信仰と生活

選 択 (2017年9月号「月報恵泉」巻頭言)

聖書の人物の誰もがそうであるように、人は選択の場面に絶えず立つ。
エバ‐「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、賢くなるように唆していた。」
アブラハム‐「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
モーセ‐「モーセは、…キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。」
ヨナ‐「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。」
 この人たちだけではない。聖書は、多くの人たちの人生における選択の場面を語りかける。その選択の場面で、彼らは何に心を動かしたのだろうか。
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アブラハムのこと、そしてヨナのことを考えてみよう。
アブラハムは甥ロトと共にベテルの高地に立った。ここで二人は、それぞれがこれから住まう地を選び定めるのである。
ロトは目を上げた(創世記13:10)。その目は、ヨルダン川流域の見渡す限り潤った地に吸いつけられる。そして自分自身の利益のために、この地に天幕を移したのである。
アブラハムも目を上げた(創世記6:14)。このときアブラハムが目を上げたのは、何が彼の人生を物質的に満たすのかを見るためではない。「目を上げて…」と言われる神のことばどおりに従い、神が備えておられるものをみるために目を上げた。そして天幕を移し祭壇を築いたのである。
ロトもアブラハムも信仰者である。信仰者が目を上げるのであるが、自分自身のためにという下心をもってなのか、神のことばに従う思いからなのか、その違いにわたしたちは心を向けたい。
ヨナは、どうだろうか。彼は主の御前から逃れようとした。このことは、ヨナが神に仕える意思がないということである。「獅子がほえる 誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる 誰が預言せずにいられようか。」(アモス3:8)からはほど遠い。
しかし、神の憐みはそのような選択をしてしまったヨナにも注がれる。「さてヱホバすでに大なる魚を備へおきてヨナを呑しめたまへり(文語訳)」神は「すでに」「備へおきて」おられるのである。
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神の民は伝道や教会形成について語る。滅びゆく人々への思いからなのか、教勢への思いからなのか、自分の信仰心が満たされるためなのか。神の仰せの故か。
わたしは神の助けを求めて「目を上げる」。そのとき、ただ「すでに」「備へおきて」おられる神のみを仰ごう。(山本怜)

熱 望 (2016年9月号「月報恵泉」巻頭言)

 アブラハムは信仰の父と言われる。これは他人事ではない。当たり前のことであるが、わたしにとっても信仰の父ということである。
それでは、と自分に問う。わたしは、どれほど信仰の父の生きざまをはっきりと知っているのだろうか。確かに、聖書の中に記されているアブラハムについての出来事は知っている。しかし、知っているだけではなく、信仰の父と呼ばれるその「信仰」に生きたいと思う。
そして、改めてカルヴァンがアブラハムについて触れている個所を「綱要」で読み返してみた。
◇◇◇
カルヴァンは、先ずアブラハムの人生に目を向けさせる。
・創世記12:1神からの召しは、人生の喜びがそこにあると考えられていた祖国と親戚、友から引き離されることであった。
・同12:10住むように命じられた地に入るや、飢饉によって追い立てられた。
・同12:11-20助けを求めて逃げた先では、妻に姦淫を犯させ身の安全をはからねばならなくされたが、これは何度も死ぬことよりも辛いことであっただろう。
・同13:7-11多年にわたる放浪の間、息子のように思っている甥とは、僕たちの間の止むことなき争いのために、忍び難い分離を余儀なくされる。
続いてカルヴァンは、聖書に従って、ゲラル王から井戸の使用権を買い取った事情、老齢になり子のないまま年を重ねる辛さ、女奴隷ハガルの高慢の助長による家庭内紛糾の原因が夫にあるとの妻サライの非難に憔悴するアブラハム、等々を記す。全生涯を通じて、彼は追われ苦しめられる禍いを受けたのである。最後にすべての禍いの例をも越えるものとして、父の手で子を殺すことになるということにまで直面した。
カルヴァンは、イサク、ヤコブの悲惨の人生にも触れて、「もし彼らが残して来た所を慕う気持ちに駆られていたなら戻る機会はあった。しかし、彼らの求めたのはそれ以上の、すなわち天にある故郷であった。」と記すのである。
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天にある故郷への思いを使徒は「熱望」していたと表現する(ヘブライ11:16)。
この「熱望」のゆえに、彼らは全生涯が悲惨の中に置かれても、喜びの声を上げたのである。この「熱望」をこそ、父アブラハムの信仰の真髄としてしっかりと受け継ぎたい。わたしは、どれほど心から天の故郷を熱望しているだろうか。
わたしたちに臨む高齢ゆえの不自由も、長い苦しい病も、苦難も、それらの一切を乗り越えて、わたしたちの心は天にある生の浄福で満たされる。
(山本怜)

へりくだり (2015年9月号「月報恵泉」巻頭言)

 キリスト教綱要に引用され、そしてよく知られたアウグスティヌスの言葉。曰く「修辞学者デモステネスは、雄弁の第一の規則は何かと問われた時、明快な発音だと答え、第二はと問われると、明快な発音だと答え、第三はと問われると、明快な発音だと答えた。そのように、もしあなたがわたしにキリスト教の規則はと尋ねるなら、第一にへりくだり、第二にへりくだり、そして第三にもへりくだり、といつもへりくだりをもって答えるであろう」。
このへりくだりの模範は、わたしたちの主キリスト御自身である(フィリピ2:5-8)。そして、聖書はわたしたちに呼びかける。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい」。
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この御言葉のとおりに一人一人がへりくだりの人となり、この福井の群れが主のへりくだりを映し出す教会となることを心から願う。福井の地に、改革派教会としてこの伝道所が始められてから週報ナンバーに見る通り11年目を迎えている。自立開拓伝道から、何もない中での始まりであった。吹雪の日や豪雪の時も、説教者だけの出席で説教をした日にも、主は必ずこの教会に共におられ導いてくださった。小会の理解のもとで、新たに加わる兄弟姉妹と共に主日礼拝と祈り会を休むことなく守ることができたことは大きな喜び。
わたしたちの先を進むのは主、しんがりを守るのも神(参照:イザヤ52:12)。そして何よりも、主の霊がおられるところには「自由」がある。この現実に堅く立って、神の賜物に感謝したい。
一にも、二にも、三にも、「へりくだり」を身につけた教会には、平和がみなぎる。
そこには、次のようなことは決して入りこめない。
・コリント一1:10,11仲たがい、争い
・ローマ14:1 信仰の弱い人批判
・ローマ14:15 裁き合い
代わって入ってくるのは、
・コリント一8:11「その兄弟のためにもキリストは死んでくださった」という熱い思いと兄弟愛
・フィリピ2:3「相手を自分よりも優れた者と考え」る真の思いやり
ここにあるのは、「厚かましく、わがまま」な自由ではない。「愛によって互いに仕え合う」自由(ガラテヤ5:13)。
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主は言われる。「あなたに欠けているものが一つある。 行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」。欠けているもの、売り払うべきものは何か。信仰の純度が問われる。(山本怜)