレムの写し)である。
 「そのエルサレムと主の家が見えてきて、巡礼者たちは到着したのである。1節の「うれしかった」という喜びが、「エルサレムよ、あなたの城門の中にわたしたちは立っている」と2節で表現されている。この主の家の光景が、長く、そして骨の折れる巡礼の頂点である。
これに相当するキリスト者の道のりと到着を、ユダは見事に頌栄で表現しているので、詩編121,122篇とに照らして読んで見よう(ユダ24節)。すなわち、「あなたがたを罪に陥らないように守り」(参考121篇)、「また、喜びにあふれて非の打ちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方」(参考122篇)にささげられる頌栄である。
 3節「エルサレム、都として建てられた町。そこにすべては結び合い」
巡礼の目的地「エルサレム」、そこはイスラエルの民のすべての部族を一つにまとめる神の都である。イスラエルは「多くの部族」からなる一家であり、それぞれが明確な特性を持ちながらも一つにまとめられていた(参考 創世記49章、申命記33章)。
ここでは「すべては結び合い」に注目したい。
この語には「一緒に」という副詞が添えられていて、大変強い「結び合い」が表わされている。対立しているように見える二つの部分も結び合う。民族的な視点では「ユダヤ人と異邦人」、キリスト者個人の視点では「霊の人と肉の人」など、さまざまな領域において対比的にみられているものが結び合うのである。
考えてみよう、平和を求めながらも、隔ての壁を作ろうとする自分がいる。愛にあふれた思いを感じながら、苦々しい思いを抱く自分がいる。感謝と喜びを感じながら、妬みを覚える自分がいる。このように考えると、「結び合う」とは決して容易ではないことが分かる。聖霊の助けによって、まずは何が「肉」なのかを気づかされなければならない。そこから「平和があるように」との言葉は、実現されていくのである。
122篇はこのエルサレムの平和のために祈れと呼びかける。
 8,9節 エルサレムは、キリスト者にとっては教会のことである、との視点に立って読む。→ 「2.関連する新約聖書の聖句」
2.関連する新約聖書の聖句
 8,9節「わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように。』 わたしは願おう わたしたちの神、主の家のために。『あなたに幸いがあるように。』」  
    イスラエル人にとってのエルサレムはキリスト者にとっての教会である。ここには、知人であれ未知の人であれ、彼の「兄弟姉妹の知人」でありもっとも緊密なつながりがある。巡礼者仲間として一つの中心地(エルサレム/教会)に引き寄せられているのである。そして、住民にどんな限界があったとしても、エルサレムは神が御自分の家を建てるのにふさわしいとされていた所であった。それゆえに、平安(繁栄)があるように、との祈りは最小限(上限はない)のことであった。なお、キリスト者にとっては、地域的な境界線というものはない。
  参考:ヘブライ12:22-24「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、
生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」
     ヘブライ13:1「兄弟としていつも愛し合いなさい。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 7、8節「平和があるように」  平和という語は、繁栄という意味にほかならない。この語は時としては「憩」という意味にもなるが、多くは「豊かさ」や「繁栄」を意味する。そこで文章の主旨はこうなる。つまり、ダビデは教会の内側においても、またその外延においても、繁栄があるようにと祈っているのである。更にダビデが教会の外的な繁栄を祈る時、彼は主に、その外面的な見かけがどうかを心に留めているのではなく、同時に霊的な状態を考えていることに注目すべきである。
 8節ではダビデは、「ああエルサレムよ。わたしはあなたの平和について語ろう。決して自分自身や、身内の者の利得のためではなく、繁栄がすべての子らに押し及ぼされるように」と。この兄弟たちという語によって預言者が、すべての信仰者たちを表していることは、疑えない。その後すぐに預言者は第二の理由を付け加える。それはエルサレムが富み栄えないかぎり、神礼拝は欠けることなく留まることができず衰退するからである。…教会がどうなろうとも憂いを抱かない者は、神への恐れを持たない、と結論される。もしも教会が「真理の柱、その基礎」(テモテ一3:15)であるなら、その破滅によって、真の敬虔も消え失せるようなことが起こっても良いはずがないからである。そして、もしも体が損なわれるならば、その肢体すべても、同じ危険に巻き込まれないではすまない。

詩編を読む・2018.4.11    詩編121篇

詩編121篇
1.詩編121篇を読む
 「都に上る歌」の中で、この篇だけは「都に上るための歌」という表現になっている。巡礼の旅には、その途中に苦難に遭うかもしれない。追剥にあったり、道に迷ったり、飢えや渇きに悩まされたり、などのことを考えると不安が伴う。人里離れた地域を行く巡礼者にとって、保護は差し迫った問題なのである。
 巡礼の不安は、わたしたちの人生における不安に通じる。詩篇の作者が大いなる守りと安全を必要としていることを感じると同じように、わたしたちも、医療、福祉、年金など、生存や安全や防衛の 保障の問題に直面し、不安を抱え、守りと安全を必要としている。それぞれにいろんな助けの道が講じられているが、究極の不安からわたしをまるごと(全人格的に)受け止め支えてくれる助けはどこにあるのか、と言った点でもこの詩を味わいたい。
 作者はまず自分に向けて問いかける。「わたしの助けはどこから来るのか」と。その問いかけに、もう一人の自分が答える。「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」
 この確信こそがこの詩篇の核心である。続けて3節からその確信を支えるかのように、「天地を造られた主」がどのような方なのか、より深く知ることができるように、この詩は語る(3~8節)。
 3節の「ない」を表す表現は、要求や命令を表すときに用いられる表現である。(→ 足がよろめかない    まどろむことなく) 従って、3節は祈りとして捧げられているのであり、その祈りが4節とそれに続くすべてが、断固とした確信によって答えられる。‟主があなたの足をよろめかせず…主がまどろむこともありませんように”との祈りに、「見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない」という約束の答えが続くのである。その約束は、巡礼者のさしあたっての関心事から生活全般の守りへと及んでいく。
 (主は) まどろむことなく、眠ることもない。(5節) 
あなたを見守り、あなたを覆い、あなたの右にいます。(5節)
すべての災いを遠ざけて あなたを見守り、あなたの魂を見守られる。(7節)
あなたの出で立つのも帰るのも 見守られる。今も、そしてとこしえに。(8節)
 この詩編のキーワードは「天地を造られた主」であると言える。この方こそ、詩編120篇にうたわれた 救いの真の解決者であり、回復の根源者と言える。神は、モーセに対しては「わたしはあるという者」だと自らを啓示されたが、「天地を造られた方」創造者としてご自身を啓示されたのは、捕囚の民たちに対してであった。預言者イザヤは回復の預言の中で、偶像の神と対比しながら、繰り返し、創造者である神について語る。詩篇121篇にも偶像の神との対比が見られる。6節「昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない」の表現に、それが表われている。
 ヨセフ・シュラム牧師(ユダヤ人のキリスト者)によると、太陽とはエジプトの神、月とはバビロン、ペルシャ、シリアの神のことで、この6節はそうした神々を信じている国々から守られることだという。
エジプトもバビロンも偶像の神を造り、それに頼っているが、それゆえに大国ではあっても、イスラエルの民を撃つことがない。預言者イザヤは捕囚の民に対して、‟天と地を創造された神こそすべての助けの源泉である。偶像の神ではない。その方はどんな状況からでも回復させることができる方なのだ”と、繰り返し語るのである。
参考:イザヤ42:5 「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。」  イザヤ44:2 「あなたを造り、母の胎内に形づくり あなたを助ける主は、こう言われる。」
日本には偶像の神はあっても、創造の神に対する信仰はない。わたしたちの持っているすべての必要、すべての助け、より深い根源的な闇からの救いをもたらす方は、天地を造られた神しかいないという確信こそ、この世を巡礼するわたしたちにとって重要なもの。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」 参考:使徒1:21「そこで、主イエスがわたしと共に生活されていた間、」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) 信仰者に対して神の援助を待ち望むように励まし、その保護に身を委ねることを教えるため、この詩篇はまず、われわれがどちらへ目を向けようとも、他の所に確かな支えを見出すことはできない、と言う。
 1節「わたしは山に向かって目を上げます。そこからわたしの助けが来るであろうからです。」  預言者はまず、不信者の言い方を借りて語る。…預言者の意図は明らかである。たとえこの世の最も有力な支えが、われわれの眼前に示されようとも、しかも神をほかにしては、いかなる教えや守りをも求めようとしてはならないということである。人があちこちと治療薬を求めて心を煩わし、疲れ果てたのち、彼らはついに体験を通して、ただ神のうちに、確かな支えのあることを感知するであろう。
 山という語によって、預言者はすべてこの世の偉大なものを言い表わしている。あたかも彼はこういうかのごとくである。この世の壮麗な事物が、われわれに微笑みかけ、われわれをほめそやす時、このような好意をいっさい頼みとしてはならない、と。

詩編を読む・2018.4.4    詩編120篇

詩編120篇
1.詩編120篇を読む
詩編120-134篇は「都に上る歌」と呼ばれている。「都に上る」と訳されている
語は、実は「上ること」という意味しかない(直訳は「上りの歌」で、「都」という
言葉はない)。
エルサレムへの巡礼の意 ― 「都に上る歌」(新共同訳)、「都もうでの歌」(口語訳)、「都上りの歌」(新改訳)
エルサレム神殿詣での意 —「宮詣での歌」(岩波訳)。
 「都」「宮」とはエルサレムのことであり、神の臨在する場所として意味深い。終末においては、エルサレムは天のエルサレムの写しであるから、やがて神の民たちが住む「天の故郷」(ヘブライ11:16)、「生ける神の都」(ヘブライ12:22)の比喩ということができる。わたしたちも、天の都をめざす巡礼者なのである。
 「都に上る歌」として一まとまりになっている詩編群の中で、詩編122:2、同132:7—9、同133では、信仰者はすでにエルサレムの神殿の前に立ってうたっているようである。あるいは、巡礼の途中で神殿での場面を思い描いていたのかもしれない。では、詩編120篇は、なぜこれら15の詩編の最初に置かれているのだろうか。
 1節の「苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった。」が、15の詩篇に共通しているからではないか、と考えることができる。信仰者の目はいつも天の御座におられる主に向けられているのである。それは、地の果てであれ、エルサレムへの旅の途中であれ、エルサレムについて神殿の前に立つときであれ同じである。
 この1節は味わい深い。いくつかの訳を見ておこう。大きく二通りに訳されている。
 「苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった。」新共同訳
 「苦しみのうちに私が主を呼び求めると 主はわたしに答えてくださった。」新改訳
 「わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると、主はわたしに答えられる。」口語訳
 「悩みの時、主に呼び求めると、主は答えてくださる。」フランシスコ会訳
 実は、1節の動詞は二通りの意に訳することのできる完了形なのである。つまり、信仰の体験であると同時に、信仰者の確信を表す完了形でもある。体験と同時に確信、信仰的体験でもあり確信を表す表現ということが、120篇を理解する鍵であり、15の篇を貫いているのである。
 2-7節でみられるのは、一つには、辺境にいる者の嘆きである。バビロン捕囚の後、ユダヤ人たちは離散の民として二千五百年余の間、メシェクよりも北にまでも広がり異郷の地に居住する運命を背負った。わたしたちは、すべて福音からは遠くにある(辺境)苦しむ人々をここにあてはめることができる。もう一方は、隣人が敵であることの嘆きである。「欺いて語る舌」「平和を憎む者」を隣人に持つほど不幸なことはない。今日でも、世界のいたるところに「欺いて語る舌」「平和を憎む者」は満ちている。
 その中で信仰者の望みは、わたしたちの避け所であり、力であり、苦しむときの助けの「神」にある。
(参考)メシェクは小アジア北東部の山岳民族(創世記10:2、エゼキエル32:26)、「ケダル」は死海南東部のイシュマエルの子孫の遊牧民(創世記25:13)。両方とも、闘争を好む異民族の象徴と考えられる。この5,6節は、異邦人の間で生活していたことを詩的に表している。

2.関連する新約聖書の聖句
 (120篇から引用されている聖句や関連している聖句は指摘されていない。ここでは、120:6,7節にある「平和」について述べる。)
 6,7節で言う「平和」は、単に戦いのない状態としての平和ではなく、神によって祝福された現実を意味する。聖書の中では福音の理解に欠くことのできない重要性を持つ。聖書によれば、神は「平和の源」(ローマ15:33)であり、イエスは「平和の主」(テサロニケ二3:16)である。また、神を信じて神の子とされた者たちは「平和を実現する人々」(マタイ5:9)と呼ばれ、福音は「平和の福音」(エフェソ2:17)と呼ばれている。
 ローマ15:33「どうか、平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、」
テサロニケ二3:16「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えてくださるように。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 カルヴァンはこの詩の「わたし」をダビデであるとの理解に立って注解する。
 5節「ああ、悲しいかな。わたしはメシェクで寄留者となり、ケダルの天幕のうちに留まりました」。メシェクとケダルは東方の民族である。創世記10章2節が示すように、前者の先祖はヤペテ、後者はイシマエルの子孫であった。それでここで預言者がアラビア人を呼んでいるにしても、この語のもとに比喩的に自分自身の国の民について語っていると理解しなければならない。…注目すべきは、彼は自分の国に生活しているのに、寄留者のごとくであったということである。大いなる苦痛を抜きにしては、悪しき者と交わることができなかったからである。
 ダビデが、「ああ悲しいかな」と叫ぶのは、偽兄弟やアブラハムの私生児の種族の間に留まり、彼らによって悩まされ、苦しめられたからである。もっとも、彼が清い良心をもってこれらを耐え抜いたのも事実である。それゆえに、今日でも教皇主義のもとに、キリスト教信仰があらゆる不名誉をもって汚され、信仰は粉々となり、光は暗闇に変えられ、神の尊厳が惨めなほど愚かな愚弄にさらされているのを目にするとき、神への感謝を心にとめる者には、実に多いなる苦痛である。

詩編を読む・2018.3.28    詩編119篇

詩編119篇
1.詩編119篇を読む   97-128節(メム~アイン)
 詩編119篇は、聖書を表す八つの類義語によって、神の御言葉がいかに貴重で高価な宝石であるか*をうたい上げる。ヘブライ語のアレフからタウまでの22文字**による22の詩連によって、神の言葉についての祈りと省察の詩として親しまれている。各連は八つの連続する節よりなる。
 *119:72「あなたの口から出る律法はわたしにとって 幾千の金銀にもまさる恵です。」
 **アレフ、ベート、ギメル、ダレト、ヘー、ヴァヴ、ザイン、ヘット、テット、ユッド、カフ、ラメド、メム、ヌン、サメク、アイン、ペー、ツァディ、クフ、レーシュ、スィン(シン)、タウ
1節は(アシュレー=幸いなことよ)で始まる。これは詩編1:1と全く同じ記述である。1篇に記されている「主の教え(トーラー)を愛する」(1:2)喜びが、詩編119篇には最大限に開花している状態をわたしたちは読みながら教えられる。そして、信仰生活の絶望や逆境の中での嘆きの言葉がうたわれている詩編を読むときにも、読む人の心の中には、この‟アシュレー=幸いなことよ”は響いているのを知るのである。
 1:1に始まる‟アシュレー=幸いなことよ”は、2:12、32:1,2、33:12、34:9、40:5、41:2、65:5、84:5,6,13、94:12,112:1に用いられ、この119篇でクライマックスに達する。なぜなら、1:1で、「いかに幸いなことか」と呼びかけられた人は、1:2で「主の教え(トーラー)を愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」、と言われている人であり、そのように昼も夜も主の教えを思い巡らす人は、詩編19:8-12の広がりに導かれ、119篇の壮大な‟主の教え(トーラー)”を賛歌する全き神への信頼に生きるからである。
 中心になるのは主の教え(トーラー)であるが、その意味は類義語により多面にわたる。「律法: 1,18,29など、仰せ: 11,38,41など、御言葉: 9,16,25など」、「定め」(2,14,31など)、「命令」(4,15,27など)、「戒め」(6,10,21など)、「畏れ」(38)、「裁き」(20,39,43など)、「道」(1,3,5,14など)、「掟」(5,8,16など)。
 1:2で、喜びとして昼も夜も口ずさむと言われる「主の教え」トーラーについて、119篇(119篇では同じ言葉を「律法」の新共同訳で25回)の中から、今回は味わってみたい。1:2に続き、119:77,97,174を読んで見よう。
 1:2(いかに幸いなことか)「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」
 119:77「御憐れみがわたしに届き 命を得させてくださいますように。あなたの律法はわたしの楽しみです。」
 119:97「わたしはあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。」
 119:174「主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。」
 読みながら、聖書の生きた世界がわが前に生き生きと広がるのを感じるのではない
だろうか。祈りと学びによって聖書に生きる喜びを大事にしていきたいものである。
(参考)各連についての一口コメント  
アレフ:1:2の思想の展開・119篇のまとめ  ベート:若い人に焦点   ギメル:信仰者は旅
人、辱め侮りを受けつつも御言葉によって生きる   ダレト: 試練のなかで   ヘー:日常の
誘惑から守られ、積極的に神の御言葉に服従   ヴァヴ:勝利への祈りと決意と確信     
ザイン:見下されても神の御言葉をますます慕う   ヘット:神に逆らう者がいても、神を畏
れる人の励ましとなる   テット:苦しみの持つ意味が鮮明、ますます御言葉に生きる   
ユッド:悩みも一切のものも神から  カフ:絶え果てんばかりの中でも御言葉への信頼に生きる
ラメド:御言葉により永遠普遍なる神への信頼に生きる   メム:心砕いて御言葉を愛している
ヌン:わたしの道の光・御言葉   サメク:掟から迷い出る者   アイン:純金にまさる戒め
ペー:光が射し出でる   ツァディ:苦難と苦悩を乗り越える  クフ:近くにいてくださる主
レーシュ:命を得させてください   スィン(シン):トーラーをどこまでも愛し続ける信
仰者の態度  タウ:神への叫び、神への賛美

2.関連する新約聖書の聖句
 新約に引用されている句はない。関連する句については、以下に()内で示す。
 3節(ヨハネ一3:9、同5:18)、6節(ヨハネ一2:28)、11節(ルカ2:19,51)、24節(ローマ7:22)、33節(マタイ10:22、へブライ3:6、黙示録2:26)、34節(ヤコブ1:5)、36節(ルカ12:15、テモテ一6:10、ヘブライ13:5)、46節(マタイ10:18、使徒26:1,2)、50節(ローマ⒖:4)、59節(ルカ⒖:17)、62節(使徒16:25)、66節(フィリピ1:9、ヤコブ1:5)、67節(ヘブライ12:5⋯11)、83節(マタイ9:17、マルコ2:22)、84節(黙示録6:10)、89節(マタイ24:35、ペトロ一1:25)、99節(テモテ二3:15)、113節(ヤコブ1:8、4:8)、134節(ルカ1:74)、136節(フィリピ3:18)、142節(ヨハネ17:17)、152節(マタイ5:18)、162節(マタイ13:44)、165節(ヨハネ一2:10、マタイ13:41)、176節(ペトロ一2:25、マタイ18:12、ルカ⒖:4)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (カルヴァンはこの詩編には多くの論題があるので手短に述べることは難しい、とことことわりを入れて、次のように要約する。)預言者は神の子らに対し、善かつ聖なる生活をするようにと勧める。ついで彼はまことの神礼拝の掟と方法を示す、それは信仰者が、律法の教えに全く傾倒せんがためである。また彼は、律法に対する邪悪な軽視に関する嘆きをも混入する。信仰者が邪悪な実例によって、自分を汚すことのないためである。しかし、ある特定の論題について一続きに扱っているわけではない。それぞれの場所で各論点について語るほうがよいであろう。 

詩編を読む・2018.3.21    誌篇118篇

詩篇118篇
1.詩編118篇を読む
 今は、受難節第五主の日。「ハレルヤ詩編」(113~118篇)の最後の詩編は、主イエスが最後の食事を取って述べられた告別の言葉(ヨハネ14-16章)、そして祈り(同17章)の後、ケデロンの谷を渡ってゲッセマネへと行かれた時に何回か歌われたのであろう。この詩を読みながら、ゲッセマネの園へのおよそ5-600mの道を一歩一歩踏みしめながら闇の中を進むイエスと弟子たちの姿を思い描き、歌われた当時を偲ぶ。
 (1節)「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」  どんなに闇のごとくに暗く、前には目に見えぬ困難があったとしても、何より心に留めたいことは、「主に感謝することが大前提」であること。その困難、苦しみは誰にも受け止めてもらえないかもしれない。だが、そうであればこそ、(5節)「苦難のはざまから主を呼び求めると 主はわたしを解き放たれ」る。「解き放たれる」は、「わたしを広やかな地へ導かれた・置かれた」ということである。このことは、イスラエルの信仰者たちの信仰経験であり、また主イエスと弟子たちのこの地上での歩みであった。そして、それは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」(マタイ16:24)キリストに従うわたしたちの歩みでもある。
 6節の「人間はわたしに何をなしえようか」の挑戦的な叫びは、ヘブライ13:6に引用されている(関連する新約聖書の聖句)ように、わたしたちの叫びであり、ダビデの叫びであった(詩編56:12)。ダビデが言うように「神に依り頼めば恐れはありません。」
 10—12節には、「主の御名によって」が三回繰り返される。どのような困難や敵に対しても、囲まれても「御名には大いなる力がある」(エレミヤ10:6)を確信する。
 13‐16節を、出エジプト記15章「海の歌」と合わせて読んで見よう。この118篇を歌った人たちは、出エジプトの時のイスラエルの救出とシナイ山での旅を思い描いたに違いない。118:14節は、出エジプト15:2aからのそのままの引用であり、15節(そして28節)は、その海の歌の反復として響いている。また、「主の右の手」という賛美の繰り返しの中にも、「海の歌」は響いてくる(出エジプト15:6,12)。
19—21節は意味深い。「わたし」とは、「主に従う人々」とは、「あなた」とは誰か。王御自身が御自分の功績によって「正義の城門」に入り、苦難を通して全うされたということは、わたしたちの信仰の栄誉である。22節は、最後の晩餐の数日前、イエスが祭司長やファリサイ派の人たちに、ぶどう園の結びとして引用された。ケデロンの谷でこの賛美を歌う主イエスには、捨てられる石となることがはっきりと見えていたのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 6節「主はわたしの味方、わたしはだれを恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。」   引用:ヘブライ13:6「だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。『主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。』」
 15節「御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。」
参考:ルカ1:51「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、」
 18節「主はわたしを厳しく懲らしめられたが 死に渡すことはなさらなかった。」 参考:コリント一11:32「裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。」、 同二6:9「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようでいて、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、」
 22節「家を造る者の退けた石が 隅の親石となった。」   引用:マタイ21:42「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」、同様の引用箇所…マルコ12:10,11、ルカ20:17、使徒4:11、エフェソ2:20、ペトロ一2:7
 23節「これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」 引用:(再掲)マタイ21:42
 26a節「祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」   参考:マタイ21:9、23:39「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」、同様の引用箇所…マルコ11:9、ルカ13:35、19:38、ヨハネ12:13
 27a節「主こそ神。主はわたしたちに光を与えられた。」   参考:ペトロ一2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 カルヴァンはこの詩の「わたし」をダビデであるとの理解に立って注解する。
(要旨より)ダビデは、もろもろの危険についてその多様さについて語る。ダビデがそうした危険から逃れることができたのは、神が驚くべき仕方で彼に助けを与えられたからである。そこから容易に結論されるのは、彼が王の位に即いたのは、自分の勤勉さゆえでも、人間たちの行為によるのでも、何らかの人間的な手段によるのでもなかった、ということである。それと共に、彼は出まかせに前進したのでもないし、またサウルの帝国を奪取しようとする邪悪な陰謀を企てたのでもなくて、神によって王とされたということを例証する。この例証は、地上的な例証のもとに、神の御子の永遠で霊的な王国を叙述することにあったことを、想起しようではないか。

詩編を読む・2018.3.14    詩編117篇

詩篇117篇
1.詩編117篇を読む
 詩編117篇は、詩編の中で最も短い詩編、わずか17の単語からなるものであるが、実に広がりのある賛美の歌である。すべての国々が主をほめたたえるようにと招かれている。
 この全世界に向けられた招きの賛美は、主の最後の晩餐の時には、最後の杯の後でオリーブ山へ出ていくときに歌われたと考えられているが(マタイ26:29—30)、もしそうであれば、この短い詩に歌われている壮大な思想を、その時、弟子たちのだれが理解していたことであろうか。わたしたちは受難節のこの時、ここに歌われている内容をより深く理解し、味わいたい。
 過越しの小羊が屠られ、その血がかもいに塗られたとき、救いはイスラエルに限定されていた。そのイスラエルに限定されていた救いを記念として覚える晩餐に、イスラエルという民族の枠を超えて全世界を主への賛美に招く詩編117が歌われたのである。この時、この深い内容を心から理解して歌ったことであろうか。しかし、主イエスは、御自身の十字架の死がイスラエルのためだけではなく、全人類のためのものであることをはっきりと見通しておられた。
 ヨハネ12:20~には、過越しの祭りの時に礼拝するために何人かのギリシャ人たちが、主に会いたいと挨拶に来たと記されている。この時、最後の時が来たことを自覚しておられた主は、「人の子が栄光を受ける時が来た。…」(12:23)と答えられた。救いがユダヤ人たちだけではない異邦人にも及ぶことを見通しておられたからである。
詩編33:12の「いかに幸いなことか 主を神とする国 主が嗣業*として選ばれた民は」、とうたわれている内容は、今、イエスの十字架によって実現しようとしていたのである。主イエスは、目の前に置かれている十字架の死と苦しみの向こうにある栄光を見ておられた。パウロは、これを「秘められた計画」(奥義)と言う。その計画(奥義)とは、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属するもの、同じ約束にあずかる者となるということです。」(エフェソ3:6)   * ご自分のゆずり、ご自分のもの、などの訳あり
 現在、世界各地に紛争は絶えず、政権交代も続いている。この連鎖を断ち切るのは、ユダヤ人と異邦人の隔てを取り除き、異邦人たちの間の敵意を廃棄させる主イエスの十字架をほかにしてあるだろうか。主が十字架にかかられたのは、すべての国が主を賛美し、すべての民が、主をほめたたえるためである。「主の慈しみとまことはとこしえに わたしたちを超えて力強い。」   
 ところで、主イエスの十字架がユダヤ人と異邦人の隔てを取り除くこと、言いかえればイスラエルにかたく約束されていた「主の慈しみとまこと」が全世界に向けられたものであるということは、聖書が旧約聖書から一貫して説いていることである。
・ イスラエルの召しは、全世界のためのものであった。
   創世記12:2-3「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あな
   たの名を高める。…地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」
   出エジプト記19:5-6「…あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝
   となる。世界はすべてわたしのものである。…」
   列王記上8:41—43「…こうして地上のすべての民は御名を知り、あなたの民イ
   スラエルと同様にあなたを畏れ敬い…」
・ 異邦人が、唯一の真の神を礼拝することに喜んで加わる日がくると言う希望を、旧約聖書は育んできた。
   参考:詩編96篇「…新しい歌を主に向かって歌え。…諸国の民よ、こぞって主
に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ。」
 この真理をイスラエルが信仰によって知ったとき、自分たちの存在理由と置かれている特権に深く気付いたに違いない。(参考:詩編147:19—20)
 これらのことを、パウロはローマ15:7~で、詩編117を引用して、解き明かす。ユダヤ人と異邦人キリスト者が互いに相手を受け入れ、共に主をほめたたえるのである。
 このこと(詩編117)が実現されるためには、ユダヤ人、次いで異邦人の救いがなされて実現するのではない。むしろ、その反対で、異邦人の救いの後に、<ユダヤ人たちの民族的な救い>がなされてはじめて実現するのである(ローマ11:25,26)。その意味ではこの117篇は、「預言的詩篇」と言うことができる。
  参考:パウロが述べるイスラエルの再興の時 ― ローマ11:25‐36 を読み、
    わたしたちも 神の救いの御計画に触れ…、‟ああ、神の富と知恵と知識の
   なんと深いことか”との思いに導かれる。

2.関連する新約聖書の聖句
 1節「すべての国よ 主を賛美せよ。すべての民よ 主をほめたたえよ。」   引用:ローマ⒖:11「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1節「すべての国民よ、主をほめたたえよ。すべての民よ、主をたたえまつれ。」
聖霊は預言者の口を通じて、すべての国民に対し、神の憐憫と真実とをたたえ・歌うようにと奨励しているので、聖パウロがローマ人への手紙15章11節において、この預言を根拠として、異邦人の召命が予告されていると主張するのはもっとものことである。

詩編を読む・2018.3.7   詩編116篇

詩篇116篇
1.詩編116篇を読む
 カルヴァンが注解しているように、極度の困難の中で神に救いを見たダビデがその受けた恩愛にただ感謝のほか報いるすべはないと告白している詩編であるが、この詩篇の特徴を考えつつ味わいたい。
 なによりも特徴的なことは、1節「わたしは主を愛する」の表現、原文には「主」という言葉がなく「わたしは愛する」である。そのあとに「主は嘆き祈る声を聞き」と続くので、愛する対象が「主」であることは明らかである。しかし、普通には、「御名を愛する(詩5:12)、戒めを愛する(詩119:47)、律法を愛する(詩119:97)、主を愛する(申命記6:5)など」の表現であって、ストレートに「わたしは愛する」という表現は珍しく、そして重要な告白である。
 その愛の告白は、「主は嘆き祈る声を聞いてくださる」ことと無関係ではない。わたしの声、願いを聞き、わたしに報いてくださった(別訳:賜ったもろもろの恵み、良くしてくださる)1,2,12節など と告白している。その神のはからいが自分の歩みを決定づけているのである。「主はいつもわたしたちとともにおられる」「主は愛してくださる」という臨在の経験を、神を信じる者として大切にしたい。
 「主を愛する」(I love the Lord)とはどういうことなのかを、この詩編で四つの面から教えられる。これは、自分が主を愛しているかどうかの吟味ともなりうる。
①主を呼ぶ・呼び求める(2,4,13,17節) ― 生涯(生きている限り)、死の綱、陰府の恐怖、苦しみと嘆きの中で、救いの杯をあげて、感謝のいけにえをささげて ―
②主の御前に歩み続ける(9節) ― 命あるものの地で ―
③満願の献げ物をささげる・誓いをつぐなう・誓いを主に果たす(14,18節) ― 主の民すべての前で、主の家の庭で ―
④(どんなときにも)主を信じる(10,11節) ― 激しい苦しみに襲われているとき、不安がつのるとき、人はあてにならぬ信じることができないとき ―
 そして、15節には「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」とある。愛は死をも乗り越える。その意味で、神のための殉教は究極の愛と信頼の証である。(ステファノ、使徒ヤコブ、ペトロ、パウロ…)
 過ぎ越し祭でうたわれた詩編113~118はイエスの弟子たちとの「過越しの食事」にも歌われたことだろう。だれが一番偉いかと議論し、裏切り者もいる、そのような言ってみれば孤立無援の状態で御父を信頼して歩む主イエスに、この時歌う詩編116は大きな励ましになったのではないだろうか。
 そして、「わたしは愛する」という一言にすべてをかけられた主イエスは、弟子たちもまた「わたしは主を愛する」という言葉に生き、死に至るまで忠実(黙示録2:10)な生涯を貫くことを予測されたに違いない。その人の死は主の目には価高い。
 復活されたイエスは、受難のイエスを否んだペトロに「わたしを愛しているか」と問われた。この問いは、わたしたちへの問いでもある。それにわたしたちは自分の意思で答えなければならない。

2.関連する新約聖書の聖句
 7節「わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。」   参考:マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 10節「わたしは信じる 『激しい苦しみに襲われている』と言うときも」  引用:
コリント二4:13「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊をもっているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」
 12節「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。」  参考:
テサロニケ一3:9「わたしたちは、神のみ前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」
 17節「あなたに感謝のいけにえをささげよう 主の御名を呼び(18節主に満願の献げ物をささげよう)。」   参考:ヘブライ13:15「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) ダビデは極度の危険から救い出されたのち、自分が勇気をもって耐え忍ばなければならなかった苦悩と不安が、いかに残酷なものであったか、また彼がいかにして神により、驚くべき仕方で守られたかを語る。彼のうちにあって救いをもたらしたのは、神の大能であったが、それは絶望的な状況にあっていっそう明らかに示されたからである。もしも神が彼を支えられなかったならば、彼はいっさいの望みを失ってしまったことであろう。
こうして、預言者は神に感謝をささげ、自分が受けた数知れぬ恩愛には、感謝のほか報い方はないと告白しているのである。
1節 ダビデは冒頭から、自分が神の恩恵のうるわしさによって、ただ神にのみより頼むように、と招かれていることを明らかにする。ダビデが「わたしは愛しました」と言うとき、それは、神のうち以外には、喜びも憩いも存在しないというに等しい。そこから、神によって願いが聴かれながら、神の顧みと保護のもとにいない者は、神の恵みを経験してもわずかな益しか得ていない者である、というのである。

詩編を読む・2018.2.28    詩編115篇  1~18節

詩編115篇
1.詩編115篇を読む
 115篇全体では、神の不変の栄光と、忠実な者に神が与えてくださる祝福が歌われている。その中で、いくつかの言葉がこの詩の特徴となって心に響いて来る。
 一番大きな特徴は、「主」(ヤハウェ)が13回*も用いられていることである。この詩を歌うものは、自ずと「主」に正対する。その主こそ「天地の造り主」(15節)である。
* 内 2回は短縮形「ヤハ」(17,18節)、1回は〔ハレルヤ〕の「ヤ」。
 1節は、その主である「あなたの御名こそ、栄え輝きますように」との祈りである。
これは、「主の祈り」の中の「御名が崇められますように」との祈りと同じように、本来誰にでもできるといった祈りではない。罪赦され神の恵みと真実に気づかされた者だけが言えることばである。
わたしたちは自分の肉的な思いではなく、「あなたの御名こそ、栄え輝きますように」と御名が崇められることに心を定めたい。神の栄光を現すことが神の子どもたちが存在する目的と言える。御名が輝くことが、わたしたち一人ひとりに輝きをもたらせるのである。
 4-8節では、真の神の<全能性>と、偶像の神の<無能性>が対比され、偶像を礼拝することの愚かしさが表現されている。偶像を造る者も、それに依り頼む者も、これと同じくむなしい。ここに記されている偶像は、バアルの神やアシュタロテの神を超えて、その偶像礼拝の背後にある人間の霊的無知と、生ける神から背いたままの頑なさを指し示すものである。この偶像の現在の実体は、金、権力、イデオロギーであり、心の闇であり頑なさであり、人間の欲望を無限に肯定してくれる偽りの神である。
 そのような闇の世界から立ち返って、ただ主に依り頼み、主に栄光を帰するようにと、主は、イエス・キリストとして現実に地に宿り、十字架の死と復活によって救いを完成されてわたしたちを招いておられるのである。
 9-11節で詩編の作者は「主に依り頼め」(=「主を信頼せよ」)と繰り返し呼びかける。会衆は、一般のイスラエル人、祭司(アロンの家)、神を畏れる者から成っていた。神を畏れる者とは、イスラエル人と祭司を現わすとともにイスラエル人以外の改宗者をも含んでいたのである。「主に依り頼む者」への祝福の豊かさは推し量ることができない(12—18節)。主を畏れる人を主はすべて祝福してくださる。それも死を超えてとこしえに。
 「主に依り頼め・信頼せよ」との呼びかけにわたしたちは心から応え、「わたしたちこそ、主をたたえよう」(18節)。
その「主」は、天地の造り主である神、御旨のままにすべてを行われる神、神を愛する者にはすべてを益としてくださる神、欠けたところそして醜いところのあるこの者を輝かすことのできる神、喜びと共に歩むことができるようにと賜物を与えてくださっておられる神である。自分への信頼ではなく、このような神にこそ日ごと依り頼もう。
 イザヤ30:15「安らかに信頼していることにこそ力がある」。
 
2.関連する新約聖書の聖句
 15節「天地の造り主、主が あなたたちを祝福してくださるように。」   参考:使徒言行録14:15「…皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。」   黙示録14:7「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の、源を創造した方を礼拝しなさい。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(カルヴァンは、その要旨で、この詩編は教会が苛酷な迫害を受けていた時に、教会について口述されたものであるとしている。その観点に立って、1節を次のように注解している。)
この詩編の書き出しは、信仰者たちが極度の絶望の状態にあったとき、神に避けどころを求めたことを示している。…彼らが辛酸の中にあって、いくらかでもそれを軽減する助けを発見したい、と思うのは事実である。しかし、彼らのうちには、神の恩恵にふさわしいものは、何ひとつとして見つからないので、彼らはそれを神に求める。それによって、神がその栄光を守り保たれるためである。このことは注目に値する。
 われわれ自身は、神の顧みを受けるには全くふさわしくないとしても、しかも確固とした望みを抱くことが大切である。神はわれわれの救いにおいて、御名の栄光を現すことを欲せられるのである。われわれが神の子とされたのは、もはやわれわれを見捨てられない、という条件のもとにおいてであった。同時に注目すべきことは、彼らが自分たちの惨状について、嘆き訴えたり自分たちの救いを最初に置いたりはせず、むしろ神の栄光を第一に置くこと*である。
 われわれもまた、神に近づく度ごとに、自分自身の尊貴をかなぐり捨て、神の自由な恵みによる恩愛が、固い望の勇気を与えてくださる、ということを思い起こそうではないか。
コリント一6:20「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」   同10:31「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」

詩編を読む・2018.2.21   詩編114篇  1~8節

詩篇114篇
1.詩編114篇を読む
 この短い詩歌には、神の大いなる御業の躍動するさまが歌われ、その中での喜びと満足が全行にわたって輝いている。
この詩編も「ハレルヤ詩編」と呼ばれる一つであり、慣行として過越しの祭りの時に歌われていた。祭りの日は、自分たちの存在のルーツを神にあって再確認するためのものでもあった。その意味では、ここにはイスラエルに対する神のなさった大いなる恵みの御業が記されている。しかもそれは自然界における神の奇蹟であり、イスラエルの歴史において、神の奇蹟的な介入なしには、今の自分たちは存在していないことが言い表わされている。
1節と2節との間には、イスラエルの地位に劇的な変化が見られることに注目しておきたい。1節では、イスラエルは周囲の「異なる言葉の民」からは孤立していた言ってみればよそ者集団であった。それが、2節では、人との関係ではなく神との関係で記されている。よそ者集団であったイスラエルが、神の一方的な憐れみによって、モーセの召命、十の災い、災いを下す御使いが過ぎ越す出来事を通して守られ、紅海での奇跡的な救いの御業によって、救い出されたのであるが、それだけではない。彼らは「神の聖なるもの」となり、「神が治められるもの」となった。今や彼らは“神の聖さと支配の目に見えるしるし”とされて、神の王国、神の教会の尊厳を持っているのである。
参考:出エジプト19:6「あなたたちは、わたしにとって 祭司の国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべきことばである。」
   ペトロ一2:9「あなたがたは、『かつては神の民でなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」
3節から6節では、紅海の海とヨルダン川での奇跡が単なる自然現象ではなく、神の圧倒的な力によって引き起こされたことが、その表現から伝わってくる。
5節の「どうしたのか」に注目したい。「どうしたのか」と、海や河川や山々に呼びかけている。どうしたのか、海が逃げ去るとは、川が逆さに流れるとは、どうしたのか、山々や丘が雄羊や群れの羊のようにはねるとは、というのである。
では、どうしてそんなことになるのだろうか。それは神が自然界に奇跡的な介入をなされたから。なぜ介入の御業をなされたのか。それは神がご自身の民を愛しておられ、共におられるから。そのために、神はいつでも愛するご自身の民に奇蹟的な介入をなさるのである。このことは、わたしたちが行き詰まりのように見える問題に出合っても、わたしたちがキリストの愛にとどまっている限り、神の奇蹟的な介入があるということである。この信仰に立つとき、わたしたちもまた「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望しない」(コリント二4:8)。
7節では、神の圧倒的な全能の力によって引き起こされた出来事のゆえに、主なる方
のみ前に「地よ、身もだえせよ」と、呼びかけられている。
  参考:「身もだえせよ」と訳されている動詞は苦悩と喜びの両方の意味に分かれているので、NEBでは「地よ、踊れ」としている。詩編96:9では畏れをもって神に栄光を帰する表現として用いられている。
口語訳、新改訳他では、「地よ、主のみ前におののけ。」
「地よ」と言う呼びかけは、直接的には自然界全体に対する呼びかけである。神はご自身の救いの計画の実現のためには、自然界において奇蹟的に介入される方であることを呼びかけているのである。しかし、この呼びかけは、真っ先にキリストに従う者に向けられているのではないだろうか。そのような思いをもってこの詩編を味わいたい。   
イスラエルの民が神の超自然的な介入なしには神の民として存在しなかったように、新約の神の民キリスト者も、同じく、神の超自然的な介入(受肉・十字架・復活)なしには存在し得ないのである。わたしたちもまた、主の御前におののく。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「岩を水のみなぎるところとし 硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に」   参考:コリント一10:4「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」、ヨハネ4:14「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(同7:37,38) 

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要約) これは贖いについての短い叙述である。神は、その民をエジプトから引き出し、約束された嗣業へと導かれ、記憶に値するその大能のしるしを、永遠にわたって与えられた。それはアブラハムの子孫 ― 聖にして特別な民となることを望まれた者 ―が、全面的に神に傾倒せんがためである。
 5節「ああ海よ、どうしてお前は逃げるのか。ヨルダンよ、どうして後へ退くのか。」預言者はここで親しげに海やヨルダン河や山々に呼びかけている。この比喩によって預言者は、人間がもし備えられている知性を用いて神の御業を思い見ようとしないなら、その愚かさは甚だしいものである、と鋭く叱責する。預言者がここで触れている‟海が見る”ということは、人間の盲目ぶりを罪ありとするに十分である。海が乾いたり、ヨルダン河がその流れを逆流させたりするのは、神がこれらを強いて従わせられるようなある指令によるからである。
われわれがこのような言葉と出会う度ごとに、このような大いなる変化のうちに神の御手が明白に輝きわたっている、と答えるのである。

詩編を読む・2018.2.14   詩編113篇  1~9節

詩篇113篇
1.詩編113篇を読む
 1—4節<高くいます神> 冒頭1節は、どこまでも主をほめたたえる言葉である(賛美せよ=ほめたたえよ)。「ハレルヤ」は、「ほめたたえよ(ハレル)」と「ヤハ」(ヤハウェの短縮形)で、「賛美せよ」と訳されている言葉もヘブル語では「ハレル」であるので、1節には3度「ほめたたえよ」がくりかえされていることになる。「主の僕」すなわち、主の御名を信じ、神の御民とされた群れは、三度、すなわちどこまでも主をほめたたえるように招かれている。その賛美は永遠に及び(2節)、宇宙全体にかかわっている(3節)。賛美は、時間においても空間においても限りがないのである。
 5—9節<低く下る神> 5節「わたしたちの神、主に並ぶ者があろうか」と問いかけがなされ、それに答えて「主は御座を高く置き なお、低く下って天と地を御覧になる」と言われている。すべてを超えた至上性を持ちながら、最も低きにまで下るという両極端をしっかりと結ぶつけている独自性を持つ神は、他にはいない。
 この個所の「低く下って」は、七十人訳ギリシャ語では、「謙遜さを帯びられた」と訳されている。また、イザヤ書57:15には113:5節と似た内容が述べられている。
 「高く、あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこういわれる。わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。」
 主なる神は、御自分から進んで身を低くされるのであるが、それによって人間は「打ち砕かれてへりくだる」。そして幸いなことに、高い御座におられる主なる神は、へりくだった人の心に住む、と約束される。超越した神が「低く下って天と地を御覧になる」のである。これは上から目線で下界を眺めているのとは違い、身を低くし、わたしたち一人ひとりをご覧になるというのである。
 7~9節には、「弱い者」「乏しい者」「子のない女」という表現が出てくる。主はこのような者に目を留めてくださったという告白である。 「子のない女」については、旧約時代の女性の立場を理解して考えなければならない。子のないことは、女性にとって絶望的な状況を意味していた。神の顧みを受けていない者として冷たく扱われていたのである。しかし、アブラハムの妻サラやイサクの妻リベカも子のないことで苦しんだが、神は彼女たちに約束どおりに子を与えた。
すべてのものを超越し、他の何ものにも比べることを許さない神が身を低くされたという現実が、やがて神の御子イエス・キリストによって実現するのである。天よりも高いところに座しておられる神が、最も低いところへと下られた。それはわたしたちをして、天の列にすわらせてくださるためである。
「低く下って」について、パウロはキリストの謙遜の様をフィリピ2:6-8で述べ、ついで2:9では詩編113:7,8に対応させるかのように、「あらゆる名にまさる名をお与えになりました」と述べている。そして、それは信仰者の間の「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」る謙遜な愛の交わりの土台であることを明らかにしているのである。
わたしたち一人ひとりは神の目から忘れられた存在ではない。「身を低くして」、わたしやあなたを「引き上げる」ためにかかわろうとしておられる。それはひとえに神の愛のゆえ。なんと感謝なことであろうか。

2.関連する新約聖書の聖句
 詩編113~118の6篇‐これらは「ハレルヤ詩編」と呼ばれ、慣行として過越しの祭りで用いられる一続きの詩篇である(113,114は食事の前、115~118は食後の歌)。主イエスが受難前に歌った最後の詩篇だったと考えられる。   参考:マルコ14:26「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」
 113:7,8「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に 民の自由な(君、高貴な、 の訳)人々の列に返してくださる。」-(この節は、福音が示す大いなる下降と上昇とを先取りしている。)。   エフェソ2:5,6「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、― あなたがたの救われたのは恵みによるのです― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要約) この詩編では、われわれが神をほめたたえるべき根拠が示される。それは、神の摂理のゆえである。神はその高さのゆえに、もろもろの天にまさるとしても、しかも、その目を地上に投げかけるを よしとされ、人を心にとめられる。(それで)預言者は、全く期待に反して生起するもろもろの突然の変化のうちに、神の摂理を考慮することが必要であると教える。
 6節「天と地において起こることを見ようと、身を低くされます。」
 ここで預言者は、神の高さと権勢とを、その大いなる慈恵と対比しつつ、神への賛美をくりひろげる。人間にとって神の栄光はあまりにも恐るべきものなので、神は人間の次元にまでみずからを低くされ、優しさをもって、親しくわれわれをみもとへ引き寄せられるのである。
(この節をカルヴァンは要約して次のように述べる)神がわれわれをみこころにとめられるのは、われわれが神に近いからではなく、神がみずからを進んでご自身を低くされるからであると、解さなければならない。

詩編を読む・2018.1.31   詩編112篇  1~10節

詩篇112篇
1.詩編112篇を読む
 詩編111篇は神の御業をほめたたえることに重点が置かれ、112篇では神を畏れる人の業に重点が置かれている。先週ふれたとおりである。その意味では、詩編111篇10節に告白されている「主を畏れることは知恵の初め」ということを、詩編112篇では展開させていると考えることができる。
 まことの「幸い」(1節)と「祝福」(2節)とは、「主を畏れる」(111:10)ことにある。
(旧約では、「主を畏れる」ということは「主を信じる」「主を愛する」と同義)「主を畏れる」とは、神と人と自分との、本来、あるべきかかわりの在り方を、一語で言い表したものと考えることができる。詩112篇で「主を畏れる人」(1節)を次のようにいろいろな表現で言い表わしている通りである。
(1節)「主の戒めを深く愛する人」、 (2、4節)「まっすぐな人」、 (5節)「憐れみ深く、貸し与え、新改訳自分に関わることを公正に扱う人」、 (6節)「主に従う人」
そして112篇は、この「主を畏れる人」の幸いと祝福を次のように記す。
(2節)子孫はこの地で勇士となる。  (3節)口語訳繁栄と富とがある。 (3、9節)彼のよい業は永遠に堪える。  (6、7節) 口語訳心は主に信頼して揺るがない。 (6節)とこしえに記憶される。 (7節)悪評を立てられても恐れない。 (9節)貧しい人々に惜しみなく分け与える。
ここに描かれているのは、信仰から信仰へ、恵みから恵みへ、と成長していく祝福の姿である。ところが、神を信じて従っているのに、どうしてこんな問題や困難があるのかと思うことがある。それに比べて、神を信じていない人たちの方が、幸せなように見える。そして、つぶやきを口にすることはないだろうか。しかし、同じような困難や試練の中を通されても、神に信頼し賛美と感謝を捧げることを忘れないでいる者たちがいる。その者たちこそ神を畏れる人。
 4節を味わう。「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る 憐れみに富み、情け深く、ただしい光が。」には、111篇、112篇両編の関係がうつしだされている。主を畏れる人には、その人自身のうちに何かがあるわけではなくても、神の光をいただくことによって、光を放つようになる。⇒ イザヤ60:1、フィリピ2:15,16
 その光り輝く具体的な姿とは … (4,5節より)憐れみに富み、情け深く、正しくあること。

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「彼の家には多くの富があり 彼の善い業は永遠に堪える。」(口語訳:…その義はとこしえに、うせることはない。/新改訳:…彼の義は永遠に堅く立つ。)   参考:マタイ6:33「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
 9節「貧しい人々にはふるまい与え その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」(口語訳:彼は惜しげなく施し、貧し者に与えた。その義はとこしえに、うせることはない。…)   引用:コリント二9:9「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。」
 10節「神に逆らう者はそれを見て憤り 歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。」   参考:マタイ8:12「だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」、  ルカ13:28「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) この世の部分の人間は、悪をなすことによって幸せになろうと願い求め、一般に、人々は強奪やたばかりや、あらゆる種類の害悪によって、富を集めようとするので、預言者は清い心をもって神に仕える者のうちに、神が送られる祝福の賜物について物語る。それによってわれわれが正しく立派に生きようと努力するとき、まことに良き報いを得るだろうと知るためである。
 3節「財産と富とはこの家にあり 正義は永遠に留まるでしょう。」  ここに記されている‟財産と富とは正し者の家にある“ということに関しては、経験からしても、それが常に平等に事実であるわけではない。善かつ信仰深い人間がしばしば飢え、つつましい生活を送るにさえも、こと欠く有様であることが多いからである。(このことについて)預言者が大いなるものとしてほめたたえているような恵みは、主として善かつ素朴な人々が適度適量のうちに満足することのうちにある事実に注目しようではないか。世俗的な人間はいかなる豊かさにも、全世界を呑み込んでさえも、満足しないのと対照的である。「貪欲な人々は持たないと同じくらい持っている分までも欲しがる。彼は一物も所有せず、かえってその富によって所有されているからである。」という古代の諺は真に事実である。預言者はすぐ後の部分をこの部分と結びつけて、‟善き者の正義はとこしえに続く”と言う。まことに、これこそは両者の間に存する本来的で真実の違いである。なぜなら、たとえしばらくの間悪しき者らは、その家屋敷を大いなる富で満たそうとしても、神がただ一吹きされるやいなや、それらはたちまち消え失せるからである。預言者の言うとおりである(ハガイ1:9)。われわれが常日頃目にするとおり、強奪と策略とをもって獲得した物は、他によって分捕られる。しかし信仰者にとっては、廉直こそは神の祝福の最善、かつもっとも頼りになる保護者である。

詩編を読む・2018.1.24   詩編111篇  1~10節

詩篇111篇
1.詩編111篇を読む
 この111篇は112篇と共に、各行の最初の文字がヘブライ語のアルファベットの順番になっている詩編であり、内容の面でも対になっている。111篇は、その御業を通して御自身を啓示されている神を語り、112篇では、神の御言葉に深く聴き従い主を畏れる人を語る。
 この詩編は、主に感謝をささげることから始まる。そして、永遠に続く主への賛美で終わる。わたしたちは祈ることについては慣れてくるが、感謝したり賛美したりすることには慣れていない。しかし、心を尽くして捧げる賛美と感謝こそ神に喜ばれ受け入れられるものであることを知ろう。主に贖われた者(9節)、主を畏れる者とは、いつでも、どこでも、どんな状況の中でも、心を尽くして主に感謝をささげ、賛美のいけにえを神にささげる(ヘブライ13:15)のである。
 この詩編でもう一つ心に覚えておきたい言葉は「御業」である。10節中に五回出てくる。「主の御業」2節、「恵みの御業」3節、「驚くべき御業」4節、「御業の力」6節、「御手の業」7節。このうち、2,3,4節については、次のように理解されていることが多い。
 「主の御業」― 詩編で御業と言うときには、多くの場合主が造られたものを指す(8:4,19:2、102:26、104:24など)
「恵みの御業」― 神の摂理的な行為とも理解できる(例:申命記32:4)
「驚くべき御業」― (別訳:くすしい御業)これは、神の大いなる救いの行為を指すことが多い。第1行の「記念するよう定められた」は、「主はそのくすしさを記念するものを造られた」と訳すことができ、過越し祭に言及しているとの理解もある(新約ではコリント一11:13—26)。
御業は神のご性質の現われである。それは偉大で、尊厳と威光、真実、公正に満ちている。わたしたちの感謝や賛美は、これらの神の御業の数々を心に結び付けておくことからあふれ出てくるものである。神の御業に目を向けて、わたしたちの祈りも、感謝と賛美が基調となった豊かなものへと導かれたい。パウロは、コロサイの手紙で「感謝」を大切なこととして取り上げている。賛美については、詩編148‐150を味わう。
1:3いつもあなたがたのために祈り…神に感謝しています。   
3:15いつも感謝していなさい。   
3:16詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。   
3:17すべてを主イエスの名によって行い、…神に感謝しなさい。
4:2目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。
 パウロが述べていることは、「感謝の心をもって、感謝にあふれて神を賛美し、また感謝をもって祈り、とりなしをしなさい。することなすことすべてイエスの名によってなし、父なる神に感謝しなさい。」ということである。不平不満やつぶやきではなく、いつも神に感謝をしている人は、心が健康、それが表情なって現れる。それは人をいやす力があるだけでなく、あらゆる状況を肯定的に受止める心をつくり出す。
この「すべてを感謝する」は、魔法でつくりだせるようなものではない。日々の主との交わりの中で、「主は常に良いお方であり、いつも最善のことをしてくださる」という信仰によってつくられていくのである。常識的に、あるいは感情的に感謝できないことがある。それであっても、信仰によって(感情によってではなく)大いなる神に「主よ、感謝します」と「心を尽くして」神を仰ぎたい。
ハレルヤで始まり、感謝の決意に続き、神の御業を思い巡らした作者(信仰者)は、やがて主の御名は聖であり畏れ敬うべきことを知り、その御名をほめたたえるのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「世々限りなく堅固に まことをもって、まっすぐに行われる。」   参考:マタイ5:18「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
 9節「主は御自分の民に贖いを送り 契約をとこしえのものと定められた。」  参考:ルカ1:68「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、」
 9節「御名は畏れ敬うべき聖なる御名。」   参考:ルカ1:49「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) この詩編のはしがきは、われわれに有益である。各人に神をほめたたえるいっそう大きな勇気を与えようとして、預言者は自分の範例を通じて道を指し示す。すでに信仰者が受け、また日ごとに受けているもろもろの恵みを、アルファベット順に書きながら、物語る。(このように書いた後、カルヴァンは、神をほめたたえることについて、1節を次のように注解する。)
 預言者が「心からの賛美」という言葉をもって始めるのは理由なくしてではない。偽りの心をもって喉いっぱいに賛美を鳴り響かせるよりは、誰ものいないところであれ、心の奥深く、神をほめたたえるほうがましだからである。預言者は心の底から、すなわち全き、うわべだけではない心をもって神をほめたたえようと決心する。預言者はその義務を完全無欠に果たそうと約束しない。たとえ我々の賛美が完全無欠ではないとしても、敬虔な礼拝を神にささげようとする偽りのない努力を重ねる限り、神を喜ばせ奉ることを止めないからである。そこで預言者は、1節の第二の部分で、神への賛美を人々に宣べ伝える者となろう、というのである。

詩編を読む・2018.1.17   詩編110篇  1~7節

詩篇110篇
1.詩編110篇を読む
 110篇は、詩編の中でも詩編2篇と並んで重要なメシア詩編である。ユダ王国の王たちが即位する時の祭儀文として用いられたと思われるが、内容的には、ダビデが「聖霊を受けて」(マルコ12:36—37)語ったキリストについての預言である。
  1節の表現 原文 「主(ヤハウェ)はわたしの主(アドナイ)に言われた」
   ヤハウェ(エホバ) ― 栄光の王として神聖視されてきた最も大いなる神の御名。その由来と意味は出エジプト3:14—15に説明されている。神が不変な方、特に契約関係において不変で、約束を必ず実現される方であることを示す。 
   アドナイ(わたしの主) ― 僕が主人に対する場合のように、依頼と服従を現わす。キュリオスは、「主・Lord」の意で、神だけではなくキリストにも用いられる。
 イエスは、この詩編をダビデの預言の言葉として説明した。つまり、「わたしの主」の‟わたし“はダビデ自身、‟主”はメシアすなわちキリストである。父なる神ヤハウェが子なる神であるキリストへの語りかけの預言である。ダビデは聖霊の導きのもとに、御父が御子に語っているその光景を目の当たりにしながら記したのである。
 1節後半(口語訳)「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ。」という言葉は、御子イエスが十字架の死から復活され、天に昇られたあと御父の右に着座されたことを述べている。そしてそのときから後の時代のことが預言されていく。2,3節は復活のキリストによる統治、5,6節は裁きの預言、その間には、とこしえの救いを提供する(ヘブライ5:9)永遠の祭司キリストが示される。なお、5節からは写実的に戦いの激しさが記されている。それは祭司適応の即位が最終的な場面ではなく、世界統治の序曲だからである。新約聖書的には、ヘブライの手紙からヨハネの黙示録へと移り、終末の裁きと勝利の場面が描かれる(例.黙示録19:11—21)。
 イエス・キリストが三日目に復活されて、聖霊が降りキリスト教会が誕生したとき、この詩編は宣教の重要な部分となった。ペトロは、この預言によってイエスが聖霊を注がれたことの保証とした(使徒2:34,35)。ペンテコステの日に聖霊が下って異言を語ったのは、父の右の座に着いているキリストが、そこから聖霊を注がれたと理解したのである。殉教したステパノも聖霊に満たされ「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(使徒7:56)と言ったのである。パウロ然り(ローマ8:34)、ペトロ然り(ペトロ一3:22)。
 ヘブライの手紙の記者は、4節の祭司職にも重点を置いた。「わたしの主」は、「とこしえの祭司」として、ヘブライ書10:20に記されているように、ご自分の肉という垂れ幕を通して、わたしたちのために新しく生きた道を設けてくださったのである。
このようにして、神の右の座からキリストによって送られる聖霊によって地上の神の国は前進し、あらゆる敵が敗北するという終末への展望が、ここに啓示されている。
 わたしたちは、ステパノのように天が開けて人の子が神の右に立っておられるのを見ることはできないが、詩編110篇の御言葉によって、「わたしの主」が父なる神の右に座して、わたしたちのために日々に執り成しをしておられるイエスの姿を思い浮かべて、信仰の道を歩みたいと思う。

2.関連する新約聖書の聖句
 1節「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」  引用:マタイ22:44「(43節.イエスは言われた。では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。)『主はわたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』」(マルコ12:36、ルカ20:42,43)、使徒2:34,35、ヘブライ1:3、同8:1、同10:12、同12:13、ヘブライ1:13   参考:マタイ26:64、エフェソ1:20、コロサイ3:1、ヘブライ10:13、コリント一⒖:25、エフェソ1:22、ヘブライ2:8、ペトロ一3:22
 4節「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って あなたはとこしえの祭司 メルキゼデク(わたしの正しい王)。』」  引用:ヘブライ7:21「なぜなら、『あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である』と証されているからです。」、ヘブライ5:6,6:20、7:17,21   参考:ヘブライ7:24,28
 5節「主はあなたの右に立ち、怒りの日に諸王を撃たれる。」  参考:ローマ2:5「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」、黙示録6:17「神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 キリスト御自身が、この詩編は自分について言われているのだ、と証言しておられるからには、キリストの口以外のところにその確証を求める必要なない。しかし、たとえ使徒の証言がないとしても、この詩編そのものが、他の解釈を許さない旨を叫んでいる。ここで言われているのは、ダビデについてでも、他のだれについてでもなく、唯一の仲保者についてであるということを、生き生きと論証している。
 わたしは確かに、キリストの王国がダビデの一身のうちに、比喩的に表されていることを容認する。しかし、ダビデは自分について、またその後継者について、確言しているのではなく、その支配は永遠である王、また同時に、律法によるのではなく、メルキゼデクの定めにより、永遠に続く祭司である方について、確言しているのである。

詩編を読む・2018.1.10   詩編109篇  1~31節

詩篇109篇
1.詩編109篇を読む
 109篇は、いわれのない悪意に対して神に復讐を求めるめずらしい詩編である。特に
6-20節、28—29節はキリスト者にとっては考えられないような復讐心に満ちみちた表現になっているので、「呪いのテキスト」とも言われる。しかし、冒頭で「わたしの賛美する神よ」と、確固とした立場が歌われていることがこの詩編を支えている。
「理由もなく」(3節)、つまりこれといった正当な理由もなく、善に変えて悪を、愛に変えて憎しみを自分に報いようとする者たちが存在する。ただ祈るしかできない。神もじっと沈黙しておられる。このような現実の中で、ダビデは自分で復讐することなく、神のさばきに身をゆだねて神に助けを求めて祈る。
 「移ろい行く影のようにわたしは去ります」(23節)とあるように、ダビデは徹底した人格攻撃を受けている。それはすでに彼を影のような状態にまで弱めていたのである。わたしは取り囲まれ(3節)ており、公の場での攻撃を受けている。「愛しても敵意を返し わたしが祈りをささげても その善意に対して悪意を返します。「愛しても、憎みます」(4—5節)はまさに裏切りである。痛手の深さははかりしれない。
 これはほとんどユダにあてはまる裏切りであった。実際に、聖書は8節をユダにあてはめて(使徒言行録1:16,20)、この詩編の理解に光を投じている。裏切った者に対する主の途切れのない愛が、ここにはある。その愛のゆえに正しく裁かれる主に、ダビデは個人的な復讐心を委ねて祈ることができたのである(1,6-7節)。
 ダビデはただ祈ることしかできない。しかも神は沈黙しておられる。このような苦悩の中にも、宝石のように輝くものがこの詩篇の中にはある。それは最後の節(31節)「主は乏しい人の右に立ち 死に定める裁きから救ってくださいます」ということばであらわされている。しかもそこでは「わたし」ではなく、「彼」と一般化されて表現されているのである。
 31節の訳 口語訳「主は貧しい者の右に立って、死罪に定めようとする者から彼を救われるからです。」
      新改訳2017「主が貧しい人の右に立ち 死を宣告する者たちから彼らを救われるからです。」
 この31節の告白は、この詩篇のポイントとなる。ここには<祈りの昇華>ともいえってよいものが見られる。その昇華とは、乏しい者の右に立ちたもう弁護者としての主の存在への気づき(31節)である。右に立たれる弁護者なる主は、「死に定める裁きから救ってくださいます」。
使徒パウロもこの右に立たれる主への気づきを経験している。彼はローマの信徒への手紙8:31~39節で記す。
①神に選ばれた者を訴えるものはだれか。神が義と認めてくださるのだ
②罪に定めようとするのはだれか。わたしのために死に、復活させられたキリスト・イエスが神の右に座って、執り成してくださるのだ
③キリストの愛からわたしたちを引き離すのはだれか。何ものも、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのだ と圧倒的な勝利を宣言している。
*用語について
 6節「彼の右には敵対者を立たせてください」― 告発者や弁護者は、被告の右に立って論告し、弁護した。これは明らかに裁判所における慣例の位置である。
 18節「呪いを衣として身にまとう」- 隣人への悪口が当たり前のこととなった敵対者の姿を描く(19節)
 25節「頭を振ります」- 非難のしぐさ
 29節「恥を上着としてまとう」- 敵の辱められた姿を絵画的に描写する。(18,19節と比較する)

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「彼の生涯は短くされ 地位は他人に取り上げられ」   引用:使徒言行録1:20「詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」
 20節「わたしに敵意を抱く者に対して わたしの魂をさいなもうと語る者に対して 主はこのように報いられる。」  参考:テモテ二4:14「銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主は、その仕業に応じて彼にお報いになります。」
 25節「わたしは人間の恥。彼らはわたしを見て頭を振ます。」  参考:マタイ27:39「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、(言った。)」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編は三つの部分を含む。預言者はまず嘆きをもって始める。次いで多くの呪詛の一覧表が付け加えられている。最後に真実の証言と共に、祈りが捧げられる。ダビデが自分の蒙った暴虐行為に関して、嘆き悲しんでいることに、何の疑いも存しないとしても、彼は自分以外の別の人格を代表しているので、ここに含められていることすべては、本来、教会のかしらとしてのキリストに属するものである。それはまた、キリストの肢体としての信仰者ひとりびとりにも当てはまる。彼らが敵どもによって、不正な苦しみを受けるとき、彼らに報復を果たされる神の助けの手を呼び求めるためである。

詩編を読む・2018.1.3   詩編108篇

詩篇108篇
1.詩編108篇を読む
 この詩編は、ダビデの詩篇の二つの部分が結び合わされているものである。
 2-6節は詩編57:8—12に、7-14節は詩編60:7—14に対応する。二つの個所の合成
であるので、カルヴァンはその注解にあたって改めては触れていないが、二つを合成
することによって、新たな信仰の視点が大切にされているのではないだろうか。すな
わち、先の二つの詩篇は、個人的あるいは集団的な危難の時への備えが意図されてい
るが、この108篇では、信仰による新たな取り組みが必要になる時への備えが意図さ
れていると考えることができる。それは、神への信頼と賛歌ではないか。
 このことを理解するために、二つの点に触れておきたい。その一つは、それらが書か
れたときの背景であり、今一つは、詩編57篇と60篇について以前に学んだ事柄であ
る。
① 詩の背景
 詩編57と詩編60の表題に目を留めたい。
詩編57には「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」との表題が付けられている。
獅子にたとえられるサウル王(サムエル下1:23)に追い詰められたダビデが荒れ野の洞穴に隠れていた。そこにサウロ王がやって来た。神に突き放されたかのようなその苦境の極みの中にありながらも、ダビデはなお御翼の陰に身を避けて(57:2)天からの救いを体験する(57:4)のである。それが、57:8-12では神への賛美へと広がるのである。
 詩編60の表題には「ダビデがアラム・ナハライム及びツォバのアラムと戦い、ヨア
ブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」と記されているが、
3節には「神よ、あなたは我らを突き放し」と敗北の声があがっている。このとき、ダ
ビデの軍隊とヨアブの軍隊は北と南の二つの戦場で戦っていた。ヨアブはすでにエド
ムに勝利していたが、ダビデは強敵を前にして、神に助けを求める。それに対して神
は、イスラエル全土もイスラエルの敵も、神の配下にあることを宣言されたのである。
② 以前学んだこと
 詩編57:8—12 …8-12節は勝利の賛歌である。7a節「わたしの魂は屈み込んでい
ました」と8a節「わたしは心を確かにします」の対比は明瞭。ダビデのように
厳しい苦境に置かれた場合、ほとんどの人は、洞窟に退避して敵が退散すれば、
それだけで満足する。そのこと覚えておかないと、この10節の祈りの歌をうた
うダビデの思いの広がりを見過ごしてしまう。ダビデの思いは、すでに11節「天
に」高く上がっており、そしてダビデの主は一地域だけを支配しているのでは
ない、ということである〔神への賛歌〕。
 詩編60:7—14…60:5には「あなたは御自分の民に辛苦の思いを知らせ よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた」とある。辛苦、困窮がどれほど絶望的なものであれ、「あなたの愛する人々」(7節)とうたうダビデの祈りに力を受ける。この祈りはまさに信仰の祈りである。これに神が応答される(8-10節)。注目したいのは「わたしのもの」「わたしの」という表現である。すべては神のものであって、彼らのものではないからである。(14節)今は包囲された町であっても、神は必ず救われる〔神への信頼〕。
 こうした表題に見る背景をも考えながら、その一方で108篇を単なる二つの詩篇の
組み合わせを超えたものとして味わうと、どうなるだろうか。
 それは、神賛美と神の栄光を輝かせてくださいとの神への願いと祈りが、逆境にあ
る信仰者にとっても、順境にある信仰者にとっても大変重要だということをあらわし
ていることではないだろうか。
 逆境の中で、神を賛美し、神の栄光をほめたたえることができるのは、素晴らしいこ
とであり、そこから新たな力がわき上がってくる。しかし、信仰者は順境においても、
神を賛美し、神の栄光をほめたたえ、神に栄光を帰するようにと召されているのであ
る。えてして、順境の時にはサタンに攻撃されやすく、大きな罪に落ち込んでしまいや
すい。
   例:サムエル記下11章のダビデ … 部下である指揮官のヨアブに戦いをゆだねて、自分だけ王宮で午睡しいたダビデはサタンの攻撃を受けて。大きな罪を犯してしまった。
        順境な時、何も緊張がないようなとき、あるいは本当に怠けているようなときには、誘惑に陥りやすい。どのような時にも、高くわたしたちの目を上げて天にある命に目を向けて祈り、神をほめたたえよう。

2.関連する新約聖書の聖句
 13b節「人間の与える救いはむなしいものです。」、14b「神が敵を踏みにじってくださいます。」  参考:コロサイ2:15「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(勝利へのダビデの望みは、人類の歴史の中では、キリストによってすべての敵が従わせられるキリストの勝利の中に決定的に見出される。ESV/Gospel Transformation Bibleより)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 この詩編は詩編第57〔7—11節・新共同訳では8—12節〕と、第60〔5-12・新共同訳では7—14節〕との合成であるので、以前に述べたたことを、今また繰り返すことは、冗長となろう。

詩編を読む・2017.12.27   詩編107篇

1.詩編107篇を読む
 107篇を一読して、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」が繰り返されていることに気づく。8,15,21,31節の4箇所であり、ここには、主の「慈しみ」(ヘブル語ヘセド―新改訳「恵み」)が語られている。その慈しみはどのような形になって現れたのだろうか。四つの連で具体的に語られる。すなわち、「荒れ野での災難」(4—9節)、「囚われた者たちの解放」(10‐16節)、「死の病いからの回復」(17—22)、「嵐に襲われる者たちの救出」(23—32節)である。それぞれに、「災難」―「助けを求めての叫び」6,13,19,28節―「主による救い」―「感謝」8,15,21,31節が語られ、「苦難の中から主に向かって叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった」ことを四つの面から描き出す。
 だが、33節からは「災難」~「感謝」といった様式から離れ、今までの経験から、神の主権性にスポットが当てられる。物事の処理に至高の神が臨んでおられることに注目したい。この詩編全体を味わう上で、33~43節の理解は大切なことである。
 この最後の部分(33~45節)の鍵になる句は43節「知恵のある人は皆、これらのことを心に納め 主の慈しみに目を注ぐがよい。」と命じている句であると考えられる。まず作者は「正しい人」(The upright)、「知恵ある人」に、「これらのこと」を「心に納め」「主の慈しみに目を注ぐ」ようにと呼びかけている。(「目を注ぐ」は、「注目する、見極める、悟る」とも訳される言葉である。)
 ところで、ここにある「これらのこと」とは何か。勿論、四つの連で具体的に語られてきたことであるが、それを正しく捉えるうえで考えておきたいのは、33~41節には「…を~に変える」という意味を持つ特徴的な表現の言葉(シーム)が使われていることである。この言葉は、ある人をある場所に置いたり、ある状態に置いたり(セットアップ)、ある所からある所へ移動させたり、何かをさせようとさせたり(使役)、ある状態を全く反対の状態に変えたり(変化・逆転)という場合に使われる言葉である。例えば、この詩編では33,34節「主は大河を荒れ野とし」「水の源を乾いた地とし」「実り豊かな地を塩地とし」(としは変える・シーム)と罪に対する神の裁きとしての変化に使われ、また、35a節では「主は荒れ野を湖とし 砂漠を水の源とし」(としは変える・シーム)と言って神の恵みによる逆転の業が示されている。43節の「これらのことを心に納め、主の慈しみに目を注ぐがよい」とは、この逆転の神の恩寵のことであると黙想する。
 参考までに:イザヤ書にはこの逆転の神の恩寵のことが繰り返し書かれている。41:18/42:16/43:19/49:11/など。そこでは主ご自身が 「と変える」と宣言している。闇を光に、荒れ野に道を、荒れ地に川をもうけ、山々を道にしようとなさるのは主。
 荒れ野を湖に変え、砂漠を水の源に変えて、そこに飢えた者たちを住まわせることのできる神―これがわたしたちの神であることを心から喜びたいと思う。
 
(参考)ヘンリー・ナウエン「予期せぬ喜びに気づく」にふれて。
「私たちの住むこの世界は、悲しみに気づかせようと迫ります。新聞は交通事故や殺人、また個人やグループ、さらに国家間の争いについての情報をとめどなく流しています。…そして私たちは、人と出会うとこう言います。『このことを聞いたかい。あのことを見たかい。ひどい話だろう。とても信じられないよ。』…予期せぬ喜びとは、ことが思いがけなく好転したことを指すのではありません。そうではなく、すべての暗やみより神の光の方がはるかに現実性があること、すべての人間の偽りより神の真理のほうが強力であること、そして、神の愛は死よりも強いことに気づくことからきます。」
43節「知恵のある人は皆、これらのことを心に納め 主の慈しみに目を注ぐがよい。」とあるように、いつも神とその慈しみに目を注ぎながら、知恵のある人、正しい人として生きるよう促される。

2.関連する新約聖書の聖句
 9節「主は渇いた魂を飽かせ 飢えた魂を良いもので満たしてくださった。」   参考:ルカ1:53「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」
 11節「神の教えに反抗し いと高き神の御計らいを侮ったからだ。」   参考:ルカ7:30「ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」
 20節「主は御言葉を遣わして彼らをいやし 破滅から彼らを救い出された。」   参考:マタイ8:8「すると、百人隊長は答えた。『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えすることはできません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。』」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 43節「賢い者はだれでしょうか。彼はこれらの事に留意するでしょう。彼らは神のもろもろの恩恵を知るでしょう。」  預言者が言おうとするのは、人間が賢くなり始めるのは、彼らが熱意のすべてを、神の御業を観想することに向けるときであり、その他の者はすべて愚かである、ということである。たとえ、彼らが一見したところ、狡猾で抜け目がないようであろうとも、彼らの前に啓示される光に目を閉じたままで通り過ぎるならば、彼らの多いなる精妙さはいっさい無に帰することであろう。もっとも大胆に神を軽蔑する者は、自分たちを最も賢い者のうちに数えるからである。

詩編を読む2017.12.13   詩編105篇  1~45節 

詩篇105篇
1.詩編105篇を読む
 先には、103篇と104篇が対をなしていることを学んだ。そして、編者は第四巻を締めくくるにあたり、105篇と106篇という神聖な歴史で纏める。その歴史は、間違いのない神の行為と手に負えない人の行為である。詩編105篇を読むときには106篇を、106篇を読むときには、105篇を念頭において読むと益になる、とよく言われる。前者は、アブラハムから出エジプトに至る歴史を扱い、神の変わることのない契約のゆえに神の恵みと大能の力によって赦してくださる神の御業に重点が置かれており、後者は、主に出エジプトの歴史(16—41節)で、イスラエルの民がいかにはやく神の恵みを忘れたかに重点が置かれている。
これは「神の恵みと力強い御業」と「人間の心の頑なさ」についての、現在のわたしたちに対する預言でもある。
詩編105篇のキー・ワードは何だろうか。アブラハムと結んだ契約を神は忘れることはない、という内容が含まれている二つの節(8節と42節)に注目すると、「とこしえに契約を御心に留められる神」と考えることができる。
主がアブラハムと結んだ契約、約束、誓いは、永遠のものであり、決して反古にされることはないという確信がここにはある。主の民がその歴史において経験した神の驚くべき御業について「その御業を示せ」(1節)、「驚くべき御業をことごとく歌え」(2節)、「驚くべき御業と奇跡を…心に留めよ」(5節)、と呼びかけているが、それは神が絶対忘れることがなくアブラハムに対してなされた契約を覚えておられるからである。
あくまでも神がアブラハムと結んだ契約が中心となって、神の奇しい御業による歴史が展開している。その契約はイサク、ヤコブへ、つまりはイスラエルの民へと受け継がれていくものである。神の救いの御業のストーリー(歴史)は、まことにわずかな人数から始まったのである(6~15節)。
そのストーリーの内容が、8節と42節にはさまれて記されているが、特に16節以下の「主」を主語とする動詞に注目したい。16「飢饉を呼び」、17「ひとりの人を遣わし」、24「民を大いに増やし」、25「彼らの心を変えられた」、26「モーセとアロンを遣わされた」、28「闇を送って、地を暗くされた」、31「主が命じられると」、以下32、33、34,36,37,39,40,41,42,43,44「土地を授け」…これらの節には、主を主語とする動詞が21記されている。人にとって良いことも悪いことも主から来る(31,34に注目)。そして特に神は御心のままに人を選んで、御自分の働きを遂行するために遣わされる。
この詩編には、主がイスラエルに何をされてきたかを通して、歴史を貫く神の真実―約束を決して破らないという真実―が強調されている。わたしたちは、イスラエルと同じく、その神の真実の前に歩んでいる者であることを覚えたい。
2.関連する新約聖書の聖句
 8節「主はとこしえに契約を御心に留められる 千代に及ぶように命じられた御言葉を」   参考:ルカ1:72「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。」
 9節「アブラハムと結ばれた契約 イサクに対する誓いを」   参考:ガラテヤ3:17「わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。」
 12節「その地で、彼らはまだ数少なく 寄留の民の小さな群れで」   参考:ヘブライ11:9「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。」
 17節「あらかじめ一人の人を遣わしておかれた、奴隷として売られたヨセフ。」   参考:使徒7:9「この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず」
 23節「イスラエルはエジプトに下り ヤコブはハムの地に宿った。」   参考:使徒13:17「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから選び出してくださいました。」
 25節「主が彼らの心を変えられたので 彼らは主の民を憎み 主の僕たちを悪だくみをもって扱った。」   参考:ローマ11:8「『神は彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで』と書いてあるとおりです」。  使徒7:19「この王はわたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 17節「主は一人の人を彼らの前に遣わされました。ヨセフが奴隷として売られたからです。」  預言者はもっと単純に、ヨセフがその兄弟によって売られ、エジプトの地へ連れて行かれたとき、飢饉が起こった、ということもできただろう。しかし彼はもっと激しい口調で語り、ヨセフはその父の家を養うようになるために、神の命令によってエジプトへ先に遣わされたのだ、と言う。人間の目から見るならば、ヨセフは売られたのであるが、しかも神によって、前もって遣わされたのだというのである。(入り組んだ経過が、神の摂理によって統治されていると考える者が果たしていただろうか)。この章句はきわめて注目に値する、預言者はわれわれの肉の愚かしさに対して、神の摂理を強く主張しているからである。

詩編を読む2017.12.6   詩編104篇 1~35節     

詩篇104篇
1.詩編104篇を読む
 先には、詩編103篇と104篇を対のものとして理解した。それを内容的にみると、103篇は、「わたしの魂よ、主をたたえよ」といって、ちりにすぎない人間の罪を赦し、すべての恵みを与えてくださる神の恩寵がたたえられているが、詩編104篇では、同じように「わたしの魂よ、主をたたえよ」といって、天地(被造物)において啓示されている神の尊厳と威光がたたえられている。その内容は、創世記1章の創造の記録をたどることができる。
  光りの創造(2 a節と創世1:3)、  大空が水を分ける(2b節と創世1:6)、
  地と海の区別(5—9節と創世1:9,10)、植物と果樹(14-17節と創世1:11—13)
  天体とその運行・時(19—23節と創世1:14—19)、海の生き物(25節と創世1:20—23)
  動物と人(21—24節と創世1:24—28)、万物の祝福(31節と創世1:29—31)
 なお、104篇全体の構造からは次のようになっている。
 1節 主題    2-4節 天    5-9節 地    10-18節 地上の命
 19—23 月と太陽  24—26節 海   27—30節 生命の維持者としての神
 31—25 頌栄
 さて、実際に神の前で祈るときのことをこの構造を思いながら考えてみよう。
 祈るとき、まず心に浮かぶのは自分の必要ではないだろうか。「父なる神様、今日も一日を聖霊に従いキリストの御足のあとを歩ませてください。」「誘惑に陥ることなく、守ってください」など。次いで、執り成しの祈りである。祈るべき兄弟姉妹や信仰の友。
そして、平和のための祈り。……
 ところで、詩編104篇にうたわれているような神の造られた美しい世界にまで思いを広げて、賛美と感謝を歌いあげることはなかなかできていない。そう考えると、わたしたちは心を神の造られた被造世界に目を向け、その背後におられる神を賛美する豊かさに満たされたいと思い、努めたい。せっかくの美しい世界の姿を見逃してしまわないように、「わがたましいよ、主をたたえよ」の呼びかけに応答したい。
 詩編104篇は、伝統的に聖霊降臨日に用いられてきた。聖霊が降ることにより、地の面は新たにされた(30節「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる」)。聖霊は、わたしたちの心の思いを清め、被造世界の恵みに目を留めさせ、「主をたたえる」賛美に満ちさせてくださる。
 (参考までに:   讃美歌3番は、わたしたちが持っている最高の讃美歌の一つと言われているロバート・グラントの「王を礼拝せよ」の歌詞に由来している。)
この詩編の中で、被造世界においては、太陽や月、雨、風、山、川、水の流れ、すべての生き物が単体で存在しているのではなく、すべてが結びつき、密接なかかわりと統一をもって存在していることを示される。そのように、自然界のすべてが緻密な有機的なつながりをもって存在しているにもかかわらず、人間の傲慢さは、あたかも自分ひとりで存在しているかのように錯覚しているところにある。そして、自然の有機的なつながりが、ひとたび崩れるなら、それを回復することはきわめて難しい。今日、地球全体が、人類全体がその危機に瀕している。自分ひとりが良ければいいという考え方は、やがては自分自身をも滅ぼすということを知らなければならない。
被造世界の神秘をたたえる104篇の最後の節(35節)の「どうか、罪ある者が地からすべてうせ、主に逆らう者がもはや跡を絶つように。」という祈りは唐突さを感じさせるが、これは、人間の罪によって虚無に服せられた被造物(自然)を、虚無に服せられた方によって、本来の創造の目的にかなってすべてを一新してくださるという希望を前提とした祈りであると信じる。(参照 30節 前出、及び  ローマ8:20「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望を持っています。」)

2.関連する新約聖書の聖句
 4節「さまざまな風を伝令とし 燃える火を御もとに仕えさせられる。」   引用:ヘブライ1:7「また、天使たちに関しては、『神は、その天使たちを風とし、御自分に仕える者たちを燃える炎とする』」
 7節「あなたが叱咤されると散って行き とどろく御声に驚いて逃げ去った。」   参考:マタイ8:26「…起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」
 30節「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。」   参考:黙示録21:5「すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)前の詩篇では、神が教会に対して与えられた特別の恵みの賜物について論じてわれわれを天的生命の望みへと高めているが、この詩編では、この世界の創造と自然の秩序に見られる神の知恵と権勢と恩寵を、生き生きと描き出すことによって、われわれがいっそう神をほめたたえるようにと勧奨する。この朽つべき人生の中で、神はわれわれの父として御自身を示されるからである。
 1節 「わが魂よ、主をほめまつれ…」 預言者は自分自身に向かって、神をほめたたえるように勧奨したのち、何者よりも明らかに知らるべき神への讃美が、沈黙によって覆い隠されるとすれば、その忘恩のゆえに、自分も他の者も罪とされるべきであると付け加える。」

詩編を読む2017.11.29   詩編103篇 1~22節   

詩篇103篇
1.詩編103篇を読む
 この詩編の冒頭と結びは詩編104篇と同じであることから、対のものとして書かれたと考えられている。共に「主の愛の崇高さ」を歌い、神を創造主、救い主、憐れみに富み力ある方として賛美している。D.キドナーは、この両編を“詩編集という銀河の中で一等級の明るさを持つ双子星である”というほど、どの行にも神のすべての恵みをほめたたえる感謝が輝いている。
ダビデは(1節)「わたしの魂よ、主をたたえよ。」と、神に目を上げて祈り賛美しているが、読むわたしわたしたちには、ダビデの個人的な祈りと賛美というよりも、ダビデがわたしたちすべての者の代わりに語っているように、この詩に引き込まれる。
 ダビデは、神がなしてくださったことに、しっかりと心を向ける。2節「主の御計らいは何ひとつ忘れてはならない」*  
  * 口語訳:「そのすべてのめぐみを心にとめよ。」
    新改訳:「主が良くしてくださったことを何一つわすれるな。」
この神の御計らいは何か。具体的に挙げていることをみてみよう。
(1) 「すべての咎(罪)を赦してくださったこと」
(2) 「すべての病を癒してくださったこと」
(3) 「命を墓から贖い出してくださったこと」
(4) 「慈しみと憐れみの冠をかぶらせてくださったこと」
(5) 「一生涯(長らえる限り)、良いものに満ち足らせてくださること」
(6) 「鷲のような若さを新たにしてくださること」
このとき、ダビデは自分の身に起こった出来事をはっきりと見ていたに違いない。
わたしたちもすべて経験してきている事柄を信仰の目によって見、神の憐れみを豊かに受けていることを覚えて、主をほめたたえる。
〔瞑想と味わい〕
〇 1節「わたしの魂よ…」とダビデは、自分に向かって呼びかける。なぜ、自分の魂に呼びかける必要があるのだろう。それは、わたしたちはいともたやすく主の恵みを忘れてしまう者だから。恨み、つらみなどはいつまでも覚えていながら、神の祝福はすぐに忘れ、恵みに狎れっこになる。主の恵みに狎れることは信仰の危機。
ルカ17:11—19の出来事の時、主は何と言われたか。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。」ここには、神の計らいを忘れる自分の姿がある。
〇 1~5節までは個人的な感謝、6節以降ではイスラエルの民全体に対する主の恵みと憐れみが記されている。このことは大変重要。個人が集団を代表しているのである(集合人格)。例:旧約の預言者や指導者は、民全体を代表して罪の赦しを願った。
〇 4節「冠を授け(かぶらせ)」  神はその目に、わたしたちを王であるかのごとく見てくださっているということ。ある人は、「ここは神の母性愛が注がれていることを意味している」と言っている。母親にとって子は、まるで王子が扱われると同じように大切に扱われるから。そうした特権にあずかっていることに感謝したい。

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「主はお前の罪をことごとく赦し」  参考: マタイ9:2「…イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」(マルコ2:5)、 ルカ7:47「…この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
ヨハネ一1:9「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
 3節「病をすべて癒し」  参考: マタイ8:17「それは、預言者イザヤを通して言われていたこと実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」
 11節「天が地を超えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。」  参考: ルカ1:50「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」
 15節「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。」  参考:  ペトロ一1:24「こう言われているからです。『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。』」
 20節「御使いたちよ、主をたたえよ 主の語られる声を聞き 御言葉を成し遂げる者よ 力ある勇士たちよ。」  参考: ヘブライ1:14「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったのですか。」
 21節「…御旨を果たすものよ。」  参考: ヘブライ1:14(前出)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編を通じて、すべての信仰者は、特に自分個人のことについて、ついで、神がその選ばれた民の上に与えられた恵みについて、神に感謝をささげるようにと教えられる。神は彼らと律法によって救いの契約を結び、彼らをその子とされたのである。しかし、何よりも預言者は、厳しい処罰こそふさわしかったその民を支えられる神の憐れみを挙げる。それは決して彼らの功績のゆえでも、その尊厳のゆえでもなく、神が彼らの脆弱さを支えられるからである。最後にこの詩編は、神への広大な賛美をもって結ばれる。

詩編を読む2017.11.22   詩編102篇 1~29節

詩篇102篇
1.詩編102篇を読む
 表題:新改訳「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎだしたときのもの」
 カルヴァン訳「苦しむ者が押し潰され、その嘆きを主の御前に注ぎだすときの祈り」
 新しい命が創造されるとき、その過程では多くの苦しみが伴う。自然の摂理といえる。このことは、神の民が復興するときも変わらない。イスラエルの場合、バビロン捕囚を経験した彼らは、シオンの回復への苦悩を通らされた。この詩編は、その苦しみを主の前に注ぎだしたものといえる。
 その苦悩は、「打ちひしがれ、乾き、呻き、骨は肉にすがりつき、屋根の上にひとりいる鳥」(4~8節)とあるように、生きる意欲の喪失と孤独感である。しかし、主にその苦しみを注ぎだした後には、彼は浄化され、立ち上がる。そして、「主はまことにシオンを再建し、栄光のうちに顕現されます」と宣言するのである(13~18節)。
わたしたちは、この詩篇の特徴を「シオン」という言葉に見出す。同義のエルサレムも含め、シオンは五回出てくる。主がこの苦境から解き放ち、シオンを回復してくださるとの希望の約束を、おそらく自分に向かって語りかけたのではないだろうか。わたしたちは、いつでも自分に、自分の魂に向かって、神の約束、神の恵み、神の福音を語り続けることが不可欠なのだと言える。そうしないと、わたしたちは失意の中に埋もれてしまう存在なのである。
この詩編が歌うのは、悲惨な状況にある悲痛な叫びと、そこから(バビロン)の解放というだけのものではない。「定められたとき」(14節)と記されているが、この言葉が指し示すのは「神の御計画の全貌」である。それは、「定められたとき」に用意されている希望の光である。イスラエルの子孫を再び約束の地、神の元に連れ戻すシオンの再建は、究極的に神が栄光のうちに顕れることと深く関係している。そして、天地が滅びることがあっても、神の約束は全うされるのである(27節)。
   参照  マタイ24:35「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
〔瞑想と味わい〕
19節「後の世代のために このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」
「このこと」  ここでは、すでに述べられてきたことが前提になっている(主がシオンを再建し、その栄光のうちに現われ、すべてを喪失して心挫けた者の祈りを顧み、その祈りを侮られなかったということ)。17—18節にある「再建し」「顕現され」「顧み」「侮られません」の動詞はすべて完了形で、ヘブル語では、確実に実現することは完了形で表わす特徴がある。14節の定められたときが「来た」も完了形。この確実な信仰の望みが書き記されるべきこのこと。
「後の世代」  バルバロ訳では「来るべき代」。ヘブル語では本来、終りとか最後を意味する言葉、英語ではlast, endである。従ってこの「後の世代」は、「最後の世代」ということになる。つまり、シオンの再建と神の栄光の到来のメッセージは、人類最後の世代のために書かれたということとなる。
確かにバビロン捕囚からの解放によってシオンは再建されるが、A.D.70年に再びそれは廃墟と化す。しかし、「最後の世代」には、キリストの再臨によって、文字通り、「シオンで主の御名を唱え エルサレムで主を賛美するために 諸国の民はひとつに集められ 主に仕えるために すべての王国は集められます。」(22,23節)
「民は創造された」  口語訳「新しく造られる民」。使徒パウロがユダヤ人および異邦人を含む「新しいひとりの人」という概念で伝えたキリストにある新しい民たち、すなわち「教会」*。詩篇の時代の者たちはこの奥義を悟る者はいなかったが、知らずして預言的に語っている。このように詩篇は神の救いのドラマの最終から預言的に語られていることが多い。*ルベン・ドロン「新しいひとりの人」

2.関連する新約聖書の聖句
 27節「それらが滅びることはあるでしょう」   参考:黙示録20:11「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、そのみ前から逃げて行き、行方が分からなくなった。」 同21:1
引用:ヘブライ1:11「これらのものは、やがて滅びる。だが、あなたはいつまでも生きている。すべてのものは、衣のように古び廃れる。」 同12節まで
 28節「しかし、あなたは変わることはありません。あなたの歳月は終わることがありません。」   参考:ヘブライ13:8「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」  ヤコブ1:17

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この祈りが信仰者たちに口述されたのは、彼らがバビロニア捕囚のうちで、苦難にあっていたときのことと思われる。第一に彼らは悲しみ、打ちひしがれその艱苦について嘆き訴える。次いで、彼らは聖都と神殿の復元を神に申し上げる。そして、いっそう大きな確信をもって祈ることができるようにと、神の約束を持ち出し、王国と祭司職の至福の回復に言及する。彼らは単に、捕囚から救い出されることを信ずるだけでなく、神がもろもろの王や民らを、御自身に従う者とされるように、と祈り求める。最後に神の永遠性の中に自らの慰めを見いだす。神がそのしもべらをより確かな望みのうちに選ばれるときも、彼らを人間に共通の定めから切り離されるからである。

詩編を読む・2017.11.15   詩編101篇 1~8節

詩篇101篇
1.詩編101篇を読む
 この詩編の内容の特徴は、国を治める王が持つべきレベルの高い倫理性を歌っているところにある。悪者とは行動を共にしない、という固い思いが述べられているが、これは独善的な誇りから生じているものではなく、清潔な行政、上から下までの正直さに対する王の熱い思いから出ていることは明らかである。
 また、この詩編を四つの視点から読むこともできる。 ―1.王自身の生活の基準(1-4節)、2.王が臣下を治めるにあたっての基準(5—7節)、3.国全体を治める基準(8節)
 全体を貫く高い倫理性の中心は「完全な道」(口語訳・新改訳「全き道」)、「無垢な心」(口語訳「直き心」新改訳「全き心」)であり、その反対は「背く者の行い」(新改訳「曲がったわざ」)である。
 けれども、ダビデにあっても、これに達することができなかったことはサムエル記下11章以下で語られている。残念なことにダビデは恐ろしい罪を犯して、この詩篇の内容とは反対の結果を招いた。このため、国には災いが生じ、家庭の中の流血の惨事を招いたのである。
 しかしながら、ここにうたわれている高い倫理性は、ダビデにもその後継者たちにとっても努力目標であり続けた。
 参考:詩編101篇の内容に合致すると思われる王
   アサ(列王記上15:11 アサは、父祖ダビデと同じように主の目に適う正しいことを行い、)
   ヨシャファト(同22:43 彼は父アサの道をそのまま歩み、それを離れず、主の目に適う正しいことを行った。)
   以下、ヨアシュ(列王記下12:3)、アマツヤ(同14:3)、アザルヤ(同15:3)、ヒゼキヤ(同18:3)、ヨシヤ(同22:2)
 ユダの王20名のうち約1/3の7名は「主の目に適うことを行った」と記されているが、他の王たちは101篇の内容とは正反対のことを行った。例:マナセ 列王記下21:16
 こうしてユダはBC586年に滅びエルサレムは陥落した。ダビデに始まるイスラエルの王たちの歩みと、滅びに至る運命は、国家の興亡とこれを統治する人物の倫理性の関係を示すモデルとして普遍性を持つものである。現在、ほとんどの国の政権は首相に委ねられている。詩編101篇が示す倫理性が、本来彼らには求められているのである。「背く者の行い」(曲がったわざ)は曲がった心からあふれ出てくる。それだけに、わたしたちキリスト者には、彼らの直き心を祈ることが求められている。
〔語句から〕
〇 1節「慈しみと裁き」  「慈しみ」の原語ヘセドは、「不変の愛」「真実の愛」「恵み」などと訳され、愛のゆえに契約への忠実を意味する言葉である。契約によって王と民はまず神と結ばれ、それから相互に結ばれる。一方、「裁き」は「公平」と同じ意味。民に対する統治者の最重要の義務(ペトロ一2:14「悪を行う者を処罰し、善を行うものをほめる」こと)を述べている。
〇 2節「完全な道」 神の期待される生き方。それは、神の働きかけから始まる。
〇 8節「朝ごとに」 古代イスラエルでは、朝は宮廷で裁判が行われる時間であった。

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「完全な道について解き明かします。」  参考: マタイ5:48「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
4節「曲がった心を退け 悪を知ることはありません。」  参考: コリント一5:11「わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人のものを奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、と言うことだったのです。」
 6節「…完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。」 参考:マタイ5:48(前出)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (要旨)ダビデはいまだにその王国を享受するに至っていなかったが、神によって王として立てられていたので、最善の統治のために用意をし、心備えをする。彼はこの聖なる冥想により、王としての務めを忠実に果たすようにと自ら励ますとともに、神に誓いを立てて忠信な僕となることを約束する。
2節「…あなたはいつわたしに来られるでしょうか」 “あなたが来られるまで”については、二通りに解読される。ある人々は「あなたはいつ来られますか」と疑問文に訳す。そうすればダビデは、これ以上長く待たされないように、と乞いもとめていることになる。確かに彼は自分がかくも長い間にわたって貧しさに苦しみ、度重なる亡命によって、あちこちと引き回されたことを、呻き哀訴する正当な理由を持っていた。彼がかつてのように羊飼いとして、その父の家で何の栄誉もなしに住まうほうが、王として油注がれはしたものの、故国を追われ、はなはだしい屈辱と憎悪の中に生きるよりも、彼にとって、願わしことだったであろう。
 それにもかかわらず、わたしはこれを疑問の意を抜きにして、「…するまで」あるいは「…するとき」と読む。ダビデは彼に約束された王の権利を享受してはいなかったが、しかも誠実さに従うことを止めなかった、と解釈する。それゆえに、文意はこうなる。「主よ、あなたはわたしを長い間待たせなさいますが、わたしは誠実さに従うことにします」と。

詩編を読む・2017.11.8   詩編100篇 1~5節

詩篇100篇
1.詩編100篇を読む
 表題について。
「賛歌。感謝のために。」は「トダーの賛歌」と言って詩編の中ではここだけに出て来る表題である。「トダー」とは「感謝」の意のヘブル語で、表題は「トダーをいけにえとしてささげよ」と読むこともできる。
詩編50:8—14で、神は焼き尽くす献げ物を前にして、儀式的な動物のいけにえを必要とはせず感謝(新共同訳では告発)を神へのいけにえとして献げることを求めている。旧約の祭儀においてすでに、礼拝のウエートはいけにえの祭儀的行為よりも感謝に移されているのである。詩編50:14「感謝のいけにえを神にささげよ」(口語訳、新改訳2017)
 新約聖書においては、感謝の土台と焦点は十字架において身をささげられた(ガラテヤ2:20b)キリスト現されている。
  コリント一11:23b-24「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」
  ヘブライ13:15「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」
 パウロもことあるごとに感謝し(エフェソ1:16など)、あらゆる場合に感謝をもって祈りと願いをささげるように、勧めている(フィリピ4:6)。
 3節はこの詩編の中心的な思想を表わしている。
  新改訳2017「知れ。主こそ神。主が 私たちを造られた。私たちは主のもの 主の民、その牧場の羊。」
 「主こそ神」は、信仰者と、信仰者の群れ(教会)の告白の土台であり、アルファでありオメガである(黙示録22:13)」。この告白に立つとき、主がわたしたちを造られ、わたしたちは主のものであり、主の民であり、その牧場の羊である現実が見えるのである。その時に、「主に向かって喜びの叫びをあげよ」、「主に仕えよ」、「御前に進み出よ」、「知れ」、「主の庭に入れ」、「御名をたたえよ」のすべてが、命令ではなく、招きの言葉であることに気づく。そして、わたしたちは、わたしたちのうちにあって働いてくださ
る聖霊に導かれ、創造主であり、すべてを支配される神の「御前に」喜び歌って進み出るのである。(5節)「主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。」と主に感謝し、御名をほめたたえる。
 〔瞑想と味わい〕 
〇 この詩編は、礼拝で多く用いられる。わたしたちの教会でも、招きの言葉によく使われる。この詩の基本的な特色は、神への喜びである。その喜びこそがわたしたちの心を豊かにさせ生活をも生かす信仰の力である。そして、礼拝は、神への喜びが、何らの妨げもなく大きく表現される場であり、わたしたち主の民の新しい力の源なのである。
 ネヘミヤ記8:10「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
〇 この詩篇は95篇の前半部と非常に似ている。特に1,2,3,4節は、95篇の1,2,6,7節に対応している。その95篇の後半部7、8節に「わたしたちは主の民…『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑なにしてはならない。』」と記されている。この背景には、主の道を知ろうとしない彼ら(荒れ野での第一世代の者たち)の不信仰と背きの心に対する神の怒りが、根拠としてある。
このことを考えると、100:3「知れ」という言葉に一段の重みがあると思うのである。何を知るのかと言えば、ひとつには「主こそ神」であること、いまひとつには「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる群れ」である。特に、主の民が「主に養われる群れ」という認識・自覚が希薄になってはならないことを教えられる。わたしは信仰者だと言って、決して一人で信仰を全うできるものではなく、主の群れの一人としてキリストに養われて育つのである。
  コリント一10:12「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」
〇 礼拝の招きの言葉として読まれることの多い100篇であるが、礼拝の儀式として通り一遍に読まれるのではなく、招きのことばの真意をいかに正しく理解して受け留めるか、その姿勢が問われているように思う。主に愛されている「喜び」と共に、「主に養われることなしに生きられない羊」としての認識が日々新たにされていくことが、礼拝者としてのわたしたちの資質を高めていくものと信ずる。
〇 「わたしたちは主のもの」という訳文は、文字通りに訳せば、次のようになる。「主がわたしたちを造られた。わたしたちが ではない。」
 
2.関連する新約聖書の聖句
 4節「感謝をささげ、御名をたたえよ。」  参考: フィリピ4:6「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」、テサロニケ一5:16-18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」  

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 3節「…神がわれわれを造られた。…」 人は苦境に陥ると、自分たちが無から創造されたことを否認しないが、しかもおのおのが自分の神を作り上げ、勝手に礼拝をささげ、神が御自身のものである、と宣言されるものを自分の力に帰する。

詩編を読む・2017.11.1   詩編99篇 1~9節

詩篇99篇
1.詩編99篇を読む
 詩篇99篇の特徴は「王である主」は「聖である」ということである。 3節,5節,9節に三度繰り返し「主は聖なる方」と歌われている。
「聖」とはヘブル語で「カドーシュ」。区別されていること、比べられないこと、分離され、超越していることを意味する。旧約聖書の中でこの「聖」という語がもっとも多く使われているのはイザヤ書である。預言者イザヤは、(イザヤ書6:1)ウジヤ王が死んだ年に「高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」。この世の王ウジヤは高ぶりのため、神に打たれ、病気で死んだ。その年に、イザヤはまことの王、主を見た。そして、セラフィムが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ。」(口語訳)と賛美しているのを聞いたのである。セラフィムの呼び交わす声は、詩編99篇では「主は聖なる方」が三度繰り返されるのに対応している。三度繰り返すのは、神が三位一体であると考えられる。
 参考  わたしたちが礼拝で、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美する「讃詠」は、三位一体を讃える「頌栄」とは異なるものとして、キリスト教会の中では歌われてきた。「讃詠(サンクトス)」は、「聖なるかな」のほかに何か中身があることがうたわれているわけではないように見えるが、それは説明的な歌詞を入れる余地がないほど、「聖」という言葉が、神の本質を語っていることによると考えられる。このことばが意味することは極めて深く、人間的な知恵など及ばない世界なのである。
詩編93から続く「主こそ王」というテーマが、ここにきて、「主は聖なる方」であると告白される。つまり「王なる方は永遠に聖であられる」ということである。そして「諸国の民」に対して、「おののけ」(1節)、「御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ(ほめたたえよ・新改訳)」)、「あがめよ」(5節)、「ひれ伏せ」(5節)と呼びかける。主が聖であることと、賛美と礼拝は密接な関係にあるのである。しかし、どれだけの信徒が、そして教会が、この呼びかけに真摯に応答しているであろうか。
更に、詩編99篇は、95‐98篇に見られたような直接的な賛美への招きの言葉にとどまらず、もっと深い福音のメッセージが歌われている。このことをイザヤ6章に見るイザヤの体験との対比で考えておこう。
1節の、聖なる神の御前における「震えよ」に呼応するのは、セラフィムの「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」の声を聞いたイザヤが自覚したように、自分が罪人の中の罪人、霊的に死んだ状態にあるとの自覚である。
8節の「あなたは彼らを赦す神」は、赦されるはずのないイザヤが、セラフィムによって祭壇から取られた炭火で清められた(7節「見よ、これがあなたの口に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は許された」)ように、彼らを赦しの宣言によって霊的に生かすのである。
こうして、モーセ、アロン、サムエル、そしてイザヤも赦され、彼らの証しは、現代の今に至るまで、福音を聞いて、信仰に招かれる人たちに勇気を与えてきた。この、詩編は深い福音理解のメッセージの詩と言える。
「主は聖なる方」である。その方が、わたしたちには何の価値もないのに、わたしたちの神と呼ばれることを恥とはなさらない。心から「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美し、わたしたちが神を礼拝するのはもっともなことである。

2.関連する新約聖書の聖句
 3b節「主は聖なる方」  参考: 黙示録15:4「主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方はあなただけ。すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになるからです。」
 4節「力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め ヤコブに対する裁きと恵みの御業を 御自ら、成し遂げられる。」  参考:ルカ11:42「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編は、前の詩篇とは一つの点で異なる。それはここでは作者は神の国やそれがユダヤの境界を越えて拡がる祝福を語るのではなく、アブラハムの子ら(神に選ばれた民の意)をその採択の特権によって他の国民から区別し、彼らの神をほめたたえるように、とくに励ます点である。
 8節「主、われらの神よ、あなたは彼らに答えられました。ああ神よあなたは彼らを赦す神、あなたは彼らに対して憐れみ深く、彼らのわざに報復を与えられました。」
 この節の言葉から、預言者がモーセやアロンやサムエルについて述べたことは、民全体にあてはまるということが知られる。
 預言者は、神がこの民をいつくしみ深く扱われ、彼らの罪を寛大にも赦されることについて、その恵みをほめたたえ、他方では恐るべき処罰について物語る。それを通して神はその後裔が、全き従順のうちに神に身を屈めるようにと、民らの忘恩に報復を果たされるからである。われわれは神が、われわれに恵み深く対処されるならば、それだけわれわれが、その寛仁を蔑ろにすることを許されない、ということを常に知らなければならない。

詩編を読む・2017.10.25   詩編98篇 1~9節 

詩篇98篇
1.詩編98篇を読む
 詩編96篇と同じように、「主に向かって歌え」で始まる。構成も思想内容も言葉遣いもよく似ている(同じ作者であろうか)。96篇では、歴代誌上16:23‐34と照らし合わせて読んだが、96:4,5などに見られた異教徒との比較は詩編98篇では見られない。すべてが喜び、そして爽快な気分といえる。それゆえに、終末的な神の義と救いの到来を望む希望と信仰に満ちた詩編として味読したい。
 1-3節で歌われているのは、驚くべき救いのみわざをなされた神の勝利である。「救い」は、主の果たされた救いである。主の単独的行為である。この方こそイエスである。新約聖書は、それを鮮明に示している(へブライ10:14、黙示録19:11以下)。
 続く4-6節で歌われるのは、人が歌う勝利の歌である。4節、6節の「喜びの叫び」は、棕櫚の日曜日に成就された(マタイ21:5)預言であるゼカリヤ書9:9に記されている「歓呼の声をあげよ」と訳されている言葉である。それは、王を歓迎するときや勝利の時に、自然に起こってくる喜びの叫びである。
この情景をわたしたちは現在二つの面で知って、勝利の歌として喜びの叫びをあげているのである。その一つは、神の到来の時の力強い日であり、もう一つはそれが礼拝の一つ一つの行為の中にある神の到来への期待である。わたしたちが今歌っている詩編歌はその下稽古といえる。神を礼拝するわたしたちにとっては、礼拝の中での神の御臨在は、全世界に神が姿を現わされることの前触れである。
7-9節は、全地(自然、被造物)による合唱である。この合唱は、今もすでに聞いている。全地は今も神の栄光で満ちているからである。しかし、この喜ばしい合唱は、ローマ書8:19によって、本来のものとされる合唱なのである。すなわち、神にかたどって創造された(創世記1:26,27)、それだけに自然のふさわしい主人である人間自身が「義」と「公正」(参照 98:9)によって治められるまで、自然は本来の姿にはならないということである。
わたしたちは、9節「主は来られる」という望みこそ、喜びの源であることを教えられるものである。
 9節に関連して: 神の義と救いの解決は、イザヤのメシア像の中に見出すことができる。「わたしたちの聞いたことを、だれが信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか」(イザヤ53:1)とイザヤが語る福音は、イエス・キリストが十字架に死に、三日目によみがえられた後、聖霊とともに働いて、人々を悔い改めに導いた(コリント一2章)。この御業は、すでに全地に知られている。しかし、すべての国々が、神の救いを見て、悔い改め、神を賛美するには至っていないのが現時点である。それだけに、主に望みを置くわたしたちは、終末の救いの日を先取りして、「新しい歌を主に向かって歌い」、主を賛美したい。

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「主は救いを示し 恵みの御業を諸国のために現し」  参考: ローマ3:25、26「神はこのキリストを立て、その義によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」
 3a節「イスラエルの家に対する 慈しみとまことを御心に留められた。」  
参考:ルカ1:54「その僕、イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになられません。」、同1:72「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編は第96篇と酷似している。しかも、単に同じような論題が含まれるだけではなく、単語についてまで両者は類似している。要旨はこうである。神の知識が全世界にまで押し及ぼされたのち、その栄光は以前よりもいっそう明らかとなるであろう。贖い主が提示されたのちは、アブラハムの血筋にたてられた約束が、いっそう完全にその効力を持つからである。救いは間もなく全世界に現れるからでもある。
 3節「主はヤコブの家にむかって、その恩恵と大能とを思い出されました。地のすべての果ては、われらの神の救いを目にしました。」  神は御自身を、ユダヤ人に対しても異邦人に対しても、何の差別もなしに、父として開示されるが、しかもユダヤ人を長子とするために、まず彼らから始められた。異邦人の栄光とは、彼らが聖なるアブラハムの家に、受け入れられることにあるからである。また、全世界共通の贖いは、アブラハムに対してなされた約束から流れ出るからである。
 キリストが「救いはユダヤ人から出る」(ヨハネ4:22)と言われたとき、このことを語っておられたのである。それゆえに預言者が、神はこの世を贖うに際して、イスラエルの民を加えられた信仰を思い起こされる、というのは当然のことである。
 これらの言葉によって預言者は、神がこのようになされるのは、ただ、ご自分が約束されたことを忠実に果たすことに他ならない旨を教える。また、この約束は人間の義や功績に基を置くのではないことを、いっそう明確に表現するため、預言者は第一に、「恩愛」を取り上げ、ついで、恩愛に依拠する「忠心」を付け加える。
 要するに、神は(言ってみれば)けっして御自身を立ち出でることなく、その自由な恵みによる恩愛と好意のうちに原因を求められる、ということである。それははるか以前に、アブラハムとその後裔とに知らせるために与えられたのである。

詩編を読む・2017.10.18   詩編97編 1~12節

詩篇97篇
1.詩編97篇を読む
 詩編93篇と同じく「主こそ王」という、宣言の響きを持った句で始まる。万国の王としての神の到来を歌う。神の到来は、1節「全地よ、…多くの島々よ、」と呼びかけられているように、地の果てにまで及ぶ世界規模のものである。
全体は1-6節、7-9節、10-12節の部分に分かれているが、いずれも「喜ぶ」が鍵の言葉となり、「すべての民」が王なる主に向かって喜ぶように招かれている。
 この神の到来を、ヘブライ人への手紙は「長子」である子なる神・キリストの到来と説明している(参照:関連する新約聖書の聖句7節)。子なる神・キリストが来られるとき、そこには純然たる喜びと共に、「むなしい神々を誇りとする」(7節)者たちの運命も暗い側面として明らかにされる。キリストの来臨の予告は、喜びと狼狽の交錯でもある。そのとき、地上のすべての民族は悲しむ。
  マタイ24:30「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見る。」 ヨハネ黙示録1:7も参照。
 しかし、キリストの民は喜ぶのである。(8節「シオンは聞いてよろこび祝い ユダのおとめらは喜び踊る。」)
 全地のすべての民が主を喜び祝うように招かれているのであるが、現実の状況は、そのように告白するのにはほど遠い。世界の人口の三分の一はキリスト者であるが、実際に礼拝に出席し、光の子として歩んでいる信徒は、どれほどだろうか。ほとんどの人々は、偶像を拝むか、飽くことのない欲望の世界に生きている。
  コロサイ3:5「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」
 2-6節からは、神の聖性を示される。
「密雲と濃霧」― 神が近づき難いほど聖く、またその姿を見ることはできない方である。
「火と稲妻」― 滅ぼし尽くし、抵抗できない聖性を持っておられる方である。(関連する新約聖書の聖句:ヘブライ12:29)
 10-12節では、8節で「シオン」と呼ばれ「ユダのおとめ」と呼ばれていた信仰者の群れが、「主を愛する人」、「主の慈しみに生きる人」(聖徒)、「神に従う人」(正しい人)、「心のまっすぐな人」(心の直ぐな人)と呼ばれる。なお、11,12節の「神に従う人」(正しい人)は、6節の「正しさ」(義ツァディーク)と同じ言葉。
 6節では、天が義を告げ、11,12節では、信仰者たち、すなわち「神に従う・義とされたもの」が「義」を告げる。「光」と「喜び」は同義語。それは心の中に蒔かれる。信仰者は現実の世界に涙しても、心の中にはすでに「光と喜び」の種が宿っている。

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「火は御前を進み 周りの敵を焼き滅ぼす」  参考: ヘブライ12:29「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」
 7節「すべて、偶像に仕える者 むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。」  参考: ヘブライ1:6「更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、『神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ』と言われました。」
 10節「主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り 神に逆らう者の手から助け出してくださる。」 参考: ローマ12:9「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、」、  使徒言行録12:11「ペトロは我に返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から,またユダヤの民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。』」
 11節「神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを 種蒔いてくださる。」  参考: ヤコブ3:18「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」 
 12節「神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。」   
参考: フィリピ4:4「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編もまた神の支配についての叙述であるが、それは律法のもとにおけるのとは別のものである。そこから、これは福音によって顕示されたキリストの王国についての預言であることになる。さらに、預言者は神を尊厳と栄光とをもって飾り奉る。それは正当にもすべての人間をして、謙虚に従わざるを得なくするものである。
(11節の「光」について)11節カルヴァン訳「光は正しい者のために播かれ、喜びは心の直き者たちのために播かれます。」  「光」という語は、「喜び」あるいは「繁栄」を意味する。それは聖書の中にしばしば用いられる語法である。逆境が「暗闇」にたとえられるのと同じである。(光を)“播く”という文意については、単純に、「たとえ正しき者が、この世ではほとんどところを得ず、公共の場に姿を現わそうとせず、暗闇の中にあるかのごとくであっても、神は遠く広くその浄福を押し広げられることは、種子があちこちと播かれるのと同様である。」と考える。なお、正しき者には、外形的な仮面ではなく、心の誠実さが要求される。それゆえに、神のみ前で正しき者と見なされるためには、舌を制するだけではなく、手と足をも悪行から慎むことが大切である。

詩編を読む・2017.10.11   詩編96編 1~13節 

詩篇96篇
1.詩編96篇を読む
 この詩編は、歴代誌上16:23以下と大変よく似ている(1-6節を歴代誌上16:23‐27、続く7-13節を歴代誌上16:28-34と照らし合わせて読んで見よう)。この歴代誌上の記事は、エルサレムに迎え入れられた神の箱の前で、救いの神にささげる感謝の言葉である。
 サムエル記上6,7章に記されているが、一時ペリシテ人に奪われていた神の箱は、べト・シェメシュに返され、さらにキリヤト・エアリムに運ばれてそこに安置された。エルサレムの西12Kmの町であり、原語では「森の町」を意味するように、森におおわれた斜面がはるか西、地中海まで続いている。その後、王となりエルサレムを首都としたダビデは、この神の箱をキリヤト・エアリムからエルサレムへ移した。
キリヤト・エアリムの名にふさわしい緑豊かな木々の中に安置されていた神の箱が、身を清めた祭司たちとレビ人によって、琴や竪琴の音、喜びの歌と共に、エルサレムへと上って行くのである。その時には、森の木々も野とそこにあるすべてのものも、この賛美に共に招かれている(歴代誌上16:32,33、詩編96:12)。
 しかし、ダビデの信仰の目は神の創造のみわざとその完成にまで注がれる。天と地、そして海も、賛美と喜びに招かれているのが見えてきたのであろう(歴代誌上16:31,32、詩編96:11)。さらに、イスラエルの民だけではなく諸国の民の賛美と(7節「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ」)、被造物すべての賛美に(11節「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ…」)信仰者の目は注がれる。神の御業の完成の時が見えたのであろう。その完成の時は、主が来られ、神の義が現され、ただしい裁きがなされて、神の公正と義が支配する時である(13節「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き 真実をもって諸国の民を裁かれる。」)。
 この詩編は、神の到来にすべての被造物が喜び賛美をささげる歌である。まさに、これこそパウロが宣べる被造物が贖われるときである(ローマ8:19,22節)。このことはイエスの死と復活によって実現し、キリストの再臨によって完成する。この歌を歌う信仰者の目は、目の前に見える神の箱を通して、天にある命に注がれていたのである。
◇ 用語について
 「新しい歌」1節 ― 新たに作られた詩、あるいは新鮮な思いで歌われる詩編を表す。そうであれば、「朝ごとに主の声を聞き」(参考:詩編5:4)、朝ごとに神の恵みと憐れみに新たに触れて応答し、「新しい歌」へと導かれたい。

 参考  鍋谷堯爾氏によるこの詩編についての考察
      礼拝について
    キリヤト・エアリムからエルサレムへ神の箱が上って行く時、人々の目は祭司やレビ人の服装に奪われ、その耳は楽器と共に歌われる賛美に集中したように、教会の礼拝も、礼拝様式や、牧師やコーラス隊のガウンの立派さに奪われるのです。それ自体は間違っていないのですが、礼拝様式や賛美の歌を突き抜けて、教会の周囲に広がる自然をも包み込み、大空と地と海とそこに満ちているものにまで、心の世界が広がり、それらを造り、今も保持してくださっている神の恵みをすべての国がほめたたえるようにという世界規模の広がりがなければ、せっかくの礼拝行為も人間の宗教行為に陥る危険性があることをいつも覚えておく必要があります。

2.関連する新約聖書の聖句
 12、13a節「地とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 森の木々よ、共に喜び歌え 主を迎えて。」  参考: ローマ8:19「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (要旨)これは神をほめたたえるように、という勧めであるが、それはユダヤ人ばかりでなく、すべての異邦人にも向けられている。そこからわれわれは、この詩編がキリストの王国とかかわりがあると確信する。
 3節「主に向かって新しい歌を歌え。全地よ、主に向かって歌え。」  預言者はイスラエル人ばかりでなく、全世界に対して、何の区別もせずに、信仰を言い表わすようにと勧めている。このことは福音が宣べ伝えられて、神が全地に知られるようにならないうちは不可能であった。「信じたことのない方を、どうして呼び求めることがあろうか」(ローマ10:14)と。
 それゆえに心を合わせて賛美をささげるとき、信仰の交わりもあることになる。
 さらに、預言者はありきたりの歌ではなく、「新しい」歌を求めている。ここでは、未曽有で例外的な神の恵みについて語られている。イザヤが教会の回復について語るとき、それは信ずべからざる奇跡であるので、「主に向かって新しい歌を歌え」(イザヤ42:10)という。それゆえに預言者は、いつの日にか神はその支配を、人間の考えるのとは異なった仕方で、樹立される時が来るであろう、と諭告しているのである。
 預言者はまた、神の救いを全地に宣べ伝えるようにと命ずるとき、すべての民がこの神の恵みに与る者となることを、いっそう明白に言い表わしている。この救いは朽ちやすく、たちまちにして消え去るものではない、と主張する。彼はそれが日ごとに宣べ伝えられるべきことを望む。

詩編を読む・2017.10.4   詩編95編 1~11節

詩篇95篇
1.詩編95篇を読む
 キリスト教会は、初期の時代からこの詩篇を礼拝への招きとして広く用いてきた。
それは、「今日こそ」(7節)という言葉によって「御言葉に聞く」時の重要さが示されているからである。たとえ、試練が十年続き、二十年続いていても。『今日』御言葉を聞くことから、新しい一ページは始まるのである。
 ヘブライ3:7-4:13が、この詩編を詳しく説明している。そこで語られていることはイスラエルに限定していない。「あなたたち」とはわたしたちにほかならず、「今日」とはまさにこのとき、「憩いの地」(安息)とはカナンの地ではなく救いのことである。
 この詩編を読み、「主を試みる」ことについて考えさせられる。わたしたちの信仰生活は、しばしば、順境というよりも逆境と言っていいような状況におかれる。周囲の信仰の友を見ても、あるいは家族の不幸に出会い、あるいは病気に冒され、あるいは経済的な困難に直面している。イスラエルの民は、エジプトの奴隷の地から解放され、シナイの山で律法を授けられてから、二十日もあれば約束の地カナンに入ることができる距離であるにもかかわらず、シナイの砂漠で四十年間を過ごした。長く逆境の中におかれたのである。
 すぐに約束の地に入れなかったのは、彼らが主を試みたからだという(9節、参照出エジプト17:1‐7、民数20:13)。そして、このことは、イスラエルの民が約束のカナンに入ってからも、いつも、イスラエルへの警告として語り継がれてきた(詩編81:8、同106:32など)。わたしたちがもし、紅海を通りシナイ山に向かい、木一本とてない砂漠に立つとすれば、イスラエルのつぶやきの気持ちが理解できるのではないかと思う。それでも、「つぶやき」は主を「試みる」ことであり、滅びへの道である、との警告がここには記されている。
 メリバとマサについて(出エジプト17:1-7)
 シナイ山の近く、レフィディムの付近の場所につけられた名。メリバの意は「争い」、マサの意は「試し」。わたしたちは神と言い争うことはしないと思うかもしれないが、根本的な危険は、神をそのことばどおりに神として受け入れようとしないことにある。このことを、へブライ3,4章では「悪い不信仰の心」として警告している。
 この詩編を通して、「大いなる神」をほめたたえる中で「主の声」がしっかりと位置付けられているか、その御声に聞き従うか、御声に聞き従わないのかが吟味させられる。

2.関連する新約聖書の聖句
 7節「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手のうちにある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければなない。  引用:ヘブライ3:7‐11 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖は わたしを試み、験し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して 憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に あずからせはしない』と。」、   同3:15「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」、  同4:7「再び、神はある日を『今日』と決めて、かなりの時がたった後、すでに引用したとおり、『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない』とダビデを通して語られたのです。」
 9節「あの時、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。」  参考: コリント一10:9「また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。」
 10節「四十年の間、わたしはその世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。」  参考: 使徒言行録7:36「この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。」、 同13:18「神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、」、 ヘブライ3:17「いったいだれに対して、神は四十年の間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。」
 11節「わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」  引用:ヘブライ3:11「そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に あずからせはしない』と。」、  同4:3信じたわたしたちは、この安息にあずからせることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息に あずからせはしない』」と言われたとおりです。  同4:5「そして、この個所でも改めて、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と言われています。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (7節の『今日』という言葉について) 異邦人をユダヤ人から区別するしるしは、神がユダヤ人に向かってみ声をかけられることである。…モーセは言った。「これが他の国民の前でのあなたがたの貴さである。その神々がこれほど身近くある国民が、天の下にいったいあるであろうか」(申命記4:6,7)。…この作者もまた『今日』という言葉によって、ユダヤ人が神の声を聞くという理由から神の民である、と明証する。それだけに、あかしを遠くに求める必要は少しもないのである。それは現に、いつでも目の前にある事物のごとく明らかだからである。

詩編を読む・2017.9.27   詩編94編 1~23節 

詩篇94篇
1.詩編94篇を読む
 この詩編は「復讐の神」の呼びかけが繰り返されて始まる。もし、「復讐」の言葉を自分に敵対する者を「悪者」と決めつけて、3節「逆らう者はいつまで、勝ち誇る」のかと言って読み進むなら、正しくこの詩編を理解できないばかりか、自分も他者も破滅へと導くことになる。「復讐の神」が自分の側に味方して、勝利をもたらすと考えているからである。
 まず、旧約聖書の神は、単なる「復讐の神」ではないことを知っておきたい。このことを、94篇では、神のみ名に見ることができる。復讐の神には、主よと言ってヤハウェが9回用いられていることに注目したい(1,3,5,11,14,17,18,22,23節)。その短縮形のヤハが2回(7,12節)、そしてエロヒーム(神)が3回(7,22,23節)。
「ヤハウエ」は、単なる復讐の神ではない。罪によって破滅へと導かれる人類をもう一度引き戻すために、律法を与え、預言者を送り、恵みとみ言葉によって悔い改め神に立ち帰るように呼びかける神なのである。信仰者は、「復讐の神」と呼びかけながら、そのあと(12節~)恵みとみ言葉を指し示すヤハウェに心が動いていることを、この詩編で味わいたい。人は自分で復讐するのではない。恵みとまことのヤハウェに委ねるのである(ローマ12:19)。
 参考 エル、エロヒーム ― 神が強く力のある方。従って、神は恐るべき方であることを示している。
    エル・シャダイ ― 神の慰めと祝福の源としての偉大さの強調。(出エ6:3)
 信仰者は、一方では悪が力を振るっているのを見るが(3-7節)、それによって自分が「諭され」(12節)ていることを知り、また、「律法」(トーラー)の真意を悟るのである(8‐12節)。現実に悪が力を振るっているのを見ることと、その現実の厳しさの中で聖書を学ぶことは深くかかわりあっている。その中で、信仰者の目は、悪が力を振るう現実から、そうした現実の世界をも支配し最終的には悪を滅ぼされる「ヤハウェ」なる神に向けられる(20‐23節)。
 「復讐の神よ」と呼ばずにはおられないほどの逆境の中で、なおもみ言葉に学び、信仰を教えられ、神によってのみ心の平和を得る信仰者の姿がここにはある。
 フィリピ4:6‐7「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めている者を神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
 18節について  「よろめく」は「滑る」とも訳されている。しかし、単によろめいたとか滑って転んだといった程度ではない。底なしの淵に向かって滑り落ちていくといった感じである。そのようなわたしを、主の慈しみは支えてくださる。

2.関連する新約聖書の聖句
 1節「主よ、報復の神として 報復の神として顕現し」 参考: ローマ12:19「愛する人たち、自分で服従せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります(申命記32:35)。
 2節「全知の裁き手として立ち上がり 誇る者を罰してください。」  参考:ルカ1:51「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、」  
 11節「主は知っておられる。人間の計らいを それがいかに空しいかを。」 引用:コリント一3:20「また、『主は知っておられる。知恵のある者たちの論議がむなしいことを』とも書いてあります。」
 12節「いかに幸いなことでしょう 主よ、あなたに諭され あなたの律法を教えていただいた人は。」  参考:ヘブライ12:5,6「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』」(箴言3:11,12)
 14節「主はご自分の民を決しておろそかになさらず ご自分の嗣業を見捨てることはなさいません。」  参考: ローマ11:2「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。」 
 21節「彼らは一団となって神に従う人の命をねらい 神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。」  参考: マタイ27:1「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。」  マタイ27:4「『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。…」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) 作者は、聖徒たちを横暴かつ残忍にも虐げる不正で乱暴な者らに対して、神の援助を懇望する。ここで語られているのが同国人の迫害者についてであることは疑えない。彼らの不正な支配は聖徒たちにとって、異邦人らが彼らに加えるあらゆる危害と同じく、厄介で悩ましいものだからである。
 22節「しかし、主はわが砦となり、わが神は信頼の岩となられました。」  預言者は、自分がいかに窮状に陥り、ただ神のみのうちに助けを求める以外なかったかを明らかにする。これらの言葉によって預言者は、改めて神の大能をほめたたえる。ただ神のみがかくも手強い努力、かくも大きな集団、かくも激烈な狂怒に打ち勝つことができるからである。

詩編を読む・2017.9.20   詩編93篇 1~5節

詩篇93篇
1.詩編93篇を読む
 王としての神に対する詩編が93篇から始まり100篇まで続く。
 「主は王である」というのは、有無を言わせぬ力のある表現であり、宣言の響きを持っている。
   類似箇所  列王記下9:13「イエフが王になった」という宣言
         イザヤ52:7「あなたの神は王となられた」
         この伝令の叫びは勝利の知らせである。その知らせが落胆しているエルサレムに届く。
 その知らせのように、王が力を帯びて来られる日を、この詩編は指し示している。参考までに:「王である」には、預言的完了形(将来の出来事がすでに完了している確実なこととして表現)という時制が使われている。王の到来という主題が特に顕著なのは、この篇と96‐99篇。
 王の主権が高らかに謳われ、3,4節からは神の力強さが響いて来る。3節に出てくる「潮」は、「大水」「川」「海」とも訳すことができる。イザヤ書8:7では、荒れ狂う外国の軍隊の猛威を表現するのに用いられている(新共同訳「大河」)。
 鍋谷堯爾氏は、イエス・キリストが王であるとの告白から、この詩編を解説している。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイ2:2)、「ダビデの子にホサナ」と群衆に歓迎された方、「あなたはユダヤ人の王か」と総督ピラトに尋ねられ「そのとおりである」と答えられた方、十字架にかけられたとき「ユダヤ人の王」との札が掲げられた方、そのキリストに焦点を当てて次のように記している。
「ベツレヘムで生まれ、生涯を病める人々や貧しい人々のためにささげつくし、十字架で死刑に処せられたイエスに示された『王』の概念でもって、詩編93篇の『主こそ王。威厳を衣とし 力を衣とし、身に帯びられる。』を読み直すのです。この方は創造の御業に参画され(箴言8:22‐31)、とこしえからとこしえにいます方です。三日目に死からよみがえられたイエスは栄光のうちにすべての者の賛美を受けるべき方となりました(フィリピ2:9‐11)。しかし私たちはまだそれを目のあたりにしていません(ヘブライ2:9)。しかし、十字架上の『ユダヤ人の王』と書かれた札は、死と罪とサタンの力を完全に打ち破った勝利の宣言文であることを知ります。それは『あかし』、すなわち神のことばによってのみ、信じる魂に確かなものとされ、信仰者の集いが『聖なる』交わりであることによって、この世に発信せられます。
十字架につけられたイエスが『王』であることを思いながら、詩編93篇を読み直すとき、大水のとどろきにまさり、海の力強い波にまさって、いと高きところにいます主は、力強くあられます。(新改訳4節)
のみことばは『然り』として信じる者の心に確信を与えます。」

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「御座はいにしえより固く据えられ あなたはとこしえの昔からいます。」   参考: ヘブライ1:10‐12「また、こうも言われています。主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。もろもろの天は、あなたの手の業である。これらのものはやがて滅びる。だが、あなたはいつまでも生きている。すべてのものは、衣のように古び廃れる。あなたが外套のように巻くと、これらのものは、衣のように変わってしまう。しかし、あなたは変わることなく、あなたの年は尽きることがない。」
 5節「主よ、あなたの定めは確かであり あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。(口語訳:あなたのあかしはいとも確かです。主よ、聖なることはとこしえまでもあなたの家にふさわしいのです。)」  参考: コリント一3:17「もし、誰かが神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)始めに預言者は神の測りがたい栄光をほめたたえ、ついで神は信実を守られるのでその足を欺かれるはずがないと付言する。神の民はその約束を抱き、この世の騒乱と動揺の中にあっても、安らかで穏やかな心情をもってその救いを待ち望むのである。
 1節「主は支配され、威光の衣をまとわれます。主は力をまとわれ、それを帯とされます。主はまたこの世を堅く立てられ、動かされることが決してないでしょう。」
 神の権能のうちには、信頼の根拠が提示されている、ということをここには目のあたりにする。… もしもわれわれが神が全能であられることを固く確信してさえいれば、それはあらゆる試みの攻撃に対し、無敵の支えとなるはずである。事実、すべての者がここで預言者の言っていること、すなわち「神は支配される」ということを言葉では告白する。しかし、彼らのうちの何人がいったい、この盾を前面にかざして、世のもろもろの権力に立ち向かい、いかに恐るべき事柄に対しても、恐怖を抱くことがないであろうか。それゆえに、全人類をみこころのままに統べ治められる神の栄光が、いかなるものであるかを見るがよい。
 神は「威光と力とをまとわれる」と述べられているが、それは神のうちに、何か他のところから生ずるような物事を想像しなければならない、というのではなくて、神が驚くべき正義と叡智とをもって人類を保持されることを、結果と体験を通して明証するためである。

詩編を読む・2017.9.13   詩編92篇 1~16節

詩篇92篇
1.詩編92篇を読む
 この92篇は、安息日に指定されている唯一の詩篇である。多くの注解者は、内容的に特別に安息日とかかわらせる必要はないと考えるが、安息日にこの詩編を歌う意味をかみしめたい。
2節.安息日には何よりも「主に感謝をささげること」が「楽しいこと」なのだと歌う。新共同訳で「楽しい」と訳されているが、口語訳「善いこと」、新改訳「良いこと」、フランシスコ会訳「すばらしいこと」、ESV“good”の訳になっている。自分にとって、
「楽しこと」「良いこと」「すばらしいこと」を日ごとにすることは、わたしたちの魂を元気づける。それを、共同の礼拝の日にすることは、週ごとに新鮮な力と喜びに満たせることである。
 「主に感謝をささげること」、それは恵みと真実を告白することでもある。もしこれを義務感からするとすれば、力も喜びも得ることはできない。力の源に向かっていないからである。力の源とは何か。豊かな油・聖霊である。それを11節は指し示す。11節「あなたは…豊かな油を注ぎかけてくださる」とあるように、神は愛をもってその感謝を歓迎して聖霊の油を注がれる。
  参考:安息日について
   レビ記23:3「聖なる集会の日」― 安息日は単なる休みの日ではない。共同の礼拝の日であり、負担ではなく喜びとなる日である。
   アモス8:5「安息日はいつ終わるのか、麦を売りつくしたいものだ。…」、(イザヤ58:13,14も読んでおこう。) ― 安息日は、私利追及の魅力や自分本位に惹かれることに対して、信仰と忠誠を試される日ともなる。
 この詩編は、アモス書、イザヤ書で示される束の間の俗人(8節「神に逆らう者」)と、絶えず聖霊によって自分の力を更新する敬虔な者(13節「神に従う人」)とを対照的に、良く描き出している。
 安息日は、キリストの復活によって新しい恵みの時、恵みの日(主の日)となった。イザヤ64:3で預言されていたことが成就して(コリント一2:9)新しいページが開かれたのである。それゆえに、十字架の死と復活のキリストを信じた者は、感謝し、喜び歌う。しかし、8節「神に逆らう者、…悪を行なう者」(鈍い者・まぬけ者、…愚か者の訳あり)には理解できない。主の日の朝、十字架と復活の主にお出会いした信仰者は、悪者どもがよく茂り、花を咲かせるように見えようとも、復活の主が共にいてくださるがゆえに、1週の力強い一歩を踏み出すのである。
 (13‐16節)その信仰者は、豊かな実を結び、神の栄光をほめたたえる。13節の「神に従う人」とは、主の家に植えられた人のことである。「植えられ」という以上、それは自然に芽を出して育ったものではなく、神によってどこからか移植されて、神の家で神によって育てられたということである。「白髪になってもなお」ということは、年老いてからではなく、そこに至るまでにおいても、多くの「実を結び、命に溢れ、いきいきとして」いるというのである。
 神の命は、わたしたちには神との関係の中で表れる。その実は、愛であり、感謝であり、思いやり(参照:ガラテヤ6章の霊の実)ということができる。それらの実は、キリストにつながり、とどまり続けることから結ばれていくのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 6節「主よ、御業はいかに大きく 御計らいはいかに深いことでしょう。」  参考: 黙示録15:3「彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。『全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。』」 ローマ11:33「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」 
 15節「白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし」 参考:ヨハネ15:2「…しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れなさる。」
 16節「…わたしの岩と頼む主は正しい方 みもとには不正がない、と。」参考:ローマ9:14「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (カルヴァンは2節の直訳は「告白することは良いことである」と記して、それに続けて次のように述べる。)
 預言者がこの教えをとくに安息日に振り向けている理由は、容易に知られ得る。それは神が人間の無為をよしとされるかのごとく、この日が特別に聖別されているからではなくて、民らがすべての仕事を中止して、神のみわざを冥想することに、全く専念するためである。
 われわれの思いは変わりやすいので、もしあちらこちらと気が散るならば、たちまちにして神から離れ去ってしまうことであろう。そこで、われわれが想いのすべてを神に向けるためには、他のすべての思い煩いや配慮から解き放たれることが必要なのである。それゆえに預言者は、安息日が正当にも聖別されているのは、何もしないためではなく、神のみ名をその日にほめたたえるためであると、諭告する。預言者がわれわれにこのことを勧めるのは、そこから生ずる成果のゆえである。われわれのすることが無益でなく、かえって神に是認されていることを知るときほど、自分の義務を果たそうと励ましを受けることはないからである。

詩編を読む・2017.9.6   詩編91篇 1~16節

詩篇91篇
1.詩編91篇を読む
 この詩編の作者は、まず1,2節で自分の信仰を明言する。それは神に全面的により頼む信仰である。その信仰にわたしたちは共鳴する。「わたしの避け所、砦 わたしの神、依り頼む方」。そして、このように告白する通りの信仰に徹すべきことを示される。
以前、わたしたちは、詩編27篇4節で信仰者がただ「一つのことを主に願い、それだけを求めよう」との内容が、「主の家に住む」ことだけではなく、「災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ 幕屋の奥深くに隠してくださる」ことであることを学んだ。そこにあるのは、神とのいのちの交わり(参考:詩編27:6)である。
91篇では、(1節)「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る」信仰者が、「仕掛けられた罠」「陥れる言葉」「夜の脅かし」「昼に飛んでくる矢」「疫病」「病魔」から守られていることが証される。(7節)信仰者の傍らに1千人、右に1万人が倒れても、信仰者は守られている。
しかし、信仰者が守られているからと言って、独りよがりの信仰にならないように、イエスは荒れ野での誘惑の試練の中で、大切な点を教えてくださっておられる。悪魔はその時、詩編91:11,12の御言葉を使って、神殿の屋根から飛び降りるように誘惑した(マタイ4:6)。もちろんイエスはこの聖句はよく知っておられる。また、父なる神はあらゆる災いから守ってくださることも確信しておられる。しかしこの誘惑の時、イエスはなによりも優先すべきことを示された。それが、申命記6:16である。
申命記6:16 「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」
主を試すことなく条件を付けずに主に信頼をおく。その信仰に主は応えて、(15節)
「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え」てくださるのである。そうであれば、何よりも、神とのいのちの交わりを日々に大切にしたい。
 
2.関連する新約聖書の聖句
 11節「主はあなたのために、み使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」  参考:  マタイ4:6「神の子なら飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える。』 ルカ4:10も参照
 12節「彼らはあなたをその手にのせて運び 足が石に当たらないように守る。」  参考:  上記マタイ4:6、ルカ4:11も参照
 13節「あなたは獅子と毒蛇とを踏みにじり 獅子の子と大蛇を踏んで行く。」  
参考:  ルカ10:19「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だからあなたがたに害を加えるものは何一つない。」 マルコ16:18も参照

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) 作者は、神が善人の救いを御心にかけられる以上、彼らが落ち込んでいる危険の中に彼らを放置されることはない、と教える。それゆえ彼は信仰者に向かって、神の助けにより頼み、あらゆる危険の直中を勇敢に歩むようにと教える。この教説はきわめて有効である。なぜならば、たとえすべての者が神について云々し、神は信仰者を守られると告白するとしても、しかも百人に一人といえども、みずからの救いを神の守りと保護のうちに委ねるものはいないからである。
 15節「彼はわたしを呼び求め わたしは彼を聞き入れるでしょう。わたしは悩みの中で彼と共におり、彼を救い出し、栄光をあらしめるでしょう。」 預言者は、彼はわたしを呼び求め、わたしは聞き入れるであろうと言って、14節の「神に依りすがる」(新共同訳「わたしを慕う」)という表現によって何を言い表わしたいのかを示す。…信仰と言うものは決して無為ではなく、むしろ神の救いを待ち望むものが、神を呼び求め神を避け所とするかどうか、という試金石によって験されるべきだ、ということを学ぼうではないか。

詩編を読む・2017.8.30   詩編90篇 1~17節

詩篇90篇
1.詩編90篇を読む
 「モーセの詩」とあるが、モーセの作であるかどうかはわからない。しかし、「この詩がモーセに帰せられるのは、理由なくしてではない」とカルヴァンが述べているが、モーセが作者でなければあり得ないほどの荘厳さを否定する者もいないのである。
 カルヴァンの見解‐死に近づいたモーセが、無限の災禍によって打ちひしがれている民を慰めるため、この祈りを口述したと思われる。
 1-2節 この詩で、人生経験豊かな高齢の作者は、永遠なる神を思い人生を回顧し、語る。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と歌うことによって、神への深い信頼を告白して、この詩は始まる。神への信頼はこの詩全体に流れる基調音となって鳴り響いている。
「大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」-たとえ天地が滅び、あるいは自分の命が失われることがあっても、神の存在は変わらない。その神は、無限の存在者として、時間の中で生き死んでいく人間に、時間に打ち勝つ生き方と意味を与えるのである。
 3-6節 これらの節に触れて、「無常」ということに思いを馳せる人は多い。無常は日本的情緒の代表的なものだと言われる。はかなさ、わびしさ、さびしさに通じる。
しかし、ここで描こうとしているのは、無常の人生観ではない。現実をあるがままに見る冷静さ、それはすべての事柄を神に照らしてみる現実主義である。人は神に目を向けるとき、本当の意味で人生の現実に対して目が開かれる。そして、人生を刹那的にしか生きられない人間とは異なる姿を現すのである。
  参考:4節「夜の一時」(「夜回りのひとときのようです」)  旧約のイスラエルでは、一夜は三つの夜警時に分けられた。(夜回りの勤務時間:約4時間が当時の最も短い時間の単位)
7‐12節 90篇が無常の嘆きで終わっていないことに心を向けたい。先ず詩人は、罪と神の怒りに目が開かれる(7-11節)。 そして、(12節)「生涯の日を正しく数えるように教えてください。」とうたい、知恵の心を得させてくださいと祈るのである。
悲惨と罪の現実を見て、神を畏れる者に救いは近い。その人は神に人生の意味を尋ねるようになるからである。
「御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて あなたの憤りをも知ることでしょう。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(11,12節)。これはわたしたちの祈りでもないだろうか。
 13-17節 神は「帰れ」(3節)と言われた。今度は人が神にこの叫びを返し、「帰ってきてください」(戻ってください)と憐れみを求めて祈るのである。神への応答である。「帰ってきてください」と訳されている言葉は、「モーセの歌」(申命記32:36へブル語本文<憐れみをかける>新共同訳では“力づける”)の中にそっくり歌われている。そこでは、神がここで嘆願されているまさにそのことを行おうとしている。「わたしたちのすべての日」(新共同訳の“生涯”は意訳)は、わたしたちの当然の報いとして「御怒りに」(9節)の中にあるけれども、契約のうちにあって「わたしたちすべての日は」喜びにあふれることができる。(その日の「朝」(14節)と移ろう「朝」(6節)の相違)
16-17節と3-12節に見られる対比は最高である。それは、滅びやすいものと神がなすことができる永続的な栄光との対比である。ここには、一時的な世界に住むわたしたち神の「子ら」への遺産がある。ここには「喜び」がある。ここでは、労苦は無駄ではない(わたしたちの手の働きを確かなものとされる)。
 時間、怒り、死という不快な事実と向きあうことは、わたしたちをこの90篇が歌う祈りや確信へと動かしていく。

2.関連する新約聖書の聖句
 4節「千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」  参考:ペトロ二3:8「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」
 5節「あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。 参考:ペトロ一1:24「こう言われているからです。『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草のようだ。草は枯れ、花は散る。』」
 6節「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れていきます。」  参考:ヤコブ1:11「日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消え失せるのです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(90篇を締めくくるにあたっての注解 16,17節から)
 「栄光」(新共同訳:威光)と「主の麗しさ」(新共同訳:主の喜び)という語に注目しなければならない。そこからわれわれは、神がわれわれに対して抱かれる愛は、測るべからざるものである、と結論する。たとえ神はわれわれを富ましめられるに当たって、御自身のために何ひとつ要求されないとしても、しかもわれわれを寛大に扱われることにおいて、その壮麗さが輝き渡り、その麗しさが開示されるようにと望まれるからである。そのあとに続く「あなたのみ手のわざが、われわれの上に立てられますように」という句のうちで、モーセは神が導き手、また創出者であることを示し、その霊によってわれわれを統治されるのでないかぎりは、われわれは何ひとつとして企てたり期待したりできない、ということを言い表わす。

詩編を読む・2017.8.23   詩編89篇 1~53節

詩篇89篇
1.詩編89篇を読む
 この詩編の土台には、サムエル下7:3-17の預言がある。預言の中心にあるのは、ダビデの王座は永遠に続き、その王座に就く者には栄誉があるという約束である。
1-5節 この詩全体は、サムエル下7:13,14に記されているナタンによる預言の現実の注解といえる。4,5節にその預言が要約されている。しかし、出来事は予想外に展開し、39‐52節に記されているように、「しかしあなたは…」(39節)、「いつまで、主よ、…」(47節)といった痛ましい緊張が走る。その現実を預言者は直視する。しかし、学ぶべきは、彼の信仰者の姿勢である。彼は決して恨みがましくなったり、約束のことで毒づいたりはせず、神の御手を示してくださいと訴えつつ、約束と出来事との衝突に向き合っていることである(50,51節)。
 6-19節 今目の前にある神の御怒り(47節)に触れながらも、作者の神理解は、神の恵みに向かっている。予想外に展開している事態をはるかに超えて、この詩編は、神の尊厳(6-9節)、統御(10~14節)、恵みとまこと(15~19節)に歓喜している。ここには神の栄光の輝きが豊かに啓示されている。この啓示のおかげで、イスラエルも王も主を知り、従うことができるのである。
 参考までに10節:「海」は、人間を取り巻く環境の中で、最も恐るべき、最も予測不能なものとして聖書の中では描かれる。関連‐マタイ8:27「いったい、この方はどういう方なのだろう。」
 20~38節 ダビデを選び(20~22節)、彼を高くし(23~28節)たのは、神の主権によるということに、強調点が向けられる。自力で生涯を開き、王となり、帝国を建設した者の姿はここにはない。背後には、神がおられる。ダビデについての預言が完結されずに中断されることはない。それを保証するのは契約であり、その契約の言葉を変えられることのない神に作者はしっかりと目を向けている(34~38節)。「とこしえに」(37節)という言葉は、生きて残り続け、新約聖書の最初の章において明らかとされる。
 39節~ まず、「若き日」(45節)に注目したい。つまり、ヨヤキンは即位して3か月後に18歳でバビロンへ強制移住させられ、文字通り「恥で覆われ」(46節)以降37年間を囚人として過ごした(列王下25:27,29)。彼は、ダビデの王位を継ぐ者として、イエスの先祖に数えられるのである。契約は破棄されたかのような状況ではあるが(39~41節)、詩人の信仰は神の誓いに(36節)立っている。だからこそ、「いつまで…ですか」と(47節)神に向かって叫び祈るのである。その答えは、福音(新約)によって与えられる。油注がれた者メシア(52節)が、「辱め」(そしり)を受け取られるからである。

2.関連する新約聖書の聖句
 5節「あなたの子孫をとこしえに立て あなたの王座を代々に備える、と。」 参考:ルカ1: 33「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 21節「わたしはわたしの僕ダビデを見いだし 彼に聖なる油を注いだ。」  引用:使徒言行録13:22「それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子であるわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』」
 28節「わたしは彼を長子とし 地の諸王の中で最も高い位に就ける。」  参考:ローマ8:29「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」
 49節「命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。…」  参考:ヘブライ9:27「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」  同11:5「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。…」
 
3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) この詩編の作者は、苦しみの中にある教会のために、神に祈りを捧げることを欲し、確かな希望の根拠として、自分自身、また他の者すべての前に、神がダビデと結ばれた契約を提示する。ついで彼は一般的に、この世の統治のうちに明らかであるような神の権能に言及する。さらに彼は贖いのわざに論を及ぼす。神はそのことのうちに選民に対する愛情の、永遠のあかしを示されたのであった。ここから預言者は再度、ダビデとの間で結ばれた契約へと戻っていく。この契約のうちに神は、王に恩恵を施し、それを通じて民に対し常に憐れみ深いことを示そう、と約束されたのである。
 最後に作者は、神があたかもその約束を忘れられたかのごとくに、教会を悪しき者らの欲望のままに放棄し、異常な惨害と憐れむべき離散の直中にあっても、何の助けも慰めも示されないことを嘆き悲しむ。
 49節(新共同訳50節)「主よ、あなたの最初の憐みはどこにあるのでしょうか。あなたはその真実にかけて誓われました。」  預言者は神のもろもろの恩恵の賜物を思い出すことによって、勇気を奮い起こす。神が常に御自身にとって変わることなく、またかつての日に父祖たちに示された寛大さが終息するはずがない、と推論しているかの如くである。信仰者たちが「神は決して変わることなく、その寛大さを継続することを止められない」という考えを目の前に置かないかぎりは、かつて父祖らをやさしく取り扱われたようにはもはや取り扱われないと思うとき、彼らを失望させるのは確かである。…「真実にかけて」と言われているのは、神がかつての日にその寛仁から父祖たちに果たされたことすべてを、信仰者たちが自分の一身に、いっそう大きな確信をこめて適応するためである。

詩編を読む・2017.8.16   詩編88篇 1~19節

詩篇88篇
1.詩編88篇を読む
 詩編はたいてい非常に暗いことを述べても、最後には明るい賛美で終わるが、この詩編にはそれはない。その意味で、詩編の中でこれ以上に悲しい詩編はない。この詩を読むとき、今読む者の現在の状況がどのようであれ、傍観者的に読むことはできない。祈りのうちに、意気消沈している人々、見捨てられた人々と同じ立場に立つ必要がある。闇が深く迫っている。その中におかれて希望がほとんど見られないとしても、そうした中にいる人々の心の状態を、この詩編は言葉にしているからである。その一つ一つの言葉が役に立つ。
 1節の表題では、この詩の作者はエズラ人へマンとある。エズラ人は、ゼラ人と同じであり、ユダ族の氏族である(歴代上2:6)。ただしへマンはレビ人でもあり、エフライム族ともつながりがあった(歴代上6:18、サムエル上1:1参考ユダ族でレビ人の例士師記17:7)。神に見捨てられたと歌うこの作者へマンはダビデによって任務につけられた詠唱者(歴代上6:16)として豊かな恵みの中におかれていた。それだけに、この詩篇では、重荷を負い落胆してはいるが、作者の存在は決して無意味ではない。たとえ生き地獄であったとしても、神の御手の中にあるならば、多くの実を結ぶからである。
 1節 作者は、「昼」も「夜」も嘆く。コラの子たちの詩篇の12篇(42‐49,84,85,87, 88)のうち、この詩編は最後のものであるが、この嘆きは、最初の42:4にも歌われている。また、主がよく知っておられた22:3にも見られるものである。これらの言葉の深い意味をわたしたちは主イエス・キリストの言葉から学ぶ。
 ルカ18:7-8「(7節は下記2.に記載)言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。 しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見い出すだろうか。」
 一見すると神は冷淡なように見えるが、この言葉からわたしたちは、どれほどの絶えざる叫びに対しても、神は思いやりを持っておられることがわかる。
4-10節 闇の深まりの中で、神の憤りにあって苦しみを受けていると嘆く。しかし、それでも作者は沈黙しない。10節の「来る日も来る日も」は、2節の「昼」と「夜」、14節の「朝ごとに」をさらに強めている。作者は、ペヌエルでのヤコブのように粘り強く主と格闘するのである。(創世記32章)
11-19節 死は、神の御業も感謝も慈しみも恵みも、それらすべてが失われる「忘却の地」である。まさに、生ける者にとっては「最後の敵」(コリント一15:26)である。しかし、神の目標は死ではなく復活である。作者が発している数々の質問「驚くべき御業をすること」「感謝すること」「慈しみが語られること」「恵みの御業が告げられること」は、復活以外の回答では、決して満足されないのである。
 詩人は執拗に祈る(2,10,14節)。そして、打撃を受けたままで詩編は終わろうとしている。振り返ってみて、作者に思い出せるものはと言えば苦しみと不運だけで(16節)、神の方に向いても恐れがある(17,18節)。人からの慰めも見いだせない(19節)。このような作者の苦難の呻きを通して、神はこの呻きを最終的な状態として受けとめさせようとしているのだろうか。わたしたちにわたしたちの「体の贖われることを…うめきながら待ち望んでいる」(ローマ8:22-23)ことをはっきりと思い出させるのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「主よ、わたしを救ってくださる神よ 昼は、助けを求めて叫び 夜も御前におります。」 参考:  ルカ18:7「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) この詩編にはみじめな苦しみに会い、ほとんど絶望するに至った人間の、深い嘆きが含まれているが、同時にまた、預言者はみずからの悲しみに戦いを挑み、彼のうちにある信仰による不撓不屈の向上心を明らかにする。彼が死の深い暗黒にあっても、なお神を贖い主として呼び求めるのも、そのためである。
 1節(新共同訳2節)「主、わが救いの神よ、わたしは昼も夜も御前で叫び求めます。」
 預言者は彼が忍ばなければならなかった災禍の大きさのゆえに、激しい嘆きの声を発出したが、この短い「主、わが救いの神」と叫ぶことによって、あまりに激しい感情に押し流されて神を不満とし、神に向かってつぶやくことなく、かえって、神から謙虚に憐れみを願い求める。また彼は、この短い祈りでわが救いの神と呼ぶことによって、自分自身に手綱をかけ、節度のない悲しみに浸ることなく、絶望に陥ることもなく、十字架を忍ぶようにと自らを確かなものとする。この神への絶え間ない叫び声によって、預言者はいかに熱心に祈ろうと心がけているかを示す。また、苦しめられている者は、彼の祈りに注目しなければならない。いかに大きな苦難の中にあっても、弱り衰えることがないための祈りの型(手本)がここにはあるからである。聖霊は、その祈りの型を、深い暗さから抜け出し確かな望みの光の中へと至る へマンの口を通して定めているのである。祈りによって神は、すべて絶望した者をみもとへと招かれるのである。
 あなたの御前でという語も、決して余分ではない。だれでもが何かの悲しみに押しつけられるときには、一様に嘆きの声を発するものであるが、その呻きを神のみ前で発するかどうかが重要だからである。大多数のものは隠れ家を探し求め、そこで神に対して逆らいつぶやき、神の峻厳さをとがめたてる。ある者はわけもわからずに、むなしく叫び声をあげる。そこからわれわれは、神を目の前に提示し、神に祈りをささげるということは、まことに稀有な徳であると結論する。

詩編を読む・2017.8.9   詩編87篇 1~7節

詩篇87篇
1.詩編87篇を読む
 「天のエルサレムは、…わたしたちの母」(ガラテヤ4:26)。このパウロの言葉の背景にある幻が、この詩編にはうたわれている。シオンは、ユダヤ人にとっても異邦人にとっても首都に定められている。最終的には、まぎれもなく今までの旧敵は回心して、神の都に組み入れられるのである。
  神の都:参照 黙示録21:9~ 終末の完成の新しいエルサレム
         へブライ12:22 生ける神の都、天のエルサレム
1-3節 この詩編の最初の単語は、文字通りに訳すと「彼の建造物(築いたもの)」となる。そして、それが築かれている山々は「聖なる山々である」。そこには神がおられるからである (聖なる山だから神がおられるのではない。神がおられるから聖なのである) 。
まさにこれは、信仰の父アブラハムが待望していたものである。
  ヘブライ11:10「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」
 2節.神がその山々におられるのは、神がその場所を愛しておられるからである。
 神がイスラエルを選ばれたのも、これと同じ理由による(申命記7:6-8)。
  神がキリストにあってわたしたちを選ばれたのも、同じ理由による(ヨハネ3:16)
 この詩編が明らかにしていることは、シオンは場所の名前であるだけではなく、共同体の名前でもあることである。
3節は、神からのお告げである。このことが、新共同訳ではよく表現されてるとはいえないので、諸訳を参考にしよう。
  口語訳:神の都よ、あなたについて、もろもろの光栄あることが語られる。
  新改訳:神の都よ、あなたについては、素晴らしいことが語られている。
  フランシスコ会訳:神の町よ、主はあなたについて、素晴らしいことを語られる。
 主が語られる「栄光・すばらしいこと」とは何か。単なる一般的な名声と言ったものではない。それは具体的な事柄であって、その内容が以下に語られる(4-6節)。
4,5節に記されているのは、当時の異邦人世界において代表的な見本ともいえる人々である。その名前が神の都に登録されるのである。神の民にとっては、その人々は単なる改宗者ではない。パウロが自分のローマ市民としての身分を述べたように(使徒22:28)、彼らもラハブ(即ち、エジプト)、バビロンなどと述べることができる。まさに福音時代そのものである。
 6節には、神の「小羊の命の書」がある。それは、神御自身の手によって記された(参考:黙示録21:24‐27)。シオンは栄光ある場所であると共に、喜びと賛美の所となる。
2.関連する新約聖書の聖句
 5a節「シオンについて、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と。」 参考: ガラテヤ4:26「他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」
 7節「歌う者も踊る者も共に言う 『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」
参考: 黙示録21:6「また、わたしに言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。』」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)  バビロニア捕囚ののち、教会の置かれている状況は、惨めで悲しむべきものであり、信仰者の精神を弱らせるに足るものであったので、聖霊はここで、教会は驚くべき、また信じがたい方法で回復されるであろう、と約束する。
 この世の子らが安逸を貪るとき、われわれは彼らがいかに自分の境遇に満足し、耐えがたい傲慢をもって教会を軽蔑しつつ、その身の上を大いに誇りにするかを見る。彼らはいっさいの宗教と神礼拝とを軽蔑する。なぜならば、彼らは富の輝きと快楽と栄誉とに満足し、神なくしても幸福である、と考えるからである。
 信仰者たちがこのような誤った見せかけによって騙されないためには、他の発言へと耳を傾けることが必要である。つまり、詩編33:12で「主をその神とする民はさいわいである」と言われていることを確証することが大切である。それゆえに、この詩編の要旨は「唯一の神の教会は、この世のあらゆる王国や町々よりも、はるかにいっそう卓越している」ということである。
 5節「そしてシオンについては『この人も、かの人もその中で生まれた』と言われる
でしょう。いと高き神ご自身が、これを立てられるからです。」 預言者は前節の文意
を続けて、世界のもろもろの方角から、新しい市民、住民たちが神の教会へと集められるであろう、と言う。…預言者は前の節で、カルデヤ人やエジプト人が、教会の家の者らに加えられ、エチオピア人、ペリシテ人、ツロ人らはその子らのうちに数えられるであろう」と述べた。ここでは言葉少なに約束されていることを、預言者イザヤは、はるかに詳しく叙述している(参照 イザヤ54:1,2)。同じく、「あなたの子らは遠くから来る。そこであなたの目を挙げて、周囲を見回せ。彼らは皆あなたのもとに集まってくるからである」(イザヤ60:4)。
 彼らはその民と、父の家とを忘れ(詩編45:10・新共同訳45:11)、朽ちることのない種子によって、新しい被造物として形造られ、新しくされるので、神と教会との子となるのである(参照 ガラテヤ4:19)。

詩編を読む・2017.8.2   詩編86篇 1~17節

詩篇86篇
1.詩編86篇を読む
この詩編は、ダビデの苦難の日の歌である。サウルに追われて放浪するダビデの祈りと考えることができる。困窮の中で、ダビデは心を神に向けて祈る。その神は(1節)耳を傾け、答えてくださる「誠実な神」、貧しく、身を屈める者に目を注がれる「憐れみ深い神」である。その神にダビデを強く結び付けている絆が2節には三つ撚りの糸のように強調されている。
 ・契約という絆 ― 「慈しみに生きる」は、詩編18:26「あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し」にも用いられており、不変の愛、すなわち契約当事者間の愛の約束とつながりがある表現である。
 ・「僕」を主人に結びつける絆 ― 16節では、この訴えが二重になされている(詩編116:16参照)。詩人の母親も「仕える者」である。→エフェソ1:4を参照
 ・信頼する者と信頼される者との間にある絆 ― 依り頼む者
 4節.苦難の中でダビデは、喜ばせてください、と祈る。このような大胆な祈りをすることができるのには、それだけの理由がある。それが4-7節で示されている。
 ・祈っている者のひたむきさ ― 「あなただけを慕う」祈りは、「むなしいものに魂をうばわれない」(詩編24:4)、「あなたに依り頼む」(詩編25:2)祈り。
 ・主の御性質 ― 主は恵み深く、慈しみに満ちた方。
 ・主は祈りに答えてくださるとの確信 ― 信じて疑わない(マタイ21:22)
11節から詩は後半に入る。ダビデは「御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください」と祈る。祈りに打算があってはならない。人の心は罪のために崩壊している。それだけに、「一筋の心」を求める祈りに心を傾けなければならない。
祈りは、自分が神によって生かされていることを知る者の嘆願といえる。しかし、わたしたちは、他の救済手段がある時には神を求めない。それでわたしたちは苦難を与えられ、「主こそ神、この方以外に救いはない」ことを知らされる。(参照:イザヤ31:1「災いだ、助けを求めてエジプトに下り 馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く 騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず 主を尋ね求めようとしない」、及び使徒4:12)
 ダビデは、憐れみや慰めを求めながらも「力づけてください」(17節)と神に懇請する。14節、ダビデを告発し亡き者にしようとする敵がいるのである。わたしたちは誰もが神への信仰のゆえに苦難を受けることがある。しかし、そのときはダビデの信仰に倣い、心を神に向けて祈るときである。(参考:ヨハネ15:18‐19) そして、何よりも、神への一筋の心をわたしにもお与えください、との祈りの人として歩みたい。
2.関連する新約聖書の聖句
 9節「主よ、あなたがお造りになった国々はすべて 御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。」 参考:黙示録15:4「主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる名は、あなただけ。すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです。」
 10節「あなたは偉大な神 驚くべき御業を成し遂げられる方 ただあなたひとり、神。」  参考:コリント一8:4「そこで、偶像に備えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」同8:6「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)  この詩編は祈りを含むが、そこには信仰を抱懐し、強めるための聖なる冥想、及び賛美と感謝の言葉とが混入されている。なぜならば、肉の感情に従えば、ダビデを抑えつけていたもろもろの不安を抜け出すことは、彼にとってきわめて困難であったが、彼はこれに対して、神の無限の恩愛と権能とを対置しているからである。ダビデは単にその敵から救い出されるようにと願うだけでなく、その心が神への恐れへと形造られ、神のうちに揺らぐことなく樹立されるようにと願い求める。
 11節「ああ主よ、わたしにあなたの道を示してください。そうすれば、わたしは、あなたの真理のうちを歩み、心をひとつにして御名を恐れさせてください。」  今やダビデは正しく廉直に生きるため、真実の知恵の霊によって導かれ・統治されるようにと、また力の霊によって、良き願いのうちに堅く立てられるようにと、いっそう高く上昇する。
 神に身を委ね、神が導き手であられるように祈りつつ、彼は神が先立たれ、われわれがその後に従い行くとき以外には、ただしく聖なる生き方はあり得ないと告白する。それゆえに、たとえわずかでも律法の道から外れ去り、おのれ自身の幻想によって賢くあろうとする者は、道に迷っている。ダビデがすぐ後で「わたしはあなたの真理のうちを歩むでしょう」と付け加えるとき、このことをいっそう明らかに確認している。
 また、彼が単に外的な教えだけではなく、聖霊の内的な光を願い求めていることに、われわれは注目すべきである。それはただ文字を学ぶだけで、時を浪費しないためである。詩編119:18に「わたしの目を開いてください。そうすれば、わたしはあなたの律法のうちに驚くべきことを考えるようになるでしょう。」と言われている通りである。

詩編を読む・2017.7.26   詩編85篇 1~14節

詩篇85篇
1.詩編85篇を読む
 2‐4節.この詩篇の背景にあるのはバビロン捕囚の帰還である。BC538年、ペルシャのキュロスによって新バビロニアは滅亡し、捕囚されていたイスラエルの民は故郷に帰って来た。イスラエルの咎は覆われ、救いにあずかって、約束の地に帰ってくることができたのである。神の御業をほめたたえ、その恵みの数々をイスラエルは思い出しているのである。
 しかし、今はその恵みが感じられないのだということを、つづく5節からは訴え始めている。この5節から8節までは、今の現状に対する神への訴えである。4節では、神は「怒りをことごとく取り去り、…憤りを鎮められた」と言っているのに、5節では「苦悩を静めてください(口語:憤りをおやめください)」と訴えるのである。
 過去の恵みを数えながらも、イスラエルの人々は、神がまだ怒っておられると感じられるほどの厳しい現状に置かれていた。このときの状況については、エズラ記やハガイ書に記されている通りである。(ハガイ1:9-11)
バビロンから帰還したとはいえ、先ずはエルサレム城壁を修繕しなければならない。城壁を早急になおさなければ直ぐにも周りの国が攻め込んでくるのである。しかし、修繕しようにも、それを周りの民族が妨害するために、神殿再建の見通しは立たなくなり、神への礼拝をささげることのできない状況に陥っていった。この状況が長引く中で、神殿再建よりも自分の居心地のいい生活に人々の目は向けられていったのである。こうした状況の中で、2‐4節に見る過去の恵みの回顧は彼らを励まし、神の慈しみを求め、救いが現実となる祈りへと彼らを高める。8節「主よ、慈しみをわたしに示し わたしたちをお救いください。」
 9節で突然「わたし」という人物が登場する。「わたしは神が宣言されるのを聞きます。」(「わたし」は詩編の作者か預言者か…神に耳を傾け、神が答えられる言葉を聴き、その神の答えに民が注意を向けるようにと励ます。)
本当に見るべきなのは目の前の厳しい現実ではない。神は何を見ておられるのか。神はどうしたいと思っておられるか。そのことこそが、大事なのだということである。神の思いは「栄光はわたしの地にとどまる」ことである。バビロンから解放された後、困窮した時期が続いたが、その時期も今や終わろうとしている。神が共にいてくださる。
 有名な11節と12節が続く。「慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。」慈しみとまことも、正義と平和も、天にあれども地にはない。しかし神は、慈しみとまこと、正義と平和を、神の方法でこの地にもたらせてくださる。(参考:ヨハネ1:14)
「主の慈しみに生きる人々」(9節)、「主を畏れる人」(10節)とは誰か。恵みとまことに満ちておられるキリストに望みを置く人ではないか。それはわたしたちの間に宿られるキリストによって、備えられているのである。
 実際、ハガイ書を読むと、まさに民が主を畏れる人とされたとき、人々はエルサレム神殿の建設を最優先させ、4年後、エルサレムの神殿は再建された。神は、約束された御業を行ってくださるのである。14節「正義は御前を行き 主の進まれる道を備えます。」わたしたちに大切なことは「主の足跡を道とします」(新改訳13節)である。
 
2.関連する新約聖書の聖句
 10節「主を畏れる人に救いは近く 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。」 参考:ヨハネ1:14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) 神はバビロニア捕囚から帰還した信仰者たちを、新たな災厄と敗北をもって苦しめられたので、彼らはまず救出を再び思い起こす。それは神が始められたわざを忘れることのないためである。 ついで彼らはその災禍の長く続くことを嘆き訴える。第三に、確かな望みと確信によって再び立てられて、彼らは約束された浄福を喜び楽しむ。母国への帰還はキリストの王国と結びつけられている。そこから彼らはあらゆる善き物を豊かに期待したからである。
 5節(新共同訳6節)「あなたは永久にわれわれに対して怒られるのですか。代々限りなく、み怒りを続けられるのですか。」  信仰者たちは今や、長い間にわたる災禍の継続を嘆き悲しむ。神の本性からして、律法の中に記されていること、すなわち、神は怒るに遅く、待つことにおいて長く、進んで赦し、憐れみにおいて速やかである、と結論する。他の個所においても「その怒りは僅かのうちに消え去り、その憐れみはとこしえに続く」(詩編30:5)とあるのを、目にする通りである。
 祈るに際しては、神のもろもろの約束がわれわれの心のうちに言葉を備えるようにと、清想することが大切である。一見したところ、信仰者たちは、神が常とは異なった仕方で御自身を示されるかのごとく、嘆き訴えているように思われるかもしれないが、彼らが勇気をもって誘惑と戦うとき、彼らが慰めの望みを神の本性に求めていることには、少しの疑いも存しない。同時に彼らがこのように祈るとき、彼らがもろもろの災禍によって極度に苦しめられ、ほとんど耐えることができないほどであったことを思い出すべきである。それゆえに、たとえ神が一気にその恵みを、再びあらわにわれわれに示されないとしても、絶えず祈ることを止めてはならないと承知しようではないか。

詩編を読む・2017.7.19   詩編84篇 1~13節

詩篇84篇
1.詩編84篇を読む
 この詩編について、カルヴァンは内容からダビデが作者であるとしている。一方、「命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます」等の表現より、神殿での礼拝が出来なくなったバビロン捕囚の民の魂の叫びと解する人もある。どのような立場から読むにしても、わたしたちは信仰者として、ここで真に慕い求めている対象が「生ける神」(3節:新共同訳「命の神」) であることに心を留めておきたい。どれほど神聖な場所であると言われたとしても、生ける神 は場所の付属物ではない。神御自身が第一とされないような場所は、逃れ場(列王記上19:9洞穴でのエリヤ)や迷信の対象(使徒7:48,49)にはなりえても、魂が絶え入るばかりに恋い慕うところとはなりえない。
 2節の「どれほど愛されていることでしょう」は、恋愛詩で用いられる言葉で、正確には「なんと慕わしいことでしょう」という意味である。その慕わしい方・生ける神に向かって身をささげる信仰者の身と心の叫びが響く。わたしたちの神の家(我が家)の魅力がここに見事に歌われている。(考えてみよう.コリント一3:16、6:19 キリストを信じる者には、兄弟姉妹は個人であっても、集団になっても、神の神殿である。)
 注目しておきたい言葉 「いかに幸いなことでしょう」
 この言葉を作者は三回用いている。5節、6節、そして13節。この表現によって詩は展開している。5節では、もう神の家を離れて放浪しなくてもよい身を思い描き、生ける神の家に住む幸を慕い求める。その思いを続く6節では、新しい方向に向ける。作者は、生ける神への思いから、シオンで神にまみえるために力を得て進む者の幸いに目を向けるのである。そして、目的地が近くなるにつれて、目的地の魅力もさらに強くなる。それで(7,8節)信仰者は、疲れるどころか、さらに力を得て進む。
 三回目は、13節に見られる。ここで信仰者は、「見ないのに信じる人」(ヨハネ20:29)の祝福を既に見い出し、信頼する神への応答として「いかに幸いなことでしょう」と歌うのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「彼らはいよいよ力を増して進み ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」 
参考:ヨハネによる福音書1:16「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」  コリント二3:18「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
  12 a節「主は太陽、盾。」  参考:黙示録21:23「 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」
 12b節「完全な道を歩く人に主は与え 良いものを拒もうとはなさいません。」  参考:マタイによる福音書6:33「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられます。」  同7:11「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) 預言者は幕屋に至ることができず、あたかも信仰者の集い ― 神のみ名はそこで呼び求めらるべきである ― から追放されたかのごとくであること以上に、彼を悲しませるものはない、と嘆き訴える。同時に預言者は、何にもせよ、信仰者の願望を妨げることのできるものは存在しないことを示す。かえって反対に、あらゆる妨害を乗り越えて、信仰者は常に神を尋ね求め続け、言ってみれば、道のない所にも道を造りだすのである。最後に預言者は再び確かに立てられることを願い求める。そのことのうちに預言者は、再度、たとえ僅か一日しか生きられないとしても、神の幕屋において、互いに助け合うという自由を享受する方が、不信者と交わりつつ生き永らえるよりもましだ、と考えることをあかししている。
2節(新共同訳3節)「わたしの魂は大いに、かつ気も絶えんばかりに主の前庭を願い求め、わたしの心と肉とは、生ける神に向かって、喜びから身震いをします。」 ここで用いられている動詞は「強く願う」という意味であるが、しかも預言者はそれでは満足せず、わたしの魂は主の前庭を気も絶えんばかりに願い求める と付け加えるこれは「失神する」というのと等しい。ちょうど極端な激情に満たされると、われを忘れるようにである。
ここで「前庭」というのは、彼は祭司ではなかったので、それより神殿の奥には立ち入れなかったからである。周知のごとく、至聖所にまで入ることは、祭司以外には許されていなかったのである。ここで預言者が 生ける神 と言うのは、彼が神を契約の箱の仮屋のごとき、どこか狭小な場所に閉じ込め奉ることができると考えたからではなくて、彼は自分が天に上る階段を必要とすることを自覚し、目に見える場所はこの階段の役割を果たすことを知っていたからである。それを通じて、信仰者の霊が確立され、天上の保護者にまで導かれるのである。
ところでわれわれの肉の怠慢は、われわれの霊が神的尊厳の高さまで上昇することを妨げるので、神の側からわれわれの方に降りてこられ、何らかの方策によって、言ってみればその御手を差しのべてくださり、われわれをみもとまで高めようとされるのである。

詩編を読む・2017.7.12   詩編83篇 1~19節

詩篇83篇
1.詩編83篇を読む
 ここでは、不信心な同盟軍に、イスラエルが取り囲まれている。同盟軍はイスラエルを滅ぼそうと躍起になっている。この内容から考え、また、名のあがっている敵たちを考えるとき、これに最も近い出来事は歴代誌下20章の出来事と考えられている。そこでは、モアブとアンモンに先導され、エドムも含む一団によってユダの王ヨシャファト(BC868‐847/南王国ユダ4代目)が脅かされたと記されている。このことについては、カルヴァンの時代においても、意見は同じである。そして、カルヴァンが重視するのは、神に敵対する者が神の民を滅ぼすことに力を注ぐ点であり、その戦力はヨシャファトの戦力よりも多いことである。
6節からのいくつかの民について。(いくつかの民は、イスラエルとは近縁関係にあった。それだけに彼らの敵意はいっそう激しかったと言える。)
エドム‐ヤコブの兄エサウの一族   イシュマエル‐イサクの異母兄に遡る一族
モアブ、アンモン‐ロトの子ら(9節)
 これらの東部と南東部にいるイスラエルの隣人たちが、地方の小部族と同盟していたのである。こうした連合軍に、南西と北西の力が加わる。ペリシテとティルスであり、エルサレムを囲んでの円陣網となる。そして、この背後に強力な勢力アッシリアが控えている。
10-13節この脅威の中で、祈りと信仰のうちに過去の出来事がよみがえってくる。
 ミディアンとその四人の指揮官(12節‐オレブ、ゼエブ、ゼバ、ツァルムナ)が滅ぼされたのは、角笛とつぼとたいまつで武装しただけのギデオンの300人によってであった(士師記7章19節以下)。また、カナンの王ヤビンの将軍シセラは、女の手(士師記4章9節/デボラ)に売りわたされたのである。
 「敵が騒ぎ立って」(3節)いても、神が立ち上がるとき、神は弱かった者を勝利者として選ばれたのである。これら過去の出来事のように、この危難に際しても神が民を保護してくださるようにと、この詩編は祈り歌う。 
この詩が、歴代誌下20章の出来事から生まれた祈りであるか、あるいはもっと大きな脅威に直面したときに生まれた祈りであるかはさておき、この世が絶えず神とその民に対して攻撃をしかけて来るから、この祈りがあるということに心を留めたい。
 この詩は、単に敵の敗北だけを願っているのではないことにも注目しておきたい。
 17節「彼らの顔が侮りで覆われるなら 彼らは主の御名を求めるようになるでしょう。」 19節「彼らが悟りますように。あなたの御名は主 ただひとり 全地を超えて いと高き神であることを。」
 このように敵が主の御名を求めるようにとの祈りは、17節「侮りで覆われるなら/彼らの顔が恥じるようになれば」つまりは、神が正しいことを立証してくださいとの祈りでもある。神の義が現されるとき、「お前たちはわたしが主であることを知るようになる」(エゼキエル6:7)とエゼキエルが神の導きの下で繰り返し語ったことは、主の民にも異邦人にも等しく真実である。
 
2.関連する新約聖書の聖句
 2節「神よ、沈黙しないでください。黙していないでください。静まっていないでください。」(神の沈黙を通して、民の信仰は試され、神に近く歩むことを学ぶ。 ― 参考:マタイ8:23-27「嵐の中で眠っておられるイエス」)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) 預言者は教会の敵に対抗して、神の助けを懇望する。そして、より容易に助けを受けるようにと、預言者はいかに多くの国々が陰謀を企み、イスラエルの民を滅ぼすことによって、教会の名を全く消し去ろうと努めたかを物語る。 同時に、多くの実例を示しながら彼は、神がいかに力強くそのしもべらを助けるを常とされたかを示す。それは、このような方法によって、彼自身および他の者たちを、一層大きな願望と確信をもって祈るように、と励ますためである。
 3節(新共同訳4節)「彼らはあなたの民に向かって、巧みに謀事を企み、あなたの隠された者に対して計りごとをしました。」  2節で「御覧ください。あなたの敵どもは騒ぎ立ち」と言って、信仰者たちが、敵どもの激しい暴虐と武力、また巧妙な奸計によって圧迫されている窮状が言い表わされている。…預言者は、われわれが敵の待ち伏せと、不意打ちにさらされていると考えることがないようにと、われわれを「神の隠された者」と呼ぶことによって、慰めと望みに満ちた修飾詞を持ち出す。このことによって、預言者はわれわれが神の翼の陰のもとに隠されていることを示そうとしているのである。われわれが悪しく驕慢な人々の欲望にさらされているように思われるのは事実であるとしても、しかもわれわれは神の大能によって守り保たれているのである。 
他の個所でも、「あなたはわたしをその幕屋の奥に隠されるでしょう」(詩編27:5)と言われている。しかして、神の守りと保護のもとに隠されている者とは、みずからの力を否認し、戦きをもって神を避け所とする者だけであることに、留意しなければならない。十分な抵抗力を持つと確信し、向こう見ずな大胆さをもって突進し、あらゆる恐れから自由であるかのごとくに、小競り合いを繰り返す者は、最後にはいっさいの力を奪われていることを感得して、大恥をかくことになるであろう。
それゆえに、みずからの弱さを感ずるとき、神の陰のもとに身を隠し、救いを神のふところに投げかけるにまさって確かなことは、ひとつもないのである。

詩編を読む・2017.7.5    詩編82篇 1~8節

詩編82篇
1.詩編82篇を読む
 この詩は、58篇と同じように不正な裁きを行う支配者を責めたものである。そして、神には無限の裁判権があること、神は権力を委任されること、神がわたしたちの状態を適切に判断されておられること、8節の「あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう」に見られるように神には深遠な意図があること、などが描き出される。
 1節「神は神聖な会議の中に立ち 神々の間で裁きを行われる」 ここで「会議」と訳されている言葉は、単に「集まり」を意味する言葉である。ここに同席しているのは、相談をするために会議に来ているのではなく、裁きを受けるため。その意味で、これは「天の法廷」の場面といってもよい。
  参考:フランシスコ会訳「神は神の集いを司り、神々の中で裁きを下される。」
 「神々」には、いろんな見解が従来から述べられてきた。イスラエルの支配者たち、異邦の諸侯たち、天の使いたち、「支配と権威、暗闇の世界の支配者」(エフェソ6:12)、偶像神などである。この詩編の内容からは、イスラエルの支配者、裁判人らを地上における神の代表者と見、その職務を神より委任せられていると考えるのが適切である。地上の支配者には高い敬意を払わなければならないが、彼らには最高の責任が負わせられている。それだけに神の支配と正しい裁きを祈願してこの詩は終わる。
  参考:ペトロ4:17「今こそ、神の家から裁きが始まるときです。…」
     ヤコブ3:1「…、わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」
 2-4節では、支配者が正しい裁きを行うことが求められている。「いつまで」という言葉には、時の権力者たちの尊大さや不正の根深さが示されている。聖書の神は、ノアの洪水以来忍耐の神である。その忍耐につけこんで不正は根付いているのである。
  参考:(時の権力者たちの尊大さということについて)
     コヘレト5:7「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても驚くな。なぜなら、身分の高い者が、身分の高い者をかばい 更に身分の高い者が両者をかばうのだから。」
 5節は、不正な支配者についての説明である。彼らは、裁きを行うために神に選ばれていながら、健全な教えに心を向けず、人々のために憂えることなく過ごしているのである。(別の解釈<キドナー>「悪政の中に悩み、悪い指導の下で苦しむものたちの窮状が述べられている。この窮状にある者は、『輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている(イザヤ59:9)』のである。」)
 最後にこの詩は、神のただしい裁きと支配を待ち望む祈りで閉じられる。この詩を読み、支配者たちへの祈り、そして裁かれるはずの者がキリストのゆえに神の嗣業と呼ばれる幸への感謝の祈りへと導かれる。

2.関連する新約聖書の聖句
 6節「わたしは言った。『あなたたちは神々なのか 皆、いと高き方の子らなのか』と。」  引照:ヨハネによる福音書10:34「そこでイエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。 同35節.神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはあり得ない。」
 8節「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。」  参考:ヨハネ黙示録11:15節「さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、われらの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) いったいに王たち、あるいはすべて権力を持つ者は、傲慢にも盲目となって、極度の放逸に陥ることが多いので、預言者は彼らが、この世のあらゆる高さを凌駕する至高の裁き主の前で、申し開きをしなければならないであろうと宣言する。預言者は彼らの職責と身分について、彼らに戒告を与えたのち、耳しいに語りかけるも同然であることを知って、神が報復を果たしてくださるようにと願い求める。
 6節「わたしは言いました。『あなたがたは神々だ そして皆いと高き者の子である。』」
 この言葉によって預言者は、悪しき裁判官も、神が彼らに与えられた身分と聖なる称号に寄りかかり、身を守ることができないことを明示する。(つまり)「もしもあなたがたが自分の尊厳を盾として立てるならば、このような自負は何の役にも立たないであろう。あなたがたは愚かな信頼の念の中にあって、おのれを欺いている。神はあなたがたを、代理人として立てられたのは事実であるが、しかも御自身の職責を捨ててしまわれたわけではない。神はあなたがたが自分の脆さを想起し、あなたがたに課せられている責務を、憂いと恐れをもって遂行すべきである」と預言者が言ったのと同じことである。
 (この聖句が、ヨハネ10:34—36でキリストによって用いられたことに関する注解として) この言葉によってキリストは、御自身を裁判官らの間に伍せしめられたのではなくて、小さいものから大きいものへという論法に訴えられたのである。「もしも神という名が官憲たちに適用されるのならば、神の独り子に当てはめていけないはずが、どうしてあるだろうか。子は父の一身を代表し、そのうちには父の威厳が輝き、満ちみちた神性がそのうちにとどまるからである」と。

詩編を読む・2017.6.28   詩編81篇 1~17節

詩編81篇
1.詩編81篇を読む
 7年ごとの仮庵祭(申命記31:10以下)では、荒れ野の旅を記念し、公の場で律法の書が朗読された。それと同じように、この詩編は祭礼で用いるためにつくられたと、聖書学者の間では考えられている。喜びから始まって、注意に至る内容のこの詩篇を歌い、また聞くとき、荒れ野で受けたありのままの教訓を、彼らは忘れることはない。その教訓は、キリスト者にも同じように大切な教訓である。
  参考:  詩編95:8「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑なにしてはいけない。」
       ヘブライ3~4章(3:7-11~4:14—16)
2—6喜べ
 「喜び歌い … 喜びの叫びをあげよ」 この表現が最初に出て来るのはモーセの歌(申命記32:43)である。そしてこの時も、エジプトからの荒れ野での信仰の旅に始まる救いの歴史に想いを寄せ、民が歓声と歌声を楽の音に合わせて神を賛美するようにと促される。
参考:ネヘミヤ8:10「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。― (同 8:4~18に見る「大きな喜びの祝い」の意義に心を留めよう)
テサロニケ一5:16「いつも喜んでいなさい。」
 一緒に集まって神を賛美することは大きな恵みである。新約聖書はいわゆる個人主義については警告している(ヘブライ10:25 集会を怠ったりせず…ますます励まし合おう。) マシュー・ヘンリーの注解より「神を賛美するのに不都合な時というものはない。しかし、指定されている時がいくつかある。それは神がわたしたちにお会いになるためではない(神には常に会う用意ができている)。それはわたしたちがお互いに会い、一緒になって神を賛美し、神を喜ぶためである。」
7—11想い起せ
 ここには、肩と手、重荷と籠、と言った具体的なことばで、贖いや抑圧といった概念が鮮明に描き出されている。神がわたしたちにどのように応答してくださっておられるのか、具体的に思い出すことは益となる。
 その神の応答は、イスラエルにとっては予想以上のものでった。8節「あなたを救い」「答え」「試した」では、救いは厳しい訓練に至っている。「メリバ」は、沈黙と、無視による教育といえる。
 9—11では、荒れ野で神が語られた言葉や業を思い起こすことによって、神に対してのみ、イスラエルは耳を傾け、腰をかがめ、目を向けなければならないことを教えている。そのとき、11節「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」と言われる神の豊かさの中に置かれている幸いを知る者とされる。
12-17悔い改めよ
 12節の「わたしの民」が「わたしの声」を聞かず、従わないということは、あまりにもよくあること。錠前がその鍵を拒否するか?ひな鳥が親鳥を拒むか? しかし、神がかつて扱われ、今も扱っておられるのは、そのような狂った人間なのである。それで神は、彼らを突き放し、思い通りに歩ませた(参考:ローマ1:24,26,28)。
 14,15節は、悔い改めを待つ、神の愛情豊かな表現である。(マタイ23:37で心痛めておられるキリストは、今も、神に立ち帰ることを望んでおられるのである。)

2.関連する新約聖書の聖句
 13節「わたしは頑な心の彼らを突き放し 思いのままに歩かせた。」  参考:ローマ1:24「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めた。」,1:26「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。…」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) この詩編はふたつの部分から成る。作者は、彼らが(イスラエルの民)神のみ手によって贖われ、祭司の国、特別な教会として選ばれたからには、このはからざる恵みを記憶に留め、賛美を歌うと主に、聖潔な生活を送ることによって、贖い主をほめたたうべきであると勧める。ついで預言者は神の口を借りて、民の忘恩を難詰する。神はやさしく、またいつくしみ深く、民をみもとに招かれたのに、この民は常に頑迷にも、律法のくびきを負うことを拒み、神にとって何の益もならなかったからである。
 6節(新共同訳7節)「わたしはその肩から重荷を取り除きました。彼らの手はつぼから遠ざかりました。」ここで神は、イスラエルの民に対してどのような善をされ、また民は神に対してどのような責務を神に対して負うかを語り始める。
民が引きだされた奴隷の労役が厳しく苦しいものであっただけに、自由はそれだけのこと貴重で望ましいものであった。それゆえ、預言者が、彼らが背の曲がるほどの重荷を負うことと、土でつぼを作る卑賎で苦労の多い役務に定められていたことを言うとき、以前の状態を現状と対比させ、贖いの恵みに一層の光輝を帰しているのである。
 そこでわれわれに必要なことは、おのれ自身に帰り、心を高く挙げることである。神はわれわれの肩から煉瓦の重荷を取り除かれただけでなく、またわれわれの手を炉から引き出されただけでなく、実にわれわれを悪魔の残酷で悲惨な専横から引き出し、また地獄の深淵からわれわれを引き出されたからには、われわれの責務は古代の人々のそれよりも、はるかに厳格で、はるかに聖なるはずである。

聖書を読む・2017.6.21   詩編80篇 1~20節

詩編80篇
1.詩編80篇を読む
 80篇の背景について:
ここにうたわれている場面は、エルサレムの陥落(陥落・第1回捕囚BC597 、滅亡・第2回捕囚BC586)ではなく、そのおよそ1世紀半前に、北のサマリアが助けを求めて叫びをあげる最後の日々(BC722北イスラエル滅亡)を迎えたときのことである。
 BC734アッシリアの攻撃からBC722年の間に、イスラエルのほぼ全体(12部族中の10部族)が一掃されたときに、エルサレムにどれほど大きな衝撃が走ったことか、そのことをこの祈りは明らかにしている(この詩編は、神殿聖歌隊であるアサフ族のものである)。小さなユダの国土の北側に面しているのは、姉妹王国イスラエル、そのイスラエルがアッシリアの属州になってしまった。ここには、南北という対立の意識はない。昔からの神の家族が崩壊してしまったので苦痛のみが残った。
 災いのすぐ後で、ユダ王国のヒゼキヤが 北部族の生き残った者たちをエルサレムでの過越祭に招いた。ここには南北を結ぶ一つの絆がある。しかし、ヒゼキヤの呼びかけは拒否された(歴代下30:1,10—11) 。歴代下30:10—11に記されていることを信仰者としてしっかりと受けとめたい。イスラエルの頑なさのゆえに、イスラエルは必ず裁かれる。この詩編は、そのさばきを嘆いている。同時に、この祈りは、前8世紀の終わりごろにあったユダヤ民族の危機と没落とに向き合った民の神への切なる嘆願である。
 この詩編の主題について:
 「御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。」が4,8,20節に反復句として記されている。また、9節からは、ぶどうの木にまつわる長い直喩によって、万軍の主に「立ち帰ってください」「このぶどうの木を顧みてください」と切なる祈りをささげている。まさに、この詩編の主題は、御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください といえる。
注目したい表現について:
 「わたしたちを救うために来てください」3節、「わたしたちを連れ帰り」4節、「わたしたちはあなたを離れません」19節などで、「わたしたち」という表現で祈りをしていることである。祈っているのは誰か。北の部族から逃れてきた信心深い者であったかもしれないが、アサフの詩としてエルサレム神殿でうたわれていたことを考えると、統一されたイスラエル国家を願っての祈りと言える。エルサレムにとって、イスラエルへの関心がどれほど純粋であったかをうかがい知ることができる。
    参考:ダニエルの執り成しの祈り―ダニエル書9:4-7,18,19
 「ブドウの木を顧みてください」15節 木を植えられたのは、神御自身である。そのことを拠り所として、この祈りは、必死になって神の誠実さに訴える。、
 また、この個所からは、イエスが「わたしはぶどうの木」と言われた教えを思う。イスラエルは、まことのぶどうの木になることはできなかったが、わたしたちの主は完全にまことのぶどうの木であったし、今もそうであり、わたしたちはその木の一部とされているのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 9節「あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。」  参考:マタイ21:33「…ある家の主人がブドウ園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」(マルコ12:1、ルカ20:9)、  使徒言行録7:45「この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨) この詩編は多くの涙と嘆きとに満ちた祈りである。苦難のうちにある教会が、神のみこころならば、助けを与えられるようにという祈りである。しかし、惨めさの中にある信仰者が、より容易に支えを獲得するようにと、彼らは彼らの昔の有様を現状と比較する。そのころは神の特別な恵みが、輝きわたっていたものだったからである。
 1節(新共同訳2節)「ああイスラエルの牧者よ、群れのごとく、ヨセフを導かれる者よ、耳を傾けてください。ケルビムの間に坐して、あなたの光輝を示してください。」 
 ああイスラエルの牧者よ 預言者はエフライムとマナセの名を口にする前に、ヨセフの名をあげる。彼がユダの名を口にしないのは、別にイスラエル王国について語るつもりでないからとすれば、なぜであろうか。イスラエルの支配権はヨセフの後裔にあったからである。その後裔の残りの者を再び神は集められるのである。
 ケルビムの間に坐して 神をケルビムの間に座られる方と呼び、彼らを律法の正しい教理に引き戻そうとする。…そこでイスラエル人は、彼らの出発点にまで戻るように、と勧奨される。そうすれば神の憐れみ深いことを見い出すだろうからである。
 ここで神に帰し奉られている称号によって、人間に対する神の驚くべき愛をわれわれは体得する。神は御自身を低くし、言ってみれば、彼らの所にまで降るほど、御自身を小さくし、彼ら人間の真中に住まうため、住まいを地上に定められたのである。厳密に言えば、神が座られることはない。天も地も包むことのできない方を、ある場所に限定することは不可能だからである。しかし、人間の弱さを顧慮し、神は人間から遠く離れておられると想像して、疑い、恐れるようなことがないために、神はケルビムの間に座られる、と言われている。

詩編を読む・2017.6.14   詩編79篇 1~13節

詩編79篇
1.詩編79篇を読む
 4節「わたしたちは近隣の民に辱められ 周囲の民に嘲られ、そしられています」という悲惨は、いつまでも限りなく続くかに見える。しかし、その悲惨を被っているのは「わたしたち」ではなく、「あなたの嗣業(相続地)」であり、「あなたの聖なる神殿」であることに先ずは心を留めておきたい(1節)。
 悲惨な状況にある試練の苦しみは、いつまでも続くものではない。(5節)「永久に憤っておられる」かに見える神の憤りには、「熱情」(新改訳「ねたむほどの激しい愛」)という別の面があることを理解しておきたい(参照:ゼカリア8:2)。
 これに関連してアモス書を読んでおこう。アモス3:2「地上の全部族の中からわたしが選んだのは お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを すべての罪のゆえに罰する。」
 それにしても、6節の祈りは慈愛の心に反するように思えないだろうか。わたしたちは、自分に降りかかる災禍を憂えるとき、同じようにわたしたちと同様に他の人たちも慰められるようにという心を持つことが大切と思うからである。それでは、御名を呼び求めない者を滅ぼしてくださるように祈ることは、向こう見ずなことなのだろうか。このことについては「あなたを知ろうとしない」という言葉から理解しておきたい。「知ろうとしない」というのは、意図的に知ろうとしていない者、テサロニケ二1:8でいうところの「神を認めない者」「福音に従わない者」である。神はそのような者に、罰をお与えになられるのです(参照:テサロニケ二1:6以下、ローマ1:18—23)。
 すべての人が救われるように願うとしても、教会全体の救いを心がけるとき、神の義が明らかにされるように、との祈りが心にわき上がる。
 9節も、熟考し味わいたい御言葉である。「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し わたしたちの罪をお赦しください。」
 この御言葉に示されている主題は、罪の赦しが神の栄光であるということである。罪が赦されるのはわたしたち人間だと考えるのが普通であることを考えると、意外ではないだろうか。それで、いくつかのことを考えておきたい。
・「御名」  聖書では、「名」というのは、実態そのものの意味で使われる。その意味で、「神の御名」「主の御名」といえば、神そのものと受けとめて差し支えない。
  したがってここでは、罪の赦しは神のためであるというのである。
・「罪」   聖書では、「罪」は、神に背くこと、神への敵対。人間が神の主権を犯し、自分を神の位置に置いているのである。それは確かに神の栄光を傷付けていることになる。神を神の座から追い落とし、その座に自分をつけているのである。
・「罪の赦し」  聖書では、「罪の赦し」のおとずれは、福音。神に敵対し対立している者を、神が愛のうちに包み込むことであるといえる。対立に対抗すれば、さらに新たな対立が生ずるものであるが、内に包まれるとなれば、反逆はできない。
 罪の赦しが、自分のためであるだけではなく、主の御名の栄光のためであるということを知る。このことを知って、わたしたちは、信仰とは自分のことだけにとらわれて終始するものではなく、実に壮大な出来事であることに目が開かれるのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 6節「御怒りを注いでください あなたを知ろうとしない異国の民の上に あなたの御名を呼び求めない国々の上に。」   参考:テサロニケ二1:8「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めないものや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)これは甚だしい苦難の中にあった教会の訴えそのものであり、嘆きである。その中で、信仰者たちが、その惨めで残酷な破滅を悲しみ、その敵どもの反逆を非難しているのは確かであるとしても、しかも彼らは、自分たちがこのように懲らしめを受けるのは、当然のことである、と認め、謙虚に神の憐みにすがろうとする。
 9節「ああ、われらの神よ、御名の栄光の愛のゆえに、われらを助けてください。われらを救い出し、御名の愛のゆえに、われらの罪を憐れんでください。」  彼らが神の和らぎを得ないかぎりは、災禍の中にある彼らにとっては、何の慰めもないことをくりかえし語る。彼らは自分自身の心のうちで、多くの違反行為について有害であることを感知するので、いろいろな言い方を通して、慈悲を懇願しようと望む。…神がわれわれを懲らしめられるとき、単に外的な懲罰の軽減されるように願うだけでなく、何よりもまず、神と和らぐことを熱望すべきである。病気の症状が取り除かれることだけを願って、病気の根本原因が癒されることを問題としない病人の真似をすべきではない。
 13節「しかし、あなたの民、あなたの牧場の羊たるわれらは、とこしえにあなたを告白し、あなたへの賛美を語るでしょう。」  預言者がこのように語るとき、その背景に留意しなければならない。アブラハムの末裔は、神のみ名がほめたたえられ、またほめ歌がシオンに響き渡るために選び出されたのであるが、この民が滅び去ったのちは、神のみ名の記憶もまた廃絶されたというのであろうか。この章句がイザヤの預言に対応していることは疑いない。イザヤは言う。「わたしはこの民を、わたしの賛美を唱えさせようと、わたしのために造りだしたのである」(イザヤ43:21)。

詩編を読む・2017.6.7    詩編78篇 1~72節

詩編78篇
1.詩編78篇を読む
 「ツォアン」(12節)から「シオン」(68節)へのイスラエルの歩みは、エジプトの奴隷時代からダビデの統治時代に至るまでの動乱の成長期の歴史である。ここに語られているのは、二度と繰り返してはならない神への反抗であり、その反抗に対する裁きを通じてなお一貫してとどまり続ける恵みである。
 ここに記されている歴史に、キリスト者は何らかの神の御業へと思いが導かれる。
 ・この歴史は繰り返され、最終的には選ばれた民族が、それも選ばれた都(68節)で自分たちの王を拒絶した。
 ・この詩編では、イスラエルの歴史は突然に打ち切られている。それは、続く世代の者がこれを完成させ、そこから学ぶためであることを知る。(キリスト者の草創期の歴史が、使徒28:30,31で打ち切られているのは、わたしたちがこの歴史を継続するため。)
1-8節 歴史からの訓話
 「箴言」は、「たとえ話」と言う語である。主イエスの教え方も、このたとえ話をよく用いられた(マタイ13:35)。生活のある領域のことを使って、別の領域のことを明らかにする格言である。この詩篇の中心となる要旨は何か。それを詩人は7節の三つの言葉 -子らが神に信頼を置く、神の御業を忘れない、戒めを守る-で言い表わす。即ち、過去の歴史の中から、信仰の三つのより糸ともいうべき事柄を指し示すのである。それは、神への信頼、知識に基づいた謙虚な思索、従順である。
9-16節 忘れ去られた奇跡
 登場する「エフライム」は、分裂した諸部族の中で最大の部族であった。このめにエフライムの人々は、ホセア書4ー13章の各所で記されるように、イスラエルの堕落と背信の象徴となった。10,11節は、わたしたちへの警告でもある。神との間で立てている「契約」をしっかりと生活の中心に置くことが肝要である。
17-31節 不満のつぶやき
 17,18節は、人の心を探る。神から与えられれば与えられるほど、ますますわたしたちはそのことに感謝しなくなる。一連の経験をした後に、神に恨みがましいことを言っているのである。5千人に食べ物を与えたイエスの奇跡の後におきた出来事に似ている。そのとき、彼らはさらなる優れたしるしを求めた (ヨハネ6:26、30—31)。
 21-31節は民数記11章に基づいている。「飽きるほどの糧」(25節)の頂点にあるのが、26節以下の鳥(うずら)である。また「マナ」も身にしみるような恵みの賜物であった。マナを食べるためにはいくつかの条件が付いた(出エジプト16:4)。それは従順であるかを試す優しいテストと言える。このパンが天から来たのなら、命のパンであるイエスは、父から来たのである。イエスは、肉体の養い以上に大きな飢えを満たし、不死を与える食べ物となってくださる(ヨハネ6:30—51)。
32—53無意味な悔い改めと出エジプトについての忘恩
 (35節)「神は岩」、「神は贖い主」と唱えながら、神を侮る、その舌は欺く。これはキリスト者も肝に銘ずべき(ヤコブ1:22以下、2:14以下で指摘する罪)。罪の悔い改めが、ここで指摘されているように、うわっつらでしかないのなら、それは心が神に定まっておらず(誠実でない)、神の契約に不忠実という重大な罪となる(37節の重要性)。
 40,41節の「どれほど」「繰り返し」と言う表現からは、なぜ30—31節以下の突然の裁きが下されたのかが分かってくる。
 (52—53節)悲しいことに、他の者たちが滅ぼされていたときに、イスラエルは羊のように保護されていたのを忘れてしまったのだろうか。
54—64約束の地についての忘恩
 荒れ野においてだけではなく、約束の地でもイスラエルの態度は56節「神を試み、反抗し」ているのである(40,41節と比べよう)。その罪は、偶像崇拝にあった。
この背後にある歴史の事実は、サムエル記上4章に語られている。60—61節の神御自身が立ち去ったことを象徴していることは、再び起こることである。(イカボド・栄光は失われた)
65—72節新たな始まり
 このところにはイスラエルの絶頂期への進展が記されているが、半世紀前には誰が予想できただろうか。このような進展に、神の不変の愛を知る。イスラエルの記録とは、イスラエルの恥であったとしても、そこに神の不変の愛と善意を見る者には、希望となって(イスラエルの、そしてわたしたちの)未完の物語へと続くのである。
           
2.関連する新約聖書の聖句
 2節 引用:マタイによる福音書13:35b「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」   
 15節 参考:コリント一10:4「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずついて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」
 18節 参考:コリント一10:9「また、彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。…。」
 22節 参考:ヘブライ3:19「このようにして、彼らが安息に与ることができなかったのは、不信仰のせいであったことが分かるのです。」
 40節 参考:エフェソ4:30「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)多くの事柄を簡潔に把握するために、この詩編には二つの主要点が含まれていることに、注目しなければならない。
 一方では、預言者は、神がいかにしてアブラハムの子孫から教会を御自分のものとして選ばれたか、いかにしてこれをやさしく・いつくしみ深く守り・保たれるか、そして、いかに奇跡的にこれをエジプトから救い出されたか、また、いかなる恵みの賜物を教会に与えられるかを物語っている。
 他方、預言者はユダヤ人に向かって、彼らがまことにしばしば、極めて大きな邪曲と悪意とをもって、かくも寛仁なる父に背き去ったかどのゆえに、彼らを罪ありとしている。彼らが神に負うところはまことに大きいからである。神の測るべからざる恩恵は、過去も頑迷な国民の反逆に対して、途切れることなく慈愛をもって戦い続けられることのうちに、明白に示されている。
 さらに預言者は、神の恵みの更新されるべきこと、そして、神がダビデをユダの血筋から選び、王国を統治せしめるとき、第二回目の選びがなされたに等しい旨を示す。

詩編を読む・2017.5.31   詩編77篇 1~21節

詩編77篇
1.詩編77篇を読む
 作者は苦難の中で嘆き呻き(4節)、神に向かって叫ぶ。その思いを、心を読み取る神は知っておられる。
イエス御自身、激しい叫び声と涙をもって、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられたからである(参照:ヘブライ5:7)。
 5節以下が、この作者の苦しいと嘆きの内容である。ここには苦難についての深い洞察がある。「あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます」という表現は深刻である。眠ろうにも眠れない。ものを言うこともできないほどに悩む(5節)。こうした嘆き悲しみの中で、作者はいにしえの日々を思い、遠い昔の年々(とこしえに続く年月)を思う。
 こうした嘆きに襲われて、作者は、(7節)「夜、わたしの歌を心に思い続け わたしの霊は悩んで問いかけます。」というのである。
 参考:7節口語訳「わたしは夜、わが心と親しく語り、深く思うてわが魂を探り、言う」
      フランシスコ会訳「夜通し心の中で思い煩い、わたしの霊は思い詰めて問いかける。」
 衝撃的に出所進退を決めるのではなく、静かな夜、自分の心と語り合って、深く思い、魂を探るのである。わたしたちは嘆きの中に落とされるとき、どれほど自分の心と語り合うことがあるだろうか。しかし、作者は自分の心と語り合って言う。「主はとこしえに突き放し 再び喜び迎えてはくださらないのか。」(8節)。
 この8節の懸念が、9-10節では更に明確に述べられる。すると、懸念の内側にある矛盾が見え始め、それとともに答えの可能性も出て来る。そのことを、ここから読み取り教えられる。作者が導かれた鍵となる語は大切である。
 [主の慈しみ][約束] … 慈しみは、契約への忠実を意味する語である。「慈しみ」が主の契約の中で保証されているとすれば、「慈しみ」が消失することはない。また、主の「約束」が無に帰してしまうこともない。
 魂を探る言葉は、心の陰をも明るみに出す。10b節の一つの質問は、嘆きの中で必ず向き合わなければならないことであり、それだけに、一層不安をあおる。
(10b)「怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」― 罪だけが神の「怒り」を引き起こし、悔い改めないことだけが、神の怒りをもたらすからである。そして、もし、作者であれわたしたちであれ、神の怒りが生じたのなら、それは問題ではなく、取り組むべき課題なのである。
 このように、作者は、苦難の根源にあるものを洞察し、衝動的になり自らを見失っていくことから守られ、神の契約のもとにある確かさへと導かれる。この時、今まで思い描いてきた過去の出来事の中に確かな神の御業を見て、勇気を得る(11-16節)。
  参考、キドナーの注解より  
10節の名訳(PBV prayer book version,1662)
       「その時わたしは言った。それはわたし自身の弱さである。しかしわたしは長い間のいと高き神の手を思い起こす。」
 11節は、6節の内容を止揚し、さらに高い地平へと高めている、と考えることができる。(「いにしえの日々、遠い昔の年々だって?」「神の右の手が守ってくれた年々ではないか!」)
 17-21では、神の御力が擬人化された表現で、力強く述べられる。
結びの21節には民を導かれる主の姿がうつしだされている。神が最も気にかけておられるのは、ご自分の「民」、ご自分の「群れ」である。
           
2.関連する新約聖書の聖句
 9節「…約束は代々に断たれてしまったのであろうか。」  参考: ローマ9:6「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。…」、 ペトロ二3:9「ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この詩編の作者が誰であったにせよ、聖霊は作者の口を通して、教会が出会う苦難に対する祈りの共通の形式を口述したように思われる。残酷な迫害の中にあっても、信仰者が天に向かって祈ることを止めないためである。なぜならば、作者はここで単に一私人としての悲哀を表しているだけではなく、選ばれた民の嘆きと呻きとをも 言い表わしているからである。
 1節(新共同訳2節)「わたしの声は神に、そしてわたしは叫びました。わたしの声は神に、そして神はわたしに聞かれました。」 預言者は、多くの者が悲しみの中にあって、限度も根拠もなしに叫ぶ声をあげるように、愚かな叫びを宙に放つのではないと述べる。やむを得ず叫び声を発するときには、その言葉を神に向かって発する、と彼は言う。「わたしは神に向かって呼ばわりました。なぜならば、神は常にわたしに対し好意と憐憫とに満ちておられるからです」と言うかのごとくである。
 11節(新共同訳12節)「わたしは神のみわざを思い起こすでしょう。わたしは確かに、初めからのあなたの驚くべきみわざを思い起こすでしょう。」 預言者は神の恵みと賜物とを思い見ているが、それらでさえも、彼の悲しみを和らげ、あるいは減少させることはできなかったのである。

詩編を読む・2017.5.24   詩編76篇 1~13節

詩篇76篇
1.詩編76篇を読む
この詩編の形式は分かりやすい。2-7節の前半ではすばらしい救出について、8-13節の後半では裁きと救いが述べられている。
2節.ユダにおいて神が自らを示されたことは、全人類の祝福となった(参考:ヨハネ4:22「救いはユダヤ人から来るからだ」)。
教会にとっても、このことは重要である。教会の中で神は「知られ」(*1)御名は崇められた(*2)。
  *1 フィリピ3:10「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、…」
   *2 ヨハネ1:28「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
「サレム」は、エルサレムの短縮形(創世記14:18、ヘブライ7:2)。
「シオン」は、ダビデが占領した丘の頂にあった要塞の名。エルサレムの町そのものをも指す(イザヤ33:14)。シオンは、他国に侵略されることのない聖なる都(詩編125:1-2)として、終末においては世界の中心(詩編50:2)として描かれている。
 5-7節には、無力なものとされる侵略者が描かれている。このところで思い出されるのは、主の御使いによって一夜のうちに、アッシリアの王センナケリブの軍隊が抹殺された出来事である(イザヤ37:36)。なお、5節の「餌食の山々」は、70人訳では「永遠の山々」と記されている。山を神の永遠の住まいに結びつけているのである。
 8-10節では、神による裁きは、もはや昔の出来事ではなく、またある局地に限られたものでもないことが示される。いたるところの悪に対して、神の最終的な鉄槌がくだる時である。その時には、キリストの十字架のもとにいなければ、「誰が御前に立ちえよう。」(8節)。
 神は裁きのために立ち上がられるが、地の貧しい者すべてを心にとめて救われる。裁きの目的は、神にすべてを委ねる者の「救い」にあることを知らされる。「地の貧しい人」について、聖書はどのように語っているか(例:マタイ5:3、コリント二8:9等)。
 この神の審判について、黙示録6:12-17はよい解説となる。あわせて読んでおきたい。
 11節の最初の行を「人の憤りはあなたを賛美することへと変わります」とカヴァデール訳(*3)には書かれている。定評のある訳である。解釈に難解な11-13節をよく言い表わしている。
   *3 カヴァデール(1488-1568):聖職者。新旧約聖書のはじめての完全英語訳編纂。1535年出版。
(参考)11節フランシスコ会訳「まことに、ひとの憤りもあなたを讃え、憤りを免れた者は、あなたを帯びる。」
  11節で描写されている様子を知る上で、イザヤ59:17は参考となる。「帯とされる」(新共同訳)は、熱情を上着として身を包まれた、と解することができる。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう。」    参考: ヨハネの黙示録6:17「神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。誰がそれに耐えられるであろうか。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)ここでは神の恵みと信実とが、ほめたたえられている。神はそれによって、エルサレムの町の保護者となることを約束され、信ずべからざる権勢を用いて、戦いを好み・戦闘に必要なすべての装備を整えた敵軍に対し、この町を守り・保たれたのである。
 1節(新共同訳2節)「神はユダにおいて知られ、そのみ名はイスラエルにおいて偉大です。」 この詩編の冒頭において預言者は、敵軍が何事をもなし得ずに敗退したということが、人間的によって起こったのではなくて、記憶に値する神の助けによる旨を説諭する。神が未曽有の仕方でその御手を開示され、エルサレムの町も、その民も、共に神の防備と保護の下にあることを、明白に知らせたからでないとすれば、ここで言及されているような、神の知識とそのみ名の偉大さとは、いったいどこから来るのであろうか。そこで預言者は、神がかかる奇跡によって、その敵を敗走させられたことによって、神の栄光はあらわに示されたと言う。
 次の節において預言者は、アッシリア軍がなぜ敗走したか、その理由を付け加える。それは神がこの町を、ご自身の守護のもとに置くことを、よしとされたからである。すなわち、神はここを住まいと定め、み名がその地で呼び求められることを選ばれたからである
 2節(新共同訳3節)「そして幕屋はサレムにあり、その住まいはシオンに。」
 要旨はこうである。エルサレムの町の救出は、少しでも人間に帰せられるべきではない、ということである。神はその地で尊貴のうちにご自身を知らしめ、天からその大能をあらわに開示されたからである。…
神が教会に対して果たされたもろもろの恵みの賜物を、われわれ自身の忘恩によって覆い隠してしまうようなことのないために、常に細心の注意を払うべきことは明らかである。…もしもエルサレムの地上的な聖所でさえも、助けまたは支えとになったとすれば、神がわれわれをその宮として選び、聖霊によってそこに住むをよしとされる以上は、われわれを等しく配慮のうちに置かれることは、少しも疑うべきではない。

詩編を読む・2017.5.17   詩編75篇 1~11節

詩篇75篇
1.詩編75篇を読む
 詩編74:22-23の緊急の祈り(22節「立ちあがり…争ってください」、「主よ御心に留めてください、…」、23節「決して忘れないでください」)に続くようにこの詩編は置かれている。神はここでは裁判官であり、緊急の祈りに答えておられる。
 (2節)神のなされた驚くべき御業を思い、神に感謝をささげる。
神がなされた御業を繰り返し語り告げることは、今でも礼拝に欠くことのできない要素である。(その最たる例として 参照:コリント一11:23-26)
 2節 驚くべき御業
2節「…御名はわたしたちの近くにいまし 人々は驚くべき御業を物語ります。」(字義どおりには「あなたの御名は近くにあります。あなたの奇しいわざが(御名を)告げています」)。
 考察 「御名」について
  ・ご自身がどのようなお方であるかを示す啓示(出エジプト記34:5~、14節)
  ・わたしに呼び求めよ、との招き(使徒2:21「主の名を呼び求める者は皆、救われる。)
 神のすべての御業によって、「御名」は近づけられているのである。
 3-6節 神による裁きの宣言
3節 裁判官が決めたときに裁判は開かれる。判決にあたっては 妥協はない。「時を選び」の時とは、「定められた時」である。それは、必ず来る終わりの時である(参照:ダニエル8:19、ハバクク2:3)。
参考:フランシスコ会訳「まさに時が熟したとき*、わたしは正しく裁く。」 *罪悪が満ちたときの意
 この「定められた時」はわたしたちに知らされていないが、それは近づきつつある終末の時である。その終末に臨んでも、主により頼み、主を「信ずる者は慌てることはない」(イザヤ28:16)。神は「自ら地の柱を固めて」おられることを知っているからである。神は、社会を支え、すべてのものを保ち(使徒17:25)、さまざまな出来事を御手で導き、ある人たちの生活を通してでもご自身の真理を示しておられるのである。
 しかし、(5節)自分が柱だと考えている者が、実は角をそびやかして神に逆らう者である。「誇るな」「角をそびやかすな」との5,6節の「警告」を軽んじてはならない。
 7-9節 心に留めるべきこと
 7節では、裁きの権威者は神以外にはいないことが告げられる。その裁判官は「公平な裁き」をなさる方、「ある者を低く、ある者は高く」される。その裁きの時は、すでに熟しているのである(9節)。このことを神から教えられるわたしたちは、ペトロが言うように(ペトロ一4:7)「万物の終わりが迫っている」ことを心に留めて「思慮深く、身を慎んで、よく祈る」ことに努めたい。
 9,10節‐「公平な裁き」(3節)が行われるがゆえに、忍耐と苦痛ですべてが終わることはない。栄光があっても誇り高ぶらないという時代がやって来るのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「神が必ず裁きを行い ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう。」    参考: ルカによる福音書1:52「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、」
(神の大逆転ともいえる御業を喜ぶということは、この詩編の特徴である。この特徴は、「マリアの賛歌」や「ハンナの祈り」(サムエル記上2章)にも通じる。)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)この世が統べ治められているのは、端的に神のみこころと配慮とによること、また、教会を支えるのは、ただ神の恵みと力のみであることを、教会が考察するに至るとき、これを喜びとして、感謝をささげるのは当然のことである。このような信頼の念のおかげで、教会は神を軽蔑する者に対して立ち上がる。彼らの狂気じみた大胆さは、彼らを逸脱した放縦へと転落させるからである。
 6節(新共同訳7節)「高挙は東からでも、西からでも、荒地から来るのでもありません。」ここには高慢を矯正する最善の途が示されている。そこで預言者は、崇高さが地からではなく、ただ神のみから発出すると諭告する。人間がある時は右を、ある時は左をと眺めやり、そしてあらゆる富と手段と助けとを蓄積し、罰せられないままに、その快楽と貪欲とを成し遂げるとき、人間の目を眩ますことがはなはだ多いからである。
それゆえに、彼らがこの世にとどまっている限りは、彼らははなはだしい誤りを犯している、と預言者は言う。高めることも、低くすることも、ただ神のみ手のみのうちにあるからである。それが一般的経験にとって不快なのは事実である。この世の大部分は、たばかりと策略によるか、あるいは民衆の好意のおかげによるか、それとも何か他の人間的手段によって、栄誉を勝ち取るのが常だからである。
また、7節(新共同訳8節)「なぜならば、神が裁き主であられるからである」という原因の提示は、冷ややかに思われるかも知れない。しかしわたしはこう答えよう。「たとえ多くの人が、あるいは悪しき謀略によって、あるいは世の助けによって、出世をしようとも、それは偶然によるのではなくて、神の隠された知恵によって高く上げられたためである。それはしばらく後に、まるでわらくずか汚物のように、遠く投げ捨てるためである」と。…この教説の有用性はここにある。すなわち、「信仰者(キリスト者)は、全面的に神に服従し、一抹の空しい信頼の念をもって立ち上がることはない」と。

詩編を読む・2017.5.10   詩編74篇 1~23節

詩篇74篇
1.詩編74篇を読む
 この詩には、イスラエルの国家が被った災厄の痕がある。災厄とは、前587年にバビロン人がエルサレムとその神殿とを破壊した出来事である(エルサエム陥落は、第一回捕囚の 前587年)。
 破壊だけではなく、預言も止んでしまったことは最も衝撃的なことであった。なお、この詩に満ちている苦悩については、哀歌2:5-9と合わせて読んでおきたい。
 バビロン捕囚から帰還した民は、荒廃したエルサレムと神殿を前にして、神への嘆願を始めた。1節「なぜ、あなたは…永遠に突き放してしまわれたのですか。」2節「どうか御心に留めてください。」復興の嘆願である。3節「永遠の廃墟となったところに足を向けてください」。(4-8節) 敵は会堂までもすべて焼き払ったのである。
 9-11節 預言者はいない。回復の兆しは見えてこない。その中で民は廃墟となった神殿で、いつ敵から襲われるかもしれない中で礼拝をささげ祈る。(参考:ハガイ書には神殿再建を志した民が、生活の苦しさや敵の妨害で一旦挫折する様子が記されている)
 12-17節 しかし、詩人は信仰を失ってはいない。天地万物を創られ治めておられる神への信仰である。揺るぎない神に目を上げるとき、信仰は確かとされる。― このところから「わたし」に人称が変わっていることに留意したい。
 18-23節 試練は続いている。その中で、全能の神への信仰は、暗闇の中にあっても光を見て待ち望む(参考:マタイ4:16)。今は神殿が荒れるままにしておられるが、神は絶望を祝福に変える力を持つお方である。その神に、詩人は必死に祈り訴える。
18、22節「主よ御心に留めてください、…」、19、23節「永遠に(23節決して)忘れないでください」、20節「契約を顧みてください」、22節「立ちあがり…争ってください」、との緊急の祈りをもって詩編は閉じられる。
 しかし、意義深いことであるが、18-23節の祈りには1-11で発せられていた「なぜ」「いつまで」という質問はやんでいる。契約の神であるから、神は必ず契約を果たされるからである。神の「契約」に訴えていることが、他のすべての行動の確固とした足場となっている。
 現実の政への期待は崩れ、神に見捨てられた状態が終わる見通しもない中であるが、詩人は、かつて救いの御業を果たされた(12-15節)神への信仰を失っていない、神への信仰がある限り、誰も失望に終わることはないのである。
 ローマ9:33「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

2.関連する新約聖書の聖句
17節「あなたは、地の境をことごとく定められました。夏と冬を造られたのもあなたです。」 参考: 使徒言行録17:26「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を定め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」
 18節「主よ、御心に留めてください、敵が嘲るのを 神を知らぬ民があなたを嘲る。」 参考: 黙示録16:19「あの大きな都が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い出して、ご自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった。」  同18:5「彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 表題 アサフのマスキールの歌 
 マスキールという語は、時としては喜びの歌にも用いられるが、しかも神のさばきについて論じられるときに、はるかに多く現れる。人間はそのさばきによって自分自身のうちに沈潜し、その罪を探索し、神の前でへりくだらざるを得なくされる。(参考:マスキールの原語の意味・聖書事典より・ 注意深い、賢い。詩編では、おそらく教訓的な詩編を示すものと考えられている。)
 1節「ああ神よ、なにゆえわれわれを永久に捨てられるのですか。なにゆえあなたの鼻孔は、牧場の群れに対して煙を発するのですか。」(参考:新共同訳「怒り」の語の直訳は「あなたの鼻が煙を吐く」 18:9の直訳「かれの鼻から煙が上がり」)
 もしもこの嘆きがバビロニア俘囚の時期に書かれたとすれば、たとえエレミヤが解放までに70年の年月を割り当てていたとしても、民らがかくも長い間、呻きつつ待ち望まなければならなかった以上は、彼らがひどく心を悩ましたとしても、少しも不思議はない。かくも長い期間というものは、彼らにはまるで永遠に続くように思われたからである。…
 信仰者らが異邦の民らによってかくも苦しめられつつも、これらの惨害のすべてが、ただ神のみ手によって起こったかのごとくに、その目を神に向かって挙げたことに注目しなければならない。と言うのは、異邦の民らがかくもほしいままに危害を及ぼすのは、神が民らに対して怒っておられるからに他ならないことを、彼らは熟知していたからである。それゆえに、彼らは血肉に対して戦っていたのではない。彼らは神の正しいさばきによって、苦難に遭っていることを確信していたので、自分たちの災禍すべての真の原因と源泉とに目を留めていた。…
 信仰者が恵みと憐れみとを獲得するためには、彼らが神の子として受け入れられた根拠である神の思いと契約とを、避け所とするのである。彼らが自分たちを神の牧場の群れ(1節)と呼ぶとき、神の自由な選びをほめたたえていることになる。

詩編を読む・2017.5.3    詩編73篇 1~28節

詩篇73篇
1.詩編73篇を読む
 この詩では、周囲の状況から来るつまずきや心の動揺を隠すことなく表現する作者の真実にうたれる。作者は、13節「わたしは心を清く保ち 手を洗って潔白を示したが、むなしかった」と言っているように、正直に自分の心を見つめ探索する。この作者の心には偽りがない。まさしく「イスラエル」である(2.「関連する新約聖書の聖句」1節)。
 この作者の信仰の危機は、どこから生じたのか。神に逆らう者らが、安泰で平和に暮らし(3節)、「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」(11節)といって、平気で神を蔑ろにして生きているのに、神の前に清く歩もうとする自分はといえば「日ごと、…病に打たれ 朝ごとに懲らしめを受ける」のである。このあまりにも大きな矛盾した現実に心の動揺を覚えるのである。作者の苦しみは、「彼らのように語ろう」(15節)と望む誘惑に駆られたほどである。
 しかし、この詩の最後を見ると、作者はこの探索を通して、信仰を告白し、最高の発見をしてそれを伝える。
 27‐28節「見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。わたしは神に近くあることを幸いとし 主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。」わたしたちは、この作者の告白に、最初の声「心の清い人に対して、恵み深い」1節の真実が証されているのを悟る。
 ところで、動揺と信仰の危機から信仰告白への転換は、どのようにして生じたのだろうか。それを指し示しているのが17節である。「ついに、わたしは神の聖所を訪れ 彼らの行く末を見分けた。」聖所を訪れる、とは、神に心を向けることである。それも、思索の対象としてではなく、礼拝の対象として神に心を向けるのである。そのとき、光が射し込んできた。
 永遠にして主権を保っておられる神に対しては、これらつかの間の人たちの行く末は、彼らが生きがいとしていたすべてのものが壊されてしまう将来のことである(17-20節)。作者は、自分自身を「はらわたの裂ける」ほど、恥じて、「わたしは愚かで知識がなく あなたに対して獣のようにふるまっていた。」(22節)と告白する。作者は、自分の不幸を見つめ、神の懲らしめに痛みだけを覚えてきたが、24節「神の御計らい」によって、栄光への道を歩んでいることに心打たれたのである。
 
2.関連する新約聖書の聖句
 1節「神はイスラルに対して 心の清い人に対して、恵み深い。」 参考: ヨハネ1:47「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
 14節「日ごと、わたしは病に打たれ 朝ごとに懲らしめを受ける。」  参考:黙示録3:19「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」
 25節「地上であなたを愛していなければ 天で誰がわたしを助けてくれようか。」  参考:フィリピ3:8「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
 27節「見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。」  参考:ヤコブ4:4「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」
 28節「わたしは、神に近くあることを幸いとし 主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。」  参考:ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。…」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(難解とされている10節*をカルヴァンはどのように理解しているのだろうか)
 10節「それゆえその民はその所に帰り来たり、大杯に満ちた水は彼らから絞りとられます。」
 わたしの考えでは、この節は前の文章に依拠しており、その意味はこうである。「神の民と考えられていた多くの者たちは、このような誘惑によって転向し、全く堕落してしまった」と。ダビデがここで選ばれた民について語っているとは、考えられないからである。彼は単に、教会の中に所を占めている偽善者や、仮面をかぶったイスラエル人に攻撃を加えているにすぎない。このような人々は速やかに滅亡に陥る、と言っているのである。彼らは愚かにも悪しき者らを羨望し、彼らに見倣わんとして、神と信仰心とをいっさい投げ捨てるからである。
 もちろんこのことを選ばれた民と結びつけるとしても、少しも不条理ではない。彼らの多くはこのような誘惑によって強く心を動かされ、ついには道を踏み外すに至ったからである。
 そうすれば、文意は次のようになる。「一般に世俗の人間ばかりでなく、神に仕えるという目標を持つ信仰者でさえも、羨望と邪曲な競争心によって誘惑される」と。
 *(10節) 口語訳「それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちに過ちを認めない。」
     新改訳「それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。」
     フランシスコ会訳「それ故、神の民は彼らに走り、その滑らかな言葉を鵜呑みにする。」

詩編を読む・2017.4.26   詩編72篇 1~20節

詩篇72篇
1.詩編72篇を読む
 第二巻の最後の詩である。王の詩篇として、在位中の王のために祈り、王の高い召しを思いおこさせるばかりか、王の統治には限りがない*、と語ることによって、この召しを人間が到達しえないところにまで高めていく。そのようにして、詩人は完全なる王を指し示す。それを成し遂げるのはキリスト以外にはない。(その意味でメシア詩編。旧約聖書のアラム語訳「タルグム」では、1節では「王」のあとに、「メシア」の語を付け加えている。)
* 8節「王が海から海まで 大河から地の果てまで、支配しますように。」
 1-7節「王の義」
 この詩編の初めの主要なテーマは「義」である。
  1節「恵みの御業」=「義」your righteousness、
  2節「正しく」=「義をもって」with righteousness、 
  3節「恵みをもたらし…」=「義によって」 in righteousness
 聖書では、「義」こそ政治における第一の徳であり、12-14節のテーマとなるが「同情」につながるものである。
 参考:出エジプト23:3「また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。」
     同   23:6「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。」
     すなわち、貧しいものをひいきにするのであっても、豊かなものをひいきにするのであっても、裁判における不公平は禁じている。義は貫かれねばならない。
 義に伴い、義の次に来るのが「平和」シャローム3節である。義こそ平和が花開く土壌である。
  7節 「神に従うもの」=口語訳「義」the righteous    参照:イザヤ32:17
     すなわち、平和に先立つのは「義」。
 5-7節、8-11節「終わりなき統治」と「果てしない領土」
 5節「王が…代々に永らえられますように」、7節「生涯、…月の失われるときまでも」の表現に見るように、永続的な統治が義なる王によってなされ、それは太陽や恵みの雨のように豊かさを造りだす。8-11節王によるその繁栄は地の果てにまで及ぶ。
 シェバとセバ ― どちらもノアの孫クシュにまでさかのぼる(創世記10:7)。
 12-19節「王による統治」
 この王による統治が憐れみに富むものであることに、わたしたちはキリストを見る。
14節「王の目に彼らの血が貴いものとされますように」では、イザヤ書43:4を参照。
また、16,17節からは、国々に及ぶ終わりなき祝福がわたしたちにも約束されていることを示される。これに関連して、ヘブライ12:28をあわせて読み、そこに記されているように感謝の念をもって主に仕えたいものである。

2.関連する新約聖書の聖句
 5節「王が太陽と共に永らえ 月のある限り、代々に永らえますように。」 参考:ルカ1:33「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 17節「…国々の民は皆、彼によって祝福を受け 彼を幸いな人と呼びますように。」
参考: ルカ1:48「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな人と言うでしょう。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(新約聖書には72篇をキリストを指し示すメシア詩編として引用しているところはないが、内容的にはメシア預言(参考:イザヤ書11:1-5,60-62章)に近いので、72篇のメシア預言としての見解をカルヴァンによる5節の注解から学ぶ。)
5節「彼らは太陽と共にあなたを恐れ*、来るべき代々にわたって、目の前であなたを恐れるでしょう」   参考: 「恐れ」は、ヘブル語本文をもとにした読み方。「永らえ」は70人訳をもとにした読み方。
この表現は、王についての表現と理解できるが、これを神御自身についてと解釈して味わいたい。
 王が、臣下の尊敬を勝ち取る理由となるのは、王に属するものを万民に平等に与え、貧しく惨めな人々には人間味に満ち、柔和なものとして示し、また、悪しき者らの大胆さを抑制するに当たり、自らを峻厳なものとして示すことにあるのである。しかし、王に属するこれらのことは、神礼拝においてはさらにまさる価値を持つものなのである。
 それゆえにダビデが、聖なる統治の実をわれわれに推奨するのは、理由なくしてではない。なぜならば、それは神への崇敬と恐れとを自ずともたらすからである。
 それゆえに見よ、聖パウロは王たちのために祈るようにと勧めながら、祈りの目標は、「わたしたちが彼らのもとで安らかに、正直さと神への恐れをもって生きる」ことにある、と言う(テモテ一2:2)。
 それゆえに、政治的秩序が乱れ、宗教は離散し、神への礼拝が消滅する恐れがあったので、ダビデはその名と栄光とに目を留め、王を守り保たれるようにと、願い求める。同じような論議からダビデは、王たちに彼らの義務を守るように戒告し、民には祈りを勧める。なぜならば、われわれの祈願のすべてによって、神礼拝と神の栄誉とを獲ち取ろう、と努める以上に望ましいことは、あり得ないからである。
 真実の敬虔と神への恐れとは、他のどこでもなく、キリストの支配の中にあるので、われわれがキリストに至るとき、このことが本当となるのである。
 ダビデは神への礼拝を、この世の果てにまで広げつつ、神が約束された永遠の統治へと、霊によって上昇する、と簡潔に言い表わす。

詩編を読む・2017.4.19   詩編71篇 1~24節

詩篇71篇
1.詩編71篇を読む
 詩人はこの詩で、高齢者を見放さない神として神を描く。このことには注目したい。年老いた者にとっての苦悩は、誰からも見放されることだからである。こうしたわたしたちの生活の感情が、今から数千年も前にすでに記されているのである。
1―3節は、31:1-3とほとんど同じであり、大岩であり砦である神への信頼が祈りとなっている。
 神の恩恵は人生のどの段階においても満ち足りている。このことを詩人は幼少のころにまでさかのぼり、神の恩恵なしにあり得た日はないと歌いあげる(5-6節及び詩編22:9-10)。詩人は、幼少の人生の早い段階で、未来に向けて祈りをもって神に信頼を置くことを学んだ。そして、信頼する神は確かに彼を恥に落とされることがなかったのである。
 参照:テモテ二3:15「また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」
 神に信頼を置くその信仰は、人生の様々な局面で立ち向かってくるものへの防壁となり(4ー5節)、老齢に及んでは信仰者の唇は喜びの声をあげ、彼が災いに遭うことを望む者ははずかしめを受けるのである(23-24節)。
〔味わいのある言葉〕
〇7節「しかしあなたは」(口語訳参照)
 岩波訳「証拠(神に捨てられたものであることを示すしるし)のように私はなりました、多くの者に。しかしあなたは、わが堅固な逃れ場です。」
詩人が味わっている苦難を見て、そこから最悪の、そして自分たちにとって最も満足のいく結論を引き出す人を前にしても、詩人はひるまず神を希望とし、神により頼む。神が自分の身にかつて始められた御業を最後まで見通すためにも神にしっかりと目を向けているのである。
 「しかしあなたは」と言って、彼は注視する方向を、自分や自分を取り囲んでいる災い(敵)から神へと向け直す。
〇14節「繰り返し」
 訳出に知る味わい: 
  口語訳「しかしわたしは絶えず望みをいだいて、いよいよあなたをほめたたえるでしょう。」
  新改訳「しかし、わたし自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。」
  岩波訳「しかし私は常に待ち、あなたの賛美のすべてに賛美を重ねます。」
 賛美は、多くの事実によって膨らみを増していく。神がしてくださったことに、わたしたちが目を向けるとき、祝福は数えきれず、「神の豊かさのすべてに与っている」(エフェソ3:19)ことを知る。(参考:詩編103:2「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」 エフェソ5:19「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」)。“数えよう、恵みを、一つ一つ名を挙げて”

2.関連する新約聖書の聖句
 5a節「主よ、あなたはわたしの希望。」  参考: テモテ一1:1「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され…」
 7節「多くの人はわたしに驚きます。…」  参考: コリント一4:9「考えてみると、神はわたしたち使徒を、丸で死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。」
 19節「…あなたはすぐれた御業を行われました。…」 参考: ルカ1:49(マリアの賛歌より)「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」
 
3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(この詩篇は、高齢のための詩編、とも言われているので、9節に着目してカルヴァンの注解に学ぶこととする。なお、カルヴァンはこの詩編の作者はダビデであるとしている。)
9節「わたしが年老いた時、わたしを退けず、わたしの力が衰えるとしても、わたしを見捨てないでください。」
ダビデは神が、彼の幼少の時代から、彼を保護し、ついでその若い頃にこれを養い育て、彼の全生涯を通じて、その救いの保証人であることを明らかにされた、と先ほど(5-8節)述べたばかりであるが、今や老齢に打ちひしがれて、神の父性的なひざの上に身を投げかける。
われわれの力が弱り衰えれば衰えるほど、神を尋ね求めることが必要となり、神がいっそう迅速に、われわれに助けを与えてくださるように、と願い求めることが大切である。
要するにダビデはこう言いたいのである。「人生の盛りに、わたしを活力に満ちた勇士として保ってくださった主よ、わたしが力弱り、ほとんど枯れ果てたこの時において、わたしを見放さないでください。かえって、わたしの衰弱が、あなたに憐れみの念を起こさせますように。わたしはいっそうあなたの助けを必要としているからです。」

詩編を読む・2017.4.12   詩編70篇 1~6節

詩篇70篇
1.詩編70篇を読む
 この詩は、40:14-18とほぼ同じである。カルヴァンは、このところについては「ただ本文をくりかえすことにしよう。その解釈は別のところに求めらるべきである」とだけ記しているに過ぎない。従って主な注解は、詩編40篇を見るとして、ここでは、特徴的なことを取り上げる。
〇 詩編40:14以下に比べ、随分短いということである。このことから、切迫感が強く伝わってくる。2節の強調点は「急いでください!」である。救い出されること、助けが確かに来ることは、神を信頼する信仰のゆえに確信しているが、それを「急いでください!」と祈る。
この「急いでください」(フ―シャー)は、6節にも繰り返される。「速やかにわたしを訪れてください」と訳されているのが、それである。
参考: 岩波訳 2節「神よ、私を救い出しに、ヤハウェよ、私をたすけに、急いで下さい」。  
6節「しかし私は、乏しく貧しい、神よ、わたしのところに急いで下さい。…」
 ここには、内容の緊急性が強調されている。一刻の猶予もない。少なくとも地上のレベルではそう見える。このような状況のもとにあるとき、わたしたちも思いっきり神に懇願の祈りをささげたい。
 参考:緊急のもとにある状況の例  イザヤ60:22「救いの到来」、ダニエル10:2-3「終わりの時についての、ダニエルの祈り」、ヨハネ11:5-6「ラザロの死の時」
〇 詩編40篇と読み合わせてわかることであるが、ここには絶望的な状況のもとにある者に助けの手を差しのべているキリストが指し示されている。
 40篇の前半は、7-8節がヘブライ10:5-7で引用されているように、キリストについての預言であり、そのキリストが「ご覧ください。わたしは来ました」と言われているのである。「わたしは来ました」と言われるキリストを見ているダビデには、助けは必ず来るのである。その助けを必死になって嘆願する。
 祈りにおける確信と嘆願と大胆(聖句より)  
詩編121:1-2「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来
    る 天地を造られた主のもとから。」
詩編5:3「わたしの王、わたしの神よ 助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。」 
ヘブライ4:16「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆
    に恵みの座に近づこうではありませんか。」

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「神よ、速やかにわたしを救い出し 主よ、わたしを助けてください」及び6節「…速やかにわたしを訪れてください。…」    参考:コリント一16:22「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」  黙示録22:20「以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。」
(このように主を待ち望んでいる祈りに、『主イエスの恵みが、すべての者と共にある』(黙示録22:21)と主は答えられる。)
 6節「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。…」  参考:マタイ5:3「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
先にふれたように、カルヴァンは、このところについては「ただ本文をくりかえすことにしよう。その解釈は別のところに求めらるべきである」とだけ記す。
しかし、ここでは5節(新共同訳6節)の御言葉についての注解として、詩編40:17(新共同訳40:18)の注解から取り上げる。
 5節(新共同訳6節)「わたしは貧しく、かつ乏しいのです。神よ、急いでわたしのもとに来てください。あなたはわが助け、わが救いです。主よ、ためらわないでください。」
 40:17(新共同訳40:18)「わたしは貧しく、かつ乏しい。主はわたしのことを思いやられます。あなたはわたしの助け、わたしの救い主です。ああ、わが神よ、ためらわないでください。」
この詩の終結部でダビデは、感謝の意の表明のうちに、一つの祈りを混入する。この祈りでダビデは「わたしが惨めで貧しかったとき、主はわたしの困窮を顧みられた」と言っている、とわたしは読もう。惨めで貧しいそのような事情によって、ダビデは神の恵みをいっそう大いなるものとしているのである。
神はあらゆる助けと望みを失った人間に対して、その御手を差しのべられた。そのためにダビデでさえ極度の境地に追い込まれる必要があるとすれば、一般の人々がしばしば屈辱を味わうとしても怪しむには当たらない。それは、彼らが、自分たちの陥っていた絶望の中から救い出されたのは、神の御手によるということを正しく感得し、認知せんがためである。
さらに、この祈りの素朴で自然な意味はこうである。「主よ、あなたがわたしの助け、また救出者であられますからには、わたしを救われるにためらわないでください」。
…いい加減の気持ちで、疑いつつ神に向かって呼びかけるのは、愚かなことである。

詩編を読む・2017.4.5    詩編69篇 1~37節

詩篇69篇
1.詩編69篇を読む
 この詩は22篇と同じように受難の詩篇である。10節や22節などが福音書で引用されているように、ダビデの苦難のヴェールを通してキリストの受難の場面にわたしたちは導かれ、十字架の贖いの業へと心が向かう。
 詩編は、いきなり、今まさに溺死せんとする人の叫びで始まる。足がかりを求めようとしても、深みに深みに沈んでいくだけである。受難とはこのことである。このようにして、救い主は人々の嘲りを受け、父なる神からは引き離され、犠牲となられた(5節、20-22節)。参考:ヨハネ⒖:25「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法*に書いてある言葉が実現するためである。」*詩編35:19,69:5
 イエスは、見捨てられたと思ったとき、神を父として呼んではいなかった(マルコ⒖:34)が、受難の一切は、ただ御父に栄光を帰する熱心と人々を救う愛のためであった(10節、14-18節)。参考:ローマ⒖:3「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』*と書いてあるとおりです。」*詩編69:10
 ダビデは、過酷な苦難がどれほど人に影響するかを強く訴える(12,13、21,30節)。その苦痛の中で、ダビデは怒りの感情に激しく打たれる(25-29節)。このことをキリストに当てはめて考えるとき、わたしたちは、「小羊の怒り」(黙示録6:16、参照.ヨハネ2:17)の神秘をわずかでも実感的に知るのである。
 30,31節 苦難から救われるとき、そこには高らかな賛美が響き、御名が崇められる。

2.関連する新約聖書の聖句
5節「理由もなくわたしを憎む者は この頭の髪よりも数多く …」  引用:ヨハネ⒖:25「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」
10節「あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしているので あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。」  引用:ヨハネ2:17「弟子たちは、『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」 
 ローマ⒖:3「キリストも御自分の満足をお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです。」
14節「あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに 神よ、豊かな慈しみのゆえに わたしに答えて確かな救いをお与えください。」  参考:コリント二 6:2「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神はいっておられるからです。」
22節「人はわたしに苦いものを食べさせようとし 乾くわたしに酢を飲ませようとします。」  参考: マタイ27:34,48「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとはされなかった。」、「そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。」(マルコ⒖:36、ルカ23:36、ヨハネ19:28-30)
23節「どうか、彼らの食卓が彼ら自身の罠となり 仲間には落とし穴となりますように。」  引用: ローマ11:9-10「ダビデもまた言っています。『彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となりますように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。』」
26節「彼らの宿営は荒れ果て 天幕には住む者もなくなりますように。」 参考:マタイ23:38「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」(ルカ13:35)
28節「彼らの悪には悪をもって報い 恵みの御業に 彼らを決してあずからせないでください。」 ローマ1:28「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」
29節「命の書から彼らを抹殺してください。あなたに従う人々に並べて そこに書き記さないでください。」  参考:フィリピ4:3「…二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために共に戦ってくれたのです。」 黙示録13:8「…屠られた小羊の命の書。」、同20:15、同3:5、ヘブライ12:23「天に登録されている長子たちの集会…」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
13節(新共同訳14節)「しかしわたしとしては、主よ、わたしはあなたのよしとされる時に、あなたに祈り ああ神よ、あなたの寛慈の豊かさのゆえに、あなたの救いの真実のゆえに、わたしに応えてください。」
ダビデはここで「たとえ今悩みの時であり、わたしの祈りが無益に見えるとしても、しかも神のよしとされるところは、必ずやその時を得るであろう」ということを冥想したとき、どのような慰めを受けるかを語っているとわたしは考える。
なぜならば、確かな望みが暗闇のただ中でわれわれを明るくし、神のよしとされることへの期待が、われわれを支えるのでないかぎりは、勝利を獲得する道をわれわれは持たないからである。ダビデはこのように、自らの堅忍を強めたのち、直ちに付け加えて、「あなたの慈愛の豊かさのゆえに、わたしに応えてください」と祈る。ダビデは、苦しみに遭うとき、気力を失うことがないように、すべての思いを神に向けつつ、暗闇が消え去ったのちには、神のよしとされる時がついには到来する、と確信しているのである。

詩編を読む・2017.3.29   詩編68篇 1~36節

詩篇68篇
1.詩編68篇を読む
68篇は長い詩であるが、神の勝利の行進、力と威厳をもってなされる統治がほとばしるように高らかにうたわれる。ところが、20、21節では「主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神 主、死から解き放つ神」とうたって、力と威厳の神が低くなられた神であることに信仰者の心を結びつける。
教会はその歴史の早くから、この詩編を五旬節(ペンテコステ)のための詩編として用いてきた。8-19節に見る、エジプトで始まりエルサレムで最高潮に達する神の勝利の行進は、イスラエルの救いと預言の観点からうたわれているものであるが、19節を引用しているエフェソの手紙では、この箇所は更に大きな上昇の型として取り上げられているからである。即ち、エフェソ4:7-16では、キリストは高いところに昇ること(上昇)により、さらにすぐれた戦利品を、聖霊による賜物において分け与えてくださる、というのである。
長い詩から、このたびは神について三つのことだけを取り上げる。
〇そこにいてくださる神
2節「神は立ち上がり、敵は散らされる」で詩編は始まる。ところで、わたしたちにとって神は目に見えるであろうか。一方、わたしたちを取り巻く敵の存在をわたしたちは現実の状況や出来事の中で知っている。そして、信仰者は、実に目に見えない神が立ち上がり、周りの現実の敵が「必ず吹き払われる」と確信するのである。敵にはいささかの確かさもない。だが目に見えない神は、そこにいてくださる。
参考:ヘブライ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(参考となる事例:列王記下6:15-17より「神に目を注いでいるエリシャと包囲する敵」)
〇解放してくださる神
 6,7節 聖なる神は「孤独な人に身を寄せる家を与え、捕らわれ人を導き出し清いところに住ませてくださる」。神は、歴史の始まりから一貫して「憐れみ深く恵みに富む神」(出エジプト34:6)である。このところに、福音がある。それゆえに、ダビデの詩に合わせて、わたしたちも解放者としての王なる神をどのような状況におかれても賛美したい。王なる神への賛美は、信仰者にふさわしい。
  参考:ルカ4:18,19「主がわたしを遣わされてのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるために。」
〇低くなりたもう神
  20,21節 主は「日々、わたしたちを担い、救われる神」である。これは、まさしくイザヤが預言し(イザヤ書53:4)、十字架であらわされた低くなられた神です。天の高きにおられる威厳に満ちた神が、この低さ(フィリピ2:8)に身を置いてわたしたちを永遠の腕として支え、わたしたちを担い、罪と死に打ち勝たせてくださる。

2.関連する新約聖書の聖句
 19節「主よ、神よ あなたは高い天に上り、人々をとりことし 人々を貢ぎ物として取り、背く者も取られる。彼らはそこに住みつかせられる。」  引用:エフェソ4:8「そこで、『高い天に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた』と言われています。」
参考:黙示録21:3「…『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。』」   ヨハネ14:23「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわた
      しとはその人のところに行き、一緒に住む。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
28節(新共同訳29節)「あなたの神は、あなたの力を命じられました。ああ神よ、あなたがわれわれのうちでなされたことを、強めてください。」
人間は何よりも、本来神のものとして認め、保たれるべきものを自らに帰する傾向を持つので、ダビデは、その民が敵に対し勝利を得たのは、自分の武力や権勢によってではなく、その力は高いところから与えられたものである、と二度くりかえして言う。ダビデの言うところによれば、イスラエルが勇敢に戦ったとき、その創始者は神だったのである。
このようにして、ダビデは彼らが、このような善き物を認識するようにと勧め、この世が一様に神の恵みを暗くし、窒息させている原因である傲慢を矯正する。さらに彼らをいっそうのこと謙遜ならしめるため、ダビデは同時に、将来も同じ恵みが続けて与えられる必要がある、と教える。というのは、われわれがみずからの貧しさを忘れ、全き謙卑のうちに神により頼んで、神がわれわれの欠陥を補ってくださるように、祈らないからでないとすれば、われわれの驕慢はどこから生じるのであろうか。
しかして、われわれは、この個所において、神がその恵みによってわれわれに先回りするだけで、われわれの生活全体を、その助けによって支えられるのでないかぎりは、不十分であることを教えられる。…もしも神が、われわれを堅忍へと強くされないなら、われわれは必ず倒れ伏し、毎分ごとにくずおれてしまうことであろう。また、救いのはじめだけでなく、堅忍もまた神からのものである。
(アウグスティヌス: 救いへの願いも、その持続も、完成も、神の恵みである。)

詩編を読む・2017.3.22   詩編67篇 1~8節

詩篇67篇
1.詩編67篇を読む
 この詩編を読むとき、わたしたちは、神の祝福が 詩人が立っているところに始まり、そのところを超えて全地にあふれる出る豊かさにふれる。アブラハムが祝福されると同時に、地を祝福する者となるように、神からの祝福はすべての人に及ぶのである。
  参考: 創世記12:2,3b「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの
     名を高める 祝福の源となるように。…地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入
     る。」
 2節「神がわたしたちを憐れみ、祝福し 御顔の輝きを わたしたちに向けてくださいますように」。ここには、民数記6:24-25の「アロンの祝福」が詩人の心に響いているかのように、民数
記6:24-25のキーワードが反映している。
 その祝福から溢れ出るものは何か。その一つは、3節「あなたの道をこの地が知り 御救いをす
べての人が知るために」である。神が御自身を知らしめることであり、それゆえに命を与える知識
が広まることである。それは、真理と救いを授けるという聖書に満ちている二重の希望である(テモテ 二 3:15,16)
  参考: 使徒言行録17:27「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求め
     さえすれば、神を見い出すことができるようになるということなのです。」
 御顔の輝きに照らされ祝福の中を歩むとき(コリント二4:4のパウロの言葉を用いれば、キリストの福音の光を見るものには)、4節と6節に繰り返されている祈りに見られるように、すべての民が 神に感謝をささげるようにという 大きなヴィジョンと大胆な祈りが伴ってくる。
 喜びもまた祝福から溢れ出て来るものである。その喜びは、神による完全な公平さからくる。5節「諸国の神が喜び祝い、喜び歌いますように あなたがすべての民を公
平に裁き この地において諸国の民を導かれることを。」
 7,8節では、最初の行だけが「大地は作物を実らせました」と、過去のことが語られている。そのあとは、期待であり祈りである。それも繰り返し「祝福してくださるように」と祈っている。
 わたしたちは大胆にそう祈ることができる。なぜなら、神は「わたしたちの神」だからである。しかし、わたしたちの神であるということは、神をわたしたちが独占している、という意味ではない。神の民すべてが神の前に頭を垂れるときも、神は、わたしたち自身の神なのである。
 7節「神は大地を実らせた」と詩人はうたっている。畑の収穫物が豊かであるのと同じように、神は、恵みにおいても物惜しみしない方である。(参考:イザヤ55:10,11)
 わずかなものから多くを生み出し、それを愛のうちに分配してくださる神が、わたしたちにそのような祝福を与え、今度はわたしたち自身を世界の祝福としてくださいますように。(このように祈りに導かれるようにと、この詩編はわたしたちを励まして
いる。)

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「あなたの道をこの地が知り 御救いをすべての民が知るために。」 参考:ルカ2:30,31「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、」  テトス2:11「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 3節(新共同訳4節)「ああ神よ、もろもろの民があなたをほめたたえ、すべての民があなたをほめたたえますように。」 5節(新共同訳6節)「ああ神よ、もろもろの民があなたをほめたたえ、すべての民があなたをほめたたえますように。」
 預言者は前に、すべての民が救い主なる神の認識に与る者となるであろう、と言ったので、今や彼らが、かくも大きな恵みに似つかわしい賛美によって、神をほめたたえるであろう、と言う。そして同じように、彼らに対して、けっして恩を忘れてはならないと勧める。
 彼が用いている反復は、ここで言及されている事柄が、未曽有で、ありきたりのものでないことを、いっそう明白に表現せんがためである。もしも問題になっている事柄が、神は常のごとくまたありきたりの仕方で、アブラハムの子孫らに対して、その恵みを絶やされない、ということであるならば、預言者はこれほどの激しさを用いる必要はなかったであろう。
彼はまず、「もろもろの民があなたをほめたたえ、すべての民があなたをほめたたえるように」と言い、ついで少し後に、これと同じ賛嘆の辞をもう一度くりかえす。しかして預言者は、二つの喜びと、それに加えて、それが生ずる原因を挙げる。
なぜならば、まずもって、心が平安で喜びに満ちていないかぎり、真実にまた自覚的に、神をほめたたえることは不可能だからである。神との和解を遂げているとき、われわれは確かな救いの望みを誇りとし、人知のすべてを越えた神の平安が、われわれの心を満たし、これを支配するものである。〔フィリピ4:7〕
 フィリピ4:7 (感謝を込めて祈りと願いをささげ。求めているものを神に打ち明けなさい)「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

詩編を読む・2017.3.15   詩編66篇 1~20節   

詩篇66篇
1.詩編66篇を読む
 この詩編は、感謝の詩篇である。1節「全地よ、神に向かって喜びの叫びを挙げよ」と、全地を賛美へと呼び出すところから始まり、5節「来て、神の御業を仰げ」、13節「わたしは献げ物を携えて…」と、一個人の感謝へと焦点が絞られる。この一個人は、16節「神を畏れる人は皆、聞くがよい」といって、信仰深い者たちに自分の証しを 聞くように呼びかける。そこで彼は、献げ物をもって祭壇の前に立ち、神の配慮が世界や国全体に及ぶだけではなく、「わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう」と、個人にも及ぶと語るのである。
 3節「御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。」救いについての厳しい現実をごまかさないのが、聖書の特徴である。その現実には、いつも裁きの要素が含まれる。神がその現実を支配されていることが基本となっている。
   参照: ヨハネ3:17-19「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。」
 神への望みの根拠は、神のなされた御業にある。葦の海を渡りヨルダンを渡ったことは(6節)、神の民を救い、逆らう者を裁く神の力と意志を決定的に証明するものである。したがって、出エジプトは、旧約、新約の聖書を通して決して死文ではない。過去の出来事でありつつ、それは「とこしえに」(7節)波及するものであり、神のすべての救いの御業の中で再現される。このことは、個人の救いにおいても然りである。
  9-12節.キリストへの信仰者は、「あなたは」が繰り返されていることから分かるように、すべての出来事の中に神の手を見る。そうするとき、苦難は解放と同じくらい意味あるものとなる。苦難は「試みる」(新改訳・調べる)ことであり、「火で練る」(精錬)ことである。それによって、信仰者は日々新たにされていく。
  参照: コリント二4:16-18  
 12節「火の中、水の中を通った」では、イザヤ43:2を参照したい。キリストの信仰 者は、厳しい試練からの解放だけでなく、試練のまさにその中に神がおられることを確信するものである。
 17、18節は、祈りの実践について二つのことに光を当てているといえる。一つは、祈りと賛美について。たとえ助けを求める緊急の叫びであっても(14節)、そこには賛美がある。次いで、祈りと誠実さについて。18節はその典型的な表現であり、ヨシュア7:12-13はその典型的な説明である。
2.関連する新約聖書の聖句
10節「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。」参考: ペトロ一1:7「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」
18節「わたしが心に悪事を見ているなら 主は聞いてくださらないでしょう。」  参考: ヨハネ9:31「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。」  ヤコブ4:3「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」
3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 10節「ああ神よ、あなたはわれわれを試みられたからです。あなたはわれわれを、銀のように吟味されました。」  われわれが逆境の中にあるときは、いつでも、われわれを苦しみに会わせられるのが、神の御手であること、またそれは、われわれの救いに備えをするために他ならないことを、認識するにまさって、有益なことは一つも存しない。そこでは、預言者が触れている試みと吟味とが結びついている。 たとえ、主がその民を、もろもろの悪徳から浄化せんがため、銀のように練り清められるとしても、預言者は同時に、民らがその忍耐とあかしと標識を、身につけているということを知ってもらいたいのである。銀からとられた比喩によって、ダビデは彼らが厳しい試みを受けたことを言い表わそうとしている。銀は一再ならず火中に投ぜられるものだからである。
 たとえ、信仰者が、苦難によって験されながらも、全く滅ぼしつくされなかったことを感謝するとしても、試みの大きさと多様さとは、この語ばかりでなく、文脈全体から明らかに表現されている。そこでは(11節)彼らが網の中に陥り、極度にまで追いつめられるに至り、人がその頭上を越えて行った。一言にして、彼らは水と火との中を通り過ぎた、と言われている。信仰者らが、絞めつける縄、あるいは鎖が、彼らの腰に縛りつけられたと言うとき、彼らは少し前に網について述べたことを拡張しているのである。「火と水との中を通って(12節)」という句が、さまざまな惨禍や艱難を現わすことに疑いがない。
 ここで注目すべきことは、預言者は民らがその敵の暴虐のすべてを、神から下された懲罰として語っていることである。しかし、神はたとえしばらくの間、その民を手厳しく罰せられるとしても、「潤沢な地へ(12節)」われわれを導かれる。これはカナンの地の享受に限ることではない。単に荒れ野が言及されているだけではなく、民を謙虚ならしめたもろもろの苦難を、あらゆる時代にわたって、包括しているのである。

詩編を読む・2017・3.8     詩編65篇

詩篇65篇
1.詩編65篇を読む
 惜しみなく与えたもう神に向かって、ダビデは溢れ出る賛美を明るく生き生きとうたう。ここには、使徒ヨハネが伝える、“父なる神と御子キリストとの交わりに与る喜び”(ヨハネ一章)が満ちている。
 しかし、この明るい神賛美の前提には大変厳しいものがあることを、ダビデは教える(3-4節)。
 「祈りを聞いてくださる神よ すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。罪の
数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちをあなたは贖ってくださいます。」
神賛美にあふれるためには、罪の自覚が問われる。罪を悔いて悔い砕かれる者を、神
は自由の霊によって支え、御救いの喜びで満たしてくださる(参照:詩編51篇)。
 恵は、罪があふれるところにますますあふれる。(参照:ローマ5:20b「罪が増した
ところには、恵みはなおいっそう満ちあふれる」。)
 わたしたちは、自分でどうすることもできないほどの大きなそむきに気づくとき、
ルカ福音書に出て来る「二人には返す金がなかったので…」というルカ7:42の句と
同じ結果になるのである。
 「二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった」。
4節「罪の数々がわたしたちを圧倒します」(口語:「われらの とががわれらに打ち
勝つとき」というほどに、罪の苦悩は非常に強い。しかし、わたしたちが負かされるほどに、罪が強く押しかけて来るときにも、神はこれを赦される。
 その罪の赦しが、人を神の庭に連れてくるのである。そうであれば、庭の奥(神殿)
にはどれほどの秘められた多くの恵みがあることだろうか。そこにすべての信仰者が
迎え入れられているのである。(参照:ヘブライ10:19~26)
 神のこの赦しに支えられて、罪の悩みから解き放たれた者は、(5節以下で)非常
に積極的かつ明るい神への賛美に満たされる。
 6~9節では、神は自然界の主、地に住む人々の主であると、その御業がほめたたえ
られる。神の力は、恐るべき御業であると同時に歓迎すべき大いなる救いの力である
(参考となる出来事:出エジプトの折に現わされた神の力と業)。
 10節からは、肥沃な大地についての描写が、神の豊かさへとわたしたちの信仰の目
を確かなものにしてくれる。10~14節にうたわれている豊かさの中で、わたしたちも
導かれているのである。まさに、どのような時にも、わたしたちの神の豊かさを思
い、わたしたちもまた喜びの叫びを心からあげていきたい。
10「あなたは地に臨んで」(新改訳他「あなたは地を訪れ」)という言葉は、極めて聖
書の思想(あるいは神観ともいえる)をよく言い表わしている。それは、神は不断に活動しているのであるが、それにもかかわらず祝福や裁きのためには決定的な時を持っておられる、というものである。(例:出エジプト32:34、ルカ1:68)。
(語句) 「満願の献げ物をささげる」(2節)
   聖書によっては、誓いを成し遂げる、の意で訳されている。

2.関連する新約聖書の聖句
 (語句の上では、新約に直接関係すると思えるものは見当たらないので、内容の点から考えておきたい。)
 ① 神は、神のところに近く来る人の祈りを聞いてくださる方だから、人は心から神に従い神を賛美することができる。
3節とローマ10:13「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」
 ② 神は、罪人の祈りを聞いてくださることができるのは、神御自身が人の罪と咎を贖ってくださったから。
   4節とローマ3:23-26「…ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、…イエスを信じる者を義となさるためです。」
 ③ その神の贖いを受けて神のところへ行くことができるのは、神に近く来るよう
に導かれ、聖さを願い求める心を神が与えてくださる、神の召しと選びとによる。
 5節とヨハネ6:44-45「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」、エフェソ6:6
④ 神の御業は、手の込んだ人間業や未知なるものや秘儀などで約束する偶像の
ような類ではなく、創造されたその世界と秩序をもって救い出される、まこと
に“恐ろしい”神の御業なのである。
 6節とコリント一10:1―5 「…皆、雲の中、海の中で、モーセに属するもの
となる洗礼を授けられ、…彼らが飲んだのは自分たちから離れずについてきた
霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。…」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 4節(新共同訳5節)「あなたが選び、あなたに近づかしめられる者は幸いです。…」
 われわれが幸せであるのは、神の望みを寄せ、神の約束を抱懐するときである。われわれが幸せであるのは、とわたしは言う。われわれが仲保者イエス・キリストに依りすがりつつ、父である神へ祈りを向けるときである。しかし、われわれが生まれつきの異国人であったとき、神が恵みによってわれわれを結びつけられたからではないとしたら、この信仰と祈願とは、いったいどこから来るのだろうか。

詩編を読む・2017・3.1     詩編64篇

詩篇64篇
1.詩編64篇を読む
 詩編63篇では神に焦点が合わせられていて、敵は情景のはしに現れるに過ぎなかったが、64篇では焦点の合わせ方が逆になっているのに気づく。しかし、どのように焦点を当てたとしても、結末は同じである。悪人たちのたくらみは念入りであっても、それに対して神のなさることは対照的で短く、そして決定的である。
 2~7節では、ダビデに敵対する側の狡猾さや裏切りがはっきりと語られる。彼らはなぜ何か劣った軍隊であるかのように「隠れた所から(5節)」攻撃を加えるのか。考えられることは、彼らの目的が恥ずべきもの、その戦略が弁解の余地ないものであるからではないだろうか。
 ローマ3:9-20には、罪の実態がはっきりと記されている。その13節「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。」と記されている。その罪が、64篇で実にリアルに描き出されている。
・「舌」「毒を含む言葉」
舌の持つ破壊的な力を聖書はこの詩編に限らず述べている。それだけに、「舌を制する」(ペトロ一3:10)ことを祈り求めたい。
  舌は矢  エレミヤ9:7「彼らの舌は人を殺す矢 その口は欺いて語る。隣人に平
和を約束していても その心の中では、陥れようとたくらんでいる。」
  舌は火  ヤコブ3:6「舌は火です。舌は不義の世界です。わたしたちの体の器官
の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火
によって燃やされます。」
   しかし、舌は人を癒すものでもある。参照:箴言12:18,15:4
・無垢な人・無実な人を嵌めるための巧妙な謀
  彼らが証拠を隠して喜んでいる様子が描き出される。その中でこの詩編は7b節「人は胸に深慮を隠す」といって、人の性質を辛辣に批評する。
  (参考)7節は諸訳に相違がある。
    口語訳(新改訳、岩波訳も同じ立場) …我らは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。人の内なる思いと心とは深い。
    フランシスコ会訳  巧みに行ったわたしたちの悪を誰が探り出すだろう」。
       しかし、内なる思いと心の奥底を探る方は、それを探り出される。
    新共同訳  巧妙に悪を謀り 「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」といいます。
 11節 敵の脅威から守られるように(2節)との祈りは、願う以上に答えられている。
最悪の中におかれ、苦難に遭いながらも、喜びはすでに溢れ出るのである。
 参照:マタイ5:11,12

2.関連する新約聖書の聖句
 8-10節「神は彼らに矢を射かけ 突然、彼らは討たれるでしょう。自分の舌がつまずきのもとになり 見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。人は皆、恐れて神の働きを認め 御業に目覚めるでしょう。」 (自分で復讐をすることを考えるよりも神の義に避けどころを見いだす者は、神はいつの日にか 全世界の前に正しく裁いてくださる、と知って慰めを受けているものである。) 参考:マタイ24:30「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見る。」
 
3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 7節(新共同訳8節)「そして神は、彼らを 矢をもって撃たれるでしょう。彼らの災厄は突如として起こるでしょう。」  ダビデは自分の願いが決して空しくないこと、それどころか、すでに神によって聞き届けられていることを確信しているので、勇気を取り戻し、喜び楽しむ。たとえ神の報復が未だに肉眼には認められないとしても、それが突如として起こる、と断言する。
 悪しき者らがその繁栄のゆえに、いっそう頑迷となり、神が沈黙を破り、彼らを目にしないかのごとくに、装われるのをよいことにして、決して罰せられることがないだろう、と信じ込むのを見ながらも、少しも勇気を失うことなく、神は長い間忍耐されたのち、突如として、ご自身が裁き主であることを示されるであろう、という情念を保ち続けることのうちに、ダビデはその信仰の大いなる証拠を提示していることになる。
 事実、神は何の望みもない時に、ご自身を現わし、また悪しき者らが免れると自惚れて、際限もなくつけ上がるとき、彼らを急襲するのが常である。それゆえに、われわれの災禍が長く続くとき、神は故意に悪しき者らを罰するのを遅延されるが、それは、いっそう恐るべき雷撃を彼らに「加えるべきである、というこの慰めを、いつでも目の前に置くことが大切である。彼らが、「平和だ、安心だ」というときに、神は突然の、そして予測し得ざる滅びをもって、彼らを打ち倒されるであろう。
 (次の8節で)ダビデは同じ論旨を続けて、悪しき者らがその謀議のうちに隠し、その舌をもって吐き出す害毒が、ついには彼ら自身の滅びとなってふりかかるであろう、と言う。…悪しき者らが、正しさと直さの内を歩む者に加えようとする危害を、神はすべて彼ら自身の頭上に降りかかせられる。
 (参考: ローマ12:19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われる」と書いてある。」)

詩編を読む・2017・2.22    詩編63篇

詩篇63篇
1.詩編63篇を読む
 1節 表題の“ユダの荒れ野にいたとき”については、12節で「王」についての言及があるところから、アブサロムがヨルダンに向かう途上のダビデをユダの荒れ野へ向かわせたときを指し示していると考えられている(サムエル下⒖:23参照)。(カルヴァンはユダの荒れ野の山地にあったジフの荒れ野(サムエル上23:14-15)であるとしている)
 サムエル下16:14で強調されている疲労、神についての確信と神の意志に対する献身をもって神の箱そのものから離れる覚悟(サムエル下⒖:25)、そうしたダビデが遭遇した最悪の状況とダビデの献身の思いとが 63篇に結びついてくる。
 2節の「神よ、あなたはわたしの神」という率直で大胆な告白が、読む者の心に強く響いてくる。この告白に見られる関係こそが、すべてのことの秘訣である。アブラハムの族長の時代から、わたしたちの現在まで、契約の核心だからである。
  参照:創世記17:7「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」 同17:8b「わたしは彼らの神となる。」
     ヘブライ8:10「…わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
この「あなたはわたしの神」の現実性が、「魂」と「体」、つまりダビデの存在全体に、深い愛の関係となって溢れ出ているのである。神なしでは、ダビデの全存在は安定せず、満たされることもない。(参照:ヨハネ4:13-14)
 ダビデの魂は、神を渇き求める。それと同じ激しい願いをもって、ダビデはエルサレムの聖所で礼拝を捧げていた。しかし3節「今」、荒れ野であろうとなかろうと同じなのである。このところでご自身を現してくださる神の力と栄を見て、神をほめたたえる。
 4節「あなたの慈しみは命にもまさる恵み」。この表現は決して比喩表現などではない。神への愛こそが生きがいなのである。この信仰を殉教者の群れ全体が証しし、パウロも同様な言葉で語っている(使徒言行録20:24「…この命すら惜しいとは思いません。」
このダビデの信仰と堅忍が豊かに報われる。「あなたを渇き求めた」(2節)魂は、今や「満ち足り」(6節)、「喜び歌う」(6,8,節)。
 この篇で、強烈に伝わってくるのはダビデの神へのひたむきな愛である。9節に「あなたに付き従い」とあるが、「つき従い」は、「しがみつく」「結び合う」「すがりつく」という訳でも知られている。
  参考: 結婚における献身: 創世記2:24     主への忠誠: 申命記10:20
      顕著な例: ルツ記1:14「ルツはすがりついて離れなかった」
このように字義的には、必死にあなたを追いかけてすがる、となる。それほどに神を耐え難いほど恋い慕う。神こそわが喜び、なのである。そして、このことを可能にするのは神御自身である。神が支えるためにしっかり握ってくださることは、「右の御手で」、すなわち強い方の手でという表現がよく表している。
 10節.ダビデの詩篇には、敵はいつも存在するが、63篇では10-12節においてだけである。それほどに神に対するダビデの思いは激しかったといえる。けれども、脅威は現実に存在する。その暗い影が、信仰の堅固さを際立たせる。

2.関連する新約聖書の聖句
 2節「…わたしの魂はあなたを渇き求めます。…」  参照:マタイ5:6「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
 12節「…偽って語る口は、必ず閉ざされますように。」  参照:ローマ3:19「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1節(新共同訳2節)「ああ神よ、あなたはわたしの神です。朝早くから、わたしはあなたを尋ね求めましょう。わたしの魂はあなたを渇望し、わたしの肉は、あなたを強く望み見ます。水もない砂漠の乾いた地に。」  ダビデはもろもろの危険の直中にあて、心の内でどのように感じたかを忠実に反復する。そこからわれわれは、どのような艱難も、彼を全く打ち倒し、天に向かってその魂を高くあげ、祈りをささげ、確かで固い信仰によって、神の約束に寄りすがることを、止めしめることはなかった、と結論する。もっとも軽少な試みでさえも、われわれから神の認識を、全く取り去ってしまうものなので、このことは一層注目に値する。それゆえに、われわれも大きな艱難の中にあって、このことを思い見るように努めることを学ぼうではないか。
 ダビデは単に、自分の助けを神から求めるだけでなく、疑うことなく、その不安を神のうちにすべて任せ奉るために、神はかれの神であると確信する。彼個人に関しては
すべてを欠き、この恐るべき荒野の中で煩悶しているとしても、そうである。
 神が自分に対して憐憫に富み、その救いの保護者であることを、固く確信するに至るよすがとなったこのような信仰は、その心のうちに、ある願いの灯を点ぜしめた。彼はそれによって、不断に、また熱烈に、神の恵みを願い、求め続けたのである。
 …ダビデの言わんとすることは、単純に、魂と肉とが、すなわち彼の体が神を熱望する、神に向かう、ということである。

詩編を読む・2017・2.15    詩編62篇

詩篇62篇
1.詩編62篇を読む
 詩編の中には、逆境から生み出された優れたものがあるが、この詩編はその中でも際立っていると称されている。4,5節に見られる苦難の中で作られ、苦難の度合いが進むにつれ、神への信頼がいよいよ成長しているからである。
 ダビデは、自分が学んだ秘訣(2節)を、再びしっかりと心に結びつけ(6節)、主の民にもそのように「どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ」と強く勧めた。このことは今の時代においてもわたしたちを生かす勧めである。
最初の2節は、「まことにわが心は黙して神を待つ」(NEB)の訳がよく意味を表している。すべては神にのみかかっているのである。ダビデは、39:2と同じように、自分に襲いかかる者、苦しめる者に対してさえ、自分で答えようとはせず沈黙をして神にのみ目を向けた。
ダビデの神への確信は「決して動揺しない」(3節)。この2,3節は、6,7節で繰り返されているが、いくつかの点で微妙な違いがある。
・ダビデは、2節では「沈黙して、ただ神に向かう」というだけであった沈黙を、「沈黙して、ただ神に向かえ」と自分自身に促している。4節5節のような試練で、動揺しないためだろうか。わたしたちも、厳しい状況に置かれれば置かれるほど、自ら「神に向かえ」との意識をしっかりと持たなければならない。
・2節「神にわたしの救いはある」が「希望」に替えられているが、聖書はこの2語をしばしば結び付けている(参考:ペトロ一1:21「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっている)。いずれもその基礎にあるのは、神の憐みである。参考:綱要3篇2章42「信仰は神が真実であると信じ、希望は神が時を得てその真実を示したもうと期待する。」
・極めて積極的な変更が見られるのは、3b「わたしは決して動揺しない」が7b「わたしは動揺しない」と表現して、無条件の絶対的な信頼になっていることである。
 9節「どのような時にも神に信頼し…」は、ダビデが呼びかけている民だけに真実なのではない、今これを聞くわたしたちにも「アーメン」である。
 10-13節は、この詩編からの人生についての教訓といえる。11節では、なにが信仰の正しい対象で、なにが誤ったものかに主眼が置かれている。(「力が力を生む」は他の諸訳では「力」は「富、財貨」)「富」に夢中になることが、犯罪に明け暮れる人生に劣らず危険なものと見られている。

2.関連する新約聖書の聖句
 13節「慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と ひとりひとりに、その業に従って あなたは人間に報いをお与えになる、と。」  参考 マタイ16:27「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」 ローマ2:6「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」
(信仰者が神の不動の愛を覚えるとき、贖罪日の雄山羊に表されている(レビ記16)ように神の愛が彼らの罪を除き去るがゆえに、裁きの日を現実に待ち望むことが出来る。)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(2節についての瞑想のために:
 新共同訳「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」
 「ただ」という訳は、口語訳、新改訳にも共通。岩波訳では「神にのみ」向かう、
欽定訳では「まことに(truly)神に向かう」、ESV「ただ神にのみ」。  下線部で記したのは、2,3節のそれぞれの冒頭に出てくる「アク(まことに、ただ、という感嘆詞)」という言葉の訳である。カルヴァンは、この言葉がこの詩で用いられていることについて注解する)
 1節(新共同訳2節)「しかしそれでも、わが魂は神に向かって黙します。わたしの救いは神からです。」 
…この言葉(アク)は、「除外する」、「確認する」という意味でもあるので、「単に」とか「確かに」と訳すこともできるが、「しかしそれでも」、「それにもかかわらず」と解されるべきである。
 わたしの採った訳に従うならば、この詩編は欠落のある文章で始まることになるであろう。周知のごとく、激しい感情から吐き出される文章は、極めてしばしば不完全なものとなるのである。詩編73篇の冒頭も同じで、預言者は心の中で、多くの議論を試み、それによって、はなはだしく心を揺り動かされたのち、ついに再び元気を取り戻して、いわば、それとは反対の論議を、すべて切り捨てるかのように、「しかしそれでも、神はそのイスラエルに対して恵み深くあられる」と述べるのである。わたしの考えでは、この現在の個所からも、同じことを言うことができる。
 われわれの知るごとく、信仰者の魂といえども、全く平穏かつ安らかではないので、絶え間なく押し寄せるもろもろの想念のために、心を揺り動かされることは、大いにあり得ることである。…悪魔はダビデのうちで激情を掻き起し、その結果彼はいささか道を踏み外すに至ったが、今や自分自身を抑制し、ただ沈黙を守ることが大切である、と決心するのである。
 この言葉によって、彼は忍耐強く、安らかな心をもって、十字架を負うことが、自分にふさわしい旨を表明している。(私的感想:ダビデを通してのカルヴァンの信仰)

詩編を読む・2017・2.8     詩編61篇

詩篇61篇
1.詩編61篇を読む
 この詩編は、セラで大まかに二分される。
   セラ:詩編に71回出ている。推定であるが、伴奏変更の合図とされている音楽に関する術語。語源的には「上げる」の意味があるので、この箇所で歌声、または奏楽の調子を上げたものと思われる。
 セラまでは、安全を求める祈り、セラのあとは、神の答えの確かさに対する感謝となり、恵みが続くようにとの高揚する願いとなる。
 3節「地の果てからあなたを呼びます」(カルヴァンの注解に学ぶを参照)からは、神殿での礼拝が途絶えている様子がうかがえるので、前半部分の背景には、ダビデが遠征で都を離れていたときか、息子アブサロムに追い出されたときの「叫び」があると考えられている。この時、2-5節にみるように、ダビデは試練のただ中に置かれていた。
 旧約聖書には、アブラハム、ヤコブ、ヨセフなどをはじめとして、国を離れ不慣れで不安な中で、あるいは他の神々(偶像)が支配しているところで、神に信頼した者の例は多く記されている。(参照:サムエル上26:19)
 5節では、ダビデの願いは、神の幕屋に宿り、神の翼の陰に宿ることであった。(新共同訳の「隠れます」を口語訳や新改訳でも味わっておきたい。)
  口語訳:…あなたの翼の陰にのがれさせてください。
  新改訳:…御翼の陰に、身を避けたいのです。
 この願いが確実にかなえられ、現実となって現れる。6節である。
7-8節に見られる祈りは、サムエル記下7:16でナタンの預言によって約束されたことを思い起こさせるが、その内容そのものは、来るべきメシアの人格においてあふれるほど成就されるべきものであった。そして、この方を通して主の民は、まことの王の祝福に与るのである。
  参考:エフェソ2:6「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」
 また、わたしたちが教えられることの一つは、2-5節に見られるように、ダビデが心挫け神に叫びをあげていたとき、王のための祈りがあったということである。この時、ダビデは予見できなかったであろうが、7-8節で王のための祈りがはっきりと答えられていることをダビデはうたう。つまり、ダビデが思ったり願ったりしたすべてを超えて、キリストは願いがかなえられるように定められていたのである。
  参考:エフェソ3:20「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりするすべてを、はるかに超えてかなえることのできる方に、(21節 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。)」
 
2.関連する新約聖書の聖句
 8節「王が神の前にあってとこしえの王座につき 慈しみとまことに守られますように。」  参考 テモテ一2:1-4「…願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが
常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。…」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1節(新共同訳2節)「ああ神よ、わが叫びを聞き、わが祈りを聴き入れてください。」
 このところでダビデが述べている時期については、完全には分からないが、わたしとしては、これをアブサロムの陰謀の時期と結びつける人々の意見に、満足しよう。…
祈りの中で、「叫び」という語によってダビデが言い表わすのは、ある激しい感情のことである。というのは、彼が神に向かって小声で訴えたにせよ、あるいは声を上げたにせよ、心の内的な動きと激烈な熱意とは、叫び声にたとえられるからである。
第1節で彼が用いるくりかえしもまた、彼が不断に忍耐強く祈り続けたことを示している。
…「地のはて」2節(新共同訳3節)という語によって、ダビデが言わんとすることは、それが彼の退かざるを得なかった場所であることを、わたしは疑わない。彼は、その結果、聖所と聖都に至ることが、できなくなったのである。
 ダビデは、その子アブサロムの狂怒を避けるため、急いで逃げ出し、マハナイムの荒れ野その他の密かな場所に身を隠した時期である。神がシオンの山を選ばれたのは、契約の箱を安置する場所としてであると同時に、王の座を樹立する場所としてでもあったので、ダビデがいや果ての地へと追いやられたというのは、彼が神の聖所から、国土の主要な部分から退けられたからに他ならない。
 ダビデが生きていたのは律法のもとであったので、いわば神礼拝の陰の下であったが、たとえ聖所から、はるか遠く離れた亡命者であったとしても、しかもけっして祈ることを止めなかったとすれば、今日われわれの怠慢さは、けっして許されるべきではない。たとえ、悪魔がどのような妨げを企てようとも、神がかくもいつくしみ深く、われわれをみもとに招き、キリストの血によって道がわれわれに開かれているからには、われわれは信仰によって天に昇り行くべきである。それゆえに、福音の宣教を耳にせず、聖礼典を奪われて、神の一つとなる教会の中に住まわぬ者たちも、神から遠く離れ、いわば砂漠の中にあるかのごとくであっても、ダビデの実例にならって、神に向けて叫び声を挙げることを学ぶべきである。

詩編を読む・2017・2.1     詩編60篇

詩篇60篇
1.詩編60篇を読む
 表題2節から気づくこと(参照:サムエル下8:3-14) ― ダビデの力の絶頂期に、隣接する敵対勢力が回復してきているのに気づかされる。ダビデの成功が敵たちの間の同盟という危機(サムエル下8:5)と国を遠く離れての戦いという危険をもたらしたのである。ダビデの主戦力がダビデと共にユーフラテス川の近くにあったとき(同8:3)、エドムはおそらくその機会を利用してユダを襲ったのであろう(同8:13)。
 こうした状況の中で、いくつかの勝利を収めていたダビデは、神の恵みを思い見るように励ますために、この詩編を祈りをもって始める。いかに国が荒廃し(3-5節)、いろいろな試みが神に突き放されるように敗北に終わる(12節)としても、それを支配されるのは神である(ダビデはこのことを経験からも確信)。どのような状況におかれても、その神に祈り、助けを求め、信頼すること(13-14節)を告げるのである。
 3節の「突き放し」(口語訳:捨て、新改訳:拒み)は厳しい言葉であるが、7節の「あなたを愛する人々」と合わせて読まなければならない。恐ろしい怒りではあるが、最終的な拒否ではない。このことの理解は他の何にもまさり重要である。
 神の「突き放し」には容赦はない。それが4節「大地を揺るがせ」る地震にイメージされている。わたしたちが安全だと思っているものに対しても、神は容赦なく扱われる。神は、立つにふさわしくないものを倒し続け(例:列王記上12章)、決して「揺り動かされ」ないものを残される(参照:へブライ12:27、黙示録2,3章)。
 5節 困窮がどれほど絶望的なものであれ、「あなたの愛する人々」とうたうダビデの祈りに力を受ける。この祈りはまさに信仰の祈りである。これに神が応答される(8-10節)。預言者としてダビデは神の言葉を宣告する。8-9節はイスラエルが相続した地について、10節はイスラエルの隣国についての宣言である。
 「シケム」「スコト」はヨルダン川両岸にあり、ヤコブがラバンのもとで何年か過ごしたのちに手にした約束の地の一部である。ギレアドはヨルダン川東岸のイスラエルの所領、「マナセ」はヨルダン川を渡った部族、「エフライム」と「ユダ」は西岸の主な部族である。
 わずかな言葉から、イスラエル初期の歴史と代表的な領域が思い起される。注目したいのは「わたしのもの」「わたしの」という表現である。すべては神のものであって、彼らのものではないからである。
 10節のモアブ、エドム、ペリシテは、名誉ある職とは言えないが、それを割り当てるのはやはり神である。それはそれなりに用いられる(参照:テモテ二2:20-21)。エドムもモアブも、聖書では「傲慢」のゆえに知られている(イザヤ16:6、オバデヤ3)。
14節 人間の側には信仰による勇敢な行動、神にはわたしたちの上に置かれる御手。

2.関連する新約聖書の聖句
 7節「あなたの愛する人々が助け出されるように 右の御手でお救い下さい。それを我らの答えとしてください。」(ダビデは、神が人々を守り、助け出されるのは、人々が神の愛にふさわしいからではなく、神が愛してくださるからであることを理解していた)  参考 ローマ5:8「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
13,14節「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。」(神の主権の告白が輝かしい勝利をもたらす)  参考 ローマ8:37「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」、フィリピ4:13「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 1節(新共同訳3節)「ああ神よ、あなたはわれわれを棄却し、われわれを追い散らされました。あなたは憤怒されました。再びわれわれの所へ戻ってください。」 
 ダビデは離散を主要な災いと考える。サウル王国は弱り果て、その力は涸れつくし、その国土は餌食として外敵にさらされていたので、だれひとりとして、安全にその家で憩うことがなく、いつも逃げ出して、国外に立ち去る用意をしているほどだったからである。このあとダビデは、改めて「離散」を別のたとえによって描写し、あたかも引き裂かれたかのごとくに、国土は醜態をさらし、深淵をのぞかせた、と言う。文字通りの地震が起こったというのではなく、民の状態があまりにも低下し、頽落した結果、至る所に地震が引き起こすのが常であるような貧困が見られた、ということである。…しかしながら、ダビデはこうした破れ目が癒されるように、と祈ることによって、この災害をもたらした神御自身を、癒し手として取り上げるのである。
 12節(新共同訳14節)「神にあって、われわれは力強く事にあたるでしょう。神はわれわれに敵対する者を、踏みにじられるでしょう。」  
この文章は二つの部分から成る。すなわち、神がその恵みを取り去られるや否や、人間の中にあると考えられる力は、すべて転落し、消滅する、ということ、これとは反対に、ただ神の内にあって強い者らは、完全な力によって装われ、あらゆる困難に打ち勝つことが出来るということである。…(そして、)すべてのわざは全く神のみであることを示す。「神は敵対する者を足で踏みにじられるでしょう」と付け加えるのは、このためである。

詩編を読む・2017・1.25    詩編59篇

詩篇59篇
1.詩編59篇を読む
 1節に示されているダビデの事件は、サムエル記上19:11-17に見られる。この詩編がうたわれるに至った状況をはっきりと理解しておきたい。サウルは、「息子のヨナタンと家臣の全員に、ダビデを殺すようにと命じ」(サムエル上19:1)、自分自身も槍でダビデを突き殺そうとした(同19:10)のである。このため、ダビデは夜、自分の家の上の窓から逃げなければならなかった。こうした切迫感がこの詩編にはある。「過ちもない」(4,5節)ダビデの憤り、彼を罠にかけようと夜うろつき回る者に対する軽蔑(15,16節)、解放してくださる神の御力と慈しみを知る大きな喜び(17,18節)、これらのことは命がかかった極限状況におかれた者の真実の声である。
 しかし、危険を冒しての逃避行とそこから生まれた歌は、個人のレベルにとどまらない。さらに大きく展開している。この詩編では、「国々」(6,9節)と「地の果て」(14節)が視界に入ってくる。
3節「悪を行う者から」という表現では、2節「敵から」よりもさらに深く進み、悪や暴力を生き方に選ぶ心の傾向を見つめる。聖書は人間の紛争を、単なる利害の衝突としては描かない。4,5節では、自分は無実であると訴えている。まるで、全く罪がないと言っている印象を受けるが、この詩編の背景である物語の文脈から真意を捉えたい。
福音は、キリストを模範として指し示し、不当な取扱いについての観点を明確に与えてくれる。参考:ペトロ一2:18以下(2:19「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それはみ心に適うことなのです」)。ダビデも、無実であると訴えながらも苦痛を耐えたのである。
 6節では、場面が広がる。ダビデは、5節の「目覚めてわたしに向かい、ご覧ください」(新改訳:「どうか目を覚まして、わたしを助けてください。どうか、見てください。」)という個人的な祈りをより大きな状況にあてはめている。しかしこれは、ダビデが若いときにも祈ることが出来た祈りである(参考:サムエル上17:45,46のゴリアテに対する言葉)。
 12節の「わたしの民」、14節の「地の果てまで」について述べることで、ダビデは個人的な出来事から得られた教訓を、国政という大きなものにあてはめ、さらにはそれを超えて全世界に及ぶ神の威光にあてはめる。
ダビデはこの詩編を勝利の賛美で歌いあげる。今までは、10節「あなたを見張って待ちます」に見られるように、忍耐して待つダビデであったが、その時の苦しみの経験は賛美と変わり(17節)、神をほめたたえる(18節)。

2.関連する新約聖書の聖句
 14b節「そのとき、人は知るでしょう。神はヤコブを支配する方 地の果てまでも支配する方であることを。」(この句は「知る」に重点が置かれている。まことのしもべは、人々が神を知るのを願う。)  参考 ヨハネ12:28「父よ、御名の栄光を現してください。すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(12節と14節について)
 11節(新共同訳12節)「彼らを殺さないでください、わたしの民がこれを忘れることがないためです。われらの盾なる主よ、あなたの大能によって彼らをさまよわせ、彼らを打ち倒してください。」
 13節(新共同訳14節)「怒りをもって、滅ぼし尽くし、もはや彼らが存在しないようにしてください。そうすれば、地の果てに至るまで、神がヤコブのうちで支配されることを知るでしょう。」
 (11節について)「神は不義なる者らに対する最後の報復の遂行を、はっきりと延期される。これは、もし彼らが一挙に絶滅されるならば、人々は直ちにその記憶を忘れてしまう恐れがあるからである。…そこでダビデは、神が彼の敵どもを「さまよわせられるように」と祈り求める。次に続くもう一つの動詞「打ち倒してください」あるいは「低くしてください」(新共同訳:屈服させる)と言う言葉によって、ダビデは神が、彼らをその高く名誉ある地位から引きはがし、他のものの足もとに倒れさせるように、と願い求める。それは彼らがその悲惨と屈辱の中にあって、いつでも見本として役立ち、すべての者がそれを目にして、神の怒りの明白なあかしを感得するようになるためである。
 (13節について)ダビデはつい先ほど、神が彼の敵どもを、突如として殺されることのないように、と願ったことを思うと、今ここで彼らの上に、最後の滅亡がふりかかるように祈り求めるのは、自己矛盾をきたしているように、思われるかもしれない。…
神は彼らを長く報復の例として示されたのち、時期が来るとついには彼らを究極的な滅びに巻き込まれる、とわれわれがいうとき、矛盾は取り除かれる。
 そこで次の二つの事柄がきわめて良く合致する。つまり「神の裁きは、その記憶が消え失せることのないように、長い間にわたって、われわれの目の前に提示される」ということ。それと「それにもかかわらず、この世が悪しき者のかくも永らえさせられるのを目にして、神が彼らに敵対されるとき、彼らは、いてもたってもいれなくなることを十分学んだのちには、期の到来するに応じて、神は彼らに惨めな最期を遂げしめ、…神の裁きを本気で考えない者の目を覚まさせられる」ということ。

詩編を読む・2017・1.18    詩編58篇

詩篇58篇
1.詩編58篇を読む
2節「しかし、お前たちは正しく語り、公平な裁きを行っているというのか」に見られるように、この詩の中で裁かれているのは、支配者たちである。ダビデは、彼らが不祥事に慣れてしまうのを許さない。不正な支配者たちが2-3節でまず呼びかけられ、4-6で彼らの様子が描き出される。そして、7-10では処罰されるようにとの祈りとなる。最後にうたわれるのは神の世界を踏みにじっている者の失脚である(11-12節)。
 それにしても、「生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい」に見られる7-10節のあまりにも生々しい呪いの言葉に満ちた祈りに驚く。ダビデは、不法がはびこっていることに憤りを覚え、不義に対する神の裁きを見ているのである。「その日が来れば、主が罰せられる 高い天では天の軍勢を、大地の上では、大地の王たちを」(イザヤ24:21)。
 このように祈りながらもその祈りのゴールは不正に満ちた心(3節)の支配者たちの悔い改めにあったことが、ダビデの信仰と人格から推し量ることが出来る。ダビデは、彼を壁に突き刺そうとしたサウル王(サムエル上19:10)に対して、エン・ゲディの地では、サウルの悪意に善意をもって対した(サムエル上24:17-23)。そうしたダビデに、サウル王は「わたしが誤っていた」(サムエル上26:21)と悔いたのである。
 参照  ローマ2:4,5「あるいは、神の憐みがあなたがたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」
     ヨハネ3:36「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
 4-6節では、不正な支配者たちが告発される。彼らは「母の胎にあるときから汚ら
わしく」と言われる。その彼らと、「わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを
身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。」と告白するダビデ自身との違
いはどこにあるのだろうか。鍵になるのは、「神に逆らう者」(58:4)である。
 そして、4-6節の記述は、ローマ3:10~18で引用されていることに近い。それで、
ここを読むわたしたちには、これは不正な支配者たちの様子を描いているだけではな
く、自分を映す鏡でもあることを示される。「命に至る悔い改め」に導かれる者は幸い
であり、ただ神に感謝し神を賛美する。
 参照:  使徒言行録11:18「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異
邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛
美した。
 11節「神に従う人はこの報復を見て喜び 神に逆らう者の血で足を洗うであろう。」一見して、この御言葉は信仰者が一般的に抱いている‘やさしさ’の情念とは程遠いように思われる。このことについては、カルヴァンの注解に学びたい。
 12節 神の裁きのもとで、「神に従う人は必ず実を結ぶことになる(実を結ぶ=報いがある)。ただし、その実が栄光となるのは、ヤコブ5:1―11で示されているように、その実が涙のうちに種をまかれ(詩編126:5)、屈することのない忍耐があったということなのである。

2.関連する新約聖書の聖句
 4~6節「神に逆らう者は 母の胎にあるときから汚らわしく 欺いて語る者は 母の腹にあるときから迷いに陥っている。蛇の毒にも似た毒を持ち 耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで 蛇使いの声にも 巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない。」  参考 ローマ3:10~18「正しい者はいない。一人もいない。…彼らの目には神への畏れがない。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 10節(新共同訳では11節) 「義しき者は、報復を目のあたりにするとき、喜び楽しむでしょう。彼らは悪しき者の血の中で、その手を洗うでしょう。」  人間が一般的に、その敵の破滅を喜びとする、というような残虐性の現れは、彼らがみずからの放逸な欲情、憎悪の念、激怒、忍耐のなさ、あるいは過度の報復欲、と言ったものに押し流されるからでないとすれば、いったいどこから起こるのであろうか。
 肉が支配するところでは、公正なものも、完全なものも、何ひとつとして存在しない。しかし、聖霊による熱心によって揺り動かされる者は、その感情を神の正しい報復に適合させる。また、彼らは悪しき者らが、神の御手によって罰せられるのを目にする度ごとに、これを喜びとするが、同時に、悪しき者らが回心して、救われるに至るように、という人間的な同情心をも抱くのである。というのは、神の憐憫でさえも、悔い改めの存しないところでは、時として峻厳なさばき主としてご自身を示すのを妨げはしないが、他方、神の峻厳さも、その寛仁を退けるわけではないからである。
 同様に、義しき者は彼らが蒙る不正を、忍耐強く忍びつつ、その敵を救いの道に導き返すことを喜びとし、彼らの滅亡よりは、更生のうちにより大きな喜びを見い出すのである。しかも、彼らがそのかたくなさのあまり、ついに神が彼らに報復を果たされるときには、信仰者はこれを喜びとする正当な理由を持つ。このことを通じて、彼等はその生が、神のみ前で貴重なものであることを、知るに至るからである。

詩編を読む・2017・1.11    詩編57篇

詩篇57篇
1.詩編57篇を読む
(表題から)
 「ミクタム」―意味不詳の表題。(Eerdmans:アッカド語の「おおう」からの派生語と考えられる。「おおう」とは口をおおうことを意味すると解し、この表題を「無言の祈り」と訳することが出来る。)
 「洞窟に」―この詩の背景を述べる言葉。「死とわたしとの間はただの一歩です」(サムエル上20:3)といえる状況にありながらも、サムエル上24:1―15や26章に見られるように、自分を追う者から身を守るだけではなく、追う者の身を配慮し、なおかつ神への信仰を謙遜に守るダビデの姿が、「洞窟」の一言に込められている。
 2節 「アドラムの洞窟に難を避け」(サムエル22:1)、「エン・ゲディの要害にとどまった」(サムエル上24:1)ダビデにとっては、洞窟は実際に敵からの「避けどころ」であった。しかし、ダビデが「避けどころ」というとき、彼はそれを超えるものを見ていた。
 岩はそれ自体堅固なものであっても、容易に砦にもなれば、罠にもなる(サムエル上23:25以下)。しかし、「翼」によって象徴される生きた守りは、失敗することはない。
 参照:61:5「あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます。」
    ルツ2:12「主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに十分に報いてくださるように。」 以下に続く出来事。
    マタイ23:37「…めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。…」
 わたしたちが、どのような歩みをする時にも、「神の御翼」のもとにあることを感謝
したい。
 災いの中にありながらも、ダビデは目を高くあげる。3節「いと高き方を呼びます 
わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。」意気消沈のままにあるのではない、
その中から、感謝と期待に満ちた確信への転換を十分に語っている句である。わたし
たちも、「どのような時にも自分の体とこの世の生活のために労すると同様に、わたし
たちの目を常に高くあげ、神がその子らに約束してくださる天にある命に目を向けさ
せてください」と、目を高くあげる祈りを日ごとささげる歩みを大切にしたい。
 いと高き神は、わたしを救ってくださる(4節)というだけではなく、すべてにまさっ
て重要な方であることが6節でうたわれる。すなわち、ダビデは、自分にとって緊急
の利害関係から目を離して、最重要事を見上げる。神は崇められるべきであるという
ことである。6節「神よ、天の上に高くいまし 栄光を全地に輝かせてください。」危
機の中でまさに「御名が崇められますように」という祈り、それ自体が勝利である(参
照:ヨハネ12:27、28)。そしてそれは敵に対する武器でもあった。(参考 最大の敵と
は誰か エフェソ6:11,12)
 おそらくは、6節の神を中心とする祈りがなければ、戦いは7a節「わたしの魂は屈
み込んでいました」とうたうように、ダビデの敗北であった。しかし、この祈りの中で
状況は逆転しているのである。悪は相手を裁こうとしていた、まさにその裁きを自ら
の上にもたらす。7b節「わたしの前に落とし穴を掘りましたが その中に落ち込んだ
のは彼ら自身でした。」
 8-11節は勝利の賛歌である。7a節「わたしの魂は屈み込んでいました」と8a節「わ
たしは心を確かにします」の対比は明瞭。
 ダビデのように厳しい苦境に置かれた場合、ほとんどの人は、洞窟に退避して敵が
退散すれば、それだけで満足する。そのこと覚えておかないと、この10節の祈りの歌
をうたうダビデの思いの広がりを見過ごしてしまう。ダビデの思いは、すでに11節「天
に」高く上がっており、そしてダビデの主は一地域だけを支配しているのではない。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして あなたに賛美の歌をうたいます。」  関連 コリント一15:58「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにとしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ) 
 1節「ああ神よ、わたしを憐れんでください。わたしを憐れんでください。わたしの魂は、あなたに寄りすがるからです。悪意の過ぎ去るまで、わたしはあなたの翼の陰を頼みとします。」  この反復されている祈りは、ダビデが大きな悲しみと、恐れと、不安にとらえられていたことを示す。しかし、ダビデが神に憐れみを乞いもとめる仕方に注目しなければならない。すなわち、彼は神の内に望みを置いているのである。
…  ダビデがその望みを神のうちに固くおき「翼の陰」のもとに憩うと言うとき、それなりの背景があってのことである。悪意が大波や旋風のように通り過ぎるからである。ダビデは、苦難の嵐が通り過ぎるまで、神の内に逃れ場を持ち、神の翼が彼を覆う役に立つであろう、と言うのである。確かに、快晴の美しい日に、庇護を喜びとすることが、われわれに許されているとしても、われわれの生は、日ごとに突然の嵐にさらされているので、われわれの望みを神のうちに置くことが、どうしても必要である。

詩編を読む・2017・1.4    詩編56篇

詩篇56篇
1.詩編56篇を読む
 この詩編で言及されている史実は、サムエル記上21章に記されている。ダビデは、どの隠れ家からも安全と憩いを得られないと知り、ついにガトのアキシュ王のもとに逃れざるを得なくなった。こともあろうにペリシテの代表的な町であり、ゴリアテの故郷である。この詩編では、ダビデはその途上で捕らえられた、と言われている。ダビデがガトに行くほかなかったということに、民からはどのような立場に自分がおかれていると考えていたのか、そのダビデの判断が示されている。そして、その逃亡はうまくいかず、彼は二重に包囲されたのである。この時、まだサムエル記上22:2に記されている四百人は集まってはおらず、ダビデに従う者はごく少数であった。
 この危機的な状況から二つの詩編が生まれた。この詩と34篇である。
 2,3節では、敵たちがダビデを囲んで迫りつつあるが、ダビデはどれほど危険が彼を悩ましても、望みをいだくことをやめなかった。4節「恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます。」彼は恐れの中でたじろがないでいることを誇っているのではない。自分は恐れたと告白しつつ、神の恵みを待ち望むことによって、常に耐え忍んだのである。わたしたちもまた、いろんな恐れや動揺を覚えるとき、それは信仰に対する試練と知って神の恵みを待ち望みたい。ダビデが、恐れつつも主により頼むことを決してやめなかった、困惑しながらも勇気を奮い起こした、その中に信仰の真実な証拠がある。
 6節の前半は、注解者によっていろいろと解釈されている。「わたしの言葉」という語を主格にとるか、あるいはこの語をダビデの敵と結びつけて「彼らはわたしの言葉をあげつらう」とか「わたしの言葉によって、わたしをひどく悲しませる」とする。日本語の訳に違いのある背景でもある。カルヴァンは前者にとり、「すべてが彼に敵対している中で、彼の考えることもただ苦悩に終わるだけだと嘆いている」と注解する。すなわち、信仰によって打ち勝ったとはいえ、彼の内外は不安や恐れから自由だったわけではなく、それが苦痛となり悲しんでいたのである。
 ところで、9節の「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えさせてください」の聖句は、暗唱している方もあるくらいよく知られ親しまれている。人生においてずいぶんと涙が流されるが、悲惨なことは流す涙が誰にも受けとめられないことといえる。ところが驚くことに「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えさせてください」というのである。わたしたちの流す涙を、神だけはしっかりと受けとめて、神様の革袋に蓄えているというのである。印象的で強烈な表現。涙のもといを知っておられる方が、わたしたちのことをどこまでも配慮しておられるのである。(参考:マタイ10:29,30)
 結びの13,14節は、信仰に生きる者の喜びである。多くの苦しみに囲まれたダビデは、その中でなお喜びに生き、祈りが聞かれることを祝い、逆境の時に誓った約束を守る、と歌う。(参考:コリント二6:10、ペトロ一4:13)

2.関連する新約聖書の聖句
 5節「…神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が わたしに何をなしえましょう。」  引用 ヘブライ13:6「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるでしょう。」
 10節「神を呼べば、敵は必ず退き 神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。」  参考 ローマ8:31「…もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ) 
 9節「わたしが叫び求める日に、わたしの敵は逃げ退くでしょう。わたしは神が、わたしと共におられることを知っています。」  ダビデは、心軽やかに、その勝利を誇りとする。あたかも事柄がすでに、彼の目の前に現臨するかのように、敵が逃げ退く時と所とに言及する。彼らの滅亡が間近く迫っていることを、未だ目にはしないとしても、神の約束によって、自らを固くし、神の裁きの時期をこのように示すことができた。そして彼はそれを忍耐強く待ち望むのである。
 要約すれば、たとえ神がダビデの祈りによってすぐに敵を打ち破ることはないとしても、この聖なる人物ダビデは、自分の祈りが決して空しくない、という確信を捨てないのである。ダビデは、敵がいかにして、いかなる方法で、打ち破られ逃走するかを明白に断言する。神のしもべが、神に向かって捧げる祈りと願いごとにおいては、失望することを決して許されないからである。このことが彼の心の奥深くに、しかと、生き生きと印刻されていた。その信仰のゆえに、彼は、その願いを保ち続け、心やすらかにその達せられることを待ち望むのである。
 ダビデの信仰から学びたい。彼は、その願い求めることを獲得するために、口から出るにまかせて、そして疑いつつ祈るのではなく、神は祈りを聞き届けてくださる、という固い確信を持っている、と言う。このような信仰を持っているので、彼は完全として悪魔や邪悪な者に向かい戦うことができるのである。
 参考:マタイ21:22「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
  ヨハネ14:14「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
  綱要Ⅲ-2-2「信仰とは単に神を知ることではなく、神の意志を知ることである。」
 訳文:新改訳9節(新共同訳10)「神がわたしの味方であることをわたしは知っています。」

詩編を読む・2016.12.28    詩編55篇

詩篇55篇
1.詩編55篇を読む
5節「死の恐怖に襲われています」の叫びに見られるように、この詩編は、通常の経験のための書であるだけではなく、極端な経験のための書でもある。
錯乱しそうな状態に追いやられた人は、ここに苦しむ仲間を見つける。また、ある人は、自分も「一緒に捕らわれているつもり」(ヘブライ13:3)で、執り成しへの手引きを見いだし、祈ることができるようになる。
 さらに、13-15節、21-22節からは、キリストの苦難についての洞察へと導かれる。そして、ダビデには正しい裁きを訴える十分な理由があったのであるが、同じような状況の中で、自制して贖いの態度を貫かれたキリストへの思いへと導かれる。
 2節の「わたしから隠れないでください」との祈りの声は切実である。この表現は、申命記22:1―4(p314)に繰り返し出ている表現(新共同訳では「見ない振りをする」と訳されている言葉で「あなた自身を隠す」との意)と同じであることを考えると、ダビデの懇願がどれほど神への憐れみと、神の一貫性とに訴えているのかを知らされる。申命記22:1―4の律法では、自分にとってどんなに不都合であったとしても、隣人の苦境を無視することは禁じられているからである。
 6節「恐れとわななきが湧き起こり 戦慄がわたしを覆い」、おそらくは逃げたいという衝動を覚えたのであろう。7節で「鳩の翼がわたしにあれば」とうたう。
このような衝動を、聖書は信仰の人について記している。イゼベルに命をねらわれていると知ったエリヤは、恐れて逃げたのであり(列王記上19:3以下)、エレミヤの場合は、堕落したユダの痛みを覚えながら、「わたしはこれに耐えよう」と抵抗した(エレミヤ9:2,10:19)。信仰の巨人ともいうべき人たちの中に、このような衝動を感じた者がいることを知ることは、わたしたちにとっての慰めであり、励ましとなる。
 13-15節 ダビデの敵となり、尊大にふるまう者とは誰か。ダビデの人間関係についてわたしたちの知識は限られている。その中で、息子アブサロムであるのか、ダビデの顧問であるアヒトフェルであるかなどと、敵となった者・裏切り者を特定しようとしても益はない。重要なのは、描写されている内容である。14節「それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲」の者である。(「わたしと同じ人間」という語は、フランシスコ会訳では「同僚」と訳しているが、「わたしと同類の者」「わたしにかなう者」が原意に近い。)
 しかし、この箇所でダビデが図らずも描いたものは、彼自身が最も信頼できる「わたしにかなう者」である友人の一人ウリヤ(サムエル下23:39)にした裏切りの本質でもある。その故に、ダビデの心には背きの罪が深く刻まれているといえる(詩編51篇)。
 23節は、ハイデルベルク信仰問答28を合わせて読みたい。この慰めに満ちた有名な23節をわたしたちの世界に残すために、ダビデの苦難はそれに見合った代価ではなかっただろうか。ダビデは気付かなかっても、わたしたちにはしっかりと認識できる。

2.関連する新約聖書の聖句
 18節「夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる。」  参考 使徒3:1「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。」  使徒10:3(関連10:30)「ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。」  使徒10:9「翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の12時ごろである。」  (関連:ダニエル6:11)
 21節「彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。」  使徒12:1「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ) 
 6,7節「わたしは言いました。『だれが鳩のように、わたしに翼を与えるだろうか、わたしは飛び立って、憩いを得るであろう。わたしは遠く逃れ、砂漠に憩うであろう』」  (悲惨を嘆くダビデは)まるで鳩のように、荒れた砂漠へ飛んで、どこかその一隅に身を隠したい、というのである。続いてダビデの言うことは、人々が彼に逃れることさえ許さず、その状態は無に等しい一羽の小鳥よりもいっそう惨めだ、ということである。この譬えの要点は、物おじし、弱い鳥である鳩が、鷹から逃げ出すように、ダビデもその敵の暴虐を逃れることができるように願っている、ということである。ダビデがどのような困惑と窮境のうちにあったかを、推察することができる。
 10節「主よ、彼らの舌を毀ち、裂いてください、…」  ダビデはここで勇気を取り戻し、再び神に祈りを捧げようとする。事実、このことを抜きにしては、何の益も得ることなしに嘆き続けることは、愚かであったろう。世俗の人々は嘆きさえすれば軽減が得られると考えるので、荷が軽くならないと、いっそう苦しみ悩む。
 16a「死が彼らを捕らえるに至るように、…」  ダビデがこのような呪いを敵に向けて発するとき、それは思慮のないよこしまな情念から押し出されたのではなく、それは神および、彼を導いていた神の霊によるのである。それは無思慮な軽率な情熱、あるいは怒りから生じた願望では決してない。…彼は純粋で正しく制御された熱意から、永遠の滅びに定められた者に対し、神の正しい報復を求めているのである。わたしがこのことを言うのは、だれかがダビデの実例をよいことにして、気に障ったり、侮辱されたりするや否や、直ちに呪いや悪口を吐き出すことが許されている、と考えたりしないためである。

詩編を読む・2016.12.21    詩編54篇

詩篇54篇
1.詩編54篇を読む
この詩編は、52篇での試練に続く経験から生まれた。それは、サムエル上23に記されている経験である。「サウルは絶え間なくダビデをねらった」(サムエル上23:14)。ダビデがジフの荒れ野のホレシャにとどまっていたとき、ジフの人々がサウルのところに来て「ダビデはわれわれのもとに隠れている」と告げて、サウロ王を先導し、ジフに向かった。ジフというのは、死海の西側の荒れ野にある村のことである。その村の住民がジフ人である。自分たちのところにいるダビデを裏切って、ダビデを迫害するサウル王に密告し彼を引き渡すと言ったのである。(このことからアウグスティヌスは説教しているが、その一部を“アウグスティヌスの言葉より”に記した。)
裏切りを経験する中で、「神よ、御名によって…」(3節)と御名に訴え、「わたしの正しいことを示してください」(ESV。新共同訳「わたしを裁いてください」)と切に祈る。ダビデを裏切った者たちは、ことの成り行きを見て都合の良い方につこうとする日和見主義者と言える。これに対し、ダビデの方は、「正しいことを示してください」と正義を求めている。
7節.敵する者にどのように報いるのか、ということについては、この問題を「あなたのまことに従って」と言って神に委ねていることに注目したい。このことはローマ12:19の「神の怒りに任せなさい」とよく一致している。
8節の“進んでささげるいけにえ”について教えられるのは、神に助けを願う祈りには、何の誓約も含まれていなかったことである。つまり、「これをしてくだされば、これこれをささげます」と言ったことは事実上なかった。感謝といけにえは喜んで自発的に行うものである。
50篇と51篇では、いけにえそのものについては価値がないと指摘されているが(50:8、51:18,19)、正しくささげられる場合には、神は、贖いを通して神に近寄らせ、祝宴を開いて、人々を祝福された(申命記12:6,7)。
ダビデは、苦悩の祈り(3-5節)を思い返し、そこから神の助けと神への義についての信仰(6-7節)に導かれていることを深く感謝している(8-9節)のである。この詩編のように、わたしたちもまた、絶望に近い状態から、神への信頼とそこから来る真の自由へ、感謝をもって歩む者とされる。

2.関連する新約聖書の聖句
 8節「主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ 恵み深いあなたの御名に感謝します。」  参考 ヘブライ11:4「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。」 (主イエスにみられる自ら進んでのいけにえ:ペトロ一2:24)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ) 
 8節「わたしは進んであなたに犠牲をささげましょう。主よ、わたしはあなたの御名をほめたたえます。それは良いことだからです。」  いつものようにダビデは、自分が救い出されたとき、神の恵みを決して忘れることなく、これを感謝すると約束する。…彼は、犠牲をささげることによって、神から受けた恵みをけっして忘れない、ということをあかしするのである。そしてそれは、自分の実例を通じて、他の人々をも奨励するためであった。さらに、彼はこれを、「進んで」なすであろう、と言う。感謝の犠牲をささげることが、各自の自発性に委ねられていたからだけではなくて、すでに危険から救い出されていたゆえに、進んで、大きな勇気をもって誓いを立てるのである。われわれの知る通り、人類の大部分は何か窮地に陥っていると気づいたときには、惜しげもなく神への従順を約束するが、いったんその窮地を逃れ出るやいなや、直ちにその本性に戻り、神の恵みを忘れ去るものである。それゆえに、ダビデは、単に奴隷的に、強いられて神に従うといった偽善に組することなく、自発的に神に従うと語る。
 それだから、われわれが神の御前に立ち出るときはいつでも、もしわれわれの礼拝が神に喜ばれるものであることを願うなら、混じりけのない自発的な心をもつように、ここから学ぼうではないか。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より(説教の一部から)
ジフ人のダビデに対する裏切りは、ジフ人には何ら益することはなかったし、ダビデ自身に何らの害をも与えなかった。なぜなら、この裏切りによってジフ人の心が悪意に満ちていることが明らかにされたからであり、ジフ人がダビデを裏切って居場所をサウルに密告した後でも、サウルはダビデを捕らえられなかったからである。かえってサウルはかの地(エン・ゲディ)のとある洞窟の中でダビデの手に渡され殺されるべきであったが、ダビデは彼を赦し、自分が手にしていた権能を行使して殺すことはしなかった(サムエル上24:4-8)。これに反してサウルは自分にはなかった権能を行使してダビデを殺そうと捜していたのである。従って、ジフ人は、じぶんたちがどのような人間であったかが分かるであろう。
そこでわたしたちは、詩編がジフ人の出来事からわたしたちに理解するように促す人々を考察しようではないか。ジフ人の語が何と翻訳されるかと問うなら、「花盛りの人」と訳したい。ダビデはコロサイ3:3-4に示され、ジフ人の栄光はイザヤ40:6-8に示されている。その末路はどうか。「草は枯れ、花はしぼんだ」とある。そのときダビデはどこにいるであろうか。どう続くかを見よ「だが、主の言葉は永遠にとどまる」。

詩編を読む・2016.12.14    詩編53篇

詩篇53篇
1.詩編53篇を読む
この詩編は、1節の表題と6節の後半、及び「主」に代わって「神」が用いられている点を除けば14篇とほぼ同じである。従って、53編の講解的説明については「詩編14篇を読む」の項にゆずり、ここでは、14篇との相違から53篇で語られていることについて考えることとする。
表題の「マハラトに合わせて」について(14篇にはこの表題はない)。


「マハラト」は創世記28:9と歴代下11:18では、人名(エサウの妻、レハブアム王の妻の一人)としても用いられているが、ここでは曲の名称と考えられている。原語の意味は「病気」。詩編では「へりくだらせる、苦しめる」の意味であるレアノトという語が添えられ88篇にも出てくる。このマハラトという語が53篇に添えられることによって、一つの詩が、違った状況下の異なる必要のもとに、相違ある意味を持って扱われていることが示されている。(例えば、侵略や包囲などの危機的状況下)
その相違点は、53:5と14:5,6の対置に明らかである。

二つのテキストの対置


侵略者(民に敵対する者)に対して53篇では神の裁きに焦点が当てられ、民に対しては14節で「神の慰め」に焦点が当てられている。
53:5 敵対する者に対する神の裁きが鮮明(それは「マハラト」としての苦しみ)
14:5,6 主のもとにある「正しい人」を、その敵対する者の支配から救いに入れる神の慰めに焦点。
このことを理解するとき、14篇では神がその民に約束されたことは必ず果たされる「契約の名」である「主」(ヤハウェ)の名で表わされ、53篇では強く力ある方である「神」(エロヒーム)の名で表されていることに意味を見いだすのである。(42~83篇をエロヒーム詩集と呼び、ある信仰者のグループは神をこの名で呼んでいた、との説もある) *「マハラト」を、アウグスティヌスはキリストとの関係で説明(後述)。
2.関連する新約聖書の聖句
 2-4節「神を知らぬ者は心に言う『神などないと』。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。…」  引用 ローマ3:10-12「…正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、誰もかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ) ― 注解はなされていない。

〔参考〕  アウグスティヌスの言葉より(説教の一部から)
 この詩編の表題、「マハラトのために」というのは、…「生みの苦しみをする人のために」ないし「苦痛にあえぐ人のために」と言っているように思われる。
 さて、信仰のある人たちは、誰がこの世の中で生みの苦しみをするか、誰が苦痛にあえぐかに気づく。…キリストはこの世で生みの苦しみをし、苦痛にあえいでいる。頭を天井に上げ、肢体をこの世に下げて。まことに、生みの苦しみをせず、苦痛にあえがなかったら、彼は「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」とは言わなかった。
 キリストはサウロの迫害を受けて産みの苦しみをし、パウロには回心するための産みの苦しみをさせた。なぜなら、サウロもその後照明を受けて、自分が迫害していた者たちと一体となり、彼らと同じ愛をはらんで、「わたしの子供たちよ、キリストがあなたがたのうちに形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたたちを産もうと苦しんでいる」(ガラテア4:19)と言ったからである。それゆえ、この詩編は、キリストの肢体のために、一人ひとり、教会という「キリストの体」のために、即ちその頭が天井に向けられている一性それ自身(コロ1:24)のために歌われている。
 しかし、この人は嘆息し、産みの苦しみを味わい、苦痛にあえぐ。この人は、自らの頭(キリスト)が「不法にはびこり、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイ24:12)と言ったのを聞いて、理解しなかったならば、なぜ、人々の間で嘆息し、産みの苦しみを味わい、苦痛にあえぐだろうか。しかし、もし「不法にはびこり、多くの人の愛が冷える」ならば、産みの苦しみを味わうために残るのはどのような者なのか。聖書はこう続く。「しかし、最後まで耐え忍んだ人は救われるであろう」(同24:13)。苦労、試練、不安、誹謗の中で耐え忍ばれるべきでないならば、いったいどこから忍耐の大きな価値が出てくるだろうか。幸福な境遇に耐えよとは誰も命じられていないからである。 
しかし、この詩編では、忍耐があの人のために語られ、あの人のためにうたわれるがゆえに、わたしたちは忍耐が何であるかを考えてみよう。…わたしたちを自分たちの間において産みの苦しみを味わわせ苦痛にあえがせる人々は、いかなる人か。もし、わたしたちがキリストの体の中にあるなら、つまりその頭(キリスト)の下に生き、その方の肢体に数えられているならば、彼らはいかなる者か聞くがよい。

詩編を読む・2016.12.7    詩編52篇

詩篇52篇
1.詩編52篇を読む
 表題が記すように、この詩編はダビデのもっとも苦い経験の一つと結びついている。サウルから逃げていたとき、ダビデは祭司アヒメレクを説得して、食物を少しもらった(サムエル上21)。そして今、アヒメレクは王に訴えられ、祭司らと彼の村の全住民は虐殺された。告げ口をしたのはエドム人ドエグであり、殺害を実行したのは彼であった(サムエル上21:8、22:9-19)。
 このことについてダビデは二度発言している。一つは、難を免れたアヒメレクの子アビアタルに対する、「わたしがあなたの父上の家の者すべての命を奪わせてしまったのだ。わたしのもとにとどまっていなさい。…わたしのもとにいれば、あなたは安全だ。」(サムエル上22:22-23)
そして二度目がこの詩編である。ダビデはまずドエグがどのような人物なのかを考える。ドエグは中傷と策略で経歴を築き上げる人である。しかし、そのような性向がつかの間であることについても考える。そして、最後に神への信頼を新たにするのである。ダビデがアビアタルに力になると約束したように、神は確かに御自身の者たちの力になってくださる方である。
3節 「誇る」ということ ― (参考:エレミヤ9:22)「誇る」は、外部に見せることとは限らない。むしろ、実質は本人の自己満足である。
その人は、自分を賢い者と考え、策略に夢中で、悪に専念しているのである。5,6節「お前は…好み…好む」と繰り返されているが、まさに引きつけられていると同時に自分で選択していることをあらわしている。
表題から見てサムエル記上(22:8)を読み、ドエグのアヒメレクに対する中傷は、サウル王に取りいるには絶好のタイミングでなされたことが分かる。王は自分の側に立つ家臣は一人もいないと思っていたからである。
7節からは、使われている動詞を見るだけでも神による処罰のすさまじさが伝わってくる。「打ち倒し」「滅ぼし」「天幕から引き抜き」「根こぎにされる」。しかし、邪悪な者はそれに対して何も答えることはできない。 参考:詩編49:13-15「人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。 これが自分の力に頼る者の道 自分の口の言葉に満足する者の行く末、陰府に置かれた羊の群れ 死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き 誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。」
10節 オリーブは常緑高木で長生の樹木と言われる。この10節の表現からは、樹液あふれ、神殿の中庭に育つオリーブが想像される。そこに入って荒らす者はなく、まして「根こぎにされる」7節 こともない。
 ダビデがより頼む対象とドエグがより頼む対象を考えてみよう。それは、光の子らでさえも、キリストから目をそらして、ときとしてエドム人に目を向けることがあるからである。彼らが幸福であるのを見るとき、お前が神に仕えることが何の役に立つのか、と悪魔はささやきかけるからである。
しかし、ダビデがより頼むのは10節「神の慈しみ」であり、ドエグがより頼むのは「富と自分の力」である。このことをはっきりと心にとめておきたい。そこには雲泥の差がある。一方は手で触れることができてもつかの間、もう一方は目に見えないけれども「世々限りなく」10節 続く。
 
2.関連する新約聖書の聖句
 5節「お前は善よりも悪を 正しい言葉よりもうそを好み」  参考 ローマ3:4「…人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。…」
 10節「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」  参考 ローマ11:17「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからと言って、」  参考 黙示録3:12a「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 サウル王によって羊飼いらの長に任ぜられていたドエグは、邪悪な知らせによって王の愛顧を得ようとして、無実の人間(ダビデ)に対してのみならず、すべての司祭たちに愛するこの暴君の怒りをいっそう駆り立てることになった。…ドエグはその邪悪さのうちに思い上がって、人並み外れて傲慢となり、彼が裏切りによって手にした代価は、他の人々に勇気を与え、相競ってダビデを滅ぼそうとする刺激となったので、ダビデは真実な心という慰めによって自らを高め、このように悪逆で邪曲な厚かましさを、ここで退けている。
 10節「しかし、わたしについては、神の家にあって緑なすオリーブのようでしょう。わたしは世々限りなく、神の寛慈に信頼を置きます。」 ダビデは自分が「緑なすオリーブ」のようである理由を付け加える。それはすなわち、彼が「神の寛慈に望みを置く」からである。わたしはここに、「なぜならば」という小辞を補いたい。たとえ、彼の敵が青々と茂り、その枝を遠く広げようとも、また思い高ぶって傲慢になろうとも、その根は枯れ果てる。神の寛慈のうちに植えられていないからである。その一方、彼自身は潤いと活力において決して欠けることはない。その望みを神の中に確かにおいているからである。

詩編を読む・2016.11.30    詩編51篇

詩篇51篇
1.詩編51篇を読む
 「悔い改めの詩編」と言われる7篇(6,32,38,51,102,130,143)の中でも代表的な詩
である。サムエル記下11,12章で語られるダビデの罪と悔い改めの出来事の中で、彼
が自己を深く認識した暗い瞬間から生まれたものである。 
 19節に「打ち砕かれ悔いる心」とあるように、この詩は徹底的に砕かれた魂の告白
である。単なる懺悔ではない。悔いるだけではなく、砕かれた魂は悔い改める。悔い改
めとは造りかえられることであり、それは神から来るものである。そして、それは12-
14節にうたわれているように、「清い心を創造し」、「御救いの喜び」をもたらす。
   参考:コリント二7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらす。」
 ダビデの罪は将軍ウリヤを殺した罪につきないで、その背後に立っておられる神に
対する反逆であった。
 5節「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に
置かれています。」ダビデは、自分の犯罪は神に対するものであると気付いている。し
かし、そのことを正面から受けとめるという精神状況には耐え難く、ただ神の御前に
ひれ伏す。 6節「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し…ました」ということは、
姦淫や殺人はほとんど私的な悪行ではないという言い逃れを招くようなものではなく、
事柄の核心へと向かう表現である。罪は自分自身に対するもの(コリント一6:18)も
あれば隣人に対するものもある。しかし、昔ヨセフが知っていたように(創世記39:9)、
罪の全体にわたって常に神への嘲り、神への罪がある。(わたしたちの体はわたしたち
自身のものではないし、隣人は神の形に造られた存在であることを心にとめたい。)
 ダビデの罪とは神に対するものであるという視点は、新たな自己認識をもたらす。
人間の根本にメスが入るのである。「わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを
身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。」51篇がもっとも徹底した罪
の告白であるゆえんは、7節があるからといえる。(この聖句は、ハイデルベルク信仰
問答、問7でも引用)。ただ悪いことをしたから申し訳ないというのではない。人間が
生まれたそのことに遡って罪が告白されているのである。
 16節犯した罪の大きさに、ダビデは恐れを抱き続ける。彼の重荷となっていたのは
罪責である。そのダビデが17節「わたしの唇を開いてください」と祈る。この祈りは
単なる決まり文句ではなく、良心に恥じて口をつぐんでいた者の叫びといえる。彼は、
再び自由に、喜んで礼拝したいと熱望している。そして、神の恵みによってそうなると
信じている。そのような真心からのへりくだった嘆願が、礼拝者を罪の告白から「あな
たの賛美を歌います」との賛美に導くのである。
2.関連する新約聖書の聖句
 3節「深い御憐みをもって 背きの罪をぬぐってください。」  参考 使徒3:19「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」  コロサイ2:14「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」
 4節「わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください」  参考 使徒22:16「…その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」  ヘブライ9:14「まして、永遠の“霊”によって、ご自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」  1ヨハネ1:7「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」
6節a 「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。」  ルカ15:18,21「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」
6節b「あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。」  引用 ローマ3:4「…人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。」
12節「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を与えてください。」  参考 エフェソ4:23「(滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て)心の底から新たにされて、(24節.神にかたどって造られた新しい人を身につけ、…)」  マタイ5:8「心の清い人々は幸である、その人たちは神を見る。」  使徒15:9「彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいませんでした。」
13節「…あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」  参考 ローマ8:9「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」  エフェソ4:30「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」
15節「わたしはあなたの道を教えます あなたに背いている者に 罪人が御もとに立ち帰るように。」  参考 ルカ22:32「しかし、わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 
3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ) ― 略

詩編を読む・2016.11.23    詩編50篇

詩篇50篇
1.詩編50篇を読む
 力強い神顕現の言葉で始まる。「神々の神、主」はエル・エロヒーム・ヤハウェであ
る。これは、神を意味する一般的な言葉二つを主の民に啓示された特別な名称と共に
並べたもの(口語:全能者なる神、主  ESV:The Mighty One、God the Lord)。
「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく  神を知ることであって 焼
き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)は、主イエスも語られた言葉(マタイ9:13)
であり、キリスト者にはよく知られている。50篇で問われているのは、まさに、契約
の民の「まことの愛」と「神を知ること」と言える。民を裁くために火と嵐を伴って神
が自らを現わされて、このことを問うのである。天と地とが証人となる(1,4節 参考:
申命記30:19「わたしは今日、天と地とをあなたたちに対する証人として呼び出し、生
と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命
を得るように…」)。
神の民にとってのさばきは、民が命を得るためである。そしてその裁きは、「神の家
から始ま」らなければならないのである(ペトロ一4:17)。
 5節の「慈しみに生きる者(聖徒)」「いけにえ」「契約」の表現に見られる通り、主の民の特別な召しを神は軽視されていない。それにもかかわらず、いやむしろそのことのゆえに、主の民は厳しく責任が問われる(参考:アモス3:2、ルカ12:48)。 
 神は二つの集団に語りかける。7-15節「わたしの民7節」と、16-21節「背く者16節」すなわち偽善者に対してである。
 7-15節では、「わたしの民」つまり神に向かって生きようとする人々への率直な言葉
が記されている。このところで裁きが描かれているのは、判決を下すためではなく、真
理を明るみに出して罪人を悔い改めさせるためである。献げ物など儀式のことに関心
があっても、神との関係はどうなっているのか、逆境での祈りと約束が忘れられてい
たのではないか、と言ったことを取り上げながら、この方が求めておられるのは(14
節)感謝と信頼という温かい応答である。神は見せびらかしではなく、愛を求めておら
れるのである。
 16-21節で取り上げているのは、異教徒ではなく名ばかりのかたくなな民(名ばかり
のキリスト者)である。彼らの生活ぶりが、十戒の後半を試金石として描かれている。
彼らは、16節「わたしの掟を片端から唱え、わたしの契約を口にする」のであるが、
その実態は17節以下に見るように、御言葉を軽んずるにとどまらずこれを憎み、口で
は唱えている十戒のうちの三つについてみても、18-20節に書かれているように、罪を
楽しむといった偽善に浸っているのである。
 エレミヤ31:31~が語るように、主の新しい契約は心にしっかりと結ぶものであっ
て、口にのせるだけのものであってはならない。
 22,23節では、上記の二つの集団が逆の順序で語りかけられる。神を忘れる者は、
神の裁きに抵抗することはできない。 神は、感謝をいけにえとして献げる人(参
考:ヘブライ13:15)道を正す人へとわたしたちを招いておられるのである。
<14,15節の訳>新改訳
 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。悩みの日に
わたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。

2.関連する新約聖書の聖句
 11節「山々の鳥をわたしはすべて知っている。獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。」  参考 マタイ10:29「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」
 14節「告白を神へのいけにえとしてささげ いと高き神に満願の捧げ物をせよ。」 
 参考 ヘブライ13:15「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、即ち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に捧げましょう。」  ローマ12:1「…自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
 17節「お前はわたしの諭を憎み わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。」  参考 ローマ2:21,22「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。」 
 19節「悪事は口に親しみ 欺きが舌を御している。」  参考 ローマ1:32「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」  テモテ一5:22「性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)社会の中には常に、単におざなりな、また外面的な儀式によってだけ神を礼拝
する偽善者が満ちており、またユダヤ人の中には律法の形姿にとどまって、内実を投
げ捨て、あたかも神は犠牲や儀式からしか求められないかのように考える人が多いの
で、預言者はその愚かな誤謬を叱責し、宗教を外面的な儀式の中に求めることは、神の
御名を邪悪にも冒涜するにほかならない、と厳しく断罪する。
 また預言者は、神は霊をもって拝すべきであり、礼拝の主要部分は、神を呼び求め奉
り、感謝をささげることであることを告げる。

詩編を読む・2016.11.16    詩編49篇

詩篇49篇
1.詩編49篇を読む
 2-5節は、この詩編の導入部である。詩人は、神と特別な契約で結ばれた主の民にだけ語りかけているのではない。「人の子らすべて」*(3節)、即ち人類への呼びかけである。すべてのものに神からの啓示を伝え、「耳を傾け」(2,5節)させようとしている。人が先ず求めるべきは、人間の知恵ではなく、神の啓示である。
  *「人の子」はアーダーム(全体的な用語)とイーシュ(個別的な用語)を使っており、「人類すべて、生きている一人ひとり」(NEB)を言い表わす。口語訳:低きも高きも、 新改訳:低い者も尊い者も
 詩人は、自分の人生の状況(「災いのふりかかる日 わたしを…」)から、大昔から繰り返されてきた人類の問題を6-7節で取り上げて語る。彼は、自分に暴虐を振るう悪意ある者らに囲まれている。彼らは「財宝を頼みとし、富の力を誇る」この世の成功者である。このような時、人は自分の乏しさを痛切に感じたり、恐れの感情に襲われたりするのではないだろうか。
 詩人は、こうした状況を、現実に身を任せ放置することによってではなく、格言に耳を傾けることによって克服する。聖書の格言に耳を傾けるとは、どういうことだろうか。それは、物事を永遠の光の内におき、まことの価値を知る者とされることである。
8-11節で、彼は、人間の富と力の価値からまことの価値へと目を向ける。
 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。/神に身代金を払うことはできない。/魂を贖う値は高く とこしえに払い終えることはない。/人は永遠に生きようか。/墓穴を見ずにすむであろうか。
 ここには、人間が超えることのできない罪の解決の問題、死の問題、人生の意味、神との出会いの問題が取り上げられている。
13節「人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。(「とどまる」と訳されている語の一般的な意味は“一夜の宿”。一夜の宿さえ、金や地位で買うことはできない)13節までの強調点は傲慢な者たちの死に行く定めに置かれている。14節からは、現世的な人と神の人との区別が浮かびあがってくる。すべての人に共通の死を前にして、最終的に助けを失う者と最終的に勝利するものとの対比である。すなわち、滅びと救いの対比である。
 神は、8節のように身代金を要求するのではなく、ご自身で払ってくださる(16節)。
この16節の表現は、旧約聖書における希望の最高峰の一つと言われる。まさしくキリストを指し示しているのである。
 13節と21節の繰り返し句の間には、15b-16節の大いなる約束が入っているが、人々の運命の間の大きな淵もある。そして、自分の力に頼る者の終わりが永遠に光のない陰鬱で結ばれている。詩人は、このことを明らかにすることによって、「諸国の民」(生きている一人ひとり)が、「聞」いて(2節)、「悟り」(3節英知)を得ることを呼びかけるのである。悟りによって、わたしたちは命へと導かれる。

2.関連する新約聖書の聖句
7節「財宝を頼みとし、富の力に頼る者を。」  参考 マルコ10:24-25「…イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るのは、何と、難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」
8節「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。」  参考  マタイ16:26「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を払えようか。」
14節「これが自分の力に頼る者の道 自分の口の言葉に満足する者の行く末。」  参考 ルカ12:20「しかし神は、『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』といわれた。」
15節「…朝になれば正しい人がその上を踏んで行き 誇り高かったその人の姿を陰府がむしばむ。」  参考コリント一6:2「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。…」  黙示録2:26「勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。」
18節「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず 名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。」  参考 テモテ一6:7「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持っていくことができないからです。」
19節「命のある間に、その魂が祝福され 幸福を人がたたえても」  参考 ルカ12:19「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
(要旨)悪しき生活を送り、地上の快楽にふけっている人間が、この世では幸福に暮ら
し、かつ栄え、神のまことのしもべらが、不幸によって苦しめられ、悲惨さの内に呻吟
するということは、しばしば起こるので、前者がその幸福に思い上がり、後者が絶望に
陥ることがないように、預言者は、この詩編で、たとえ世俗の人間がその願いのまま
に、あらゆる罪過において富み栄えようとも、彼らはそれだけ神から離れているから
には、彼らが喜びとするような幸福を望むべきではない、と教える。これらは夢のよう
に過ぎ去り、消え失せるからである。正しい人間は、たとえ不名誉な扱いを蒙り、多く
の禍や艱難を忍ばなければならないとしても、しかも神によって守られる。神は彼ら
を最後には救い出されるからである。

詩編を読む・2016.11.9    詩編48篇

詩篇48篇
1.詩編48篇を読む
この詩編に歌われている「神の都」2節は、エルサレムという一つの国の都にとどまるものではない。戦いは全地に関係し、あらゆる期間に及ぶ。とこしえ(15節)に続く大いなる城壁と城郭とを持つ 上にあるエルサレム の輪郭が見えてきている。
この詩編が「シオン賛歌」であるのは、まさに「力ある王(大いなる王)」がシオンを治めておられるからである。主キリストが3節を引用して指摘されておられる通りである(マタイ5:35)。この詩編は、都シオンをイザヤ2:2以下で預言されている「国々が大河のようにそこに向かって」流れてくるときの姿で見ている。
 3節で、シオンが「北の果ての山」と同一視されているが、これはシオンを天のシオン―神を王とする共同体―という観点から取り扱っているからである。「北の果て」とは、イスラエル及びその近隣諸国では、神の王座を言う時の伝統的な表現である。
  イザヤ14:13「かつて、お前は天に上り 王座を神の星よりも高く据え 神々の集
う北の果ての山に坐し…」
 しかし、シオンはまた、まぎれもなく地上にあり、歴史の中に存在している。それは、
13,14節の表現から分かるように、防御設備を必要とする地上の教会であり、神御自身
がその都の要塞となっているのである(9節)。
 13節「ひと巡りして」「塔の数を数え」るのは、城壁の再点検である。ネヘミヤはエ
ルサレムの城壁の工事を終えると、奉献式の時、城壁の上を二つの行列に互いに逆方
向になるように行進させた(ネヘミヤ12:31以下)。キリスト者がこの詩編を歌う時、
ネヘミヤが包囲網の解かれたあと城壁の再点検をしたように、教会の再点検へと心動
かされる」。教会という共同体は、本質としては要塞のようにこわれにくい。だがそれ
でも、羊の群れのように、傷付きやすく無防備なのである。(参照:ヨハネ10:7~)
  エフェソ2:20-22「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ
石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」。
  黙示録21:10以下「この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連て
行き、聖なる都エルサエムが神のもとを離れて、天から降ってくるのを見せ
た。」
 詩編が賛美するのは、神の住まいとしてのシオンであり、シオンそれ自体ではない。

2.関連する新約聖書の聖句
 3節「北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。」  参考 マタイ5:35「…エルサレムに向かって誓ってはならない。そこは大王の都である。」
9節「神はこの都をとこしえに固く立てられる。」  参考 ヘブライ12:22「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、無数の天使たちの集まり、」   (歴史の上のエルサレムは、天のエルサレムを指し示すもの。そして、キリストは天のエルサレムを指すものとして御自身の教会を守られる。ヨハネ一4:4)

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (カルヴァンが詩編を語る時、決して当時の事柄だけを見ているのではなく、詩編を
通してキリストの教会を見、教会とキリスト者に言及していることがしばしばある。
こうした新約との関連を、わたしたちも大切にしておきたい。)
 2節「主は大いにして、われらの神の都、その聖なる山において、大いにほめたたえ
られるべきです。」  預言者は、先ず一般論として、エルサレムの都は、神がこれを
守り・保つことをよしとされたゆえに、幸せであり、繁栄に満ちている、と教える。同じように、預言者は神の教会から、この世のものすべてを区別する。まことに、神が全人類の内から少数の者を取り出し、その父としての愛の内に抱懐されるというのは、測るべからざる恩恵なのである。預言者はここで、教会の保護のうちに示される神の栄光を、ほめたたえているのである。
 預言者は「聖なる山」という言葉で、エルサレムがどのような仕方で「神の都」であ
るのかを論じている。それは神の定めによって、契約の箱がそこに置かれ・据えられたからである。エルサレムの壮麗さによって、神の尊厳の大きさを瞑想することを神が欲せられるとすれば、それは彼らの固有の功績によるのではなく、神の箱が神の定めによって安置された、恵のしるしとされたからである。
14節「…それはあなたが来たるべき世代に語り伝えるためです。」  預言者が、彼の勧めの目的は、この聖なる都の美しさと華麗さとが、後の代までも語り伝えられるためである、と言うとき、この町がついには目に見えなくなる時が来るであろう、ということを。われわれに暗示している。
9節で預言者は、エルサレムはとこしえに建てられる、と言ったが、この14節では、それがどのようなかたちの永続性(とこしえ)であるのかを、われわれに教えている。すなわちそれは、教会の更新の時が来るまで(キリストの来臨)、持続するにすぎないのである。われわれはこの「来たるべき世代」に属する。これらの事柄が語り伝えられるであろう、と言われたのも、われわれのためなのである。…エルサレムを称賛に値するものとしたような外面的な光輝は現在顕著に際立ってはいない。しかし、キリストがこの世に到来されて以降は、教会は霊の賜物をもって、エルサレムに少しも劣らず豊かに、華麗に飾られている。

詩編を読む・2016.11.2    詩編47篇

詩篇47篇
1.詩編47篇を読む
 この詩の中心的な言葉となっているのは、「すべての民」(2節)、「国々」(4節)、「全地」(8節)である。
 王は神である。この王がどういうお方であるかを4,5節ははっきりと述べる。裁きを行い、選ぶ権利を持っておられる方である。その王によって選ばれたヤコブは、征服した土地を得て、神を「いと高き方」*と称号によってだけでなく、主(つまりヤハウェ)という名によって知る特権を喜ぶことができるのである。
*「いと高き方」はカナン人も用いていた用語
  参照:詩編147:19-20「主はヤコブに御言葉を イスラエルに掟と裁きを告げられる。どの国に対しても このように計られたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。」
 5節 なぜヤコブは「主の愛するヤコブ」なのか。その問いへの答えは「神の選び」であり、わたしたちの理解を越えていて、わたしたちには答えようがない。これは、
愛する対象が「ヤコブ」であっても、「わたし」(ガラテヤ2:20)であっても、「教会」
(エフェソ5:25)であっても、「世」(ヨハネ3:16)であっても同じである。
参照:ローマ9:11(新改訳)「神の選びの確かさが、行いにはよらず、召してくださる方による…」
   ガラテヤ2:20「…わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものである。」
   エフェソ5:25「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」
   ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである。」   
その代わり聖書が関心を持つように呼びかけているのは、わたしたちの誤った答
え(申命記7:7)、疑い(マラキ1:2)、裏切り(ホセア11:1-2)である。
  参照:申命記7:7「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」
     マラキ1:2「わたしはあなたたちを愛してきたと 主は言われる。しかし、あなたたちは言う どのように愛を示してくださったのか、と。…」
     ホセア11:1-2「…わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き…」
 6節の場面は、サムエル二6:15で理解できる。7節からの何度も繰り返される「歌え」(「ほめ歌を歌え」の意の一つの単語)は、王を迎える喜びに満ちた情景であり、黙示録19章に見る小羊・キリストにある「勝利の歌」の情景につながる。

2.関連する新約聖書の聖句
 5節「我らのために嗣業を選び …」  参考 ペトロ一1:4「また、あなたがたのために、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」
8節 「…ほめ歌を歌って、告げ知らせよ」  参考 コリント一14:15「では、どうしましょう。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (要旨より) 作者は、ただにイスラエル人のみならず、すべての国民に、唯一のまことの神を純潔に礼拝するようにすすめている。作者は、アブラハムの子孫たちに与えられた恵みをほめたたえるように強調しているが、しかも、救いはこの源泉から、全世界へと流れ出るのである。
   また、この詩編には、キリストの来臨の時に現れるべき、王国についての預言が含まれている。作者は、聖所という比喩のもとに輝きわたる栄光が、その光沢をいっそう遠く、そして広く拡張されるであろう、と教える。それは、神御自身が、その恵みの光を、遠くまで輝かせられるからである。そうすれば、もろもろの王や民は、アブラハムの子らと呼ばれ、一つとなるであろう。
―カルヴァンの注解から学んでおきたいのは、7,8節のカルヴァンの理解である―
 「神に賛美を歌え 賛美を歌え われらの王に賛美を歌え 賛美を歌え。なぜなら
神は全知の王でいますからである、理にかなった賛美を歌え。」預言者は、神を選ばれ
た民の王と呼び奉ったのち、直ちに神を全地の王と呼ぶ。こうして預言者は、長兄の称号と栄誉とをユダヤ人に帰するが、同時に異邦人をも同じ宝に加わり・与るものとして、彼らに結びつける。これらの言葉によって、メシア来臨のときにおける神の国は、律法のもとに置けるよりはるかに卓越し、壮麗であることを言い表わしている。しかして、預言者は五度にわたって、「賛美を歌え」という言葉を反復する。
 ここで預言者は、「理にかなった」という言葉によって、神への賛美を歌う際のまことの叡智を求めている。教皇主義におけるごとくに、響き渡る舌の音しか存在しないようなことが、ないためである。それゆえに、唱詠を正しく用いるためには、歌っている事柄についての知識と認識とがなければならない。そうすれば、虚しく空中に消滅する音声しか存在しないときのように、神の御名が冒涜されることはないであろう。

詩編を読む・2016.10.26   詩編46篇

詩篇46篇
1.詩編46篇を読む
 わたしたちのまことの安全は神にある。神+何かほかのもの にあるのではない。この確信とそれを脅かすものの両方が、詩の冒頭から明確に表わされている。神の力は、自然(2-4節)、神の都を攻撃する者(5-8節)、戦いに明け暮れる全世界(9-12)の上に及んでいるのである。
その神の大能が満ち満ちている「揺るがない都」(6節)こそ、わたしたちの砦であることを、この詩編は読む者の心に深く刻み込む。そしてまた、人類は近年まで世界的大変動の可能性についてほとんど考えることがなかったと言えるが、この詩編は恐れずそれをも直視する。
4節の騒ぎ立つ水も、神がおられるなら、それはもはや脅威となる海ではない。命を与える「河」である。イザヤ7:6-8に記されているように、シロア(エルサレムの水の供給源)の水を拒む者には、それは主が襲いかからせる激流となる。
5節の「神の都」は、旧約聖書の大きなテーマの一つである。神はシオン、エルサレムを選ばれた(神の選び)。その都が強固であり重要であるのは、それが神の住まいであるという意味においてだからなのである。だからこそ、87篇に歌われているように、諸国民の母なる都となりうるのである。そして、この旧約に示されているシオン・エルサレムは、新約の天における都を指し示すのである。
参照:ヘブライ11:9-10「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の 
 地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたのです。」 同12:22「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、」
9-12は、最終的に起こることの幻である。現在の勝利は最終的に起こることの事前の味見と言える。結末は平和であっても、その過程には裁きがある。裁きの向こうには静けさが伴っているのである。
参照:ペトロ二3:12-13「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は崩れ、自然界の要素は燃え尽き、焼け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」
 11節「力を捨てよ」(70人訳同様に、口語、フランシスコ会、新改訳は「静まれ」)は、落ち着きなく騒ぐ世界に対する叱責である。立ち騒ぐ海に向けての命令は、マルコ4:39のキリストの権威ある言葉に通じている。さらに、終末への展望が、人の望みとの観点からではなく、神の栄光の観点から語られる。「わたしは…あがめられる」という神の御意志は高慢な者には憤りを引き起こすだろうが、「御名が崇められますように」マタイ6:9とあるように、謙遜な者には切望と決意である。そしてそれは謙遜な者たちにとっての新しくされた確信でもある。

2.関連する新約聖書の聖句
 5,6節「大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」  参考 ヨハネ7:37-38「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
 10節「地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」  参考 使徒言行録1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」  黙示録11:15「さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。『この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。』」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 2節 預言者は、神がその民すべてに対し、どのように振る舞うを常とするかを、教えている。すなわち、「神がいつでも、信仰者を救い出されようと心にかけられ、さらには、無敵の大能をもって、武装しておられることを考えると、彼らが恐れを抱く理由は全く存しない」のである。
 …まことに人は、何の危険も現れないときに、大いなる確信を抱いているかのごとくに振る舞うことは、きわめて容易である。しかし、全世界が激しく動くようなことが起こるとき、それでも心を取り乱すことなく、平安を破られることがないとすれば、それはわれわれが神の大能に、ふさわしい栄誉を帰し奉っていることの証しである。
 同時に、預言者が3節「われらは少しも恐れない」というとき、彼は信仰者があらゆる不安や恐れから、あたかも彼等には何の感情もないかのごとく、全く自由である、と言いたいのではない。そうではなくて、単に彼は、たとえどのようなことが起ころうとも、彼らは恐れによって打ちひしがれることがなく、かえって恐怖に打ち勝つ力を取り戻す、ということを教えているのである。「たとえ地が変わり、山は海の真中に落ち込もうとも」という言い方は、誇張的で極端ではあるが、しかも全地の変化と激動ということを言い表わしている。

詩編を読む・2016.10.19   詩編45篇

詩篇45篇
1.詩編45篇を読む
 45篇は王のための祝婚歌である(「ゆり」は曲の名称と解釈されている)。言及されている王はダビデ系の王であることはほぼ確実と考えてよい(参考:ダビデ系王位の永遠性については、サムエル記下7:12-13)。
 婚礼は二人の中心人物にとっての重要な出来事であり、それは目的でもあり始まりでもある(参照:11,12節及び17,18節)。それとともに、二人にとってだけではなく、王国にとっても極めて重要である。王国の将来は彼らの子らにかかっているからである。このことに加えて、45篇で覚えておきたいことは、7-8節である。ここにおいて、王に対する賛辞が、突然神の名誉に発展している。このところは、ヘブライ1:8-9でキリストに適用されているので、代々教会はこれをキリストについて語っているメシア的詩編と受け止めてきた(後述のカルヴァンの11の注解にその例を見る)。しかし、確かにキリストについて語っているとはいえ、「愛の歌」の表題からは、雅歌と同様、結婚賛歌である。
 3-6節に見られる王についての描写から教えられること/ 3a節からは<万人より優れた王>、3bからは<恵み深い言葉を語る人はいまだかつてなくルカ4:22>、4ー5節からは<真実と謙虚と正義を備えて、勝利から勝利に進まれる>方 ― まさにここには王なるキリストの姿が見られる。
 13節では、花嫁が王である配偶者に従う(12b)が、これには王に由来する尊厳が伴ってくる。今や、王の臣下もすべてが彼女のものである。王を敬うことによって、何かを失ったのではなく、得るのである。
 17-18節は王に向けて語られる。このところから、わたしたちは、神が「多くの子らを栄光へと導く」(ヘブライ2:10) 前触れとしてのメシア的預言を理解し、過去にではなく、永遠に続く賛美へと招かれる。(18節「諸国の民は世々限りなく あなたに感謝をささげるであろう。」)

2.関連する新約聖書の聖句
7,8節「神よ、あなたの王座は世々限りなく あなたの王権の笏は公平の笏。 神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに 神、あなたの神は油を注がれた 喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」  引用 ヘブライ1:8-9「一方、御子に向かっては、こう言われました。『神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また、公平の笏が御国の笏である。あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、よろこびの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。…』」  参考 使徒10:38「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。」
9節「あなたの衣はすべて ミルラ、アロエ、シナモンの香りを放ち …」  参考 ヨハネ19:39「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持ってきた。」
14節「王妃は栄光に輝き、進み入る。」  参考 黙示録19:7-8「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
17節「あなたには父祖を継ぐ子らが生まれ あなたは彼らを立ててこの地の君とする。」  参考 一ペトロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」  黙示録5:10「彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。かれらは地上を統治します。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (要旨より) ここには王の優美さ、王国を統治するにあたっての徳、権勢、富が華麗な言葉で叙述され、ほめたたえられている。…このたとえのもとに、キリストの王国の尊厳、豊かさ、壮大さ、そして長い継続が、適切な用語で叙述され、修飾されている。これは、信仰者たちが、至高の王のもとに生き、その支配のもとに全く服従する以上に願わしいことは存しないことを、知るためである。
 11節「娘よ、聞け、留意せよ、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。」  預言者は、「聞け」、「留意せよ」(口語:かえりみて  新改訳:心して  新共同訳:そしてよく見よ)、「耳を傾けよ」と強調することによって、信仰者が自分を放棄し、かつての日の養いを捨て去るには、大いなる苦闘と、骨の折れる努力が要ることを表わしている。
 われわれが神に従うことにおいて、いかに怠慢で、遅鈍であるかは、体験そのものが示すところである。「留意せよ」という語によって、われわれの愚かさが密かに、しかも当然のこととして、批判されている。
 預言者は、「娘」という語によって、新しい教会をやさしく、愛をこめて誘いかけるが、それは、彼女がキリストの愛のゆえに、かつて以前に、彼女が関わっていたすべてのことを軽蔑し、進んで捨て去るためである。自身を放棄することは、キリストとの間でもつ、聖なる結合の始めである。…「父の家」及び「民」という語によって、預言者が考えているのは、われわれが母の胎を出て以来持ち運んでいる、あらゆる腐敗、あるいは悪しき習慣によって身につけた腐敗であることに疑いはない。

詩編を読む・2016.10.12   詩編44篇

詩篇44篇
1.詩編44篇を読む
 この詩編の基調は神信頼である。神信頼と人間の現実との結びつきが周到に表わされている。背景になっているのは、個人の体験より、もっと社会的な国家の問題である。神は、わたしたちの父祖である族長たち、そしてイスラエルの民全体をきわめて強い御手によってエジプトから導き出し、もろもろの敵を征服して約束の地へと導かれた。そのことを4節「先祖が自分の剣によって領土を得たのでも 自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく あなたの右の御手、あなたの御腕 あなたの御顔の光によるものでした。これがあなたのお望みでした。」と歌う。これは絶大な信頼の言葉である。国を得るという大事業を成し遂げたのだが、それは自分の実力や努力ではない、ひたすら神の手によったのだとの告白である。
 このような積極的な神信頼の言葉が、10節以下では一変する。10節「しかし、あなたは我らを見放されました」に始まり、16節「辱めは絶えることなくわたしの前にあり わたしの顔は恥に覆われています」との内容は、43篇2節の「なぜ、わたしを見放されたのか」という簡単な言葉を、たいへん詳細に描いたものといえる。しかも、そのスケールは依然として社会的な国家の大きさになっている。あれほど明るい神信頼を告白した作者が、現実の描写となるや途端に、絶望の極みになっているのである。つまり神信頼と絶望的な現実という明暗があざなわれているのを知る。
 18節で、内容はまた一変する。18,19節「これらのことがすべてふりかかっても なお、我らは決してあなたを忘れることなく あなたとの契約をむなしいものとせず 我らの心はあなたを裏切らず あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした」。どのような現実の中にあっても、神への信頼は取り戻されている。信仰は、現実の絶望状態を見事に跳ね返しているのである。
 ところが20節以下では非常に暗い表現に変わる。20節「あなたはそれでも我らを打ちのめし 山犬の住かに捨て 死の陰で覆ってしまわれました」。23節「我らはあなたゆえに、絶えることなく 殺されるものとなり 屠られる羊と見なされています」。
 特に有名なのは「絶えることなく 殺されるものとなり 屠られる羊と見なされています」という言葉である。この言葉をパウロはローマ人への手紙で引用している。8:36,37参照。パウロが引用するのは、10-17節に見られる敗北者(11節・敗走する者)の絶望からではなく、「わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」という確信からである。
 24,25節の眠っておられる主という姿は見かけにすぎない。その背後にある現実は、この詩編の最後の言葉「あなたの慈しみ」(RSV・RSV「あなたの不変の愛」)で語られている。マルコ4:38とも比較しておきたい。
2.関連する新約聖書の聖句
12節「あなたは我らを食い尽くされる羊として 国々の中に散らされました。」  参考 ヨハネ7:35「すると、ユダヤ人たちが互いに言った。『わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教えるとでもいうのか。』」  ペトロ一1:1「イエス・キリストの使徒ペトロから、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」
22節「神はなお、それを探り出されます。心に隠していることを神は必ず知られます。」  参考 ヨハネ2:25「人間についてだれからも証ししてもらう必要はなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」  ヘブライ4:13「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。…」
23節「我らはあなたゆえに、絶えることなく 殺されるものとなり 屠るための羊と見なされています。」  引用 ローマ8:36「『わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (要旨より) この詩編は三つの重要な部分に分けられる。
第一 信仰者は、民に対する神の無限の憐れみと、神が彼らの父としての愛を示される手段である明白な証しについて朗誦する。
第二 そのあとで彼らは、神がかつて彼らの父祖たちに対して、憐れみ深くあられたほどには、彼等に対して憐憫に富まれない、と嘆く。
第三 彼らは神がアブラハムと結ばれた契約を引照する。彼らは、いかなる激しい苦難を耐え忍ばなければならなかったとしても、これを守ったという。…最後に、みこころであれば、神がその民の蒙る不正な迫害を忘れられないように、との祈りが付け加えられる。このような迫害は、明らかに、真の宗教に対する大いなる侮辱と軽蔑に至るからである。
 18節「これらのことは皆我らに起こりました。〔それでも〕我らはあなたを忘れず、あなたの契約を無にすることはありませんでした。」  たとえ信仰者が災禍の中にあって、このような扱いを受ける理由を明白に感得しないとしても、「神は彼らを苛烈に・手荒く扱う理由を、ご自身ではよく知っておられる」という、この原則のうちにしっかりと留まることに目をとめる必要がある。それとともに、作者はここでは、過ぎ去った時について語っているのではなく、むしろ現在の忍耐を明らかにしていることに、注目すべきである。

詩編を読む・2016.10.5   詩編42,43篇

詩篇42,43篇
1.詩編42,43篇を読む
 マスキール  言語の意味:注意深い、賢い。意味は明らかでないが、教訓的詩編を指すものと思われる。瞑想を意味するとも考えれれる。
詩編42篇は43篇とは、密に編み合わされた一つの詩編の二つの部分であり、詩編全体の中で非常に悲しくも美しい一篇となっていることから、多くの人に愛唱されている。「なぜ、わたしは…嘆きつつ歩くのか」と言う声が両方の詩編に聞かれる(42:10,43:2)。そして、42篇の二つの部分を締めくくっている6節と12節の繰り返し句が、43:5節で三度目に全体を締めくくる。カルヴァンがいうように聖所での礼拝の機会を奪われたダビデが主を渇望していると理解するにせよ、あるいは列王記下14:14のような状況におかれている捕囚として引き行かれた者の嘆きの歌であるにせよ、神の家に帰りたいとの切望、神を求める切なる願いが、神御自身への不屈の信仰と希望へとつながっている。それゆえに、これを読むわたしたちも、この詩編に励まされ、「御顔こそ、わたしの救い」と神を告白する。
 3節の「いつ」という痛ましい言葉と、4節の「どこに」と言う嘲りの言葉が、霊的な試練を浮き彫りにしている。作者は自分の信仰を言い表わすがゆえに、信仰が試される。内面は神を渇望し痛んでいるが、神以下のもので我慢するつもりはない。生ける神をこそ求めるのである(2,3節)。涸れ谷でなお水を求める鹿のように、魂は神を慕い喘ぐ。まさに、彼は「今満腹しているあなたがた」(ルカ6:24)ではなく、「義に飢え渇く人々」の祝福の方を選んでいるのである。
5節 神を慕う者にとって、公の礼拝で本当に大切なものは勿論神御自身である(2節)。しかし、信仰の仲間と共に礼拝にあずかることや、主にある交わりの中にあることは、もう一つの喜びである(詩編48,68,84篇及び「都上りの歌」120-134篇を参照)。
 その喜びの日の思い出が、作者の悲しみを一層深くするのである。
 6節の自分との語り合いは、42,43両篇の重要な句となっている(42:12,43:5)。
信仰者は確信の人である。永遠の中で生きるように召されていて、その思いは神のもとにしっかりとどまっている。しかし、その一方変化の中にある被造物であり、時間の中にもいる。時間の中では、心も体も制約や抑圧のもとにあり、それらに無感覚ではありえない。「今、わたしは心騒ぐ。」(ヨハネ12:27-28)の主イエスの言葉を思う。
 7-12節 ここの光景に圧倒される。足場は奪われ、次から次へと波が押し寄せ、今にも沈められんばかりである。8節は、まさにヨナが深淵で経験したことである(ヨナ2:4の表現参照)。それでも詩人の信仰はひるむことがない。次の表現に心をとめたい。
 7「あなたを思い起こす」…5節の「思い起こす」と言う郷愁よりも一歩進んでいる。神は身近におられるのである。深淵の水は、「あなたの」注ぐ激流、「あなたの」波であると見られている。
 10,11節の「わたしをお忘れになったのか」で表現される神「不在感」から来る痛みの一方で、9節の神の臨在についての確信もまた深い。圧迫が和らぐことはないが、彼はしっかりと強い確信に支えられているのである。
 参考:申命記33:27「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。」(口語訳)
 詩編42篇でうたわれていた、苦難の嵐の中で、神信頼の信仰へと成長する経過が、詩編43編でも続いている。この43篇では2節「あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか」から、神信頼と、神から捨てられる実感との不思議な結びつきに、ゲッセマネの主の姿を思い、また自らの信仰の歩みを見つめる。
 
2.関連する新約聖書の聖句
6節「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。」  参考 マタイ26:38そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」  ヨハネ12:27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」

3.何を教えられるか(カルヴァンの注解に学ぶ)
 (カルヴァンは、詩編42篇をダビデのうたであると理解している)
 われわれはダビデが、他のだれよりも、預言の霊を受けていたことを知っているので、誰か他のものが、彼のためにこれを書いたなどと、いったい誰が信じるであろう。コラの子らがここで明言されているのは、この詩編がすぐれた宝として、彼らの護持に任せられたからである。
(要旨)ダビデはまず、彼がサウルの残忍さによって亡命を余儀なくされ、あわれな放浪者のように、あちこちとさ迷い歩いたとき、もっとも心を痛めたのは、彼が聖所に詣でる機会を奪い去られたことである旨を記す。彼は神を礼拝することを、地上のあらゆる便益にまされりとしたからである。…
2節「鹿が水の流れを求めて呻き鳴くように、わたしの魂も、ああ神よ、あなたを慕い喘ぎます。」  ダビデが「生ける神へ叫び求める」と言うとき、神はどういう助けと方法によって、わたしたちの魂を高く引き上げられるのかと言うことを、われわれに思い起こさせているのである。神は、われわれの弱さを見て、神がわれわれの傍近くまで降りられるのである。そこでダビデは、神に向かって叫び求める。なぜなら、彼は道が彼の目の前に開かれることを思うからである。…