「私は主を待ち望みます。
私のたましいは待ち望みます。
主のみことばを私は待ちます。」
(詩篇130:5)
・毎日、聖書を読む時に、お役立てください。
詩篇 一日一章 107~150篇
詩篇 107篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第107篇
この詩を読み、「主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに」のフレーズが繰り返されているのに気づきます(8,15,21,31)。このフレーズには「主の恵み」が語られていますが、その主の恵みはどのような形になって現れたのでしょうか。それを四つの連が具体的に語ります。すなわち、荒野での災難(4~9)、囚われた者たちの解放(10~16)、死の病からの回復(17~22)、嵐に襲われた者たちの救出(23~32)です。それぞれに、「災難→助けを求める叫び(6,13,19,28)→主による救い→感謝(6,13,19,28)」が語られ」、「苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと 主は彼らを苦悩から救われた」ことを四つの面から描き出しているのです。
しかし、33節からは、神の主権にスポットが当てられます。物事の処理に至高の神が臨んでおられるのです。この詩を知る上で、33~43節の理解は大切です。
33~43節の鍵にあたる句は、43節「知恵のある者はだれか。これらのことに心を留めよ。主の数々の恵みを見極めよ」の命令だと考えられます。この命令に述べられている「これらのこと」とは、四つの連で語られてきたことです。それを正しく受けとめる上で、33~41には特徴のある表現のことばが使われていることに注目しましょう。そのことばは「…を∼に変える」という意味を持つことばです。あるところからほかのところに移動させたり、ある状態を全く違う状態に変えたりするのに使われます。この詩では、33,34,35節などに見られます。「主は豊かな川を荒野に」(33)、「肥沃な地を不毛の土地に変えられる」(34)、「主は荒野を水のある所に変え」(35)などです。この物事の逆転の中に見られるのはまさに主の恵みです。その恵みを見極めるのです。-山本怜-
詩篇 108篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第108篇
この詩の1∼5節は詩篇57:7~11と、6~13節は詩篇60:5~12と小さなちがいはありますが、ほとんど同じです。二つの部分を一つにして108篇としたのだと考えられています。従って、カルヴァンは詩篇を註解するにあたり、「この詩篇は詩篇第57〔7節―11節〕と、第60
〔5節―12節〕との合成であるので、以前に述べたことを、今また繰り返すことは冗長となるであろう」と記すにとどめています。
それにしても、どうしてそのようなことをしたのでしょう。考えられることは、第五巻(107篇∼150篇)の編集者がいたときのイスラエルの状況が、二つの詩を合成することによってよく表されるからです。
詩篇57篇の表題には「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに」とあります。一方60篇の表題には「ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩ノ谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに」とあります。
57篇のダビデは、絶体絶命の逆境の中で天からの助けによって救われる体験をし、賛美と感謝にあふれたとき、そして、60篇の表題から分かるダビデは、強敵を前にして神に向かって助けを求め、神の栄光が現れることを切に願っているときと考えられます。つまり、ここにあるのは、神賛美と、神の栄光が現れるようにとの嘆願です。
神賛美と神の栄光の現われを求める嘆願は、逆境にある信仰者にも、順境にある信仰者にも重要なことなのです。
私たちは、神を賛美し、神に栄光を帰すようにと召されていますが、とりわけ、逆境の中でも神を賛美し、神の栄光をたたえる信仰者として、主キリストにお従いしたいと思います。詩篇108篇は、どのよう状況に置かれても、その状況の中で力を与えてくれるのです。-山本怜-
詩篇 109篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第109篇
109篇は、いわれのない悪意に対して神に復讐を求めるめずらしい
詩です。6∼20、28、29節はキリスト者にとっては考えられないような復讐心に満ちみちた表現になっているので、「呪いのテキスト」とも言われています。しかし、「私の賛美である神よ」の確固とした立場で歌われていることがこの詩篇を支えています。
「ゆえもなく」(3)、善に代えて悪を、愛に代えて憎しみを自分に返してくる者たちがいるのです(5)。ただ祈るばかり(4)。神も沈黙しておられる(1)。このような現実の中で、ダビデは自分で復讐することなく、神のさばきに身をゆだねて神に助けを求めて祈るのです。
「私は、伸びていく夕日の影のように去り行き」(23)とありますように、ダビデは徹底した人格攻撃を受けています。彼は取り囲まれ(3)ており、公の場での攻撃を受け、「愛に代えて憎しみを」(4,5)はまさに裏切りです。痛手の深さははかりしれません。これはほとんどユダにあてはまる裏切りです。実際に、聖書は8節をユダにあてはめて(使徒1:16,20)、この詩篇の理解に光を投じています。裏切った者に対する主の途切れのない愛が、ここにはあります。その愛のゆえに正しくさばかれる主にダビデは復讐心を委ねて、祈ることができたのです(1,6,7)。
ただ祈ることしかできないダビデ。沈黙しておられる神。このような苦悩の中にも、宝石のように輝くものが、この詩篇の中にはあります。それは「主が貧しい人の右に立ち 死を宣告する者たちから彼を救われる」(31)ということばであらわされています。この31節の告白は、この詩のポイントです。ここには乏しい者の右に立っておられる弁護者としての主がおられるのです(31)。右に立たれる弁護者なる主は、「死を宣告する」さばきから救ってくださいます。-山本怜-
詩篇 110篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第110篇
110篇は、2篇とともに重要なメシア詩篇です。ユダ王国の王の即
位の時に祭儀文として用いられたと思われますが、内容的には、ダビデが聖霊によって語った(マルコ12:36、37)キリストについての預言です。主イエスは、マルコ12:36に示してありますように、110:1の「私の主」の「私」はダビデ自身、「私の主」はメシヤ(即ちキリスト)であると語られました。
参考 原文では1節の「主は」の「主」は「ヤハウェ」、「私の主」 の「主」は「アドナイ」です。「ヤハウェ」は、栄光の王として神 聖視されてきた神の最も大いなる御名で、神の不変、従って契約も 不変で約束を必ず実現される方であることを示します。アドナイは 神が万物の所有者であることを表し、それゆえ人は神に信頼し服従 するのです。
ダビデは聖霊の導きのもとに、御父が御子に語っているその光景を目の当たりにしながら記したのでしょう。
1節後半「わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで、」のことばは、主イエスが死から復活され、天に昇られたあと、み父の右に着座されたことを現しています。そして、そのときから後の時代のことが2節から示されるのです。2,3節は復活のキリストによる統治、5,6節はさばきの預言、その間には、永遠の救いの源
(ヘブル5:9)となる永遠の大祭司キリストが示されます。
キリストが復活されて、聖霊が降り(使徒2章)、キリスト教会が誕生したとき、この詩篇は宣教の重要な部分となりました。ペテロは、この預言によってイエスが聖霊を注がれたことの保証としたのです(使徒2:34,35)。私たちは、110篇のみことばによって、「私の主」が父なる神の右に座して、私たちのために日々に執り成しをしておられるイエスの姿を思い浮かべて、信仰の道を歩みたいと思います。-山本怜-
詩篇 111篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第111篇
111~113篇はハレルヤで始まります。特に111篇と112篇は、共
に各行の最初の文字が「いろは歌」の形式になっていて、この111篇では神について語ります。主に感謝をささげることから始まり、永遠に続く主への賛美で終わります。次の詩112篇では神のことばに聞き従い主を畏れる人を語ります。
詩人は、「私は心を尽くして主に感謝をささげよう。直ぐな人の交わ
り 主の会衆において。」(1)と言っています。私たちは祈りの中でどれほど主に感謝や賛美をささげているだろうかと、先ず、考えさせら
れます。そして「直ぐな人の交わり 主の会衆において」つまり主の
教会の交わりや祈り会などにおいて、心をそそぎ出す感謝こそ神に喜
ばれ受け入れられるものであることを教えられるのです。
この詩篇でもう一つ心に覚えておきたいことばは、五回出てくる「みわざ」です。「主のみわざ」(2)、「みわざは威厳と威光」(3)、「奇しいみわざ」(4)、「みわざの力」(6)、「御手のわざ」(7)。
みわざは神のご性質の現われです。それは偉大で、尊厳と威光、真
実、公正に満ちています。私たちの感謝や賛美は、これらの神のみわざの数々を心に結び付けておくことからあふれ出てくるのです。神のみわざに目を向けて、私たちの祈りも、感謝と賛美が基調となった豊かなものへと導かれたいのです。パウロは、コロサイの手紙で「感謝」を大切なこととして取り上げています(コロサイ1:3、1:12,2:7,3:15~17、4:2)。パウロが述べていることは、「感謝の心をもち、感謝にあふれて神を賛美し、また感謝をもって祈り、すべてをイエスの名によってなし、父なる神に感謝しなさい。」ということです。私たちも、不平不満やつぶやきではなく、いつも神に感謝をささげたい。-山本怜-
詩篇 112篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第112篇
111篇で触れましたように、112篇は主を恐れる人のわざに重点が置かれています。その意味では、「知恵の初め それは主を恐れること」(111:10)ということが、この112篇で展開されていると考えることができます。「幸い」(1)と「祝福」(2)は、「主を恐れること」(111:10)にあるのです(参考 旧約で、「主を恐れる」ことは「主を信じる」「主を愛する」と同義)。
「主を恐れる」とは、神と人(そして自分)との、本来、あるべきかかわりの在り方を、一語で言い表したものと考えることができますから、112篇では、「主を恐れる人」(1)を次のようないろいろな表現で言い表わしています。「主の仰せを大いに喜ぶ人」(1)、 「直ぐな人」(2,4)、「情け深く、人に貸し、自分に関わることを公正に扱う人」(5)、「正しい人」(6)、「主に信頼して心は揺るがない人」(7)、「心は堅固で恐れることのない人」(8)。
そしてこのような「主を恐れる人」の幸いと祝福を次のようにうたいます。 子孫は地の上で勇士となる(2)。 繁栄と富とがその家にある(3)。彼の義は永遠に堅く立つ(3,9)。その人の心は揺るがない(6,7)。 とこしえに覚えられる(6)。 悪い知らせを恐れない(7)。 貧しい人々に惜しみなく分け与える(9)。
ここにうたわれているのは、信仰から信仰へ、恵みから恵みへ、と成長していく姿ではないでしょうか。ところが、神を信じて従っているのに、問題や困難が尽きない、それに比べて、神を信じていない人たちが幸せに見える。そして、つぶやきを口にする自分に気づきます。しかし、同じような困難や試練の中を通りながら、神に信頼し賛美と感謝を捧げることを忘れない人たちがいるのです。その人たちこそ神を恐れる人。信仰に始まり信仰に進みましょう(ローマ1:17)。-山本怜-
詩篇 113篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第113篇
1—4節<上に高くおられる神>「ほめたたえよ」ということばは、ヘブル語では「ハレル」ですから、1節には三度「ほめたたえよ」が繰り返されているのです。「主の僕」すなわち、主の御名を信じて神の民とされた群れは、三度、すなわちどこまでも主をほめたたえるように招かれているのです。その賛美は永遠に
(2)、宇宙全体に(3)及びます。
5—9節<低く下る神> 「だれが 私たちの神、主のようであろうか」(5)と問いかけがなされ、それに、「主は高い御位に座し 身を低くして 天と地をご覧になる」と答えています。すべてを超えた至上性を持ちながら、最も低きにまで下るという両極端をしっかりと結ぶつけている独自性を持つ神は、他にはいません。
主なる神が御自身を低くされたキリストの謙遜の様をピリピ2:6-8は伝えています。神の御姿であられるキリストが、ご自分を空しくして、死にまで、それも十字架の死にまで従われたのです。天よりも高いところに座しておられる神が、最も低いところへと下られたのです。それは私たちを、「天の列の座に着かせられる」(8)ためです。主は「弱い者をちりから起こし」「貧しい人をあくたから引き上げ」「子のいない女を 子を持って喜ぶ母とされます(7~9)。
弱い者、貧しい人、子のいない女、私たち一人ひとりは、神の目から忘れられた存在ではありません。神は「身を低くして」(5)、私やあなたを「引き上げる」ためにかかわろうとしておられるのです。それは、ひとえに神の愛のゆえ。なんと感謝なことでしょう。
「ハレルや。主の僕たちよ ほめたたえよ。主の御名をたたえよ。今よりとこしえまで 主の御名がほめられるように」の詩人の声に応えて、私たちも主の御名をほめたたえます。ハレルヤ。-山本怜-
詩篇 114篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第114篇
イスラエルの民は、過越しの祭りのとき、食事の前に113~114篇をうたい、食後に115~118篇をうたいました。主イエスは、弟子たちと最後の晩餐をされたあと、賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけられました(マタイ26:30)。このときの賛美は115~118篇、そして食事の始まる前は113,114篇だったと考えられます。
過越しの祭は、イスラエルを出エジプトさせてくださった主の大きなみわざの記念です(出エ12:14)。それとともに、主イエス・キリストの死と復活による罪人の贖いを指し示しているのです(コリント一5:7)。このことを心にとめて、主イエスは、最後の晩餐の夜、どのような心でこの詩を受けとめられたのかと、黙想に導かれます。
1,2節で言われていることは、イスラエルの出エジプトは、神の一方的な憐れみによって救い出され、そればかりか、神の聖所、神の領地とされた(2)ということです。それはすべて神によって実行されました(モーセの召命、初子を打つ災い、紅海における救出など)。
3∼6節では、出エジプトのみわざのとき、紅海の水は退き、ヨルダンの水はせき止められ、山々は震えたと歌います。その結語は「地よ 主の前におののけ。ヤコブの神の御前に」ということです(7)。
出エジプトは、これほどの深さと広がりを持っているのです。そして、今や本当の「出エジプト」が起こるのです(参考 ルカ9:31で「最期」と訳されていることばは、「エクソドス」です)。
イスラエルの民が神の超自然的な介入なしには神の民として存在しなかったように、新約の神の民キリスト者も、同じように、神の超自然的な介入(受肉・十字架・復活)なしには存在し得ないのです。私たちもまた、「主の御前におののき」(7)ます。-山本怜-
詩篇 115篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第115篇
115篇全体では、神の不変の栄光と、忠実な者に神が与えてくださる祝福が歌われています。その中のいくつかのことばがこの詩の特徴となって心に響いて来ます。
一番大きな特徴は、13回も用いられている「主」(ヤハウェ)です。この詩を歌うとき、自ずと「主」に正対します。その主こそ「天と地を造られた方」(15)です。詩人は、その主に「あなたの御名栄光を帰してください」(1)と祈ります。これは、「主の祈り」の中の「御名が崇められますように」の祈りと同じように、本来誰にでもできるといった祈りではなく、罪赦され、神の「恵みとまこと」(1、ヨハネ1:14b)に気づかされた者だけが言えることばです。御名が輝くことが、私たち一人ひとりに輝きをもたらせるのです。主よ、「私たちにではなく、ただあなたの御名に栄光を帰す」ことに心を定めたい。
4-8節では、まことの神の<全能性>と、偶像の神の<無能性>が対比され、偶像を礼拝することの愚かしさが歌われています。偶像を造る者も信頼する者もみな同じです。偶像は、偶像礼拝の背後にある人間の霊的無知と、生ける神から背いたままの頑なさを指し示すものです。この偶像の現在の実体に気をつけなければなりません。それは、金、権力、イデオロギーであり、心の闇であり頑なさであり、人間の欲望を無限に肯定してくれる偽りの神です。その世界は闇の世界。その世界から立ち返り、「主に信頼せよ」とことばを重ねて(9~11)十字架の死と復活によって救いを完成されて主は呼びかけておられるのです。その呼びかけに、「主こそ助け また盾」(9~11)と心を定めて「私たちは主をほめたたえるのです(18)。私たちは自分への信頼ではなく、神にこそ日ごと依り頼むのです(参考 イザヤ30:15)。-山本怜-
詩篇 116篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第116篇
1節は大変珍しい表現で、それだけに重要な告白のことばです。原文では岩波訳が記していますように「私は愛する、主はお聞きになるから」となります。ここには「私は主を愛する」の「主を」がありません。この愛の告白は、「主は私の声、私の願いを聞いてくださる」と無関係ではありません。神は、私の声・私の願いを聞き、報いてくださるのです。その神のはからいが、私の歩みを決定づけるのです。
「主を愛する」とはどういうことなのかを、この詩で四つの面から教えられ、自らの主への愛を吟味させられます。
① 主を呼び求める(2,4,13,17)― 生きている限り、死の綱、よみの恐怖、苦しみの中で、救いの杯をあげ、感謝のいけにえを献げて―
② 主の御前を歩み続ける(9) ― 生けるものの地で―
③ 満願の献げ物をささげる・誓いを主に果たす(14,18) ― 御民すべての前で、主の家の庭で―
④ 主を信じる(10,11)― 激しい苦しみに襲われているとき、不安がつのるとき、人を信じることができないとき ―
15節には「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い」とあります。愛は死をも乗り越えるのです。その意味で、神のための殉教は究極の愛と信頼の証です (ステパノ、使徒ヤコブ、ペテロ、パウロ…)
。過ぎ越し祭でうたわれた詩篇113~118は、イエスの弟子たちとの「過越しの食事」にも歌われたことでしょう。だれが一番偉いかと議論し、裏切り者もいる。言ってみれば主は孤立無援の中で、イエスを愛する御父(マタイ3:17)を信頼して歩むのです。その主に、116篇は大きな励ましになったのではないでしょうか。イエスは「わたしは愛する」という愛にすべてをかけて救いのみわざを果してくださったのです。-山本怜-
詩篇 117篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第117篇
117篇は、詩篇の中で最も短い詩篇ですが、歌われている内容は実に広がりのある賛美の歌で、すべての国々が主をほめたたえるようにと招かれているのです。
全世界に向けられたこの招きの賛美は、主の最後の晩餐の時には、最後の杯の後でオリーブ山へ出ていくときに歌われたと考えられています(マタイ26:29,30)。もしそうであれば、この短い詩に歌われている壮大なメッセージを、その時、弟子たちのだれが理解していたことでしょう。私たちは主のご受難を覚えて、ここに歌われている内容をより深く理解し、招きの賛美に応えたいと思います。
過越しの子羊が屠られ、その血がかもいに塗られたとき(出エジプト12:1~8)、救いはイスラエルに限定されていました。その救いを覚えて、117篇の賛美の歌を主の最後の晩餐のあとに歌うとき、主イエスは、御自身の十字架の死がイスラエルのためだけではなく、全人類のためのものであることをはっきりと見通しておられました。主イエスは、弟子たちと117篇を歌うとき、イスラエルの枠を超えて全世界を主への賛美の招きとして歌われたことでしょう。
ヨハネ12:20~には、過越しの祭りの時に礼拝するために何人かのギリシャ人たちが、主に会いたいといって来たことが記されています。その時、最後の時が来たことを自覚しておられた主は、「人の子が栄光を受ける時が来ました。」(ヨハネ12:23)と答えられました。救いがユダヤ人たちだけではなく、異邦人にも及ぶことを見通しておられたのです。主は、目の前に置かれている十字架の死と苦しみの向こうにある栄光を見ておられました。その栄光を、私たちも福音によって主と同じからだに連なる大いなる恵み(エペソ3:6)を受けて歌います。-山本怜-
詩篇 118篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第118篇
「ハレルヤ詩篇」(113~118篇)の最後の詩篇です。主イエスが最後の食事のあとに述べられた告別のことば(ヨハネ14-16章)と祈り(同17章)の後、ゲッセマネへと行かれた時にうたわれたことでしょう。この詩をうたい、ゲッセマネの園へのおよそ5-600mの道を踏みしめながら闇の中を進むイエスと弟子たちを思い、当時を偲びます。
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」(1)。どれほど闇は暗く、困難に囲まれていましても、何より心に留めたいことは、「主に感謝すること」であることです。その困難や苦しみは、誰にも受け止めてもらえなくとも、「苦しみのうちから主を呼び求めると、主は私を広やかな地へ導かれる」のです(5)。このことは、イスラエルの信仰経験であり、また主イエスの地上での歩みでした。それは、「自分を捨て、自分の十字架を負って」(マタイ16:24)キリストに従うわたしたちの歩みでもあるのです。
6節の「人は私に何ができよう」の叫びは、ヘブル13:6に引用されていますように、私たちの叫びであり、ダビデの叫びでした(詩篇56:11)。ダビデが言いますように、神に信頼すれば恐れはありません。
10~12節には、「主の御名によって」が三回繰り返されています。どのような困難に置かれても「あなたの御名は、力ある大いなるもの」(エレミヤ10:6)であることを確信しましょう。
13~16節を「海の歌」(出エジプト15:1~18)と合わせて読んで見ましょう。118篇を歌った人たちは、出エジプトのイスラエルの旅を思い描いたことでしょう。118:14は、出エ15:2aの引用です。
22節を歌う主イエスには、ご自分が捨てられる石となることがはっきりと見えていたのです。-山本怜-
詩篇 119篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第119篇
119篇は、ヘブル語のアレフからタウまでの22文字による22の詩連によって、神のことばについての祈りと省察の詩として親しまれています。各連は八つの連続する節よりなります。
はじめに、各連を簡単に一口解説で紹介しましょう。
アレフ(1~8)1-2の思想の展開・119篇のまとめ。ベト(9~16)若い人に焦点。ギメル(17~24)信仰者は旅人、辱め侮りを受けつつもみことばに生きる。ダレト(25~32)試練のなかで。ヘー(33~40)日常の誘惑から守られ、積極的に神のみことばに従う。ワウ(41~48)勝利への祈りと決意と確信。ザイン(49~56)見下されてみことばをますます慕う。ヘト(57~64)神に逆らう者がいても、神を畏れる人の励ましとなる。テト(65~72)苦しみの持つ意味が鮮明、ますますみことばに生きる。ヨド(73~80)悩みも一切のものも神から。カフ(81~88)絶え果てんばかりの中でもみことばへの信頼に生きる。ラメド(89~96)みことばにより永遠普遍なる神への信頼に生きる。メム(97~104)心砕いてみことばを愛する。ヌン(105~112)私の道の光・みことば。サメク(113~120)みおしえから迷い出る者。アイン(121~128)純金にまさる戒め。ペー(129~136)光が差し、歩みを確かにする。ツァデ(137~144)苦難と苦悩を乗り越える。コフ(145~152)近くいてくださる主。レシュ(153~160)みことばに生かしてください。シン(161~168)みおしえを愛し続ける者。タウ(169~176)わきあふれる賛美。
「いかに幸いなことでしょう(アシュレー)」(1)で始まる119篇からは、主の教えを愛する喜びの最大限に開花している歌声が私たちに聞こえてきます。その私たちも「いかに幸いなことでしょう」と呼びかけられているのです。「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人」(詩1:2)に、詩篇19:8-12の広がりに導かれて、119篇の主の教えを賛歌する神への信頼に生きるのです。-山本怜-
詩篇 120篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第120篇
120~134篇には「都上りの歌」と表題が記されています。
「都」はエルサレムのことであり、神の臨在する場所として意味深く、終末においては、ヘブル人への手紙で語られていますように、エルサレムは、やがて神の民たちが住む「天の故郷」(ヘブル11:16)、「生ける神の都」(ヘブル12:22)の比喩ということができます。
イスラエルの民が、神の臨在を意味するエルサレムへ年三回(過越しの祭り、五旬節、仮庵の祭り)都上りの巡礼をしたように、私たちキリスト者も、天の都をめざす巡礼者なのです。
120篇で作者は、苦しみのうちに私が主を呼び求めると 主は私に答えてくださったと賛美しています。苦しみは、2節で分かりますように偽り、欺きによるものです。これに彼は言い返す代わり、もっと優れた方向に目を向け、はっきりした答えを受け取ったことを思い起します。答えは3,4節で見るように、偽りよりも強力な神の真理の矢(参照 詩篇64:3-4、7-8)と裁きの火(炭火は裁きの象徴・詩篇140:10)によって苦しみを与える者が滅ぼされるということです。
5~7節には、メシェク、ケダルに寄留している身の嘆かわしい現実
が歌われています。メシェク、ケダルはここでは異邦人を現す一般的
な表現として用いられています。(メシェクははるか北のステップ地帯の住人、ケダルはイスラエルとは隣人のアラブ人)。もし、この詩篇中の「私」イスラエルの擬人化だとすれば、この二つの名は、イスラエルが離散している異邦人世界を要約していることになります。神を知らない異邦の地で、平和を求めながらも、戦いの的とされて(7)苦しんでいるイスラエルには、都上りをしての礼拝こそが、新たな力に生きる恵みの時であるのです。礼拝に生きる恵みを教えられます。-山本怜-
詩篇 121篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第121篇
巡礼の旅には不安が伴います。追剥にあったり、道に迷ったり、飢えや渇きに悩まされたり、などが心にのしかかってきます。こうした巡礼の不安は、私たちの人生における不安に通じます。私たちは誰もが不安を抱え、「私の助けは どこから来るのか」と天を仰ぐのです。
詩人はまず自分に向けて問いかけます。「私の助けは どこから来るのか」と。その問いかけに、もう一人の自分が答えます。「私の助けは主から来る 天地を造られたお方から。」
この確信こそがこの詩篇の核心です。続けて3節からその確信を支えるかのように、「天地を造られた主」がどのような方なのか、より深く知ることができるように、この詩は語ります(3~8)。
主は、あなたを守られる方、あなたを覆い、あなたの右にいます方。すべてのわざわいから守り、あなたのたましいをも守られる方、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる方なのです。
この詩のキーワードは「天地を造られた主」であると言えます。この方こそ、120篇にうたわれた 救いの真の解決者であり、回復の根源者です。
イザヤは捕囚の民に対して、天と地を創造された神こそすべての助けの源泉である。偶像の神ではない。その方はどんな状況からでも回復させることができる方なのだと、繰り返し語ります。(参考 イザヤ42:5~8、43:1,2、…)、
日本には偶像の神はありますが、創造の神への信仰はありません。私たちのすべての必要、すべての助け、根源的な闇からの救いをもたらす方は、天地を造られた神しかいないのです。この確信こそ、この世を巡礼する私たちにとって重要なものなのです。-山本怜-
詩篇 122篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第122篇
「『さあ 主の家に行こう。』人々が私にそう言ったとき 私は喜んだ」(1)。なぜ、喜んだのでしょう。神の民として選ばれ、同じ信仰を持つ同胞もいる。それは大きな喜びです。その喜びを私たちも共有するのです。目指すエルサレムは世界の中心、そこで主の十字架の贖いがなされ、キリスト教会が誕生しました。そこから福音が全世界に伝えられていくのです。さらに、エルサレムは、天にあるエルサレムを指し示す見える形での象徴(天の都エルサレムの写し)です。
そのエルサレムと主の家が見えてきて、巡礼者たちは到着したのです。1節の喜びが、「エルサレムよ、私たちの足は あなたの門の内に立っている」(2)と表現されています。この主の家の光景が、長く、そして骨の折れる巡礼の頂点です。
これに相当するキリスト者の道のりと到着を、ユダは見事に頌栄(ユダ24、25)で表現しています。121,122篇に照らして読んで見ましょう。「あなたがたをつまずかせないように守る」(参考121篇)、「大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方」(参考122篇)にささげられる頌栄です。
巡礼の目的地「エルサレム」はイスラエルの民すべての部族を一つにまとめる神の都です。 イスラエルは「多くの部族」からなる一家であり、それぞれが明確な特性を持ちながらも一つにまとめられていました。ここエルサレムでは、ユダヤ人と異邦人、霊の人と肉の人など、対立しているように見える二つの部分も結び合うのです。
122篇はエルサレムの平和のために祈れと呼びかけます(6)。エルサレムは、キリスト者にとっては教会のことです。私たちは、私たちの神、そしてキリストの体である教会のために祈るのです。-山本怜-
詩篇 123篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第123篇
「都上りの歌」と呼ばれている語は、文字通りには「見上げる歌」です。この123篇では、「嘲り」と「蔑み」に苦しむ信仰者が、天の御座におられる神を見上げます。外からの攻撃は信仰者を打ち砕き、信仰者は、打ち砕かれたどん底から、しもべやはしためが主人のどんな小さな手の動きにも目を留めているように、天の御座に着いておられる主を仰ぐのです。
1節では、目を上げるのは「私」ですが、2節以下は「私たち」と複数になっています。おそらく外からの苦しみで、どうすることもできない逆境の中で、まず共同体全体の代表者が祈りはじめたと考えられます。それは、同時に一人ひとりの切なる祈りでもあるのです。
「目を上げて」(1)は、信仰を持って神に心を向ける姿です。「目」はヘブル人には存在全体を意味しています。作者は、全存在をかけて祈るのです。神に祈り求めることは、ただ一点、それは3節で繰り返されている主の「あわれみ」です。「あわれみ」は、キリエ・エレイソン(主・あわれみたまえ)の祈りの歌となるほどに、深く信仰と結びついたものですから、聖書から折に触れて冥想しておきましょう。
(例) ダビデが姦淫の罪を犯した後に祈った祈り―詩篇51:1「神
よ、私をあわれんでください。…私の背きをぬぐい去って ください。あなたの豊かなあわれみによって。
ルカの福音書1章(マリアの賛歌)(ザカリヤの賛歌)―強調 されていることは、「主のあわれみ」。
ルカ福音書18章イエスのたとえに示されている義とされるこ と―「罪人のわたしをあわれんでください」と祈る取税人。
これらすべては、その人の全存在をかけての祈りなのです。-山本怜-
詩篇 124篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第124篇
この詩篇を口ずさみ瞑想して、私たちも父なる神の大いなるあわれみによって、襲いかかってくる数々の危難から助け出された者であることを思い、「私たちの助けは 天地を造られた主の御名にある。」のみことばを聴き、アーメンと心と思いを込めて応えます。
この詩は、「さあ イスラエルは言え」と呼びかけます。人々が敵対してきたとき、彼らは私たちを丸呑みにしたであろう(2,3a)、というのです。災厄の表象は、この獲物を丸呑みできるほどの大きな怪獣だけではありません。荒れ狂う濁流(4,5)、仕掛けられた罠に捕らえられた獲物が引き裂かれてかみ砕かれるような敗北(6,7)、と続きます。ダビデが経験した現実は敵の優位です(参考サムエル二5:20、同5:18)。これら窮地に陥ったとき、「もしも、主が私たちの味方でなかったなら」、この上なく恐ろしい攻撃と無慈悲な束縛から神の民は滅びるほかありません。しかし、神の民(今や、イスラエルだけではなく、教会も)は生き延びたことのゆえに、神をあがめるのです。
聖書は、神の民が、「私たちの助けは天地を造られた主の御名にある。」との証しの声を私たちに届け続けています。出エジプトのとき紅海で後ろに差し迫るエジプトの軍勢に、荒野の旅ではメリバの泉で渇きのために、シンの荒野では飢えで、いずれも「主が私たちの味方でなかったなら」滅んでしまっていたのではないでしょうか。ペテロもそのような経験をしました。ヘロデ王に捕らえられ、明日は会衆の前に引き出されて殺されるという夜、繋がれた牢から救い出されました(使徒12章)。私たちも、主が私たちの味方でなかったなら、主が私たちに出会ってくださらなかったなら、人生はどうなったのでしょう。しかし、神は私たちの味方、助け手です。感謝し神をほめたたえます。-山本怜-
詩篇 125篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第125篇
「主に信頼する人々」が、揺るぐことない「シオンの山」(エルサレム)にたとえられています(1,2)。その揺るぎなさは、主が御民を「今よりとこしえまでも」(2)囲んでいてくださるからです。
この詩編に出てくる「主に信頼する人々」(1)、「正しい人」(3)、「善良な人々」(4)、「心の直ぐな人々」(4)は、みな同義語です。
ところで、「主に信頼する」ということは決してたやすいことではありません。イスラエルに、神は幾度も主の言われることを守り、従うように教えられていますが、神の民イスラエルは教えられたようには歩みませんでした(参考:エレミヤ6:14、14:19)。危機に臨んで、預言者が主を信頼するように語っても、それを素直に受け入れず、神に頼らず、軍事力や異邦人の神々に頼ったのです。人間には主を信頼することはそれほどに難しいのです。
では、「主に信頼する人」とは、どういう人なのでしょう。3∼5節の内容から考えさせられます。3~5節をよく味わいましょう。「正しい人が不正なことに手を伸ばさないように」「曲った道にそれる者どもを不法を行う者どもとともに追い出される」という祈りは、「主により頼む人」が自己過信の危険から守られるように、積極的に言えば悔い改めの心を求めていることばなのです。そして、「善良な人々」(4)は、その人が正しさを持っているということではなく、ただ主の憐れみに
より頼み、それゆえに義と認められた「義人」のことですから、その人自身も悪に手を伸ばしたりする可能性があるのです。だからこそ主の慈しみをいつも必要としているのです。それゆえに、主の民は、どのような時にも主に囲まれて(2)安全であるにもかかわらず、「平和」があるようにと、祈るように求められているのです(5b)。-山本怜-
詩篇 126篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第126篇
ユダヤ民族の歴史は苦難に満ちています。シオンの復興の喜びをうたうこの詩の背景には、バビロン捕囚の体験があるのです。
BC586エルサレムは新バビロニア王ネブカドネツァルによって破壊され、神の民は打ち砕かれました。死を免れた人々は、捕囚の身としてバビロンに移されました。そして、苦しみの「深い淵の底から」(詩130:1)主に呼ばわったのです。その声に耳を傾けられる神はご自分の民を見捨てられず、ペルシア王キュロスの心を動かし、エルサレム神殿再建のために民を帰還させました(エズラ1章)。キュロス自身は政治的な判断(寛容政策)から、彼らを元いたところに戻したのです。
この帰還は、ユダヤの民には夢のような出来事でした(1)。彼らだけではなく、諸国の人々も喜びの声をあげました(2)。私たちの神は、この世の権威、主権の上に立つ存在です。この世の王たちをも動かすことができます。力と知恵の源は、主のみにあります。奇跡的に連れ帰られた民は、この主により頼みます。ネゲブの流れは、乾季には川床をあらわす一筋の道ですが、雨が降ると川は溢れすべてを潤します(4)。そのように、神が共におられるとき、神は必ずあふれる恵みを注いでくださるのです。
5、6節は同義です。「涙とともに種を蒔く」はしばしば伝道の働きにあてはめ、涙ながらに苦労して伝道するなら大きな収穫を得る、と理解されてきました。しかし、それに限らず、人生の奥義をうたい上げる句としての深い味わいがあります。主イエスが語られた種まきのたとえ
(マタイ13:18-23)と関連づけで読むことができます。「涙と共に種を蒔く人」は数々の困難の中で、涙を流しつつも、神の蒔かれたみことばの種を心の中にしっかりと保ち続ける人でもあります。-山本怜-
詩篇 127篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第127篇
「主が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい。(1)」で始まる127篇はよく愛唱される詩篇の一つです。人がどれほど朝早く起きて夜遅く休むまでに労苦を重ねても(2)、主がお働きにならなければむなしいのです。私たちは忙しく働いている自分の姿をここに見るのではないでしょうか。そのとき、自分の心は全能の神にではなく、自分の知恵と力だけにより頼んでいるのです。「まず神の国と神に義とを求めなさい」(マタイ6;33)と言われる主のおことばは、飾り物ではありません。主に委ねることを身に着けたいと思います。主は愛する者に、眠っている時にも、なくてはならないものを与えられるのです(2b)。
主に委ねることを身に着けた人には、「見よ…」と言って示されているように、主からの賜物と報酬の祝福が伴なって来るのです。しかし、現実にはこのようになるのだろうか、そのような思いが走ります。
この鍵は、1,2節に三回用いられている「主」ということばにあります。人生の旅路において、常に主を見上げ、主を愛して歩む人は幸いです。住まいを得るときも、居住する地域の安全も、職場や家庭での生活も、子供の教育も、すべては主から来ると告白できるのです。その確信を1節は仮定法で「~のでなければ」と見事に表現しています。これは、「主がしてくださるならば、必ずこうなる」という確信です。この詩の表題に「ソロモンによる」とありますが、皮肉にもソロモンが述べるこの詩の教訓は、ソロモンにはほとんど益になりませんでした。ソロモンが背神に走ったからです(参照 列王記第一11:1以下)。肝心なことは、皮肉にもソロモンが会衆を祝福して祈っているように(列王記一8;58)、私たちの心を主に向けることなのです。-山本怜-
詩篇 128篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第128篇
主にある平穏な祝福が、この詩篇では敬虔な個人「主を恐れ 主の道を歩む人」(1)からその家族へ(3,4)、そして最終的にはイスラエルへとたどられていきます(5,6)。敬虔が安定と平和への実を結んでいくのです。
この詩の冒頭は「幸いなことよ」です。短い詩篇の中に「幸い」は二回用いられています(1,2)。そして、「主を畏れる人」も2回現れます(1,4)。この「幸いなことよ」と「祝福」(4,5)との間に、次のように、「主を畏れる人」の生活が具体的に描き出されているのです。
1.「主の道に歩む」こと(1)。これは義務としての歩みではあり ません。喜びと平和を伴った歩みです。
参考:ヨハネ10:16「…その羊たちはわたしの声に聞き従 います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」
2.「その手で労した実りを食べる」こと(2)。これは、まさに先 週学んだ詩篇127篇の内容です。
3.「家庭が幸せである」こと(3)。 「妻」は豊かなぶどうの房を つける木にたとえられ、子らはオリーブの若木にたとえられて います。そこには、いじめ、反抗、暴力の影はなく、明るさ、 笑い声、 愛、喜びに満ちている様子が浮かび上がってくるの です。
大切なことは、この詩が、家庭がただ個人のもので終わらず「シオン」と「エルサレムの繁栄」と「イスラエルの平和」に結びついていることを明らかにしていることです。個人や家庭の幸福は教会の豊かさと平和とに結びついているのです。イエス・キリストのからだである教会は、夫婦のあり方(エぺソ5:22⋯33)、子供たちと親のあり方(同6:1∼4)を示し、イエスの愛が反映するように導いているのです。-山本怜-
詩篇 129篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第129篇
この詩には「彼ら」と「私」が登場します。「彼ら」は、「シオンを憎む者」(5)「悪しき者」(4)「若いころから私を苦しめた (1,2)者」です。
ほとんどの国は、自分たちが‘成し遂げた事柄’を回顧しますが、ここではイスラエルは自分たちが‘何を生き延びてきたか’を思い起こしています。それは、「若いときから」のことばに見られる、出エジプト以来の苦難の旅路です。イスラエルは出エジプト以来、幾たびも民族絶滅の危機に遭遇しました。まさに苦難の連続です。その絶滅の淵から、神の不思議な助けによって「しかし 彼らは私に勝てなかった」(2)のです。イスラエルは、苦しみの過去から勇気を得て、感謝をもって神と向き合い、敵たちには反対をもって向き合いました。1,2節に述べられている「イスラエル」と「私」は同一です。これは旧約聖書の特徴的な思考で「集団」と「個人」が両極端にではなく、集団を代表して個は集合人格として現わされます。その個人は後代の者であったとしても、かつての出エジプト以来、「さあ イスラエルは言え。…彼らは私に勝てなかった。」との勝利の宣言が告げられているのです。
この勝利の背景にあるものに注目しましょう。それは想像を絶する苦難です。イスラエルが鞭打たれた人物として、背中の鞭のあとが畝と表現されています(3)。このような苦難の中で「私」が生き延びたのは、ひとえに保護者(神)の支えです。
この証は、イスラエルが経験したことよりももっと高い水準へと私たちの目を向けさせます。それは、自ら進んで受け入れた苦難、キリストの苦難です。イザヤが「打つ者に背中を任せ」(イザヤ50:6)と言って示し、「その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」(同53:5)と語る、苦難と祝福のメッセージをこの詩に示され、神に感謝をさげます。-山本怜-
詩篇 130篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第130篇
この詩篇は伝統的に、「悔い改めの詩篇」と呼ばれている詩篇(6,32,38,51,102,130,143篇)の一つです。「悔い改め」とは、単に自分の犯した罪を後悔するのではなく、積極的に神の赦しを信ずることです。
詩人は「深い淵から」主を呼び求めます(1)。ここで言っている「深い淵」と何なのでしょう。読み進めますと、この詩篇での苦悩の性質が明らかになります(3,4)。それは、敵の迫害などによるものではなく、罪の意識による苦悩です。自分の「不義」によって「深い淵」に立たされたとき、取り返せない人生に苦しみ、その人はこれで自分の人生は終わったとの絶望に置かれます。自分を助けるすべを見い出せず、自分ではどうすることもできません。ただ、心乱した自分が主にすがり、主を待ち望むのです。
この「耐ええない」罪に苦しむ者の贖いをなすのは誰でしょう。「深い淵」にたとえられる罪や悩みや痛みの一切が、新約聖書では、イエス・キリストの上にふりかかったことを明らかにしています(参照 ローマ15:3必読)。すべての人の罪を負い、悩みを叫ばれた主なるキリストが、深い淵のさなかにまで降りてきてくださいました。まさに、「豊かな贖い」(7)は主のもとにあるのです。
この詩が語ることばから、私たちも「イスラエルよ、主を待て。…主は すべての不義から贖い出される」とのキリストにある希望を力強く告白するのです。最も暗いどん底にありながら、そこから解放されるのを信じて待つためには、神への信頼が不可欠です。その信頼は「深い淵」で試され、練られます。決してあきらめることのない神への信仰こそいのちそのもの。この詩篇は、失意の中にある私たちに今も呼びかけています。-山本怜-
詩篇 131篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第131篇
「主よ 私の心はおごらず 私の目は高ぶりません」(1a)と語る冒頭のことばに、自らの心の思いが探られます。「心はおごらず」と言うことばで指摘されている罪は傲慢な者の誇り、「目は高ぶりません」と言うことばで指摘されている罪は厚かましさと言えます。いずれも人間の原罪性ゆえの自己中心のあらわれです。指摘されている最初の罪によって、人は他人を過小評価し、次に指摘されている罪によって、自分を過大評価して失敗するのです。それがはっきりと誰にも分かるように、イエスは「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦とで満ちている」…と指摘し、また、「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか」と語られました。
表題に「ダビデによる」とあります。ダビデは「わざわいだ」と主から指摘される道に「足を踏み入れず」(1b)、その霊性は「イスラエルよ 今よりとこしえまで 主を待ち望め」(3)と呼びかける、神への信頼に満ちていました。このダビデの霊性に見られる模範は、紛れもなく御子イエスを指し示すものであったのです。ダビデが「主よ」と呼びかける御子イエスは、ご自分を無にして肉体を取られ
この世に来られて、神を信頼することを表してくださったのです。主イエスは、「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」という弟子たちの質問に答えて、一人の子どもを呼び寄せて、弟子たちに「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」と言われて、「実物教育」をされたことがありました(マタイ18:1∼4)。まさにその時主が教えられたことは、この短かな131篇の「都上りの歌」の内容そのものであったのです。-山本怜-
詩篇 132篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第132篇
詩人は、ダビデのためにダビデの苦しみを思い出してください、と祈っています。詩人が訴えるダビデの苦しみとは何なのでしょう。詩人は、ダビデが主のために御住まい(主の宮=神殿)を作るまで天幕に入ること、眠りもしないことを誓ったことをうたい
(2∼5)、エフラテのヤアル(キリアテ・エアリム)から神の箱を安息の場所(エルサレム)に運びあげたことをうたっています(6∼9)。これを思いますと、ダビデの苦しみは主を思う苦しみであることが分かります。ダビデは主を思う愛で終生燃えていました。その愛する主のために、ご臨在の箱さえも神の都エルサレムにお迎えできていなかったことで苦しんでいたのです。
そのダビデの主への愛の思いは、契約の箱をエルサレムに担ぎ上った日に、その行列の先頭で喜び踊ったことによく現れています(サムエル二6:12∼15)。詩人は、このダビデの主への熱情を思い出してください、と祈ったのでしょう。私たちは苦しむほどに主を愛することを知っているだろうかと、考えさせられます。本当に愛した人は愛することが苦しむことだと分かることでしょう。
詩人は、ダビデのために主に油注がれた者を退けないでください、と祈ります(10)。そして、主がダビデに誓われた約束のことばを歌い上げるのです(11~18)。その約束は、「ダビデのために一つの角を生えさせる。…彼の上には王冠が光り輝く」(17~18)とうたう、キリストを与えるという約束です。
この詩が、都上りの歌のところに置かれている意図は何でしょう。主が約束されたことが成就するようにとの祈りを礼拝者がささげるように導くことにあったのです。主の来臨こそが究極の勝利であるからです。私たちも、主よ来りませ、と祈りましょう。-山本怜-
詩篇 133篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第133篇
「兄弟たちが一つになって ともに生きる」(1)ことについては、主にある共同体の一致の豊かさと祝福が見事に描かれています。しかし、考えておくべきは、兄弟がともにいることが幸せなのは決して当然のことではないということです。聖書には、兄弟の裏切りの現実が赤裸々に語られています(カインとアベル創世記4:8、エサウとヤコブ同25:26、ヨセフと兄弟たち同37:2以下、ヨブと兄弟たちヨブ6:15、エレミヤと兄弟たちエレミヤ12:6)。それだけに、133篇は主にある「兄弟たちが一つになってともに生きる」ことのすばらしさに目を留めるようにうながしているのです。誰がうながしているのかといえば、聖霊ということができます。
キリストが来られて「兄弟」の意味は一変しました。キリストを信じる人たちすべてを一つにしたのです(使徒4:32)。御父と御子が一つであるように、主にある兄弟姉妹たちが一つとなることが、初代教会において実現したのです。ここには麗しい一致が見られます(使徒2章)
。
「一つとなること」、それは愛の交わりといえます。画一的な一致ではなく、それぞれが個性を持ち、多様性をもった相互依存という一致です。133篇はこの愛の交わりと一致を「なんという幸せ、なんという楽しさだろう」とうたいます。「一つになって ともに生きる」祝福のすばらしさが、「貴い油」と「ヘルモンからシオンの山々に降りる露」の二つのたとえで表現されています。「油」と「露」は、いずれも「聖霊」の象徴です。そこから来る祝福は、「衣の端にまで流れ滴る」までに広がり、「ヘルモンにおく露のように」豊かな命の水となって多くの実を結ばせる祝福です。聖霊が、主にある者にもキリストのからだなる教会においても注がれ続けるように、一人ひとりが聖霊に導かれて歩んでまいりましょう(参考 ローマ8:14)。-山本怜-
詩篇 134篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第134篇
メシェクとケダルという異邦人の環境で始まった(詩編120篇)「都上りの歌」は、「主の家で仕える」(1)、「聖所に向かって」(2)神に仕える調べで終わります。なお、「聖所に向かって」(2)という句は「聖さ」という一語を訳したものですから、「きよさの中で」礼拝するとも「清い手を上げて」とも考えることができます。
わずか3節の詩篇ですが、簡潔な表現の中に、巡礼、そして人生の旅路のあり方を教えられます。121篇では「主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる」と、人生の旅路のはじめから終わりまでの神の祝福と守りが歌われ、詩編126篇では、「主がシオンを復興してくださったとき 私たちは夢を見ている者のようであった」と、逆境から突然救い出された喜びが歌われ、127篇では労働の、128篇では家庭の祝福が歌われました。
これらすべての祝福は主なる神から来るのです。主なる神は「天地を造られた主」(3)ですから、その祝福の素晴らしさは思いをはるかに超えて無限です。
その主が「シオンからあなたを祝福」してくださるのです。シオンは主の臨在が満ち満ちた聖なるところ、天から注がれるすべての祝福の門です。そこにおいて、「さあ 主をほめたたえよ」と呼びかけるのです(1)。「主のすべてのしもべたち」とは、「主にあるすべての聖徒たち」と同じです。シオン・主の臨在が満ち満ちているところは、まさに四六時中、賛美がささげられているところです。私たちも心から主をほめたたえ、主の家(主の教会)で主にお仕えしましょう。私たちを心に留めて愛してくださる主は、シオンから祝福してくださるのです。参考 ヘブル13:15-山本怜-
詩篇 135篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第135篇
135篇は、初めの1∼3節と終わりの19∼21節で「主をほめたた
えよ」と呼びかけています。カルヴァンは、「これは神への賛美を歌う
ようにとの勧めである。」と言って、その理由として、神が御自身の民
に対して特別な恵みを施されたこと、また、その御力と栄光とは全世
界のうちに明らかなことをあげています。
私たちも、主のあわれみと御業の恵みを受けている者です。この詩
に導かれて力の限り主をほめたたえましょう。
1∼3節で、詩人は主の家に仕える人たちに主への賛美を呼びかけて
います。主の家(教会)の御用に仕える者は、義務的にならず、心か
らの感謝をもって主をほめたたえるのです。
4節は、主のいつくしみ深さへの賛美です。ヤコブは主の選びを知
らなかったために、自分の力でそれを得ようとして兄や父を欺きまし
た。そのヤコブを主は決して見捨てられず、主の宝とされたのです。
主の慈しみを覚えて主をほめたたえましょう。
5~18節は、主の御名、すなわち主のご人格のすばらしさをほめた
たえるのです。主の創造の御業への賛美(5~7)、エジプトや国々の罪を裁き、異邦の偶像にまさっておられることを示して、救いのみわざをしておられることへの賛美(8~18)です。私たちも、創造と摂理、救いの御業の三位一体の神をほめたたえるのです。「まことに 主はご自分の民をさばき、そのしもべらをあわれまれます」(14)と主の御業を覚えて主をほめたたえましょう。
19∼21節では、アロンの家、レビの家だけではなく、イスラエル、主を恐れる者たちすべてに主への賛美が呼びかけられています。主へ
の賛美は、私たちからすべての人へと広がるのです。-山本怜-
詩篇 136篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第136篇
この詩は、大ハレルとしてユダヤ人に知られています。小ハレル( 113篇)に続き、過ぎ越しの食事の時に唱えられたと考えられています。
詩の構造は極めて簡明で三つの部分から成ります。(1)呼びかけ-「感謝せよ」 (2)感謝の対象としての主(神)-創造の御業から始まり、歴史に現実に働かれる神としていろいろな表現で語られています。
(3) 感謝する理由-理由は、「主の恵みはとこしえに」あることです。
神の御業・神の救いの歴史をおぼえて、生き生きとうたいましょう。
1~3節 神の性質(1)と主権性(2,3)の告白です。
4~9節 創造の御業です。 私たちを囲む環境は単なる仕組みではなく、「不変の愛」の働きであることを知って、造られたもの(環境)を喜ぶようにと私たちを招いています。
10~16節 助け主である神に私たちの心を向けさせます。出エジプトの御業は「この世」と「この世の支配者」(ヨハネ12:31、16:11)の裁きと同じ意味を持ち、私たちの贖いと信仰の旅路の意味を明らかにします。
17∼24節 困難を克服させ約束の地へと導かれる勝利者なる主に心を向けさせます。参考:ペトロ二1:10,11
25節 毎日、私たちが食物を与えられていることの中に、神の恵みは現れているのです。イエスは、「御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が地になされますように」の祈りと「日ごとの糧を与えたまへ」の身近な祈りを結び合わされました。慎ましい食事であっても、「主の恵みはとこしえまで」という感謝の中で食事する者は、そこから、創造の御業、救済の歴史に働かれる神を見るのです。
26節 これらの御業をなした天の神こそが1∼3節で告白した神であると感謝をささげるのです。-山本怜-
詩篇 137篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第137篇
詩人は、バビロン捕囚中の主の民の悲しみをうたいます。バビロンの川のほとりで竪琴を引いていた捕囚の民に、自分たちを捕らえて苦しめているバビロンの人々が興を求め「シオンの歌を一つ歌え」といったので、竪琴を引くのをやめて泣いた、というのです。シオンの歌とは、主を賛美する賛美歌です。捕囚の民は川のほとりで、主を賛美して礼拝をささげていたのでしょう。そこへやってきたバビロン人が「その歌はおまえたちの歌か、面白い、一つ歌え」などと言ったのではないかと思われます。捕囚の民は、「どうして異国の地で主の歌を歌えるだろうか」と言って、エルサレムを思い出すのです(4∼6)。
これほどに彼らは神を思い、神を礼拝するシオンを愛していたので
す。私たちもまた、神の都エルサレムをわが魂のふるさととして、心
にとどめたいものです。どんなに苦労をしても、主の日の礼拝に、主をほめたたえ、父なる神と御子イエス・キリストの交わりを得て、喜びに満たされたいと思います。
紀元前538年、バビロンを占領したペルシア王キュロスは、ユダヤ
人たちに帰国を許し、神殿再建を命じて財宝や家畜を与えました。
この137篇は、ユダヤに帰って来て間もない、バビロンで受けた圧
迫がまだ記憶に新たな頃に歌われたものです。帰還したユダヤ人たち
は、バビロン捕囚のつらかった時代のことを思い起こしました(1-4)また、故国のエルサレムをたえず思っていた(5,6)こともつい最近のこ
とでした。この思いに続いて、彼らは復讐の祈りを捧げるのです(7∼)。
この復讐を前面にして詩を読みますと神の御心を見失うかもしれま
せん。復讐についてはローマ12:19∼21をいつも出発点として聖書のメッセージを読み取ることを忘れないようにしたいものです。-山本怜-
詩篇 138篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第138篇
138篇の全体が、「あなた」と「私」で貫かれていることに目がとまります。「私」が「あなた」・主なる神にまっすぐに向き合って感謝し、御名をほめうたっているのです。強く心が引きつけられます。深い苦しみにあるときも、敵の怒りに直面しているときも、そこから救い出された経験も、すべてに主の前に立って主を見つめ、「私」のためにすべてを成し遂げてくださる主の恵みとまことのゆえに、御名に感謝しています。同じく信仰者であるこの自分の心はどうなのでしょう。主を見つめるよりも、自分をいたわり、自分を見つめていることがどれほど多いことでしょう。
2節の後半と4,5節とに見られますが、詩篇の「私」の個人的な経験は、その個人「私」にとどまらず、「あなたの御名のゆえに」、みことばを高く上げられたのです。
「あなたがご自分のすべての御名のゆえに あなたのみことばを高く上げられた」とはどういうことでしょうか。その内容が4、5節にうたわれていると考えることができます。神の御名は恵みとまことに満ち、どのような試練と悩みからも、わたしたち信仰者を救い出すのです。それは、ただ個人的な体験にとどめられず、全世界に響き渡っていくものなのです。つまり、信仰者個人の救いの体験が深められれば深められるほど、それは神の御言葉の証しとして全地に響きわたるのです。(参考 ヘブル11:2,3及び同11章に記されている信仰者たち)
大切なことは、神は私たち個人をも神の御名のために広く用いられるということです。この真理を、イザヤ書は特に強調しています。
イザヤ12:4 その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ、その 御名を呼び求めよ。そのみわざを、もろもろの民の中に 知らせ よ。」-山本怜-
詩篇 139篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第139篇
1節「主よ、あなたは私を探り 知っておられます」と23節「神よ私を探り 私の心を知ってください」の聖句は、この詩全体を囲み、神についての知識を豊かに私たちに伝えます。神の全知(2∼6)、神の遍在(7~12)、人を造られる神の全能(13~16)、そして総括(17、18)、神に敵対する者への裁きと義(19~22)です。こうして、神の理解を深めていく信仰者は「私は感謝します」(14)とうたうのです。この感謝の言葉が139篇を貫いているのです。神は私たちがどこにいても、どのような時にも共におられるのです(7~12)。このことを覚えますと、主に感謝のほかありません(14)。
この詩全体を囲っている1節では、「あなたは私を探り 知っておられます」と言いながら、23節では「私を探り、私の心を知ってください」と願っています。どうして「知っておられます」と言いながら「知ってください」と祈ったのでしょう。このことを明らかにしてくれるのは「思い煩いを知ってください」(23b)です。神は知っておられる、と思う。だが、その一方で「思い煩い」があり、自分の必要を自覚していたのです。 (参考 マルコ9:24で告白されている落ち着かない複雑な思いに共通するものかも知れません。私たちも、すべてを知っておられる神は私をしっかり受け止めてくださっていると知りながらも、私をとらえてください、と祈るものです)。私の創造主が私を知っていてくださるという驚き、どこでも、どのような状況でも、私と共におられて関わってくださるという感動、これらが、果たしていつも自分の中にあるかどうか、23~24節は私たちに問いかけてきます。「神よ、私を探り…私をとこしえの道に導いてください」(23,24)の祈りは、神との親しいかかわりを求める者には、新たな知恵と道が示される大切な祈りです。-山本怜-
詩篇 140篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第140篇
140篇から144篇までは、苦しい状況から救いを求める祈りです。日毎に戦いを仕掛けてくる敵があることを知らされ、その敵にどう対処すべきか考えさせられます。
140篇は三つのセラによって四区分されていますが、全体をとおして「よこしまな人」「悪しき者」「高ぶる者」「暴虐を行う者」が信仰者に襲いかかる様子が記されています。
8節の終わりのセラまでは、詩人は直接、神に向かって訴えていますが、その訴えがどれほどの苦しみから出ているのかを、9~11節の表現から痛切に知らされます。
このような状況の中で、詩人は「あなたは私の神」「私の主」であると信仰を告白し(6,7)、「私の願いを聞いてください」と助けを乞い(6)、敵へのさばきを求めるのです(9∼12)。こうして、詩人は主にある勝利の確信を表明します(13)。
この中で特に気づきますのは、セラによる三区分目の6∼8節では各節で主の御名を呼んでいることです。「私の神」「私の主 神」「主」です。これこそ最良の信仰告白。苦しい状況の中で、なお主ご自身を崇めているのです。このことのためにも主を知る知識に富むことは大切なのです(参考 135~139篇)。私たちはどのような困難のさ中でも、「勝ち得て余りある方」(ローマ8:37の文語表現)を仰ぐことができるのです。このお方を崇めて御名を呼びましょう。
8∼11節では、彼らが高ぶるものであることを証しして、高ぶる者らをさばかれる主の御業を待ち望み、12,13節で、苦しい者、貧しい者のために裁きをされる主を賛美し、正しい人、すぐな人として主の前に住むことを呼びかけるのです。まさに信仰の勝利といえます。-山本怜-
詩篇 141篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第141篇
ダビデは、この詩篇を「私の祈りが 御前への香として 手をあげる祈りが 夕べのささげ物として立ち上りますように」と祈ってささげます。先に5:4節で学んだ朝の祈り「主よ 朝明けに私の声を聞いてください」と好一対です。
出エジプト記29:38以下に、日ごとのささげ物という祈りの生活に模範となる規定が記されていますが、朝夕に神にささげる祈りは、時代を超えてキリスト者を生かすのです。
ところで、ダビデのこの祈りの背景には敵の激しい攻撃があり、ダビデの心は滅びるばかりの厳しい試練の下に立たされているのです(4)。そうした中で、祈りは深まり広がっていきます。
3,4節に見る、自分の「口」「唇」「心」を悪に向けさせないようにとの祈りは、まさに「我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」の主の祈りと同じように私たちに響いてきます。
「正しい人が真実の愛をもって私を打ち」(5)とあるように、自分を懲らしめても、悪から離れることを願い、そして祈る。いつも神に目
を向けている者は、同時に人の忠告や叱責に対しても心を開く柔らか
な心へと成熟するのでしょう。
そのような祈りを重ね、執拗な敵と対峙する中で、祈りはただ一点
に向かいます。その一点こそ、信仰者の唯一の拠り所なのです。
「私の主 神よ まことに 私の目はあなたに向いています。私はあなたに身を避けています」という告白の祈りです(8)。
困難な状態のただ中に置かれているときも、目はあなた(主・キリスト)に向けるのです。このことが、詩編141篇があらわしているダビデの霊性であり、キリスト者の霊性です。-山本怜-
詩篇 142篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第142篇
表題に「ダビデが洞穴にいたときに」と記されています。ダビデ洞
穴にいたときの出来事については、アドラムの洞穴に難を逃れた時
(サムエル一22章)か、エン・ゲディの洞穴にとどまっていた時(同24章)が考えられます。さらに、4節の状況からは、エン・ゲディの洞穴にいた時のことではないでしょうか。参考までに、ダビデがサウル王の迫害のもとでうたわれた詩編には八つありますが(34,52,54,56,57,59,63,
142)、その最後の詩編になります。
危機的な状況に置かれたダビデの祈りがどれほど緊急なものであっ
たかは、「声をあげて」が二度繰り返されていることから分かります(1)。
この緊急を要する祈りの中で、この詩の三つの頂点ともいえる三つの
句に注目しましょう。
3a「あなたは 私の道をよく知っておられます」―ダビデは前途に罠
が仕掛けられているのを神がご存知であることに目を向けるのです。
5b「あなたこそ私の避け所 生ける者の地での 私の受ける分」―ダ
ビデは3,4節にあるような状況や感情の中で神を「私の避け所」「私の
受ける分」であると確信しているのです。
7b「正しい人たちは私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くし
てくださるからです」―ダビデの信仰は、今や希望と結びついて将来
を見つめているのです。
ダビデは、暗黒の中におかれながらも、その信仰のゆえに、既に神
からの報いを感謝しています。(おそらくダビデは、再び自由な身とな
った時に、公的な礼拝の場で感謝の捧げものをささげたいと望んでい
たのでしょう。)、どのような時にも、主を見上げている者には窮する
ことも行き詰まることもないのです。参照 コリント二4:7,8 -山本怜-
詩篇 143篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第143 篇
敵のさまざまな攻撃を受けてきたダビデは「私を迫害する者から助け出してください」(142:6)と祈りました。だが、敵の攻撃の激しさだけが問題だったのでしょうか。140⋯142篇で見てきました敵のさまざまな攻撃に加えて、この143篇には、信仰者自身の深い罪の自覚が取り上げられています。
「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける人はだれ一
人 あなたの前に正しいと認められないからです」(2, 参照:ローマ3章)。霊は衰えはて、心は荒れすさんでしまっている信仰者にとって
(4)、回復の道はいつも神のみ前に静まることから始まります。
ダビデは、昔の日々を思い起こしながら、神のすべてのみわざに思
いを巡らし、神の御手のわざを静かに考えるのです(5)。ここにあるのは「想起」と「渇仰」。これを通して、神との関係は深められていくのです。信仰者にとって必要なことです。「昔の日々を思い起こし」(5)は、イスラエルの民(キリスト者)にとっては聖書が証しする神の大能の御業についての思い巡らしです。それとともに、信仰者個人には過去にあった主の恵みの御業を思い出すことです。それは、「すべての御業」の思い巡らしであり、静かに考えることですから、自分が思っていた人生に新たな光を投げかけます。そのようにして、人は新たな視野へと導かれるのです。また、過去の罪や贖いの数々と神の恩寵の深さへと導かれるのです。
導きを求めるダビデの三つの祈りは、私たちにも大切で重要な祈りです。8節「行くべき道を知らせてください。」 10節「あなたのみこころを行うことを教えてください。」 10節「あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてください。」-山本怜
詩篇 144篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第144篇
ヘブル語の特徴の一つに、意味を強める強意形というのがあります。この詩篇で言えば、1節の「鍛える」、3節の「顧みられる」と訳されている語です。この二つは密接に連動して、この詩の特徴となっているのです。主の教えを身をもって「学ぶ」という意味が込められていて、ここでは、戦い方を絶えず教えられ、継続して学ぶという意味合いが強いのです。そのように、戦いの術を教えられ鍛えられたことによって勝利に導かれたことをダビデは感謝し、「主よ、人とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(3)と感動して告白します。
この詩篇には他の詩篇からの引用が多いのですが、内容的には三つの部分から成ります。
1∼4節 わが岩、恵み、砦、盾と表現される「確固たるお方」と人は息にすぎずと表現される「脆弱な者」への思いが綴られています。
5~11節 1∼4節に見られる回想から、「主よ、あなたの天を押し曲げ
て降りて来てください」(5)とあるように、しっかり目を天に上げて救いの御業を求める祈りへと高められます。
12~15節 ここでは、「平和の中にある民」について語られます。神への賛美です。神を信じる者たちの祝福された様子が描かれています。具体的には、息子や娘たちの祝福(子孫の繁栄)(12)であり、倉と羊の群れの祝福(生存と防衛の保障)
(13)です。
144篇で告白されている主の御名は防衛に関するものであり、ダビ
デに自分の小ささ、弱さを自覚させた御名です。防御も攻撃もすべて
主がなしてくださるとの信仰です。私たちには、戦いのため「神のこ
とばと祈り」という武器が与えられているのです。-山本怜-
詩篇 145篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第145篇
145篇には嘆願が一切なく、神の王国の栄光が見事に表わされています。それだけに、私たちが「主の祈り」の中で「御国が来ますように」と祈ります「御国」の素晴らしさや正しい理解へと詩篇は導いてくれます。よく味わい、神の王国(御国)の理解を深めたいと思います。
この詩篇には二つの特徴があります。一つは形式上の特徴です。原文は各節の初めにヘブル語によるいろは歌(ヌンが抜けていますが)で、実に見事に主題が展開しているすぐれた賛美として有名です。二つには、表現の上で、神の偉大さ、その支配の領域、それらが時間と空間を越えて及んでいることに特徴がみられます。
詩人は、神の偉大さと万物に及ぶ神の配慮、その栄光に圧倒され、神を賛美します。中でも13節では、語られてきた、いつくしみとあわれみ(9)、主の大能のわざと王国の輝かしい栄光(12)のゆえに神を賛美し、代々限りなく続く王国を高らかに歌い上げます。
その御国の特徴が、それ以下の節で記されます。・主は倒れる者をみな支え かがんでいる者をみな起こされます(14)。・すべての目はあなたを待ち望んでいます。あなたは 時にかなって彼らに食物を与えられます(15)。・あなたは御手を開き 生けるものすべての願いを満たされます(16)。・まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられます(18)。・主を恐れる者の願いをかなえ 彼らの叫びを聞いて 救われます(19)。・すべて主を愛する者は主が守られます。しかし 悪しき者はみな滅ぼされます(20)。
私たちの神は何と恵み深く愛に富んでおられることでしょう。その
恵みと愛に溢れる御国にキリストを通して神の子として生まれ、生かされているのです。この確信に導いて下さる主に感謝します。-山本怜-
詩篇 146篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第146篇
146篇から150篇までは、ハレルヤで始まりハレルヤで終わる‟讃えの歌”の喜びの詩篇です。146篇の一節は複数形です。詩人は、「わがたましいよ 主をほめたたえよ」ということを、全員に向かって確固とした意志で呼びかけているのです(1)。この呼びかけに決意をもって「私は、生きているかぎり 主をほめたたえる。いのちのあるかぎり 私の神にほめ歌を歌う」(2)と各自がきっぱり決意を表明します。
この決意に立つ者は、決して君主を頼みとしてはなりません(3)。「君主」は、私たち通常の人間には次元がかけ離れている「有力者」に見えるかもしれません。しかし、イザヤが語るように(イザヤ32:5)、「高貴な人」(146篇の「君主」の複数形)が必ずしもその名には値しないのです。
そのような君主と明確な対照をなす方を、詩人は指し示します。6節「天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方」、創造者なる神です。しかもこの方は、同時に真実を守られるお方です。ここに福音があります(7∼9)。この7-9節にルカ4:18-21に記されているナザレの会堂でのイエスの姿と言葉を思います。
そして、私たちはこの詩篇の「主をほめたたえよ」は、救い主イエス・キリストとこの方を送ってくださった父なる神に向けられているのが分かるのです。8節の「主は見えない者たちの目を開け」は預言されながらも旧約ではその実現が記録されていませんが、イエスによって成就しました(ヨハネ9章)。
「ハレルヤ」という賛美の響きは、天においては永遠から永遠まで鳴り響いています。その永遠の賛美の中に、私たちもイエス・キリストの福音によって招かれているのです。主をほめたたえよう。-山本怜-
詩篇 147篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第147篇
詩人には、バビロン捕囚の中にある神の民たちのことが、念頭にあったのでしょう。2節には、神によるエルサレムの再建と神の民の捕囚からの解放がうたわれています。また、詩人は、自然界における神の配慮にも私たちの目を向けさせます。星(4)、雲(8)、雨(8)、草(8)、獣(9)、烏(9)、最良の小麦(14)…ここには、天と地、水、すべての植物、すべての動物、農作物のすべてが含まれ、すべてを支配し、すべてを生かす神がおられることが伝わってきます。
「感謝をもって主に歌え」(7)と詩人は語りかけます。賛美は常に「感謝のささげ物」なのです。ささげ物であるかぎり、それは自己本位であってはいけません。詩人は先ず神の純粋な栄光と優しさに私たちの心を向けさせるのです。
詩人は8,9節で神の御業の素晴らしさに目を向けさせます。神の御業の及ぶ領域は広大。その広さも、細部にわたる配慮も何とすばらしいことでしょう。私たちは驚きをもって主にほめ歌を歌います。
しかし、その主は「馬の力を喜び 人の足の速さを好まれる」方ではありません(10)。主が好まれるのは、「主を恐れる者」「御恵みを待ち望む者」(11)こと、神が求めておられるのは、私たちの力や知恵で何かをすることではなく、私たちが神に信頼することです。このことをマタイ6:25⋯34では、積極的に表現しています。
12⋯20節で詩人は、神による統治を喜び(12,13)、私たちに必要なもの(安全(13,14)、霊的な健康(15∼19)、など)も私たちが成し遂げたものではなく、神が与えてくださるものだとの告白に導かれます。
三つの区分からなる詩ですが、その最初は(1,7,⒕)神への賛美がうたわれています。 「あなたの神をほめたたえよ」(14)。-山本怜-
詩篇 148篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第148篇
「主の御名をほめたたえよ。主が命じて それらは創造されたのだ(5)」
詩人の、実に大きな賛美への呼びかけに圧倒されます。賛美の合唱は、すべての御使いから始まって天を降り、地のさまざまな地形や被造物に至って、人類、そして最後に選びの民を呼び出しての合唱となり、全被造物の大賛美となります。その大賛美に私たちも一つとされているのです。
1∼6節 いと高き天からの賛美が響きわたってきます。最初は「すべての御使い」です。旧約時代に限らずキリスト教の時代にも御使いを礼拝する誘惑がありますが(コロサイ2:18)、そうであってはなりません。御使いも含めて、詩人は「主が命じてそれらは創造された」とうたいます。賛美に招かれている天の群衆は、私たちと同じように、みことばによって「創造された」ものであり、主のみ旨によって持ち場を割り当てられているのです。
7∼14節 「天において」の賛美に対応して、「地において」応答の賛美がうたわれます。天体は存在するということだけで、神を賛美するように招かれています。(参考:詩編19:1,2「天は神の栄光を語り告げ…」)。一方人間は、神が御自身を啓示されたのですから、意識的に主を賛美できるのです(11∼13)。中でも、主はとりわけご自分の民「御民」を主の近くに賛美に加えておられるのです(14)。
この「御民」の存在なくしてまことの神とその福音が証しされ、人
の間に神が崇められることはありません。アブラハムを選ばれた神は、御民を通して賛美を受けられるのです。キリストにつながる私たちも神の御民です。数少ないキリスト者人口の現実に臆することなく、自分の置かれている時代と場所で、神をほめたたえましょう。-山本怜-
詩篇 149篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第149篇
前の148篇では、先ず高いところの天使も含む全被造物が礼拝へと招かれて主を賛美しますが、「主の御民」による賛美は最終節だけでした。149篇では、その「主の御民」による賛美に絞られて、勝利の祝典が記されます。この詩編で場面の全体を占めているのは「主の御民」の賛美であり、召命なのです。
今や主の民は「新しい歌」を主に向かって歌います(1)。「新しい歌」というとき、それは新しい状況にあるのです。その状況は「喜び踊る」(5)勝利の時です。注目すべきは、この「新しい歌」(主への賛美)が「両刃の剣」として捉えられていることです。一つは1~5節にうたわれている「神への称賛としての賛美」、今一つは6∼8節にうたわれている「敵に対する武器としての賛美」です。こうした「両刃の剣」としての賛美を主の民(主にある敬虔な者(9))は理解するのです。
しかし、「神への称賛としての賛美」は理解できても、「敵に対する武器としての賛美」はどのように理解したらよいのでしょうか。かつて、イスラエルは民族国家として約束の地に入る時、聖戦として7節の「懲らしめ」を文字通りに実行するように主は命じられました。
そして、終わりの時には、天の軍勢の天使たちが、地を裁かれる主に同行して戦うのです(テサロニケ二1:7~、黙示録19:11~)。終末の最後の裁きです。
では、キリストの教会に生きる者の聖戦とは何でしょうか。敵は、血肉ではなくもろもろの悪霊(エペソ6:12)。武器 は御霊の剣、すなわち神のことば(エペソ6:17)であり、それは詭弁を打ち破り、神に逆らうあらゆる高慢を打ち倒します。この戦いの勝利が、主にある私たちの誉れです。詩人とともに主をほめたたえましょう。-山本怜-
詩篇 150篇
一日一章 今日の聖書 詩篇第150 篇
詩篇第五巻最後の150篇は、賛美だけでできています。この一つの詩篇によって詩篇全体が終わるのです。詩篇全体の結論といえます。
ここには歎きはなく、信仰告白もありません。「息のあるものみな」(6)(神の息を吹きかけられた人間を意味する)に対する壮大な賛美への呼びかけと「ハレルヤ」が高らかに鳴り響いています。私たちも、「ハレルヤ」と応答することができるのです。
150篇には、賛美の場所(聖所、大空)(1)、賛美の理由(神のみわざ、偉大さ)(2)、賛美の方法(3∼5)、賛美の主体(息のあるもの)(6)、賛美の対象・主なる神)
(全節)、が記されています。しかし、時を越えて永遠に賛美されるべき主なる神については何一つ語られていません。神については造られたものが語っているのです(参考詩篇19篇)。そのすべてを語るなら、全聖書が必要であるかのようです。
◇息のあるもの(6)◇
「息のあるもの」の表現での「息」が使われているのは、この個所と詩篇18:15です。18:15では、神の怒りの荒い息吹の意味ですが、150篇での「息」を理解する上で創世記2:7を見ておきましょう。
創世記2:7「神である主は、その大地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」人間は神からの霊の息吹を受けて、生きる者になりました。すべての人間はその活力と存在理由をもたらす神の息によっていのちを保っているのです(ヨブ33:4、イザヤ42:5)。もし、神がその息を取り去られるなら、生けるものすべては「息絶え」人は「土のちりに帰る」(ヨブ34:14,15)のです。それゆえ、いのちの息によって生きるものとなった人間は、その息を用いて、力いっぱい神を賛美し、神を証しするのです。-山本怜-