ミカ書 概要
ミ カ 書
概要
預言者ミカは、ユダの王ヨタム(前750-735)、アハズ(前735-715)、ヒゼキヤ(前715-687)の時代に主の言葉を伝えた。預言者ホセアの活動(前750-720)、預言者イザヤの活動(前739-700)とほぼ同時代である。1世代前の預言者アモスのころから、偶像に走るサマリアのうちに道徳的な腐敗が生じていた。その腐敗が、イザヤやミカの時にはエルサレムにも及ぶようになっていた。
この当時、アッシリア軍が侵略し次々と町を捕囚に追いやっていた。自らの欲望と保身とに目がくらんで罪の中にあった偽預言者たちは、イスラエルの罪と荒らし回る軍隊のつながりに気づくことはなかった。しかし、真の預言者は、主がその軍隊の上を進軍して(1:3-7参照)、イスラエルと契約した時に警告されていた呪いを実現しておられるのを見ていた(6:1-5,13-16)。
歴史的な事情については、列王記下15~20章、歴代誌下29~32章に記述されている通りである。
前732アッシリアの王ティグラト・ピレセルⅢ世(バビロン王位の名はプル)がダマスコを破壊、イスラエルに攻め入り、ガリラヤに至るまで南下した(列王記下15:25-29)。その後、ティグラト・ピレセルⅢ世の子シャルマヌエルⅤ世、さらにその後継者サルゴンⅡ世によってパレスチナ諸国が侵略され、征服された諸国は貢納が求められた。このような動きの中で北イスラエルはアッシリアに攻め滅ぼされたのである(前722)。
そして南王国ユダもまた属国となったが、王ヒゼキヤは、父アハブと異なり貢物をささげたけれども魂を売ることはなくまことのイスラエルの再建を試みた(歴代誌下30:1-12)。この改革は、ユダの特徴とまでなっていた堕落した状態と金銭次第の不正に対するミカの宣教に応えるものでもあった。(列王記下13:3-6、エレミヤ26:18-19)。
サルゴンⅡ世の後をセナケリブ(前704-681)が継いだとき、ヒゼキヤは貢物を差し控える絶好の機会とした。しかし、ヒゼキヤは自らの軍事的な力と富を見せるという霊的な間違いを冒してしまった(列王記下20:12-19、イザヤ39)ので、イザヤによって厳しく非難された。
このような中で、ミカによる主の言葉は、アッシリアが祖国を略奪し(1:10-16)、エルサレムの門までやってくることを(1:9,12)、裸で泣きながら歩くという表現でありありと伝えたのである。しかし、ユダがバビロンの手におちるというイザヤの預言に、主がイスラエルをバビロンから贖いだしてくれるということを付け加えた(4:9,10)。
このような動きを歴史家は大国と小国の権力バランスの結果としてとらえるのであろうが、預言者は神の裁きと赦しの歴史としてとらえる。その理解の中では、アッシリアもまた主の御手のうちにある鞭とされていることをわたしたちは知らされる。イスラエルの王たちは、その鞭に対して、つまり力に対して力で、偽りの宗教には偽りの宗教で対抗しようとした(5:10-15)。しかし、ミカによると、救いは主のものであった。そして、主は悔い改めて罪を捨てることを求めておられたのである。
ミカ書1章 2014.1.8
ミカ書1章 ミカに臨んだ主の言葉
1. 打倒されるサマリア
1:1は表題である。この表題は、預言者の言葉(イザヤ1:1、エレミヤ1:1、アモス1:1)としてではなく「主の言葉」と記すことによって、またそれに何の修飾語もつけずに示すことによって、ミカ書が神の
口から出ていることを明確にしている。その神の言葉の前では、わたしたちは履物を脱がなければならないのではないか(出エジプト3:5)。ミカの書は神の言葉である。
ミカ1:1 ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェトの人ミカに臨んだ主の言
葉。それは、彼がサマリアとエルサレムについて幻に見たものである。
ミカは自分の使信の年代を北王国には触れず、ただ南王国ユダの王たちによって示している。このことは、ホセア8:4に「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない」に記されているように、北王国イスラエルでは、神の意思に関係なく王たちが立てられていたことによると考えられる。
「諸国の民よ、皆聞け」と主は言われる。諸国…皆とあるように、すべての民である。神のイスラエルに対する非難が、生ける神を捨てて偶像に走るすべての民に対して神が下される裁きの典型的な事例として取り上げられる。祭司の国として召されているイスラエルが、皮肉なことにも今やすべての民に対する戒めとなっている(レビ18:28)。「神の家から裁きが始まる」(ペトロの手紙一4:17)との言葉に謙虚に耳を傾けたい。
ミカ1:2-5 諸国の民よ、皆聞け。大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。主なる神はお前た
ちに対する証人となられる。主は、その聖なる神殿から来られる。見よ、主はその住まいを出
て、降り、地の聖なる高台を踏まれる。山々はその足もとに溶け、平地は裂ける。火の前の蝋
のように、斜面を流れ下る水のように。これらすべてのことは、ヤコブの罪のゆえに、イスラ
エルの咎のゆえに起こる。ヤコブの罪とは何か、サマリアではないか。ユダの聖なる高台とは
何か、エルサレムではないか。
レビ18:28 あなたたちもその土地を汚すならば、先住民を吐き出したと同じように、土地が
あなたたちを吐き出すであろう。
3-4節では、高くて安定しているすべてのものが、神のもとに崩れ落ちるというのである。神が裁きのために来られるときには、人間は聖なる神と面と向かわなければならない。神を畏れ神の前に歩んでいるのでなければ、何と恐ろしいことか。
北イスラエルはアッシリアの属国となっていたが、反乱を起こし、首都サマリアは2年間包囲された後陥落し、前722年北イスラエルは国家として滅亡した。1:6-7はこのサマリアについての預言である。
古代イスラエルではヤハウェに対する信仰と農業の豊穣神バアルに対する信仰が混在し、人々は偶像を拝み、神殿娼婦と交わり、その娼婦たちが得た金で像が造られ、神殿の設備が整えられていた。ミカは、サマリアの滅亡が神への背信の結果であるとしてここに描く。その裁きはやがてエルサレムに向けられると彼は預言する(1:9)。
2.ユダの町々への嘆き
南王国ユダはアッシリアに忠誠を誓っていたが、前705年エジプトと同盟を結び反乱を起こした。アッシリアは前701年大軍を持って攻め込み、ユダのほとんどの領土は占領された(参照:イザヤ1章)。ミカの故郷モレシェトも占領され、住民は殺され、捕囚になった。8-16節はユダの滅亡に対するミカの嘆きである。10-15節には、ユダの要塞が次々と陥落していく様が述べられ、16節で、自分たちも捕囚になるということから、嘆きの儀式に参加することが呼びかけられる。
神の民でありながらイスラエルはこの地に宝を積もうとしたが、その報いは敗北と死であった。「富は、天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われる主イエスのお言葉の通りである(マタイ6:19-21)。
ミカ書2章 2014.1.15
ミカ書2章 捕囚を宣告される者、復興の希望に導かれる者
1. 捕囚を宣告される富裕者
ミカ書は欲望のままに生きる人々への裁きを預言する。1章ではサマリアとユダの神への反逆と罪について語り、2章では貪欲な輩(腐敗した地主たち)を告発する。彼らは住人から家、嗣業を強奪し、貧しい者が路頭に迷っても何の痛みも感じない。土地が神からの嗣業とされているイスラエルでは、土地を取り上げ、人々の収入源を断つ行為は、人に対すると同時に神に対する罪とされる。同時代の預言者イザヤも同じような告発をユダの民に行なっている(イザヤ3:14,15)。
ミカ2:1-2 災いだ、寝床の上で悪をたくらみ、悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそ
れを行う。力をその手に持っているからだ。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人
から家を、人々から嗣業を強奪する。
イザヤ3:14-15 主は裁きに臨まれる、民の長老、支配者らに対して。「お前たちはわたしの
ぶどう畑を食い尽くし、貧しい者から奪って家を満たした。何故、お前たちはわたしの民を打
ち砕き 貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」と主なる万軍の神は言われる。
「夜明けとともに」には多分に皮肉が込められているのではないか。普通盗人は自分たちの悪い行いを夜の暗闇に隠すものである。「貪欲に」は、むやみに欲しがる、の意であり、人間がいかに霊的に病弊し、倫理的に堕ちているものなのか、その核心をついている。(参照:出エジプト記20:17、ローマ7:8)
この不正に対して主ご自身が立ち上がられる。
ミカ2:3 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしもこの輩に災いをたくらむ。お前た
ちは自分の首をそこから放しえず、もはや頭を高く上げて歩くことはできない。これはまさに
災いのときである」。
その裁きは外敵(アッシリア)の侵略という形でやってくる。腐敗した地主たちは叫ぶだろう。「どうしてわたしの土地が異邦人(背く者)に分けられるのか」と。イスラエルにおいて強く有力な者たちが、他の人々の畑を奪って人々を損なった。それで今度は、彼らより強い者が来て有力であった者たちのものを奪っていくのである。「剣をとる者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。
アウグスティヌスは人類を二つの都市に区分した(「神の国」)。「それらは二つの愛によって形成されている。すなわち、神をさげすむほどにもなる自己への愛による地上の都市と、自己をさげすむほどにもなる神への愛による天的な都市である」。これを考えると、ミカ書による裁きは、地上の都市において「成功した」者たちが、天の都市において受け継ぐものを永遠に失うことを宣言していると言える。
2.偽預言者への反論
ミカの言葉に対して、富裕者たちに雇われた偽預言者は「ミカはたわごとを言っているのだ。主はわたしたちを裁かれることはない。わたしたちは主の民ではないか」というのである。
ミカ2:6-7 「たわごとを言うな」と言いながら 彼らは自らたわごとを言い 「こんなこと
についてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は
気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と言う。わたしの言葉は正しく歩む者に、
益とならないだろうか。
「たわごと」と訳されているのは、預言するとも訳されたり、英訳では「神の言葉を告げる」の意の言葉が使われたりしている。複数形で書かれているので、ミカだけではなくその仲間のホセアやイザヤをはじめ真の預言者の弟子たち(イザヤ8:16)をも指しているのだろうと考えられる。
これにミカは主の裁きを確信して反論する。
ミカ2:8-10 昨日までわが民であった者が 敵となって立ち上がる。平和な者から彼らは衣服
をはぎ取る 戦いを避け、安らかに過ぎ行こうとする者から。彼らはわが民の女たちを楽しい
家から追い出し 幼子たちから、わが誉れを永久に奪い去る。立て、出て行くがよい。ここは
安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である。
まことの教師と偽教師について考えておこう。偽教師は、「これが主のなされる業だろうか」といって安易に人々に甘く語りかける。主を捨てている者たちにまで、主は信徒を最後まで守られる(聖徒の堅忍)という教理を当てはめるので、罪の悔い改めの実を結びことはしない。(参照:コリント一6:9-11)
3.復興への希望
第2章はイスラエルの牧者であられる王がご自身の羊たちを安全なところに集めてくださり(12節)そして解放してくださる(13節)という約束をもって終わる。途中で話し手が変わっているのに気付く。主が語られることが、預言者ミカにはすべてがありありと見える。イスラエルに残りのものがあるというかすかな希望の光を確かなこととしてミカは見たのである。
安全なところは囲いの中、牧場である。「彼らは人々とともにざわめく」とあるのは、囲いの中の牧草地にいる羊の群れのように、人の群れでざわめくというのである。その集められた群れを主ご自身が先だってさらに広い地へといざなわれる。
ミカ2:12-13 ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め イスラエルの残りの者を呼び寄せ
る。わたしは彼らを羊のように囲いの中に 群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼ら
は人々と共にざわめく。打ち破る者が、彼らに先立って上ると 他の者も打ち破って、門を通
り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み 主がその先頭に立たれる。
ミカ2:12-13の預言はエゼキエル34章「イスラエルの牧者」に思いを馳せさせる。
神こそわたしたちの羊飼いなのである。
エゼキエル34:11-14 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを
探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを
探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての
場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に
導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼
らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い
牧場と肥沃な牧草地で養われる。
ヨハネによる福音書10:14-16 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、
羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと
同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、囲いに入っていない他の羊もいる。
その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞きわける。こうして、羊は一人の
羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。
イスラエルの残りのもののように、わたしたちもキリストにあって選ばれ、御国へと安全に導かれていることを感謝したい。そして、まことの羊の声(言)にしっかりと耳を傾けたい。
ミカ書3章 2014.1.22
ミカ書3章 偽りの指導者
1.肉を食らう者となった指導者たち
イスラエルの指導者たちの罪が告げられる。告発されているのは、指導者たち(1節.頭と書いてあるように支配層)、預言者たち(5節)、祭司たち(11節)である。裁きは、神の沈黙(4節「主は答えられない」)から進んで、その沈黙に闇が加わることとなり(6節「夜、暗闇、昼も暗い」、神殿が石塚となる時の神不在へと至る(12節)。
ミカはイスラエルの指導者たちを批判して言う。「正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。善を憎み、悪を愛する者、人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ」と。時代はヒゼキヤの時代、前702年頃であろう。既に北イスラエルは滅び、南ユダ王国の領地の大半もアッシリアの支配下に入っていた。
「人々の皮をはぎ、肉をそぎ取る」とは、具体的には「貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる」(2:2)ような、貪り行為を指している。そのような者が自分の土地を異邦人に占領された、それは不当だと訴えても、神は聞いてくださらないだろう。同胞への罪は神への道を遮るのである。その罪は重く、お怒りになられる神の手に落ちることとなる(参照:ヘブライ10:31)。
ミカ3:3-4 彼らはわが民の肉を食らい 皮をはぎ取り、骨を解体して 鍋の中身のように、
釜の中の肉のように砕く。今や、彼らが主に助けを叫び求めても 主は答えられない。そのと
き、主は御顔を隠される 彼らの行いが悪いからである。
指導者たちの心も行いも、なんと主の御旨から遠く離れてしまっていることか。主が求められているのは、たがいに愛し合うことであり(ヨハネ13:34)、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことである(ローマ12:15)。
2.民を迷わす預言者たち
5節から偽預言者の罪が語られる。彼らは報酬が与えられれば「平安」を祝福し、報酬を与えない者には「裁き」を宣言する。そのような預言者に主は言葉を託されない。彼らは、神への義と、道徳的な信念と強さに欠けているのである。このため主は彼らの賜物を取り去られる(参照:士師記16:20、サムエル下17:14)。そのことに気づかず、ただうろたえるのである。
ミカ3:5-7 わが民を迷わす預言者たちに対して 主はこう言われる。彼らは歯で何かをかん
でいる間は 平和を告げるが その口に何も与えない人には 戦争を宣言する。それゆえ、お
前たちには夜が臨んでも 幻はなく 暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。預言者たちには、
太陽が沈んで昼も暗くなる。先見者はうろたえ 託宣を告げる者は恥をかき 皆、口ひげを覆
う。神が答えられないからだ。
真の預言者の働きは、肉欲にではなく主の霊に基づいている。霊は正義をもって、罪に対しては平安ではなく、罪と裁きを宣べ伝える。預言者とはたとえ民が聞きたくなくとも、神から託されたのであればその公義を語るのである。
ミカ3:8 しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ち ヤコブに咎を、イスラエルに罪
を告げる。
ミカが真偽を判断する基準は「正義」と「公平」である。この言葉は預言書を貫く言葉である(参照:エレミヤ33:15)。正義と公平がない所では人々は安心して暮らすことが出来ない。指導者たちはきらびやかな邸宅に住むが、その壁は貧しい人の血と汗で出来ているではないか、とミカは告げる。
ミカ3:9-10 聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち イスラエルの家の指導者たちよ。正義
を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ 流血をもってシオンを 不正をもってエルサレムを建て
る者たちよ。
世の堕落の象徴は、すべてが金で買えるようになることである。裁判官は賄賂で判決を歪め、祭司は献金の多寡で教えを曲げ、預言者は金を払う人のために預言する。それでいて、主を頼りにするという彼らの言動はあまりにもむなしい。彼らが「主が共におられるから、我々には災いは及ばない」と語っても、何の意味もない。主は不正な者たちを異邦人の武力から解放されることはない。
ミカ3:11 頭たちは賄賂をとって裁判をし 祭司たちは代価をとって教え 預言者たち金を
とって託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。「主が我らの中におられるではないか 災
いが我々に及ぶことはない」と。
金で惑わされるのは、指導者や祭司や預言者に限らない。悪魔は、イエスに対してまでも、この世の権力と繁栄を与えるから自分を拝めという。その悪魔は主に従う者をも惑わす。パウロの同労者のデマスがパウロを見捨てたのも、この世の繁栄に目がくらんだからである(テモテ二4:10)。「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われた主イエスの言葉を、実生活の上で考えておきたい。
テモテ一6:10 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、
さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
ミカはエルサレムの破壊を預言する。エルサレムは廃墟となり、石塚に変えられてしまうであろうと。
ミカ3:12 それゆえ、お前たちのゆえに シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変
わり 神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。
ここには、「神殿の山」と訳されているが、原文は「神殿」ではなく「家」である。ミカは主の神殿(主の宮)と言った言葉ではなく、ただ「家」と言って、神聖ではないものとして栄光を感じ取るものをはぎ取っている。
アッシリアがエルサレムを包囲している中で、首都の崩壊を預言するミカの発言は、人々には国を裏切る売国奴的な行為に映ったに違いない。しかし時の王ヒゼキヤはミカの預言に悔い改め、エルサレムは救われた(列王記下19:35)。ミカの預言の100年後に、エルサレム滅亡を預言するエレミヤの説教に長老たちが全会衆に向かって、次のように語った。
エレミヤ26:17-19 この地の長老が数人立ち上がり、民の全会衆に向かって言った。「モレシ
ェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主
はこう言われる。シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生
い茂る丘となる』と。ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主
を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々
は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている」。
預言は今ここで聞かれないとしても、100年後、200年後の人々に聞かれて、正しい道を選択させる。わたしたちはこの長期的視点が今、必要なのではないだろうか。「目先の利益」に惑わされるな、神が命じられた「正義と公平」のために労せよ。ミカは現代にもそのように語り続けている。(今の時代の目先の利益とは何か。)
ミカ書4章 2014.1.29
ミカ書4章 終わりの日の約束
1.主が国々を裁かれる
3章の終りはエルサレムの滅亡預言であった(3:12「お前たちのゆえに シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」)。続く4章のはじめに記されるのは「終わりの日」の約束である。偽りの指導者たちによる流血と不正が裁かれるシオンであるが、その裁きによるエルサレム崩壊の後に、主は新しいエルサレムを建てられ、そこで主がご自身の道を教え、多くの民の間を裁かれると告げられる。(参照:イザヤ56:6,7)
ミカ4:1-3 終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそ
びえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、
ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き はるか遠
くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
終わりの日については、ヨエルやイザヤ(ミカと同年代)も預言している。(終末預言)
参照:イザヤ2:2-4、ヨエル4:10-15
誰もが和平の道を願っているが、混乱と破滅に進んでいる根本の問題、「罪」について人は向き合おうとはしない。そこにこそ解決がある。神との平和こそが求められている。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう」。主に立ち帰ることを離れてまことの平和はない。
2.エルサレムの回復
ミカによるエルサレム滅亡の預言は、滅亡後の再建を視野に入れた預言であった。主は、滅ぼすためではなく、再創造されるために裁きを与える。
ミカ4:4-8 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下 いちじくの木の下に座り 脅かすものは何
もないと 万軍の主の口が語られた。どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、
とこしえに 我らの神、主の御名によって歩む。その日が来れば、と主は言われる。わたしは
足の萎えた者を集め 追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。しかし、
わたしは足の萎えた者を、残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。シ
オンの山で、今よりとこしえに 主が彼らの上に王となられる。羊の群れを見張る塔よ、娘シ
オンの砦よ かつてあった主権が、娘エルサレムの王権が お前のもとに再び返って来る。
7bには、主が彼らの上に王となられる、とある。イスラエルの回復は堕落する前の自らの意志と力の状態への回復ではなく、主の意志と力による統治なのである。新イスラエルへの回復は、かつて神の民でもなかったものをも含め、主の教会を通して実現されていく国に及んでいくのである。(参照:ペトロ一2:9,10)
8節では、主が「良い羊飼い」として描かれている。良い羊飼いは、人間的に見て、もう何の望みもないとされる「足の萎えた者」、「追いやられた者」を、「残れる者」として集め、いたわり、新しい国の土台にするのである。主イエスが「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:14)と言われたことを思うとき、わたしたちは、シオンの残りの民を導き、エルサレム回復の御業をされておられるのはキリストであると知る。(参照:コリント一10:4)
新しい国として立つために、イスラエルの王である方は、アッシリアの侵略とバビロンの捕囚にまで及ぶエルサレムの苦難に対して御計画を持っておられるのである。主は、捕囚を通してシオンの解放を計画しておられ(9-11)、エルサレムへの侵略を通して敵の敗北を図っておられる(11-13)。
シオンの今の苦しみは、不幸で終わるものではなく、エルサレムの回復、救いと栄光という希望への扉を開く。(このことは、御国を望んで生きるキリストにある者の歩みでもある。)その今の苦しみ(試練)をミカは語る。
ミカ4:9-10 今、なぜお前は泣き叫ぶのか。主はお前の中から絶たれ 参議たちも滅び去った
のか。おまえは子を産む女のように 陣痛に取りつかれているのか。娘シオンよ 子を産む女
のように、もだえて押し出せ。今、お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロン
にたどりつけば そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる。
ヘブライ12:10-12 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は
わたしたちの益となるように、ご自分の神性にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるの
です。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのです
が、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だ
から、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐしなさい。
アッシリアによりエルサレムは包囲された。そのアッシリアも含めバイロンや多くの国々が敵対勢力となるのである。そのことの預言が11-14節である。イスラエルに敵対する「彼らは主の思いを知らず、その謀を悟らない」。彼らの傲慢は、すべて神の御計画の一部である(参照:イザヤ10:5-8)。彼らは知らないうちに自らの滅びの道具となっている。彼らはエルサレムを攻めるために集まったが、実際に彼らを集めたのは主である。彼らは神殿の境内をむき出しにしようと図ったが、主は彼らを破壊される。
ミカ4:11-14 今、多くの国々の民がお前に敵対して集まり 「シオンを汚し、この目で眺めよ
う」と 言っている。…今、身を引き裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲し
た。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。
10節「そこで救われる。その地で、…贖われる。」のそこ、その地はバビロンである。神はシオンの救いのためにバビロンを選ばれた。全く望みの持てないような異教のただ中に置かれて、残りの民は心をまことの神に向けるのである。望みのないような暗い地が、新しい時代の日の光が射し始める所となる。わたしたちは、「たとえ死の影の谷を行くときも」(詩編23:4)、歴史を支配しておられる主権者なる神にこそ信頼を置かなければならない。
ミカ書5章 2014.2.5
ミカ書5章 主は御国を守られる
1. メシア預言
ミカは5章冒頭にメシア預言を掲げる。マタイ福音書に引用されているキリストの誕生を預言するものである。そして、イエスご自身も自分こそ神から遣わされたメシアだと自覚しておられた(ルカ4:16-21)。
ミカ5:1-5 エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、
わたしのためにイスラエルを治める者が出る。…彼こそ、まさしく平和である。
マタイ2:4-6 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれること
になっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう
書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小
さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである』」。
(マタイの引用は70人訳ギリシャ語聖書からのものである。)
5章の1節は、訳出されていないが「しかし」で始まる。14章6節に記されている 「今」の敗北の状況から、メシアによる勝利への逆転の預言である。(参考:アッシリア軍によるエルサレム包囲の中で(前701年)国を滅亡から救済する神からの使者を待望する)。高ぶっていたエルサレムの王たちは今の敗北をもたらしたが、取るに足りない町ベツレヘムに受肉されたメシアは勝利されるのである。
エフラタというのは、ベツレヘムがあったユダの地域の名前である。この地名は意味なく用いられているのではない。サムエル上17:12の記述から理解できることは、メシアの生まれがエッサイとダビデにさかのぼっているということである。イザヤも、メシアはエッサイの根から芽生える枝になぞらえている(イザヤ11:1)
「ベツレヘム・エフラタ」を修飾する節は、文字どおりには、「ユダの氏族の中にあって、その存在という点では取るに足りない」となる。ダビデが8人兄弟の中での末の子でいちばん小さかったように、ベツレヘムはユダの氏族の中でほんの限られた役割しか果たしていなかった。そのような地であるが、神はその地をメシア誕生の場所として選ばれた。それによって、最も小さくて取るに足りないような場所が、最も卓越した方をもたらすところとなるのである。(ベツレヘムの地名は、ミカ書のユダ防備の町のリストにも載っていない。ミカ1:10-15)
主は、人が主のみを頼みとし誇りとするようになるために、この世の弱くてさげすまれている者をお選びになり、賢くて強いものを辱められることを良しとされる。
参照:コリント一1:18-31
(1:28)取るに足りない者を選ばれる神の恵みを知って、わたしたちの思いはただ
(1:31)主をのみ誇ることに向かう。
メシアによって養われる群れは、神の民に敵対する勢力を征服する神によって、安全(3節.安らか)と平和へと導かれる。メシアが地の果てまでも治められるのである(3節)。アッシリアが自分たちの国を襲っても、それをメシアご自身の民を通して立ち向かわれる(5節)。(ここでのアッシリアは、将来イスラエルに対する敵国と解釈されている。)5節のニムロドは、イスラエルとユダに滅亡をもたらしたアッシリアとバビロン王国の創始者の名である。
2.命に至る香り、死に至る香り
6節と7節は文の構成が驚くほど似ている。それによって、残りの者が国々の間で果たしている二重の役割を明確に対比している。その役割は、ある者たちにとっては救いの源であり、ほかの者たちにとっては滅びの手段となるのである。そのどちらの場合においても、神は彼らを勝利者とされる。
ミカ5:6,7 ヤコブの残りの者は 多くの民のただ中にいて 主から降りる露のよう 草の
上に降る雨のようだ。彼らは人の力に望みをおかず 人の子らを頼りとしない
ヤコブの残りの者は 諸国の間、多くの民のただ中にいて 森の獣の中にいる獅子 羊の群
れの中にいる若獅子のようだ。彼が進み出れば、必ず踏みつけ 引き裂けば、救いうるもの
はない。
この預言の成就をわたしたちは初代教会に見る。パウロは、自らをほかの使徒たちに含めて、神が常に自分たちを勝利の行進においてキリストの香りとして導いてくださったと述べている。彼らは救われる者たちの間にあっては命の香りであり、滅びる者たちの間にあっては死への香りであった。
コリント二2:14-16 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連
ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくだ
さいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキ
リストによって神に献げられた良い香りです。滅びる者には死から死に至る香りであり、救わ
れる者には命に至らせる香りです。
これと同じ二重の務めは、今日も教会によって受け継がれている。
6,7節の託宣は、この務めを果たすようにとの残りの者への命令(8節)*で終わっていることにも留意したい。残りの者の背後にはこの命令、すなわち神の御言葉がある。主イエスの宣教命令を守る者は打ち勝つのである(マタイ28:17-20)。
* 8節(フランシスコ会訳 敵に向かってお前の手をあげよ、お前の敵は皆滅ぼされる。)
9節以下では軍馬や戦車や城塞の廃棄が宣言される。神の平和には武器は不要、魔術も偶像も不要である、とミカは預言する。
ミカ5:9-13 その日が来れば、と主は言われる。わたしはお前の中から軍馬を絶ち 戦車を滅
ぼす。わたしはお前の国の町々を絶ち 砦をことごとく撃ち壊す。わたしはお前の手から呪文
を絶ち 魔術師はお前の中から姿を消す。わたしはお前の偶像を絶ち、お前の中から石柱を絶
つ。お前はもはや自分の手で造ったものに ひれ伏すことはない。わたしはお前の中からアシ
ェラ像を引き抜き 町々を破壊する。
人が、戦車や要塞化した町や自分の手で造ったものに信頼し、これらに安心感を持つ時は、神への信頼が損なわれていく時である。預言者は、ただ神への信頼に心を向けさせる。
今日も、キリストの教会はただ神への信仰によって歩むことが出来るのであり、自分たちの力量によってではない。教会はもう一度ダビデとともに「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、われらの神、主の御名を唱える。」(詩編20:8)と告白しなければならない。イスラエルの戦いにおける天才によるこの詩編は、手段を用いるということよりも、手段により頼むことの愚かさである。(参照:申命記17:16,17、ネヘミヤ4:9,13,14)
付記 「自分の手で造ったもの」 … 刻まれた石の像は人間の技巧による産物。神と無関係に命をもとうとする人間の営みの現れ。魔術や科学知識による命の操作など…。(ブルース・ウオルトキー)
ミカ書6章 2014.2.12
ミカ書6章 暗闇の中で
1. 神を失くした人々
ユダヤはアッシリアの脅威にさらされているにもかかわらず、多くの不正が横行し、指導者たちはといえば、3章に記されているように、自分たちが治めている寄る辺のない者や痛められた者の働きを食い物にして、祭司も預言者も主の教えを曲げていた(3:1-4,9-12)。主は、その罪と不正に満ちたイスラエルと争われ、預言者を通してイスラエルを告発される。
ミカ6:1-3 聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を
聞かせよ。聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発し イス
ラエルと争われる。「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れ
させたのか。わたしに答えよ」。
神はかつて人々をエジプトから救い出し、このたびはアッシリアから救い出す(参照:列王記下19:35-37)。それなのに民は感謝して、ふさわしい生活をしようとはしない。それは何故かと問われる。
ミカ6:4-5 わたしはお前をエジプトの国から導き上り 奴隷の家から贖った。また、モーセ
とアロンとミリアムをお前の前に遣わした。わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラク
が何をたくらみ ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのこ
とを思い起こし 主の恵みの御業をわきまえるがよい。
* バラクとバラム(民数記22章 モアブの平野に宿営するイスラエルを見て恐れをなしたモアブ王バラクは、メソポタミアの占い師バラムにイスラエルを呪わせようとした)
* シティムからギルガル(ヨシュア記3-4章 ヨルダンをわたり約束の地に入る)―シティム滞在の折に背信行為をしたイスラエルであるが、なお主は恵みをもって導かれた(民数記25章)
イスラエルは、砦を打ち壊し、自分たちが大切にしていた偶像を絶たれる神に対して、自分たちを疲れさせるものだと考えていたのだろう。主はそのイスラエルに対して、どのようにして民を煩わせ疲れさせたのかと問いかけ、神の恵みを思い起こさせるのである。
このところでも(3、5節)「わが民よ」と主が二度呼びかけておられることを心にとめたい。恵みとまことに満ちているこの言葉をもって、主は、イスラエルを叱るとともに、神の契約の義務に立ち帰ることを求めておられるのである。
このような素晴らしい主に、はじめの契約に立ち帰り愛と従順な心をもって 応えるかわりに、ミカの世代の者たちは、主権者である神から与えられた人間に対する契約(カベナント)をお互いの取り引きにおける契約(相互契約コントラクト)に変えてしまっていた。
このことが6,7節からうかがうことが出来る。主に御前に出る礼拝者は、神の好意を得るために何をもってなすべきか、その額をどんどんつり上げていこうとしているのである。焼き尽くす献げ物か、その歳に生まれた高価な子牛か、幾千の雄羊か、幾万の流れ滴る油か、それともそれらにまさって値のつけられないほど値打ちの子どものいけにえか。これ以上高くつり上げることはできない。見たところでは、値の高い献げ物を手にしていと高き方の前にぬかずいているのであるから、霊的であるように見える。一方で、有力者たちは貧しい人々を搾取し、贅沢な暮らしをしているのである。
従って、こうした(6,7節)問いかけ自身が、心のよこしまさを映し出していると言える。自分は変わる必要を認めず、これだけのことをして献げているのだから、神が変わらなければならないと言っているようなものである。
その人たちにミカは、献げるべきは信仰者の生き様ではないのかと告発するのである。
ミカ6:6-8 何をもって、わたしは主の御前に出で いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽く
す献げ物として 当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか 幾千の雄羊
幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を 自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行
い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。
8節はウエストミンスター小教理問答の問39でも「神が人に求めておられる義務」として取り上げられている。人は「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と主に歩む」者として神に造られているのである。しかし、イスラエルの指導者たちは、これとは正反対のことを行ってきた(2:1,2、3:1-3、3:5-7、3:9-11)。預言者は、献げ物という礼拝の行為が霊とまことをもってなされていることの大切さを言っているのであり、愛をもって神に従うという契約の根幹のところを教えているのである。
サムエル記上15:22 サムエルは言った。「主が喜ばれるのは 焼き尽くす献げ物やいけにえ
であろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえに
まさり 耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」
ローマの信徒への手紙12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたたがたに
勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがた
のなすべき礼拝である。
*へりくだり キリスト教綱要第2篇第2章11より…更に好ましいのはアウグスティヌスの言葉である。「ギリシャのデモステネスは、雄弁の第一の規則は何かと問われた時、明快な発音だと答え、第二はと問われると、明快な発音だと答え、第三はと問われると、明快な発音だと答えた。そのようにもしあなたがわたしにキリスト教の規則は何かと尋ねるなら、第一にへりくだり、第二にへりくだり、そして第三にもへりくだりと、いつもへりくだりをもって答えるであろう。」
2. 罪の支払う報酬
6:1-8は回復の可能性を残して開いている扉だといわれる。その扉をミカは閉じて、エルサレムを滅亡に定める託宣を9「主の御声は都に向かって呼ばわる」と告げる。
偽りの量り(10,11)、偽り欺く言葉(12)、疫病と荒廃(13)、身体的苦しみ(14)、作物の略奪(15)の実態が示され、告発と判決(16)がなされる。
判決にあたっては、ミカより1世紀以上前に生きていた「オムリ」と「アハブ」の罪<背教(列王記上16:30-33)、邪悪・貪欲・不正(列王記上21章)>を踏まえている(典例)。16節の「そのため」という言葉によって、こうした罪に対しては裁きのほかに選択肢はないことが示されている。罪を犯した人が誰であれ、罪の報酬は死なのである。
ローマの信徒への手紙6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主
キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ミカ書7章 2014.2.19
ミカ書7章 嘆きと神への信頼
1. ミカの嘆き
ミカは、前8世紀後半、ユダの王ヨタム王、アハズ王、ヒゼキア王、マナセ王の時代に、悔い改めなければ、神はユダ王国を北イスラエル王国のように滅ぼされる、と人々に悔い改めを迫った。しかし誰も聞こうとしない。倫理は地に墜ち、役人は収賄し、裁判は賄賂によって曲げられ、祭司の教えも、預言者の託宣も報酬目当てであった。預言者は嘆く。
ミカ7:1-4 悲しいかな わたしは夏の果物を集める者のように ぶどうの残りを摘む者のよ
うになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく わたしの好む初なりのいちじくもない。
主の慈しみに生きる者はこの国から滅び 人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに
人の命をねらい、互いに網で捕らえようとする。彼らの手は悪事にたけ 役人も裁判官も報酬
を目当てとし 名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す。彼らの中の最善の
日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる。
預言者ミカは、自分自身をぶどうの手入れをする人にたとえて、主の託宣を語る。その人は、ぶどうの木や他の木に対して忍耐深く行き届いた手入れを施し、夏になってぶどう園にやって来て熟れた甘い「ぶどう」の房と、ぶどうと共に育てた走りの「いちじく」を探した。しかし、そこに見たのは荒らされたぶどう園。悪事にたけた者たちがぶどう園をすっかり台無しにしてしまっていた。ミカの嘆きの理由である。(参照:ルカ13:6)
修復できないほどの社会である。その中で、見張の者(預言者)は裁きを告げる。― イザヤ9:3「刑罰の日に向かって 襲ってくる嵐に対して お前たちはどうするつもりか。」、ホセア9:7「裁きの日が来た。決済の日が来た。イスラエルよ、知れ。」
倫理の崩壊、道徳の低下の極まる中で、町が侵略者に包囲されている恐ろしい場面をミカは予期していた。その時、国家も地域も家族も信用できないものとなり、親しい者、親密な関係にある者との最も強いはずの絆でさえもが、重圧の下で簡単に切れてしまう。この宣告は罪に見合ったもの ― 腐敗した指導者たちが国の連帯の組織を引き裂いた今、危機に対処することができないばかりか、最も親密な仲間でさえも信頼できない状況が生まれているのである。ミカを取り巻く世界には、ミカの希望とするものは何一つ見ることができない。ただ神だけが残されている。嘆きの歌をうたう中で、預言者は主の助けを待つ。
ミカ7:5-7 隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女
にも お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り 娘は母に 嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の
敵はその家の者だ。しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願
いを聞かれる。(参照:マタイ10:34-39「平和ではなく剣を」)
「わが救いの神を待つ」 ― 神に信頼を置く者は、絶望の中で、神は救いをもって自分たちのところに来てくださることを知っている。
詩編18:46(新改訳)主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救
いの神。
2.救いと祈り
ミカはこの書を8節以下で勝利の預言(讃美)をもって締めくくる。 ― 8-13は「主にある希望」、14-20は「主への祈りと讃歌」
8-10節で、わたし(エルサレム)は、自分自身闇の中にあり、敵の前では倒れた者であるが、神による救いがあるという信仰の告白を敵に向かっても語るほどに、救いの確信に導かれる。
ミカ7:8-10 わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。
たとえ闇の中に座っていても 主こそわが光。わたしは主に罪を犯したので 主の怒りを負わ
ねばならない ついに、主がわたしの訴えを取り上げ わたしの求めを実現されるまで 主は
わたしを光に導かれ わたしは主の恵みの御業を見る。「お前の神、主はどこにいるのか」と
わたしに言っていた敵は このことを見て恥に覆われる。わたしの目はこの様を見る。
参考:ここには、エルサレムが陥落したのは偶然のことではない(サムエル上6:9)、主が無力であるからではない(列王記下18:22-35)、エルサレムの罪に対する主の御怒りのゆえである(7:9)という、聖書による歴史観がはっきりと描き出されている。
11-13節で、主はエルサレムの信仰告白に答えて希望の使信を語っておられる。すべての国の人々は
エルサレムの再建される城壁のうちで救われ、それ以外の地は罪によって滅ぼされるようになると語る。
この城壁(新改訳では「石垣」)は塁壁ではなく、群れの囲いも含む一般的な壁である(参照4:8)。こ
の壁(終末論的な羊の囲い)は非常に大きく(ミカの世界:アッシリアからエジプト。海から山まで)
救いを求める者はすべて、そこで救いを見いだすことが出来る。
ミカ7:11-14 あなたの城壁を再建する日 それは、国境の広げられる日だ。その日、人々はあな たのもとに来る アッシリアからエジプトの町々まで エジプトからユーフラテスまで 海から海 、山から山まで しかし、大地は荒れ果てる そこに住む者の行いの実によって。
(救いを見いだす囲い) ヨハネ10:15,16「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。」
14-20は、主への祈りであり讃歌である。
14,15で始まるミカの祈りの中に、15節で主が一人称をもって割り込んで来られているのに気付く。
ミカの祈りと黙想は、神との語らいの中で続けられているのである。ここには、祈りとは、ただ一方的な嘆願ではない、神を待ち望み、神に問いかけ、神が応じてくださる、という実例がある。
ミカは、主が民を牧してくださることをひたすら祈り嘆願する。
*「バシャン」 申命記3:1-7 王オグがイスラエルと戦ったが敗れた。
申命記3:13 マナセの半部族に割り当てられた。広く肥沃な高原で牧畜に適す。
「ギレアド」 申命記3:10、ヨシュア13:8,11、牧草が豊富で牧畜が盛ん。
「遠い昔のように」とあることから、モーセがこれらの肥沃な地を与えられたことに思いを馳せ、今この時も豊かな囲いで養われることをミカは祈る。
最後にミカは、神を讃美してこの書を閉じる。咎を抑え、罪を赦される憐れみの神への讃美である。
国を滅ぼされた人々は、預言の言葉によって罪あるものを赦して再生される神の憐れみを信じた。この希望は、新約聖書にも今の時代にも生きている。
ミカ7:18,19 あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分
の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。 主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
罪を赦される神 ― 「人よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5:23ほか)と言われる主イエスの権威。