詩篇 一日一章 42~72篇

「これこそ悩みのときの私の慰め。
まことに あなたのみことばは私を生かします。」
      (詩篇119:50)


・毎日、聖書を読む時に、お役立てください。

詩篇 42篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第42篇

 ここから詩篇の第二巻に入ります。表題のマスキールの意味は、「注意深い、賢い」です。それがこの詩篇に付けられている意味は明らかではありませんが、この詩篇が教訓的詩篇を指すとか、瞑想を意味すると考えられています。そのように、この詩篇を読む者は神への瞑想に導かれ、励まされるのです。
 詩篇42篇は43篇とは、密に編み合わされた一つの詩篇の二つの部分であり、詩篇全体の中で非常に悲しくも美しい一篇となっていることから、多くの人に愛唱されています。「なぜ、私は…嘆いて歩き回るのですか」と言う声が両方の詩篇に聞かれます(42:9,43:2)。そして、42篇の二つの部分を締めくくっている5節と11節の繰り返し句が、43篇5節で三度目に全体を締めくくるのです。
 カルヴァンがいうように聖所での礼拝の機会を奪われたダビデが主を渇望していると理解するにしても、あるいは列王記第二14:14のような状況におかれている捕囚として引き行かれた者の嘆きの歌であるにしても、神の家に帰りたいとの切望、神を求める切なる願いが、神御自身への不屈の信仰と希望へとつながっているのです。
 それゆえに、これを読む私たちもこの詩篇に励まされ「私はなおも神をほめたたえる。私の救い 私の神を」(5,11)と神を告白するのです。
 神を慕う者にとって、公の礼拝で本当に大切なものはもちろん神御自身です(1)。しかし、信仰の仲間と共に礼拝にあずかることや、主にある交わりの中にあることは、もう一つの喜びです(4) (参照:詩篇48,68,84篇及び「都上りの歌」120-134篇)。その喜びの日の思い出が、作者の悲しみを一層深くするのです。しかし、神を愛し、礼拝の喜びを知る者は、神を待ち望み、なおも神をほめたたえるのです。-山本怜-


 

 


詩篇 43篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第43篇

 前42篇6節からの光景には圧倒されるものがあります。足場は奪われ、次から次へと波が押し寄せ、今にも沈められんばかりなのです。それでも詩人の信仰はひるむことがありません。詩人は「あなた(神)を思い起こす」(42:6)のです。神は身近におられるのです。深淵の水は、「あなたの」注ぐ激流、「あなたの」波であると見られています。
 このように42篇でうたわれていた、苦難の嵐の中でも、なお神信頼の信仰へと成長する経過が、詩篇43篇でも続いています。
43篇では、「…欺きと不正の人から 私を助け出してください。あなたは私の力の神であられるからです。なぜ あなたは私を退けられたのですか」(1,2)のことばから、神信頼と、神から捨てられる実感との不思議な結びつきに、ゲッセマネの主イエス・キリストの姿を思い、また自らの信仰の歩みを見つめます。
 5節の「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。なぜ
私のうちで思い乱れているのか。」というみことばには、ゲッセマネ
での主イエスのことばが重なるように聞こえてくるではないですか。
 主は、ペテロとゼベダイの子の二人に、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」(マタイ26:38)と言われました。別の場面でも、「今、わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」(ヨハネ12:27)と言われています。このキリストのお苦しみと十字架の死のゆえに、私たちは助け出され(1)たのです。そして死に打ち勝たれたイエス・キリストのみもと(4)に、どのような時にも行くことができるのです。神を待ち望み、なおも神をほめたたえましょう(5)。-山本怜-


 

 


詩篇 44篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第44篇

 この詩の基調は神への信頼です。イスラエルは強い神の御手をもってもろもろの敵を征服し、約束の地に導かれました。詩人はうたいます。「先祖たちが語ってくれました。…自分の剣によって 彼らは地を得たのではなく 自分の腕が 彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手 あなたの御腕 あなたの御顔の光が そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです」(1,3)。ここでうたわれているのは、国を得るという大事業を成し遂げたのは自分の実力や努力ではなく、ただ神の御手によるのだとの神信頼の告白なのです。
 このような積極的な神信頼の言葉が、9節以下では一変します。「それなのに あなたは 私たちを退け 卑しめられました」(9)に始まり、「私の前には絶えず辱めがあり 恥が私の顔をおおってしまいました」(15)と綴るのです。あれほど明るく神信頼を告白したのに、現実を見た途端に、絶望の極みになっているのです。
 けれども、その現実の絶望状態の中にあって「しかし 私たちはあなたを忘れず あなたの契約を無にしませんでした。私たちの心はたじろがず 私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした」(17,18)と神への信頼をうたいます。学ぶべきはこの信仰です。どのような現実の中にあっても、神への信頼を取り戻す信仰は、現実の絶望状態を見事に跳ね返します。それにもかかわらず、状況は非常に暗いのです(19~22)。神は眠っておられるように見えるのです(23,24)。眠っておられる主は見かけに過ぎません(参考マルコ4:38)。この背後にある現実は、「あなたの御恵み」(26)です。「御恵み」は「不変の愛」と訳されることばです(ESV)。パウロは22節のことばを引用して神の愛を語ります(ローマ8:36~39)。キリストの愛こそが信仰の支えであり基です。-山本怜-


 

 


詩篇 45篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第45篇

 この詩は王のための祝婚歌です。表題の「ゆりの花」は曲の名称と解釈されています。言及されている王はダビデ系の王でしょう(参考:サムエル第二7:12-13)。「愛の歌」の表題からは、雅歌と同様、結婚賛歌です。
 婚礼は二人の中心人物にとっての重要な出来事であり、それは目的でもあり始まりでもあります(参照:10,11及び16,17)。それとともに、二人にとってだけではなく、王国にとっても極めて重要です。王国の将来は彼らの子らにかかっているからです。
 このことに加えて、この詩で覚えておきたいことは、6,7節です。
「神よ あなたの王座は世々限りなく あなたの王国の杖は公平の杖。あなたは義を愛し 悪を憎む。それゆえ 神よ あなたの神は 喜びの油を あなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして。」
 ここにおいて、王に対する賛辞が、突然神の名誉に発展しているのです。このところを、ヘブル1:8,9では、キリストに適用されているので、代々、教会はこれをキリストについて語っているメシア的詩篇と受け止めてきました。そのように、2~5節での王についての描写からは、王なるキリストの姿を教えられます。― 2aから<万人より優れた王>、2bから<その口から出てくる恵みのことば/ルカ4:22>、3,4節から<真理と柔和と義をもって、勝利のうちに進まれる方>。
 16,17節の「あなた」は娘・花嫁ではなく、王に向けて語られていることばです。このところから、私たちは、神が「多くの子たちを栄光に導く」(ヘブル2:10) 前触れとしてのメシア的預言を理解し、過去にではなく、永遠に続く神賛美へと招かれるのです。「私はあなたの名を 代々にわたって呼び求めよう。それゆえ 国々の民は 世々かぎりなくあなたをほめたたえよう」(17)。私も神をほめたたえます。-山本怜-


 

 


詩篇 46篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第46篇

 讃美歌512番に「きみは谷のゆり、あしたの星」という言葉がありますが、本当に涙の谷、死の谷の陰を通らなければならないことが人生にはあるのです。しかし、そこでゆりの花、キリストを見い出した人には、涙の谷はゆりの花の咲く谷となるのです。
 私たちのまことの安全は神にあります。神+何かではないのです。この確信とそれを脅かすものの両方が、詩の冒頭から明確にうたわれています(1~4)。
 神の大能が満ち満ちている「揺るがない都」(5)こそ、私たちの砦であることを、読む者の心に深く刻みます。そして、地上に大変動が生じるとき、この詩篇は恐れずにそれをも私たちに直視させるのです。
 「神の都」(4)は、旧約聖書の大きなテーマの一つです。その都が強固であり重要であるのは、神がその中におられるからです(5)。
 8~11節は、最終的に起こることの幻です。現在の勝利は最終的に起こることの事前の味見と言えるでしょう。結末は平和であっても、その過程には裁きがあります。その裁きの向こうには静けさが伴っているのです。参考:ペテロ二3:12,13。
 10節「やめよ」(新共同訳「力を捨てよ」、岩波訳「やめよ」、フランシスコ会、ESV訳は「静まれ」)は、落ち着きなく騒ぐ世界に対する叱責です。立ち騒ぐ水(3)に向けての命令は、マルコ4:39のキリストの権威ある言葉に通じます。さらに、終末への展望が、人の望みとの観点からではなく、神の栄光の観点から語られます。「わたしは…あがめられる」(10)という神の御意志は高慢な者には憤りの種、謙遜な者には「御名が聖なるものとされますように」(マタイ6:9)と祈るように、神への確信であり、神との全き平和への望みです。-山本怜-


 

 


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