詩篇 一日一章 73~89篇

「主のおしえは完全で
 たましいを生き返らせ
   …………
 主の仰せは清らかで
 人の目を明るくする。」
         (詩篇19:7a,8b)

・毎日、聖書を読む時に、お役立てください。

詩篇 73篇


一日一章  今日の聖書    詩篇第73篇

 この詩では、周囲の状況から来るつまずきや心の動揺を隠すことなく表現する詩人の真実さにうたれます(参照 13)。この詩人の心には偽りがありません。まさしく「イスラエル」です(参照 ヨハネ1:47)。
 この詩人の信仰の危機は、どこから生じたのでしょう。神に逆らう者らは栄え(3)、「どうして神が知るだろうか。」(11)といって、平気で神を蔑ろにして生きているのに、神の前に清く歩もうとする自分はといえば「休みなく打たれ 朝ごとに懲らしめを受けている」のです。このあまりにも大きな矛盾した現実に心は動揺し、「このまま語ろう(〔彼らのように語ろう〕の意)」との誘惑に駆られたほどでした。
 しかし、この詩の最後を見ますと、詩人はこの探索を通して、信仰を告白し、最高の発見をしてそれを伝えるのです。
 「見よ あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたに背き 不実を行う者をあなたはみな滅ぼされます。しかし 私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。私は 神である主を私の避け所とし あなたのすべてのみわざを語り告げます」(27,28)。私たちは、この詩人の告白に、最初の声「神はいつくしみ深い。…心の清らかな人たちに」(1)の真実が証しされているのを悟ります。
 ところで、動揺と信仰の危機から信仰告白への転換は、どのようにして為されたのでしょう。それを指し示しているのが「ついに、私は 神の聖所に入って 彼らの最期を悟った」(17)です。「聖所に入る」とは、神に心を向けて礼拝することです。そのとき、光が差し込んできました。自分の不幸を見つめ、神の懲らしめに痛みだけを覚えてきた詩人が、神の前に自分を告白し(22)、神の導きによって栄光への道を歩んでいるのです。28節は神からの私たちへのことばです。-山本怜-


 

 


詩篇 74篇

 

一日一章  今日の聖書    詩篇第74篇

 表題のマスキールは、神のさばきが論じられるときによく用いられます。ここでは、神の家が汚され破壊された嘆きがうたわれています。出来事にはバビロン捕囚などが考えられますが、推定の域を出ません。
 1~3節 詩の前半は質問の雨で始まり、質問の雨で終わります(1、10-11)。この雨のような質問は、疑いがあるからではなく、信仰があるからです。「いつまでも拒むのですか」。これはあなたの牧場の羊、あなたの会衆、あなたのゆずり(嗣業)であるのに、このようなことがありうるだろうか、と嘆きます。そして、助けを嘆願します(3)。
 4~8節 この後、実際に起きた出来事が神の前に並べられます。状況が詳細で鮮やかに描かれているのは、忘れられなかったからでしょう。
 9~11節 それでも神は沈黙しておられ、預言者もいません。神から無視されているようなこの期間は、次の局面に向かう準備の時となるのです。「いつまで」には終わりが、「なぜ」には神の答えがあります。
 12~17節 ここで語調が変わります。「神は」という重要な初めのことばによって、詩篇は新たな方向へ向かいます。注目すべきは「神は…私の王」ということばです。このことばによって、信仰者は地上の王国から、天の王国へと暗黙のうちに意識が向かっているのです。13~15節の要点は、神話の領域でバアルが主張している内容を、歴史の領域で神は成し遂げられたということです。それも神は「救いのみわざ」としてご自分の民のために成し遂げられたのです。
 18~23節 苦難は続いていますが、一連の祈りで詩篇は閉じられます。意義深いことに「なぜ」「いつまで」(1~11)の質問はもはやありません。  
 この詩を通して神の「契約」(20)がすべての行動の確かな足場であることを、キリストにある契約の民として教えられます。-山本怜-



詩篇 75篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第75篇

 この詩では、神がさばく者として緊急の祈り(74:22,23)に答えます。
1節奇しいみわざ
 私たちは、語り告げられている神の奇しいみわざを思い、神に感謝をささげます(1)。「御名」は近くにあるのです(参考:詩篇145:18)。(御名は、神がどのようなお方かを示す啓示。参考:出エ34:5~、14) 
2~5節 神によるさばきの宣言
 2節 裁判官が決めた「時」に裁判は開かれます。裁判官は神です。判決にあたっては 妥協はありません。時は、「定めの時」です。それは、必ず来る終わりの時です(参照:ダニエル8:19、ハバクク2:3)。
  参考:フランシスコ会訳「まさに時が熟したとき*、わたしは正しく
     裁く。」 *罪悪が満ちたときの意
 この「定められた時」は私たちに知らされていませんが、それは近づきつつある終末の時です。その終末に臨んでも、主に拠り頼み、主に「信頼する者は慌てふためくことがない」のです(イザヤ28:16)。神は「地の柱を堅く立てる」方だからです。神は、社会を支え、すべてのものを保ち(使徒17:25)、さまざまな出来事を御手で導き、ある人たちの生活を通してでもご自身の真理を示しておられるのです。しかし、4,5節に記されている警告を軽んじてはなりません。
6~8節 心に留めるべきこと
 さばきの権威者は神以外にはいないことが告げられています。さばきは公正になされ(2)、時はすでに熟しているのです(参照:ペテロ一4:7)。
9、10節 公正なさばき 
 公正なさばき(2)のゆえに、忍耐と苦痛ですべてが終わることはなく、栄光があっても、誇り高ぶらない時代が来るのです。-山本怜-


 

 


詩篇 76篇


一日一章  今日の聖書    詩篇第76篇

 この詩は、聖書の物語そのものを縮約していると言われています。すなわち、最初は局地で猛烈な戦闘が行われていましたが、ついには終わりの時に至るのです。そのとき、神の救いとさばきが頂点に達して行きわたるのです。はじめの部分では(1∼6)、シオンという場所で防衛が行われました。シオンは地上における神の基地であり、住まいです。一斉攻撃を受けていますが(3)、すばらしい救出が行われるのです(7~12)。後半部分では、神によるさばきの宣告と救いが述べられています。(参考 シオンは、他国に侵略されることのない聖なる都(詩篇125:1,2)として、終末においては世界の中心(詩篇50:2)として描かれています)。
 ユダにおいて神が自らを示されたことは(1)、全人類の祝福となりました(参考:ヨハネ4:22 救いはユダヤ人から出るのです)。教会にとっても、このことは重要です。教会の中で神は「知られ」*1、御名はあがめられました*2。(*1 ピリピ3:10、 *2 ヨハネ1:28)
 7~9節では、神によるさばきは、もはや昔の出来事ではなく、またある局地に限られたものでもないことが示されます。いたるところの悪に対して、神の最終的な鉄槌がくだる時です。その時には、キリストの十字架のもとにいなければ、「だれが御前に立てるでしょう」(8)。
 神はさばきのために立ち上がられますが、地の貧しい者すべてを心にとめて救われます。さばきの目的は、神にすべてを委ねる者の「救い」にあることを知らされます。
 「地のすべての貧しい者たち」について、聖書はどのように語っているでしょうか。聖句から静かに考えましょう(例:マタイ5:3、コリント二8:9)。また、神の審判については、黙示録6:12∼17はよい手引きとなります。-山本怜-


 

 


詩篇 77篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第77篇

 詩人は苦難の中で嘆き悲しみ、神に叫びます(1∼3)。その思いを、心を読み取る神は知っておられます。(参考 ヘブル5:7)。
 4節以下が、詩人の苦しみと嘆きの内容です。ここには苦難につい
ての深い洞察があります。「あなたは私のまぶたを閉じさせません」
という表現は深刻です。眠ろうにも眠れない、ものを言うこともでき
ないほど心は乱れているのです (4)。こうした嘆き悲しみの中で、詩
人は昔の日々を思い、遠い昔の年月について考えます(5)。嘆きに襲わ
れて、詩人は「夜には、私の歌を思い起こし…私の霊は探り求めます」
(6)というのです(参考 フランシスコ会訳「夜通し心の中で思い煩い、私の霊は思い詰めて問いかける」)。衝動的に出所進退を決めるのではなく、静かな夜、自分の心と語り合って、深く思い、魂を探っているのです。
 私たちは嘆きの中に落とされるとき、どれほど自分の心と語り合っているでしょうか。詩人は自分の心と語り合い8節の懸念への思いに導かれます。すると、主の約束のことばと神のいつくしみについて教えられていくのです(8,9)。詩人が導かれた鍵となることば「約束のことば」「神のいつくしみ」は大切です(参考「約束」は無に帰してしまうことはなく、「いつくしみ」は主の契約の中で保証されているもので消失はしません)。
 魂を探ることばは、「怒って あわれみを閉ざされたのか」(9b)といった心の陰をも明るみに出します。9b節は、嘆きの中で向き合わなければならない問いであり、それだけに不安をあおります。こうし
詩人は、苦難の根源にあるものを洞察し、衝動的になって自らを見失
っていくことから守られ、神の契約のもとにある確かさへと導かれる
のです。詩人であれ私たちであれ、神の怒りが生じたのなら、それは
問題ではなく、取り組むべき課題なのです。-山本怜-


 

 


詩篇 78篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第78篇

 「ツォアン」(12) から「シオン」(68)へのイスラエルの歩みは、エジプトの奴隷時代からダビデの統治時代に至るまでの動乱の成長期の歴史です。ここに語られているのは、二度と繰り返してはならない神への反抗であり、その反抗に対するさばきを通じてなお一貫してとどまり続ける神の恵みです。キリスト者である私たちは、ここに記されている歴史に、何らかの神のみわざへと思いが導かれます。
・この歴史は繰り返され、最終的には選ばれた民族が、それも選ばれ
た都シオン(68)で自分たちの王である主を拒絶しました。
・この詩は、イスラエルの歴史が突然に打ち切られています。それは、
続く世代の者がこれを完成させ、そこから学ぶためであるのだと知
ります(使徒28:30,31での打ち切りも私たちがこの歴史を継続する
ため)。
1-8節 歴史からの訓話
過去の歴史の中から、信仰の三つのより糸ともいうべき、神への信
頼、知識に基づいた謙虚な思索、従順が示されています。
9-16節 忘れ去られた奇跡
17-31節 不満のつぶやき
32—53節 無意味な悔い改めと出エジプトについての忘恩
54—64節 約束の地についての忘恩
65—72節 新たな始まり
 ここにはイスラエルの絶頂期への進展が記されていますが、半世紀前には誰が予想できたでしょう。 このような進展に、神の不変の愛を知ります。イスラエルの記録とは、それがイスラエルの恥であったとしても、そこに神の不変の愛と善意を見る者には、希望となって次の代の未完の物語へと続いているのです。-山本怜-


 

 


詩篇 79篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第79篇

 4節「私たちは隣人のそしりの的となり 周りの者に嘲られ 笑いぐさとなりました」という悲惨は、いつまでも続くかに見えます。しかし、その悲惨を被っているのは「私たち」ではなく、「あなたのゆずりの地」であり、「あなたの聖なる宮」であることに先ずは心を留めておきましょう(1)。
 それにしても、6節の祈りは慈愛の心に反するのではないでしょうか。御名を呼び求めない者を滅ぼしてくださるように祈ることは、向こう見ずなことなのでしょうか。このことについては「あなたを知らない」ということばから理解しておきましょう。「知らない」というのは、テサロニケ二1:8で語られている、「福音に従わない人々」です。神はそのような人々に、罰をお与えになられるのです(参照:テサロニケ二1:6以下、ローマ1:18~23)。
 9節も、熟考し味わいたいみことばです。このみことばに示されている主題は、罪の赦しが神の栄光であるということです。罪が赦されるのは私たち人間だと考えますと、意外ではないでしょうか。ここでは、罪の赦しは神のためであるというのです。罪とは、聖書では神に背くこと、神への敵対です。人間が神の主権を犯し、自分を神の位置に置いているのです。それは確かに神の栄光を傷つけていることです。
 罪の赦しが、自分のためであるだけではなく、主の御名の栄光のためであることを知りますと、私たちは、信仰とは自分のことだけにとらわれていることではなく、実に壮大な出来事であることに目が開かれるのです。そして気づきますのは、神のしもべたちの流された血の復讐も(10)、あなたをそしった、そのそしりの七倍を返すことも(12)異常なことではない、それほどに私たちの罪は重いことです。-山本怜-


 

 


詩篇 80篇


一日一章  今日の聖書    詩篇第80篇

 この詩の背景は、北王国イスラエルがアッシリアによって最後の日々(BC722北イスラエル滅亡)を迎えたときのことです。このとき南王国ユダに大きな衝撃が走りました。
 小さなユダの国土の北側に面しているのは、姉妹王国イスラエル、そのイスラエルがアッシリアの属州になってしまいました。ここには、南北という対立の意識はなく、昔からの神の家族が崩壊してしまった苦痛のみが残りました。その中でのこの詩は、前8世紀の終わりごろにあったユダヤ民族の危機と没落とに向き合った民の神への切なる嘆願の祈りなのです。
 「(神よ)私たちを元に戻し 御顔を照り輝かせてください。 そうすれば 私たちは救われます」が3、7、19節に反復句として記されています。また、8節からは、ぶどうの木にまつわる長い直喩によって、万軍の主に「どうか帰って来てください」「このぶどうの木を顧みてください」(14)と切なる祈りをささげています。まさに、この詩の主題は、御顔を照り輝かせ 私たちをお救いください なのです。そして、この祈りの詩の中で注目させられるのは、「私たちを救いに来てください」(2)、「私たちを元に戻し」(3)、「私たちはあなたから離れ去りません」(18)など、「私たち」の表現で祈りがささげられていることです。祈っているのはだれでしょう。北の部族から逃れてきた信心深い者であったかもしれませんが、アサフの詩としてエルサレム神殿でうたわれていたことを考えますと、統一されたイスラエル国家を願っての祈りと言えます。エルサレムにとって、イスラエルへの関心がどれほど純粋であったかをうかがい知ることができます。私たちも心からの純粋な祈りが問われているのです。-山本怜-


 

 


詩篇 81篇


一日一章  今日の聖書    詩篇第81篇

 七年ごとの仮庵の祭り(申命記31:10以下)では、荒野の旅を記念し、公の場で律法の書が朗読されました。この詩は、この仮庵の祭りで用いるためにつくられたと考えられています。この詩を歌い、また聞くとき、民は荒野で受けた教訓を忘れることはなかったのです。その教訓は、キリスト者にも大切な教訓です(参考 詩篇95:8、ヘブル3:7~11)。
1~5 喜べ  「喜び歌え…喜び叫べ ヤコブの神に」(1) この表現
が最初に出て来るのはモーセの歌(申命記32:43)です。そしてこの時も、
エジプトからの荒野での信仰の旅に始まる救いの歴史に想いを寄せ、
民が楽の音に合わせて神を賛美するようにと促されます(参考 ネヘミ
ヤ8:10「主を喜ぶことは、あなたがたの力だから」の意義に心をとめましょう)。
 一緒に集まって神を賛美することは大きな恵みです。新約聖書はいわゆる個人主義については警告しています(ヘブル10:25 自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう)。
6—11 想い起せ  ここには、肩と手、重荷と荷かご、などの具体的なことばで、贖いや抑圧などの概念が鮮明に描き出されています。神が私たちにどのように応答してくださっておられるかを具体的に思い出すことは益となるのです。
12-17 悔い改めよ  「わたしの民がわたしに聞き従う」(13)ことをしない。これは、あまりにもよくあることです。13,14節は、悔い改めを待つ神の愛情豊かな表現です。マタイ23:37で心を痛めておられるキリストは、今も、神に立ち返ることを望んでおられます。(マタイ23:37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりが雛を翼の下に集めるように、お前の子らを集めようとしたことか。それなのに、お前たちはそれを望まなかった。)-山本怜-


 

 


詩篇 82篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第82篇

 この詩は天の法廷のようすです。1節に「会議」と訳されている単語は単に「集まり」を意味する語で、ここに同席している者たち「神々」がさばきを受けるのであって、相談を受けるのではありません。神々についてはいろんな論議があります。7節のことば遣いに照らして
「支配(主権)、力(権力)、この暗闇の世界の支配者たち…(エペソ6:12)」であると考え、この詩篇の内容からは、イスラエルの支配者、裁判人らを地上における神の代表者と見、その職務を神より委任せられていると考えるのが適切でしょう。地上の支配者には高い敬意を払わなければなりませんが、彼らには最高の責任が負わせられています(参照 ペテロ4:17、ヤコブ3:1)。それだけに神の支配と正しいさばきをこの詩は祈願しているのです(8)。
 2~4節では、支配者が正しいさばきを行うことが求められています。
「いつまで」(2)ということばには、時の権力者たちの尊大さや不正の
根深さが示されています。ノアの洪水物語以降、聖書に示されている
のは神の忍耐です。この忍耐は、救いが完成するのを目指しているの
であって、堕落を容認しようとしているのではありません。不正はこ
の神の忍耐につけこんでいるのです(参考― 時の権力者たちの尊大さについて
―伝道者の書5:8)。5節では、悪政の中に悩み、悪い指導の下で苦しむ者
たちの窮状が述べられています。この窮状にある者は、「輝きを待ち望
んでいたが、歩くのは暗闇の中(イザヤ59:9)」なのです。
 詩は、神の正しいさばきと支配を待ち望む祈りで閉じられます。こ
の詩を読み、この詩が神と神の救いにのみ関心を向けているの気づき
(6~8)、支配者たちへの祈りと、さばかれるはずの者がキリストのゆえ
に神の嗣業と呼ばれる幸いへの感謝の祈りに導かれます。-山本怜-


 

 


詩篇 83篇


一日一章  今日の聖書    詩篇第83篇

 ここでは、不信心な同盟軍にイスラエルが取り囲まれ、同盟軍はイスラエルを滅ぼそうと躍起になっています。この内容に合う出来事としては、歴代二20章の出来事が考えられます。そこでは、モアブとアンモンに先導される一団によってユダの王ヨシャファテ(BC868‐847/南王国ユダ四代目)が脅かされたと記されています。
 6節からのいくつかの民は、イスラエルとは近縁関係です。それだけに彼らの敵意は激しかったと言えます(参考 エドム‐ヤコブの兄エサウの一族、イシュマエル‐イサクの異母兄に遡る一族、モアブとアンモン‐ロトの子ら)
 これらのイスラエルの隣人たちが、地方の小部族と同盟し、これにペリシテとツロや強力な勢力を持つアッシリアもくみしました(5~8)。この脅威の中で、祈りと信仰のうちに過去の出来事がよみがえってきます(9~12)。ミディアンと四人の指揮官(11-オレブ、ゼエブ、ゼバフ、ツァルムナ)が滅ぼされたのは、角笛とつぼとたいまつで武装しただけのギデオンの300人によってでした(士師記7:19~)。また、カナンの王ヤビンの将軍シセラは、女の手(士師記4:9/デボラ)に売り渡されました。「敵が騒ぎ立って」(2)いても、神は弱かった者を勝利者として選ばれたのです。これらの出来事のように、危難に際して神が民を保護してくださるようにと、この詩篇は祈り、うたいます。また、この詩が単に敵の敗北だけを願っているのではないことにも注目しましょう。16節には「主よ 彼らが御名を捜し回りますように」、18節には「こうして彼らが知りますように。その名が主であるあなただけが 全地の上におられる いと高き方であることを」とあります。神の義が現れるとき、「あなたがたは、わたしが主であることを知る」とのエゼキエルのことば(エゼ6:7)は、主の民にも異邦人にも等しく真実です。-山本怜-


 

 


詩篇 84篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第84篇

 この詩篇をうたうとき、私たちは信仰者として、このところで真に慕い求めている対象が「生ける神」(3)であることに心を留めましょう。それがどれほど神聖な場所であると言われたとしても(使徒7:48,49)、生ける神が第一とされないような場所は、たましいが絶え入るばかりに恋い慕うところとはなりえないのです。
 「なんと慕わしいことでしょう」(1)という声は、生ける神に向かって身をささげる信仰者の身と心の叫びです。このところで用いられている「慕わしいことでしょう」は、恋愛詩で用いられることばです。相手に自らをささげていない者にとっては(参照 アモス8:5)、この慕わしさにある喜びは理解できないのです。ここには、私たちの神の家(我が家であり主の教会)の魅力が見事にうたわれています。
 キリスト者にとって、これに相当する用語は「兄弟愛」です。主にある兄弟姉妹は、個人であっても集団になっても、神の神殿だからです(参照 コリント一3:16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。  同6:19 あなたがたは知らなのですか。あなたがたのからだはあなたがたの内におられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。)
 この詩で注目しておきたいことばは「なんと幸いなことでしょう」です。三回使われ(4,5,12)、この表現によって詩は展開していきます。4節では、もう神の家を離れて放浪しなくてもよい身を思い描き、その描いた思いを5節では、シオンという新しい方向へと目を定めます。そして、12節で信仰者は、疲れるどころか、さらに力を得て進みます(11,12)。ここには、「見ないで信じる人たちの幸い」(ヨハネ20:29)の祝福をすでに得て、うたう詩人がおり、私たちもいるのです。-山本怜- 


 

 


詩篇 85篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第85篇

 この詩の背景にあるのはバビロン捕囚の帰還です。BC538年、ペルシアの王キュロスによって新バビロニアは滅亡し、捕囚されていたイスラエルの民は故郷に帰って来ました。イスラエルの咎は覆われ、救いにあずかって、約束の地に帰ってくることができたのです。その恵みを回想しているのです(1~3)。
 しかし、その恵みが感じられない現状を主に訴えます。主の御怒りを受けた者の祈り(4~7)です。過去の恵みを数えながらも、イスラエルの人々は、神がまだ怒っておられると感じられるほどの厳しい現状に置かれていたのです(参考 このときの状況。ハガイ1:9~11)。
 8節の「聞かせてください、主である神の仰せを」は、岩波訳で「私は聞こう、何を神ヤハウェは語るかを」と記されていますように、突然「私」という人物が登場します。おそらくここで神が答えられる答えに民が注意を向けるようにと励ましているのでしょう。
 本当に見るべきなのは目の前の厳しい現実ではなく、神は何を見ておられるか、どうしたいと思っておられるか、ということです。神の思いは「栄光が私たちの地にとどまる」ことです(9)。バビロンから解放された後、困窮した時期が続きましたが、その時期も今や終わろうとしています。神が共にいてくださるのです。
 有名な10,11節が続きます。「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします。 まことは地から生えいで 義は天から見下ろします。」 恵みとまことも、義と平和も、天にありますが地にはありません。しかし神は、神の方法でこの地にもたらせてくださいます(参考:ヨハネ1:14)。「主にある敬虔な人」(9)、「主を恐れる者」(9)とは誰か。恵みとまことに満ちておられるキリストに望みを置く人です。-山本怜-


 

 


詩篇 86篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第86篇

 この詩は、ダビデの苦難の日の歌です。苦しみの中で(1b)、ダビデは心を神に向けて祈ります。その神は苦しみ貧しい者に、耳を傾けて答えてくださる(1)誠実であわれみ深い神です。
 苦難の中でダビデは、喜ばせてください、と祈ります(4)。このような大胆な祈りをすることができるのには、それだけの理由があるのです。それが4~7節で示されます。
・神を仰ぎ求めるひたむきさ(4~7)― 参照 詩24:4、25:2 あなた (主なる神)だけを慕う祈りは、むなしいものに心を向けず、神を信頼す
 る祈りです。
・主の御性質 ― いつくしみ深く、赦しに富み、恵み豊かな神(5)。
・主は祈りに答えてくださるとの確信(7) ― 参照 マタイ21:22 
 信じて疑わない。
 11節から詩は後半に入ります。ダビデは「御名を恐れるように私の心を一つにしてください」と祈ります。祈りに打算があってはなりません。人の心は罪のために汚れています。それだけに、心を一つにして祈りに心を傾けなければならないのです。
 ダビデは、あわれみや慰めを求めながらも、御力を与えてくださいと祈ります(16)。ダビデの命を求めている横暴な者の群れがいるのです(14)。彼らは主を前にはしていない人たちです。
 私たちは誰もが神への信仰のゆえに苦難を受けることがあります(参考:ヨハネ15:18,19)。しかし、そのときはダビデの信仰に倣い、心を神に向けて祈るときです。 そして、何よりも、「心を一つにしてください。御名を恐れるように」(11)と神の前に生きる祈りの人として歩みたいと思います。-山本怜-


 

 


詩篇 87篇


一日一章  今日の聖書    詩篇第87篇

 「上にあるエルサレムは、…私たちの母」(ガラテヤ4:26)。このパウロのことばの背景にある幻が、この詩篇にはうたわれています。シオンは、ユダヤ人にとっても異邦人にとっても今や神にある都とされているのです。
   参照 神の都 黙示録21:9~ 終末の完成の新しいエルサレム、
    へブル12:22 シオンの山、生ける神の都、天上のエルサレム。
 この詩篇の最初の単語は、文字通りに訳すと「彼の建造物(築いたもの)」です。そして、それが築かれている山は「聖なる山」となります。神がおられるから聖なのです。まさにこれは、信仰の父アブラハムが待望していたものなのです(参照 ヘブル11:10)。
 2節.神がその山におられるのは、神がその場所を愛しておられ
るからです。神がイスラエルを選ばれたのも、これと同じ理由「愛」
によるのです(申命記7:6~8)。そして、同じ理由で、神はキリストにあっ
て私たちをも選ばれました(ヨハネ3:16)。
 シオンは場所の名前であるだけではなく、共同体の名前でもあることに心をとめておきましょう。
 3節は神からのお告げです。「誉れある事」とは何でしょうか。その内容が4~6節で語られます。
 4,5節に記されているのは、当時の異邦人世界の代表的ともいえる人々です。その名が神の都に登録されるのです。いまや彼らは神の民です。異邦人からの単なる改宗者ではありません。ここにあるのは、まさに福音時代そのものです。6節には、神の「子羊のいのちの書」があります。それは、神ご自身の手によって記されました(参考:黙示録21:24~27)。シオンは栄光ある場所、喜びと賛美の所です。-山本怜-


 

 


詩篇 88篇


一日一章  今日の聖書    詩篇第88篇

 詩篇中でこれ以上に悲しい詩はありません。この詩を読む人は傍観者的にはなれないのです。祈りのうちに、意気消沈している人々、見捨てられた人々と同じ立場に立たされます。闇が深く迫り、その中におかれて希望がほとんど見られないとしても、そうした中にいる人々の心の状態を、この詩はことばにしているからです。
 詩人は「昼」も「夜」も嘆きます(1)。この嘆きは、最初のコラ人のマスキール(詩篇42:3)にも見られます。このことばの深い意味を私たちは主キリストのことばに学びます。 参照 ルカ18:7,8-このルカの箇所の主イエスのことばから、私たちは、どれほどの絶えざる叫びに対しても神は思いやりを持っておられることを知るのです。
 詩人は暗い深い淵にあって、神の憤りに苦しみを受けていると嘆きます(3~9)。詩人は沈黙しません。日ごとに、あたかもペヌエルでのヤコブのように(創世記32章)粘り強く主と格闘するのです。
 死は、神のみわざも恵みも感謝も、それらすべてが失われる「忘却の地」です(10~18)。まさに、生ける者にとっては「最後の敵」(コリント一15:26)です。しかし、神の目標は死ではなく復活。作者が発している数々の質問「奇しいみわざ」「ほめたたえること」「恵みが宣べられること」などは、復活なしには決して満足されないのです。
 詩人は執拗に祈ります(1,9,13)。打撃を受けたままで詩篇は終わろうとしています。思い出せるものは苦しみと不運だけ(15)。神の方に向いても恐怖(16,17)。愛する者や友も見いだせない(18)。このような嘆きを神は最終的な状態として受けとめさせようとしているのでしょうか。 
 私たちは、「からだが贖われることを…待ち望みながら、心の中でうめいている」(ローマ8:22,23)ことをはっきりと思い出すのです。-山本怜-


 

 


詩篇 89篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第89篇

1∼4節  この詩全体には、サムエル二7:3∼17のナタンの預言が土台にあります。詩人は「主の恵みをとこしえに歌います」(1)と言って、ダビデ契約に示されている主の真実を歌います(2~4)。彼は神の約束(契約)に拠り頼んでいるのです。
 しかし、出来事は予想外に展開し、38~51節に記されていますように、「しかし、あなたは…」(38)、「いつまでですか、主よ」(46)といった痛ましい緊張が走ります。けれども、詩人はその現実を直視して、「主よ、みこころに留めてください」(50)と訴えつつ、約束(ダビデへの誓い) (49)と現実の出来事(50,51)に向き合っているのです。(学ぶべきは、詩人の信仰者の姿勢です。彼は目の前にある神の憤りに(46)触れながらも、決して約束のことで毒づいたり、恨みがましくなったりせず、どこまでも神の約束を信じて現実に向かっているのです。)
 このような予想外に展開している事態をはるかに超えて、この詩篇は、神の尊厳(5~8)、統御(9~13)、恵みとまこと(14~18)に歓喜しています。ここには神の栄光の輝きが豊かに啓示されています。この啓示のおかげで、イスラエルも王も主を知り、従うことができるのです。参考までに、10節:「ラハブ」は、ここではエジプトに対する詩的呼び名です。
 ダビデを選び(19~21)、彼を高くした(22~27)のは、神の主権によるということに、強調点が向けられています。自力で生涯を開き、王となり、帝国を建設した者の姿はここにはありません。背後には、神がおられるのです。ダビデについての預言が完結されずに中断されることはありません。それを保証するのは契約です。詩人の目は、契約のことばを変えられることのない神にしっかり向けられています(33~37)。「とこしえに」(37)は、新約聖書に繋がっていきます。-山本怜-