「わが助けはいずこから」(2022年5月「道しるべ9号」より)
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
(詩編121篇より)
かつて、イスラエルがバビロンに捕囚とされた時のこと、失意と悲惨が民を覆っていました。その中で
詩人は叫びます。「助けはどこか来るのか」と。
……この詩人の思いにも似て、わたしもまた「山々を仰ぐ」この時……
この時、詩人の問いかけの叫びに、詩人の魂は答えます。「わたしの助けは来る 天地を造られた主の
もとから」
……詩人の答えに光を見出します。わたしを造られた神は今も見守ってくださる方、
失意のわたしを力づけ、新たにしてくださる方。……
「収穫のために」(2020年9月号「月報恵泉」巻頭言)
「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:38)
この言葉は、主イエスが弟子たちに言われてから今日まで色あせることはない。
そして、わたしもまた願い求め続ける。
◇◇◇
折も折、神戸改革派神学校からの校報が届き、「求む、献身者!」の巻頭言が目に入った。改革派教会の教師不足の実体が縷々書かれている。「礼拝生活、…が危機に瀕している」との警鐘の声と「求む、献身者!」に心が向かう。
その数日後、8月22日付けの「新型コロナウイルス感染症対応の状況(12)」が転送されてきた。その中の一文には「現住陪餐者が少なく、財政的豊かさが見られない今、定住教師が与えられればと考えます。校報を読む程にその道は、実に険しく見えます。」と記されていた。
◇◇◇
さて、わたしたちの福井の教会のことである。校報の論点に立つとき、日本キリスト改革派内では集会にしかすぎないがゆえに「実に険しく」どころか「際限なく険しく」となるのだろうか。そう思う。率直な感想である。胸が痛む。
そして、神の御言葉と神がなさっておられる恵みの現実に心が向かう。すると、
「無限に険しく」でも「際限なく険しく」でも断じてなく、開かれているみごとな展望に気づく。
主は、冒頭の言葉に先立ち「収穫は多いが働きは少ない」と言われたではないか。主の目には「打ちひしがれている」現実だけが見えたのではない。そこに主は、刈り入れの実りを既に見ておられた。
教会の置かれている困難の嘆きからは、いかに現実を分析しようが働き手は期待できない。それに先立ち、「収穫は多い」「畑は既に色づいて刈り入れを待っている」の現実にわたしたちの目が開かれているか、教会が救霊の熱情に燃えているか、が問われているのではないかと思う。
◇◇◇
「わたしたちの先を進まれる」(イザヤ52)主は、この国には本当の働き手が必要なのをよくご存じなのだ。福井でいえば、ここは屈指の仏教国。それだけに人々は真理から遠く、「打ちひしがれている」。まさに「収穫は多い」と主が言われる地。
主は、働いておられる。必要をご存じの主は、わたしたちの思いを超えて必ずことをなさる。わたしたちはその現実をこの群れを通してこの目で見てきた。
わたしたちに問われるのは、主への信頼。伝道については、嘆きに先立つ、救霊の熱情が伴うヴィジョン。それに応え、主は最善の「時」に(コヘ3:1)、この福井にも働き手を送ってくださる。
喜ばしき復活の日を望みて(2019年9月号「月報恵泉」巻頭言)
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。」(ローマ11:34より)。
パウロは、人類に対する神様の究極の御計画の深さに圧倒され、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」と神をほめたたえる。
◇◇◇
わたしたちも、実に全能の神様の御計画の中にあって、神様のシナリオの中に生きている。自分が予測できないことも、行きづまっていると思うことも、それで終わりではない。
独り子を与えてまでして、わたしたちを愛してくださる神様である。この方は、わたしたちの最善のために、実はわたしたちの人生のひとコマひとコマ ―
それは、嘆くような経験も、悔いる思いの局面も、浅はかにも有頂天になった体験も、そうした一切のもの ― を用いられて、御計画へと導いておられるのである。
◇◇◇
福井伝道所(現時点で宗教団体「福井恵泉教会」として県に登録。以下「福井恵泉教会」)の今までの歩みを思うとき、この教会へと主に召された互いを思うとき、神の御計画の中に置かれている奇しき恵みを実感する。
その御計画の中に「教会墓地の建設」が組み込まれていた。一人ひとりがその神の御計画に圧倒され、主の一家族として恵の御業に与ろうとしている。
そして、考える。
✧墓地とは何か カルヴァンは遺言の最後のところで記す。「この生命を終えた後には、喜ばしき復活の日が到来するまで、…遺体を埋葬される…。」
墓地は、魂や何かが宿っている所ではない。故人と故人の信仰を思うだけの場所でもない。目指すは、神がその子らに約束してくださった天にある命に目を向けるところにある。信仰を抱いて死んだ故人もそれを望み見ていた。墓地、それは、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」(黙示録21:3)日を待ち望むしるし。
✧ふさわしい場所は 信仰の父アブラハムは妻サラが亡くなったとき、ヘブロンのマクベラに墓を所有した。ヘブロンはサラにもアブラハムにも思い出の地、祭壇を築いた場所、礼拝の捧げられた所であった。信仰を継承するイサク、ヤコブ、ヨセフもそこに葬られた。
福井恵泉教会墓苑は勝山にある。教会の初めての礼拝が捧げられた地である。
✧目指す墓苑 墓前礼拝の場にふさわしく、シンプルで落ち着いた墓石、墓石の聖句、公園風に、植栽を工夫など、一同の思いの込められた構想が、神が備えてくださった323㎡に実現しつつある。
そして、わたしたちは何よりも願う。「すべてのことが神のために」。
主のお供をして(2018年9月号「月報恵泉」巻頭言)
ユダヤの荒れ野→ヨルダン川→荒れ野…に始まりイスラエル南部・ユダ地方、イスラエル北部・ガリラヤ、再三のエルサレム・ガリラヤの旅 …この間、ある時には山へある時には湖上へ、ガリラヤ湖の向こう岸ゲラサ人の地へ、北部のティルスとシドンの地へ、ヨルダンの東デカポリスへ、フィリポ・カイサリアへ、など→最終地は、エルサレム。
すべてが徒歩。主イエスが公生涯で歩まれた“みちゆき”である。ガリラヤとエルサレムとの距離はおよそ140km 、道のりにすればもっとある。それに幾倍するどれほどを主は歩かれただろうか。
「エルサレム以外の所で死ぬことはあり得ない」と言われ、「今日も明日も、その次の日も」主は御自分の道を進まれた。
この間、それは「町や村を残らず回って」おられたとき、主の目には「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々の姿がはっきり映っていた。主はこの人たちを「深く憐れまれ」、御国の福音を宣べ伝えられたのである。
主が、距離をいとわず、町々の道のりを歩かれたのは、「福音を宣べ伝える」ためである。このために、ある時には、ユダヤ人たちから石で打ち殺そうとされ、ある時には、会堂内で総立ちになった人々に山のがけまで連れて行かれ突き落とそうとされた。
◇◇◇
その弟子たちのこと。
主イエスから宣教へと派遣されたときには、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と指示された。弟子たちは困苦欠乏に耐える日々を、主イエスとともに歩んだ。すべては徒歩。
歩く“みちゆき”は主イエスと同じ。その中で、彼らも、ある時には「空腹になり」、「疲れはてて眠り」、人々からは「ののしられ、身に覚えのない悪口を浴びせられ、迫害された」。そのようにして福音は運ばれた。
◇◇◇
最後に、主イエスの深い愛に包まれているわたしたちのこと。
「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」。その良い知らせを、わたしたちの教会は運ぶ。引っ込み思案になる時があっても、主が一緒に歩いてくださる。わたしは「今日も明日も、その次の日も」主のお供をしよう。主の教会から、良い知らせを告げる足が萎えないように、あるいは祈り、あるいは戸別に足を運び、あるいはそれを支える一人ひとりとして。
教会の伝道の働き・その足の美しさは、どれほど主の深い憐みの心を自分が受け継いでいるかにかかっている。
雪にもめげず(2018年2月「福井恵泉の日々」より)
鉄塔倒壊もあった五六豪雪を思うこの冬の大雪に、教会も除雪作業に追われた。幸い礼拝は、祝福のうちに導かれた。
教会の兄弟姉妹と共に教会への道づくり除雪をしながら、賛美21—575に思いをよせる。
「球根の中には 花が秘められ、さなぎの中から いのちはばたく。寒い冬の中 春はめざめる。その日、その時を ただ神が知る。
沈黙はやがて 歌に変えられ、深い闇の中 夜明け近づく。過ぎ去った時が 未来を拓く。その日、その時を ただ神が知る。」
‟雪”三題(2018年1月「福井恵泉の日々」より)
〇雪は”不思議”
福井にも雪の季節がやって来た
雪は”不思議”だ
雪のやんだ日など あたりの山野は静けさに包まれる天然の宝石を
まばゆいばかりに敷き詰めたようだ
人工の息づかいはそこにはない
なにもかも人のにおいのあるものを ベールでおおう
ありし日の太古のたたずまいの再現か
すべてが新たにされる日の到来か
まるで新しい自分を発見できるような感動に包まれる。
この日、教会も新たな名称で歩み始めた「日本キリスト改革派福井恵泉教会」として。
(2017.12.10)
〇雪からのメール
雪は日ごと姿を変える、見事に…。
そして、わたしたちの生活に色合いをそえ、
わたしたちを豊かにしてくれる。
夜、すべてのものが寝静まっているその時に、
静かに、本当に静かに、
周りのたたずまいを変えていく。
雪の一息一息が、ひらひらと形となって、
この雪国のキャンパスを見事な作品に仕上げているのだ。
目覚めと共に、
きのうとは全く違った世界が目の前に現れる。
温かさを伝えたり、愛を届けたり、
厳しさを教えたり、過去を振り返らせたり、
夢を抱かせたり……、
雪は神の使いだろうか…
変化(へんげ)となってわたしたちに「豊かさとは何か」のメールを届けてくれる。
雪国の朝は、そのメールを開く時。
そう思いながら、一夜40センチの新雪をまとった庭木にカメラを向けた。
(2018.1.11)
〇感動のひととき
数日降り続いた雪が途切れた。
その朝、周りのあまりもの美しさに圧倒された。
光と雪とが、360度見渡す限りの世界を神々しくも装った。
豪雪の重々しさが嘘のようだ。
この日は主の日。
礼拝前の除雪作業は心も明るい。 (2018.1.14)
選 択 (2017年9月号「月報恵泉」巻頭言)
聖書の人物の誰もがそうであるように、人は選択の場面に絶えず立つ。
エバ‐「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、賢くなるように唆していた。」
アブラハム‐「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
モーセ‐「モーセは、…キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。」
ヨナ‐「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。」
この人たちだけではない。聖書は、多くの人たちの人生における選択の場面を語りかける。その選択の場面で、彼らは何に心を動かしたのだろうか。
◇◇◇
アブラハムのこと、そしてヨナのことを考えてみよう。
アブラハムは甥ロトと共にベテルの高地に立った。ここで二人は、それぞれがこれから住まう地を選び定めるのである。
ロトは目を上げた(創世記13:10)。その目は、ヨルダン川流域の見渡す限り潤った地に吸いつけられる。そして自分自身の利益のために、この地に天幕を移したのである。
アブラハムも目を上げた(創世記6:14)。このときアブラハムが目を上げたのは、何が彼の人生を物質的に満たすのかを見るためではない。「目を上げて…」と言われる神のことばどおりに従い、神が備えておられるものをみるために目を上げた。そして天幕を移し祭壇を築いたのである。
ロトもアブラハムも信仰者である。信仰者が目を上げるのであるが、自分自身のためにという下心をもってなのか、神のことばに従う思いからなのか、その違いにわたしたちは心を向けたい。
ヨナは、どうだろうか。彼は主の御前から逃れようとした。このことは、ヨナが神に仕える意思がないということである。「獅子がほえる 誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる 誰が預言せずにいられようか。」(アモス3:8)からはほど遠い。
しかし、神の憐みはそのような選択をしてしまったヨナにも注がれる。「さてヱホバすでに大なる魚を備へおきてヨナを呑しめたまへり(文語訳)」神は「すでに」「備へおきて」おられるのである。
◇◇◇
神の民は伝道や教会形成について語る。滅びゆく人々への思いからなのか、教勢への思いからなのか、自分の信仰心が満たされるためなのか。神の仰せの故か。
わたしは神の助けを求めて「目を上げる」。そのとき、ただ「すでに」「備へおきて」おられる神のみを仰ごう。(山本怜)
熱 望 (2016年9月号「月報恵泉」巻頭言)
アブラハムは信仰の父と言われる。これは他人事ではない。当たり前のことであるが、わたしにとっても信仰の父ということである。
それでは、と自分に問う。わたしは、どれほど信仰の父の生きざまをはっきりと知っているのだろうか。確かに、聖書の中に記されているアブラハムについての出来事は知っている。しかし、知っているだけではなく、信仰の父と呼ばれるその「信仰」に生きたいと思う。
そして、改めてカルヴァンがアブラハムについて触れている個所を「綱要」で読み返してみた。
◇◇◇
カルヴァンは、先ずアブラハムの人生に目を向けさせる。
・創世記12:1神からの召しは、人生の喜びがそこにあると考えられていた祖国と親戚、友から引き離されることであった。
・同12:10住むように命じられた地に入るや、飢饉によって追い立てられた。
・同12:11-20助けを求めて逃げた先では、妻に姦淫を犯させ身の安全をはからねばならなくされたが、これは何度も死ぬことよりも辛いことであっただろう。
・同13:7-11多年にわたる放浪の間、息子のように思っている甥とは、僕たちの間の止むことなき争いのために、忍び難い分離を余儀なくされる。
続いてカルヴァンは、聖書に従って、ゲラル王から井戸の使用権を買い取った事情、老齢になり子のないまま年を重ねる辛さ、女奴隷ハガルの高慢の助長による家庭内紛糾の原因が夫にあるとの妻サライの非難に憔悴するアブラハム、等々を記す。全生涯を通じて、彼は追われ苦しめられる禍いを受けたのである。最後にすべての禍いの例をも越えるものとして、父の手で子を殺すことになるということにまで直面した。
カルヴァンは、イサク、ヤコブの悲惨の人生にも触れて、「もし彼らが残して来た所を慕う気持ちに駆られていたなら戻る機会はあった。しかし、彼らの求めたのはそれ以上の、すなわち天にある故郷であった。」と記すのである。
◇◇◇
天にある故郷への思いを使徒は「熱望」していたと表現する(ヘブライ11:16)。
この「熱望」のゆえに、彼らは全生涯が悲惨の中に置かれても、喜びの声を上げたのである。この「熱望」をこそ、父アブラハムの信仰の真髄としてしっかりと受け継ぎたい。わたしは、どれほど心から天の故郷を熱望しているだろうか。
わたしたちに臨む高齢ゆえの不自由も、長い苦しい病も、苦難も、それらの一切を乗り越えて、わたしたちの心は天にある生の浄福で満たされる。
(山本怜)
へりくだり (2015年9月号「月報恵泉」巻頭言)
キリスト教綱要に引用され、そしてよく知られたアウグスティヌスの言葉。曰く「修辞学者デモステネスは、雄弁の第一の規則は何かと問われた時、明快な発音だと答え、第二はと問われると、明快な発音だと答え、第三はと問われると、明快な発音だと答えた。そのように、もしあなたがわたしにキリスト教の規則はと尋ねるなら、第一にへりくだり、第二にへりくだり、そして第三にもへりくだり、といつもへりくだりをもって答えるであろう」。
このへりくだりの模範は、わたしたちの主キリスト御自身である(フィリピ2:5-8)。そして、聖書はわたしたちに呼びかける。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい」。
◇◇◇
この御言葉のとおりに一人一人がへりくだりの人となり、この福井の群れが主のへりくだりを映し出す教会となることを心から願う。福井の地に、改革派教会としてこの伝道所が始められてから週報ナンバーに見る通り11年目を迎えている。自立開拓伝道から、何もない中での始まりであった。吹雪の日や豪雪の時も、説教者だけの出席で説教をした日にも、主は必ずこの教会に共におられ導いてくださった。小会の理解のもとで、新たに加わる兄弟姉妹と共に主日礼拝と祈り会を休むことなく守ることができたことは大きな喜び。
わたしたちの先を進むのは主、しんがりを守るのも神(参照:イザヤ52:12)。そして何よりも、主の霊がおられるところには「自由」がある。この現実に堅く立って、神の賜物に感謝したい。
一にも、二にも、三にも、「へりくだり」を身につけた教会には、平和がみなぎる。
そこには、次のようなことは決して入りこめない。
・コリント一1:10,11仲たがい、争い
・ローマ14:1 信仰の弱い人批判
・ローマ14:15 裁き合い
代わって入ってくるのは、
・コリント一8:11「その兄弟のためにもキリストは死んでくださった」という熱い思いと兄弟愛
・フィリピ2:3「相手を自分よりも優れた者と考え」る真の思いやり
ここにあるのは、「厚かましく、わがまま」な自由ではない。「愛によって互いに仕え合う」自由(ガラテヤ5:13)。
◇◇◇
主は言われる。「あなたに欠けているものが一つある。 行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」。欠けているもの、売り払うべきものは何か。信仰の純度が問われる。(山本怜)