雅歌

「エルサレムの娘たち。
 私はあなたがたにお願いします。
 揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。
 愛がそうしたいと思うときまでは。」
         (雅歌 2:7、3:5、8:4)

・毎日、聖書を読む時に、お役立てください。

雅 歌 1章


一日一章  今日の聖書  雅歌1章
 
 雅歌のヘブル語の直訳は「歌の中の歌」で「最上の歌」の意味です。雅歌については、恋の歌は聖書にふさわしくないとある人たちいいますが、「すべての諸書は聖なるものだが、雅歌は最も聖なるものである」とも評されています。確かに雅歌は文字どおりには「恋の歌」ですが、神と信仰者の交わりを歌っている「信仰の歌」なのです。
 登場するのは、おとめ(花嫁)、若者(王)、おとめたちです。おとめと若者は神の民と神、また信仰者(教会)とキリストとして読まれてきました。婚礼の合唱を歌うおとめたちは聖霊とも読めます。
 1∼5節「あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、…」とおとめは歌います。王の愛が一人のおとめの心を圧倒します。その愛は、おとめを愛に燃える者に造り変える愛です。素晴らしい力ある愛です。ユダヤ人たちはこれを、主なる神が御自身の民を愛して、民を主を愛する者としてくださる状況を歌ったものだと考えました。教会は、主イエス・キリストが教会を形づくってくださる状況であると受け止めました。私たちもキリストの圧倒するばかりの愛を受け、その愛に応えて主を愛し、人を愛する者へと導かれているのです。
 7節 おとめは「あなたはどこで羊を飼っておられるのでしょうか」とうたいます。若者を見失ったのでしょう。信仰者が魂の羊飼いを探して窮している状況といえます。私たちが羊飼いであるキリストを見出だすのは、主がマムレの木の所で真昼にアブラハムに現れたように(創世紀18:1)、義の太陽であるキリストがご臨在されるご自分の教会なのです。そこで私たちは養われていくのです。 9節の「ファラオの戦車の馬」は良く訓練され力強く、かつ従順な馬です。キリスト者はその馬のように、力強く、従順な者とされていくのです。-山本怜-

 



雅 歌 2章


一日一章  今日の聖書  雅歌2章

 1節の「私はシャロンのバラ、谷間のゆり」の訳はきれいで誤解を生むかもしれませんが、言っていることは「私は野生の平凡な花に過ぎません」ということです。それに対して若者は「あなたは茨の中のゆりの花のようだ」と返すのです。
 このところを、神のみ前で自分を見つめた人の告白として読みますと、私はまことに野生の花そのもの、香りもなくみすぼらしい、という告白になります。それに対してキリストは、花嫁として描かれている信仰者に「あなたはわたしには茨の中に咲いた一輪のゆりの花」だと言ってくださるのです。茨の中では蒔いた種も育ちません(マルコ4:14∼19)。しかし、このゆりはそうした中でも立派に花を咲かせているのです。何と頼もしく、そして見事に美しいゆりでしょう。そのように、神はこの世の荒波(試練)にありながらもキリストにより頼み、信仰に生きる神の子たちを喜んでくださるのです。
 8節以降は第二景、おとめの長いセリフです。その中で、彼女はうたいます。「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を飛び越え、丘の上を跳ねて」。信仰の歌としては、「愛する方」とはキリストのことです。この場合「山」や「丘」は何を表しているのでしょう。天の神であるキリストと地上にある人との間にあるものです。それは空中の諸霊ではないでしょうか(エペソ2:2)。また、それは御使いたちのいる所ではないでしょうか。私たちには見えない世界をも超えて、キリストはこの世に来られたのです。その訪れ、私たちを愛するがゆえに来てくださったキリストの「さあ、立って、出ておいで」(10)の招きの声き聞き洩らすことなく、その愛の招きにお応えして、喜んで従って行きたいと思います。-山本怜-

 

 


雅 歌 3章


一日一章  今日の聖書   雅歌3章 

 この章では、おとめ(1∼4)、若者(5)に続いて、おとめたち(6∼11)がうたいます。その中で若者がうたうことばに、私たちは見覚えがあるのではないでしょうか。2:7節のことばです。2:7節は第一景の終わりのことばですから、同じことばの5節で第二景が終わり、6節からは第三景に入ると見ることができます。
 前章8節からの第二景では、若者はおとめを花が咲き乱れる自然へと誘いました。おそらく、ぶどう畑を荒らす小狐を捕らえる業に誘い出したのでしょう(2:15)。そのときおとめは、愛されることだけを求めて、愛してくれる人の愛のわざに参加しようとはしなかたのです。
 その後、おとめは愛してくれる人がいつまで待っても来てくれない切なさにとうとうある夜起き上がり、彼を探しに夜の町に出ていきました。必死になって捜しましたが見つかりません。ところが間もなく彼を見つけることができました。何をしていたのでしょう。小狐を捕らえることができず沈みこんでいたのでしょうか。おとめは彼を離さず、母の家の奥の間にお連れしたのです。
 私たちは主の愛だけを求めて、愛の主と共に生きることをせず、やがて寂しいことに気づきます。そのような時、私たちがしなければならないことは、起きて出て行って求めることです。夜にキリストを訪ねたニコデモのように(ヨハネ3章)、ピリポのところに来たギリシャ人たちのように(ヨハネ12章)、キリストの所に行って、今まで頑なにしていた心の戸を開くのです(黙示録3:20)。6節以降は第三景です。ソロモンが 香料をくゆらせ、供を従えて婚礼に行く状況です。彼女が誰に愛されているかを知らせるのです。このことは、私たちを愛している方が、全能の神であることに気づかせます。-山本怜-


 

 


雅 歌 4章


一日一章  今日の聖書  雅歌4章

 おとめの愛が、3:4で報われる時が来ました。愛する人・若者を見つけて母の部屋に連れていく二人に、おとめたちの意味深長なソロモンの歴史に残る結婚式の歌がつづいたのです(3:6∼11)。
 こうして4章では、おとめをほめたたえる若者の歌が続きます(1∼15)。ほめたたえると言っても。それは体の各部分に及ぶ賞賛です。恋は相手をどんなにほめても足りないほどのことばを紡ぎ出させるのです。鳩のような目が美しい、話す口元は愛らしい、あなたのすべてが美しい、…などに、おとめの恥ずかしそうに赤らんでいるベール越しの表情が目に見えるようです。
 こうして、おとめは「北風よ、目覚ましなさい。南風よ、吹きなさい。私の園を吹き抜けて その香りを振りまいてください。愛する人が自分の園に来て、見事な実を食べますように」(16)とうたいます。それに応える若者の歌が5章1節です。それにしてもなんと大胆な相聞歌でしょう。
 このとき、おとめは「あなたは私をときめかせる」(9)とうたって愛を告白する若者に、私もあなたのものです(16c)、と告白したのです。
 パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」(ピリピ1:21)と告白しています。それはキリストの素晴らしさを知ったからであり、キリストを信じる信仰による義とされる恵みに与っているからだと言います(ピリピ3:8,9)。
「私にとって生きることはキリスト」と言える信仰の告白は、主が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と言っていただいたことのしるしです。主は私たち一人一人にそう言ってくださっておられます。その声を聞くのです。-山本怜-



 

 


雅 歌 5章


一日一章  今日の聖書   雅歌5章

 この章の1節は、4章の第三景の終わりにあたります。4章の「今日の聖書」で触れましたように、このとき、おとめをほめたたえる若者におとめは愛を告白し(4:16)、それに対して若者は、あなたは私の妹・(私のもの、の意)」と言い、「わが花嫁よ」と言って愛の喜びをうたい、友人たちにも「あなたがたも楽しんでくれ」と声をかけたのです(1)。
 私たちは、「あなたのために命を捨てる」(参照ヨハネ10:11)と言われる主のことばを聞いて、どうぞ私を御心のままにお使いくださいと自分を主にお渡しします。すると、主は「あなたはわたしのもの」と言ってくださるのです。そこで初めて私たちはパウロと同じように主に救われた者として、「私にとって生きることはキリスト」と言えるのです。キリストのものとされていることを喜び、私は決してあなたを捨てませんと、私たちも主への愛の告白を告げるのです。
 2∼16節は第四景です。2節から8章4節に及ぶ長い部分には、今までの章で成就したおとめと若者の二人の関係が、願望、拒絶、探求、発見という展開を通して作り上げられていくことが描かれています。
 ある夜、おとめの家を若者が訪ねてきました。おとめはもう部屋着に着替えています。それで服に着替え、身なりを整えて戸を開けたときには、なかなか戸を開けてくれないおとめに失望したのか、若者は立ち去った後でした。おとめは誤解を解くべく追いかけますが見つけることはできません。そのうえ夜警には怪しい女として打たれ、傷を負わせられました。雅歌がこのところで表そうとしていることは何でしょうか。主は戸口に立って戸を叩いておられるのです(黙示3:20)。けれどもそれに応えず、自分のことにこだわっていることではないでしょうか。-山本怜-


 

 


雅 歌 6章


一日一章  今日の聖書  雅歌6章

 1∼3節 おとめは去っていった若者を捜しますがなかなか見つかりません。おとめたちも協力して捜し、とうとう居場所が見つかったようです。彼は園へと下って行ったのです。
 下っていった園とは、信仰者にとっては、どのような園でしょう。主キリストに思いを寄せて読んでみました。キリストは天から降りて来られた方です。地上に、さらに園へと下りて行かれました。園には新しい墓があります(ヨハネ19:41)。主はへりくだってそのところへと下りていかれたのです。
 十字架によって救われた者が、キリストとともに住むところも一つの園です。そこで「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています」とあります。ゆりの花は復活を表します。園には命があり、群れはその命に生きているのです。
 4∼10節 若者はうたいます。「あなたは愛らしく、美しい。それだけではない。旗を掲げた軍勢のような迫力がある。目や髪を見ても愛する思いは燃え上がる。私が愛するのは、まさにあなたのような人だ」という趣旨のことばを告げたのです。彼は、六十人の王妃、八十人の側女に囲まれても、彼女たちが引かれている思いに打算があることを見抜き、ただ彼自身の愛のゆえに彼だけを愛する女性を求めていたのです。おとめはそのことに気づいたのです。そして、5:3,5の場面を思い出し、自分本位であったと思ったのではないでしょうか。
 私たちも、主だけが私のようなものを愛してくださったという事実をしっかり受け止め、そのご愛に応えて歩むのです。
 おとめは彼のいる庭に下って行き、気がつくと、若者の車、高貴な人の車に乗せられていたのです。-山本怜-



 

 


雅 歌 7章


一日一章  今日の聖書  雅歌7章

 1∼5節 若者はおとめに「高貴な人の娘よ」と呼びかけます(1)。その美しさ、人を喜ばせる愛、その人格…、彼女のすべてを称賛しています。前章ではシュラムの女(おとめ)が若者を「高貴な人」と呼び(6:12)、ここでは若者が彼女を「高貴な人」と呼ぶのです。彼らは、相手を自分のものにしたいと願う愛よりも、更に高いレベルの愛の世界に互いに迎え入れられたのでしょう。
 そのような高貴な人の愛とは、どのような愛なのかと瞑想します。そして思い出すのは、パウロが「愛がなければ、何の役にも立ちません」と述べる愛、コリント一13:4∼8に記されている「決して絶えることのない愛」です。この愛があるところに、人間の持つ問題は溶解していくのだと示されます。私たちは、主イエス・キリストによってさらに高貴な愛の世界に入れられているのです。主は、私たちが父なる神を愛する者になるようにと、私たちを愛し、私たちのために御自身の命をも与えてくださったのです。そのキリストの愛に倣うことこそが大切なのです。
 6∼9節で若者はおとめとの交わりで深い満足を得たことを歌い上げます。高貴な愛があればこそ、人は真に満たされるのです。イザヤは、キリストの贖いの御業について、「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する」と預言しています。
 若者のうたう「婚礼歌」はここで終わります。その中で彼がうたう「ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ」(6)の声が心に響いてきます。私たちは人を愛したいと思っても、なかなかできない者なのです。しかし、キリストに倣い、隣人を愛することを祈るところから始まり、実(ガラテヤ5:22,23)を結ぶのです。-山本怜-



 

 


雅 歌 8章


一日一章  今日の聖書  雅歌8章

 4節に、2:7,3:5と同じことばがうたわれていますから、3:6~5:1の第三景に続いて、4節までの5:2~6:3は第四景、6:5節からは第五景と考えられます。
 1~3節は、おとめ(花嫁)のことばです。彼女は兄弟と自由に会うことができると同じように、若者(王)と外でもっと会いたいと言っているのです。そう言って若者を自分の母の家に招きます。彼女は王の花嫁ですが、王宮の中では自由に王のそばに行くことができないことを恨んでいるのでしょうか。若者の王という立場も理解してきたのでしょう。愛の成熟へのステップを踏んでいると言えます。
 神の子とされた私たちも、主キリストの花嫁として、主の愛をしっかり受けとめ、その愛に支えられて、成熟へ、つまり「栄光から栄光へと(花婿なる)主と同じかたちに」変えられていくのです(コリント二3: 18)。(参考 キリストの花嫁:雅歌2:10、ヨハネ3:29、黙示録21:9,27)
 おとめは愛の力を歌い上げます。「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみは黄泉のように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその炎を消すことができません。…(8:6,7)」
 ここに歌われている「激しいねたみ」は、十戒に出てくる「ねたみの神」(出エ20:5)の「ねたみ」です。「ねたむ神である」ということは「わたしを、心を尽くして愛してほしい」ということの裏返しの表現です。私たちを愛する神の愛は、御子を十字架に向かわせたほどに、強く、激しい愛です。私たちに「他のものをわたし以上に愛したら殺します」というほどの愛で、神を愛することを願い、命じておられるのです。」その神の愛に,まことの愛をもってお応えしましょう。-山本怜-