詩篇 一日一章 1~41篇

「 神 その道は完全。
  主のことばは純粋。
  主は すべて主に身を避ける者の盾。」
         (詩篇18:30)


・毎日、聖書を読む時に、お役立てください。

詩篇 1篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第1篇

 詩篇は二千年以上もの長きにわたり旧約聖書の中で最も親しまれてきた作品集です。ヘブライ語聖書における名称(賛美)が表しているように、神への賛美の歌集として朗唱する人の心を燃やしてきました。
 今日は第一篇です。この篇は詩篇全体への導入として特別に作られたものであろう(D.キドナー)、と言われています。人間の二つの集団の境の線が、民族や地理に基づいてではなく、「悪しき者」と「正しい者」として神との契約関係に基づいて引かれ、正しい者は栄え、悪しき者は滅びるという原則をはっきりと示します。
 詩は至福の教えをもって始まります。
 先ず、正しい人があってはならない面から述べられます(1~3)。すなわち、①歩まず、立たず、座らず、②はかりごと、道、座、そして、③悪しき者、罪人、嘲る者 です。正しい人は次第に悪い人の一人になってしまうような交わり方はしないのです。
 悪しき者、罪人、嘲る者は、すべて同じ集団にあって神に敵対するものです。私たちはキリストを証しするのに、あらゆる人々に触れなければならないことを知っていますが(マルコ2:15~17)、どのような人の悪にまねても、悪しき者と結託してもならないのです。
 次いで、正しい人が、神のみこころを喜ぶ面から述べられています。主のおしえは彼を喜ばせ、主のみこころを行うことを欲して、その成すことが、流れのほとりに植えられた木のように実を結ぶのです。
 次いで、悪しき者の滅びが述べられます(4~6)。悪しき者には正し人の祝福は望めないのです。祝福では無く滅びが現実となるのです。
この短い詩は、主の民と主の敵との間に引かれている一線に気づかせるに十分なことをも述べているのです(参照マタイ13:36~43)。-山本怜-

 


 

 


詩篇 2篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第2篇

「なぜ」という驚きのことばで2篇は始まります。神が立てた支配者を無分別に拒むことに対する驚きです。この詩篇が引用されている
使徒4:25~28では、「地の王たち」と「君主たち」の役割をヘロデとピラトが果たし、「国々」と「国民」は異邦人とイスラエルの民が果たしています。これらすべての者が一つとなって「主と、主に油注がれた者」つまり神とキリストに反抗したのです(1~3)。
 この地上の者たちの神への反抗は、天上ではどのように受けとめられていたのでしょう。そのことを語る6節は7節と共にこの詩篇の中心になっています。天上ではみじんも動揺はありません。動揺どころか地上の傲慢(1~3)を嘲っておられ(4)、そして、神はことを決定されました。神がシオンに油を注いだ王を立てられたのです(6)。
 この油注がれた者が「主の定め」について語ります(7~9)。「主の定め」とは神の子とされる特権です(サムエル二7:14)。この定めが復活の主によって明らかにされ(使徒13:33)、力ある神の子として、私たちの主イエス・キリストとして公けに示されているのです(ローマ1:4)
 このように、2篇は、ふつう王の即位式の詩篇と見なされていますが、それ以上に主イエス・キリストを指し示しているのです。その意義を受けとめたいものです。それゆえ、10~12節では、「今、王たちよ 悟れ。地をさばく者たちよ 慎め。恐れつつ 主に仕えよ。おののきつつ震え、主に口づけせよ。」と歌います。それが、滅びないための唯一の道だからです(12)。 1篇に続き、“悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人は幸いなり”が響きわたっています。私たちも、恐れつつ主に仕え、主に身を避ける日々へと心を向けましょう。-山本怜-

 


 

 


詩篇 3篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第3篇

 3篇は、表題に見るようにダビデの暗黒の時の詩です。わが子から追われるように逃れようとする悲しみがあり(表題)、彼に忠実でない勢力は増大しているのです。「彼には救いはない」(2b)ということばは、良心の呵責に苦しみつつ、神のあわれみにすがり(サムエル二16:11,12)、神の真実にすがっている(3)ダビデには、どれほど胸に応えたことでしょう。この人々のことばは、ダビデに忠実な勇士ウリヤを殺し、その妻バテ・シェバを自分のものとした、取りかえしのつかないダビデが犯した罪を問題にしたからでしょう。ダビデがわが子アブさロムに追われているのは、ウリヤ殺害の罪に対する裁きだと人々は見て、ダビデにではなくアブサロムに従ったのです。
 そのような時にも、彼は主を呼び求め、神を思い巡らします(3~6)。3節で使われていることばは、次第に前向きになっていきます。彼の神への確信は、より大胆な確信へと高められていくのです。
「私の栄光」とは、何と含蓄に富み熟考に値する表現ではありませんか。このような主に仕える栄誉を思います(34:5、コリント二3:18))。
 「私は声をあげて主を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる」-直訳:私は呼ばわる…すると私に答えてくださったー(4)。ダビデが主を呼び求めるとき、既にダビデの繁栄を主は決定しているのです。キリスト者にとって、このような「信仰の祈り」に相当するのは、祈りのことばづかいから考えますと、例えば使徒4:23~30の祈りでしょう。私たちも、自分の思いに添った祈りではなく、神のみこころにそった「信仰の祈り」へと導かれることを願うのです。
 そして、この詩は、取り返しのつかない大きな罪を神は完全に赦してくださるという神の恵みの現実を証ししているのです。-山本怜-

 


 


詩篇 4篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第4篇

 詩篇3篇には「目を覚ます」(3:5)とあり、4篇には「すぐ眠りにつきます」(4:8)とありますから、3篇を朝の祈り、4篇を夕べの祈りと呼ぶ人もいますが、そうではありません。4篇の主題は、気が動転する状況の中での平安なのです(8)。夜が更けていくにつれて、過去の悪事(4)と現在の危険についてくよくよと考えたくなります。そのような時に、ダビデは「私が呼ぶとき 主は聞いてくださる」(3)との信仰に堅く立ち、自分の動機(4,5)と自分自身(3,8)を神に委ねているのです。そして、「人の子たちよ」(2)と言って他の信仰者にも自分と同じように主に拠り頼むように促すのです。
 詩篇3篇はアブサロムの叛逆がきっかけとなって生まれましたが、4篇もそれが背景になっているというわけではありません。4節や6節で語られているような試練は、どのような機会にも、どのような人の生涯にも起こりうるのです。(このことは、表題に「指揮者のために」と書かれてこの詩篇が公けの礼拝で用いられていることから察することができます。)
 2~5節でダビデは、彼の栄光を辱める人々に、なぜ空しいものを愛するのかと呼びかけ、主はご自分の聖徒を特別に扱われる、と証しします。ダビデに背き、ダビデを辱める人々は、実は、ダビデの義でいてくださる主を辱めていたのです。そのことを思って、ダビデは主の赦しを得るように、「義のいけにえを献げ 主に拠り頼め」と呼びかけます。
 こうして、ダビデは「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」と不安を抱えている人々を見て、「御顔の光を私たちの上に照らしてください」と祈ります。御顔の光は主の臨在です。主の臨在がダビデを支え、確かな平安で満たしているのです。-山本怜- 

 


 


詩篇 5篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第5篇

 5篇では、6,9節に見られますが、敵の存在は、ダビデの詩篇からは滅多に消えない影です。そうした影は、日常を詩篇に照らして見るとき、わたしたちにもあるのです。その敵の存在に対しては、主の大能の力によって日頃から強められましょう(参照:エペソ6:10~18)。
 ダビデは、敵対する者に囲まれる中で(8)朝を迎え、祈りをささげます。やっと聞こえるほどの自己への語りかけ(1、うめき・つぶやき)が吹き出して助けを求める声となり(2)、期待を込めた祈りへと祈りの内容も鮮明になってきます(2b,3)。祈りの土台は、「私の王」「私の神」の「私の」に見られる神と私との契約関係です(参照:ヨハネ13:24)。
 朝を迎えてささげるダビデの朝の祈りは、大盾のようにいつくしみで守ってくださる神からの喜びと祝福の源です(11,12)。そして、主イエスの祈りの日々の生涯が、私たちに朝ごとの祈りの大切さを教えておられます(参照:マルコ1:35、ルカ4:42)。私たちは祈りの時を持ち、いったん解決が与えられたようなことを経験しますと、それがずっと持ちこたえるかのように思うものです。ところが詩篇は嘆きを訴えて慰めを与えられる際に、「朝あけに」といいます。尽きざる泉から恵みを受け続けるのは、夜回りが夜明けを待つのにまさって日ごとに必要なのです(参照:130:6)。
 祈りは敵対する者への告発です(9,10)。ダビデは厳しく告発します。その激しさは、自分を正義として他者を一方的に責めるかのようにみえますが、そのことばは、神の前では彼自身にあてはまることを承知していました(143:2)。もし、ダビデが道徳面で吟味されたなら、罪ある者として滅ぼされていたのです。ダビデは、自分の正しさを言って拠り所としたのではなく、神を避け所としていたのです(10)。-山本怜-

 


 


詩篇 6篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第6篇

 この詩は、詩篇全体で7篇ある「悔い改めの詩篇」(6、32、38、51、102、 130、143篇)と呼ばれる最初のもので、深く悩み、不安になっている者の祈りが前半を占めています。6節以下の後半部分では、願い事は含まれてはいません。泣いているのは始めだけで、最後は大胆なほど信仰が溢れ出てきます。今までの神の前での祈りも涙も決して無益なことではなかったのです。この詩は、祈る勇気さえほとんどない者に祈りのことばを与え、勝利が見えるところまで導いていくのです。 
 「主よ 御怒りで私をせめないでください」(Ⅰ)原因は記されていませんが、ダビデの苦悩は極めて大きかった。彼の良心は不安に駆られ、自分が受ける懲らしめを思い、ただあわれみによって、その懲らしめを和らげる恵みに訴えずにはおられなかったのです。 
 「主よ、いつまでなのでしょう」(4)。この悲痛な叫びはよく聞かれます(13:1、74:9,10)。「いつまで」ということからは、神の時があることを覚えましょう(伝道3:11、詩篇1:3、ペテロ二3:9)。私たちに遅延はありましても、どんな場合にも、神は物事を成熟されるのです。その成熟には、時が熟する時の場合もあり(詩篇37:5)、人が成長する時の場合もあります(詩篇119:67)。神の時と最善があることを知って、私たちも「主よ、いつまでなのでしょう」と祈りをもって神の前に歩むのです。 
 「涙」(7)。落ち込みと疲労がここまできますと、自分ではどうすることもできず、人の助言も役に立ちません。祈りさえも途絶え、敵のために弱まるだけなのです。このような時、救いがあるとすれば、私たちの祈りを受け入れてくださる神です。「主は、私の切なる願いを聞き、私の祈りを受け入れられる」という信仰の確信に満たされた信仰生活へと日ごとに導かれていることを覚えたいと思います。-山本怜-

 


 


詩篇 7篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第7篇

 表題には、「シガヨンの歌」とあります。リズムの激しい熱情的な歌であると考えられています。ダビデによる歌で、ベニヤミン人クシュのことについて主に歌った、と記されています。「クシュ」はサムエル二18:21に登場する走り使いのクシュ人(エチオピア人)のことではありません。サウルに属するベニヤミン族の名称があげられていることから、サウル王の縁者の一人であると考えられています。
 アブサロムの反逆のエピソードから、ベニヤミン族の中に、ダビデに激しい敵意を抱く者がいたことがわかります(サムエル二16:5以下、20:1以下)。
 「私の神 主よ 私はあなたに身を避けます」(1)。命が狙われ絶望的な状況にあって、ダビデが最初に発した言葉は「主よ、あなたに身を避けます」という信仰の表明です。ダビデは、堅固な砦により頼むのです。自分を神の手の内に置き、神の意志に委ねます。そこには、すべての理解を超えた神の平安があるのです(ピリピ4:7)。
 「私の神 主よ もしも 私がこのことをしたのなら…」(2~4)。ダビデは、神の前で自分の心に正直に、自分を吟味・精査します。このダビデから、私たちは示されます。すなわち、私たちが神のもとへ逃れ場を求めるときに問われることは、まず、自らの良心が清いことをキリストにあって確認し、罪は悔い改め、義とされている確信に導かれることです (詩篇32:1,2、ローマ4:6、ヨハネの手紙一1:9)。
 「神は正しい審判者」(6~13)。ダビデが盾とする神は、義なる神、「私の義と誠実に従って」(8)裁かれます。私の主張が正しくない限り、神が私の側に立ち、好意を示されるように願うことは無意味なのです。主の義にふさわしい者へと、日々御霊に従って歩みましょう。-山本怜

 


 


詩篇 8篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第8篇

 神への賛美とはどうあるべきかを示す例として、この詩にまさるものはないと言われます。神の栄光と恵みをたたえ、神がどのようなお方で、何をなさったかを詳しく語り、私たちと世界と神とを深く関係づけ、それでいて饒舌ではなく喜びと神への畏れに満ちているのです。
 この詩篇は神に始まり、神に終わります。そのテーマは「あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう」(1,9)です。
 「主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり…」(1,2)。
 この神への賛美は高きところで歌われます。そればかりか、全人類に示された神の摂理は、すでに生まれたばかりの幼子たちの上にも輝きわたっているのです。神に敵対する者、復讐する敵が起こって神に挑んでも、神の栄光は覆されません。神の栄光は、乳飲み子たちや「この世の弱い者、取るに足りない者」(コリント一1:26ー31)によって示されているのです。
 「あなたの指のわざである あなたの天…」(3~5)。天の創造主なる神の栄光は、私たちの心を、賛美の思いで満たします。その主なる神が人類を「心に留められる」までに身を低くされたのです。実に驚くべきこと、「人の子とはいったい何ものなのでしょう」。この表現は、詩篇144:3とヨブ記7:17にも見られます。詩篇144:3では、人間の弱さを認め、神の助けを求めているのです。ヨブ記7:17では、ヨブは激しい苦痛の中で死を求め、神を見張りか監視かの如く考えているのです。しかし、この詩篇はそうではありません。素直に神の慈愛が注がれていることを感謝し、賛美しているのです。「人に治めさせるもの」(6~8)の例証として身近なものを取り上げることによって、誰もが神の祝福に目が開かれ、神への賛美の思いに満たされるのです。-山本怜-

 


 


詩篇 9篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第9篇

 9篇と10篇は、全体がほぼ連続したアルファベット順に配列されていて、かつては一つの詩であったと考えられています。七十人訳とラテン語訳では、この二つで9篇なのです。内容から見ますと、9篇で歌われているのは、敵の手から救い出してくださる神への賛美であり、10篇では救いのための嘆きの祈りです。
 ダビデは心を尽くして主に感謝をささげます(4)。(「心を尽くして」の本来の意味は“わが心のすべて”です。これと対置することばは、“ふたごころ”。)
 ダビデの心から、主の奇しいみわざのゆえに(2)、私の正しい訴えを聞かれる正しい審判のゆえに(4)、賛美が溢れ出ます。それだけではなく、ダビデの思いは、私の敵(3)、私の訴え(4)といった自らの事情を超えて、神の全面的勝利(5,6)と、世界規模の永遠の義の統治(7,8)へと広がります。神こそ栄光の神、力ある方です。私たちも、私という個人の事情に目を向け心を砕いてくださる方が、世界を統治される力ある方であることを覚えるとき、私たちの心は励まされ、ダビデと同じように、神への賛美に満たされるのです。
 ダビデは祈ります(9,10)。祈りであるとともに励ましです。神の助けがないように見えても、信仰者が虐げられ、苦しみを受けるまさにその時、神は必ず助けられ、見捨てられることはなく、どのような時にもそば近くにおられるのです。神は御自身を尋ね求める人を決して捨てられることはありません(参照:詩篇27:10、ヨハネ14:18)。 13節からは9篇の後半です。主のあわれみを求め、信仰を告白します(13,14)。悪しき者は自滅し、貧しい者が支えられると歌い(15~18)、人間が誇らないように裁いてくださいと祈ります(19,20)。ダビデの詩を通して、私たちもまた神のみこころを知り、神をほめたたえましょう。-山本怜-

 


 


詩篇 10篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第10篇

 9篇の重点は、来たるべき義の審判と神への賛美です。続く10篇は、不義がほしいままにされている様相を描き出します。一言でいえば、「悪しき者の道はいつも栄える」(8)ということ、まさに今の時代のことと言えます。 悪しき者(神に逆らう者)は、人を傷つけるだけでは飽き足らず、主を侮り(3)、罰せられることはないと繰り返し自分に言い聞かせます(5、6、11、13)。自らを守るすべを持たない人を自分の餌食になるものとして扱っているのです(2a、7-10)。  
 一方、神はどういう態度をとっておられるのでしょう。神に逆らう者の高慢さを見るかぎり(3~10)、神に逆らう者には神が目に入っていないのです(5)。そして、神に逆らう者は心の中で「私は揺らぐことがない…」と言うように(6)、うまくやっているのです。彼は「神は忘れているのだ。顔を隠して永久に見ることはないのだ」(11)とうそぶきます。 
 そこで12節。詩人は、人生の道が栄えている悪しき者に目を向けたため、神の沈黙はいよいよ深く、その隠れておられるかの様子に耐えがたくなってしまい、「主よ 立ち上がってください。神よ 御手を上げてください。どうか貧しい者を忘れないでください」ということばになって祈ります。この祈りは、悪しき者がはっきりと見えるからこそ生まれているのです(参照:18:7)。神への祈りは、神への信頼です。彼は、神が見ておられることを確信して祈るのです(14,15)。
 「主よ、なぜあなたは遠く離れて立ち、苦しみのときに 身を隠されるのですか」(1)と祈り、「立ちあがってください」(12)と願う祈りに、神からの答えはまだありません。それでも、問題に直面して立つことができるのです。彼は、主がすべてをご覧になっておられる神であるとの信仰に堅く立っているからです。-山本怜-

 


 


詩篇 11篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第11篇

 表題に「ダビデによる」とあります。ダビデが苦境のどん底に陥った危機の時の経験に基づいて、この詩はうたわれているのです。主題は「神への信頼」です。その信頼は現実の危機から生まれるのです。
 2節では、迫ってくる危機の場面が目に見えるようです。(ダビデが自分の命をねらうサウルの手を逃れるべく、ジフやマオンの荒野、ヱン・ゲディ(24:1)の要害での逃亡生活を余儀なくされていたときのことであろうか。サムエル一23,24章)
 3節「拠り所が壊されたら何ができるのだろう」。いのちを狙われて
危機のただ中にあるダビデに、まわりの者たちは山に逃れるように忠告します。拠り所が壊されたら(自分の命を失う)、正しい者(義人、主に従っている人)といえども何もできないではないかと言うのです。ことばを変えれば、ダビデは敗北しているのに戦っている、と言うのです。
それでも彼は神への不動の信仰を持つ人です。悪者と正しい者をご存知で(4,5)、正しく、正義を愛する神(7a)への信頼を揺るがすことはなかったのです。それで、今の拠り所が壊されても、アブラハムと同じように、神が設計者であり建設者である堅い基礎の上に立てられた都(ヘブル11:10)を見ていたのです。それは新しい始まりです (ヘブル12:27) 。
 6節では、裁きの決定的瞬間が述べられています。火と硫黄によって滅ぼされたソドムの滅亡は、神の最終的な裁きとして永遠に思い出させる出来事です(ルカ17:28-32)。その最終的な裁きを前に、主が正しい者と悪者を調べ、悪者には「火と硫黄、燃える風」の杯、直ぐな人には神との平和があることを彼は確信しているのです。カルヴァンは言います。「ダビデは人間の側からの助けはなかったが、神の摂理によって助けを得た。肝要なことは、神の摂理により頼み、絶望的な事態のうちにあっても、その裁きによる癒しを待ち望むことである。」-山本怜

 


 


詩篇 12篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第12篇

 ダビデは、地が悪しき者らによってかき乱され、義も公正も見られなくなったことを嘆き悲しみ、神がその民を直ちに助けてくださるように祈ります。このダビデにならい、すべてが絶望的に見えるとき、神に拠り頼むことを学びたい。
 誠実な人(信仰のある人)は消え去りました。人は友に向かってむなしいことを話し、へつらいの唇と二心で話します」(2、3)。こうしたことは、事柄を悲観し、絶望するほかない深刻な事態です(4)。
 そこに見られるのは大言壮語する尊大な神への反逆の言葉です(4)。彼らは「われらはこの舌で勝つことができると言って人間のことばに信頼し、神のことばなど眼中に置きません。神の誠実は無にされているのです。しかし、神は誠実な方です(参照:ローマ3:4 決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです)。聖書は大言壮語の及ぼす影響を決して軽くは見ていません。(参照:ヤコブ3:5、ペトロ二2:18)
 神は、神を神とも思わぬ悪しき者らが思い上がっているのを、見過ごしにしておられません(5)。ダビデは、この絶望するほかない深刻な事態の中で、「今わたしは立ち上がる。わたしは彼を その求める救いに入れよう」と言われる主の約束のことばを聞くのです。
 このように神によって確かな救いに置かれているのですが、9節に見るように戦いは続きます。試練は試練として厳然とあるのです。しかし、その試練に打ち勝たせて私たちを保ち、悪しき人々から免れさせてくださるのは主のことばです(6)。ダビデは、悪しき者が横行している中で、主が立ち上がってくださり、苦しむ人、貧しい人を守られる神への信頼を詠うのです(5~8)。-山本怜-

 


 


詩篇 13篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第13篇

 聖書全体を貫いて、否定的なものと肯定的なものとの型があります。闇と光、拘束と自由、捕囚と帰還、ハルマゲドンと新しいエルサレム、十字架と復活などです。この13篇の嘆きの歌では、ダビデは心の悲しみから主の救いの喜びを歌います。
 この詩篇は激しい嘆きをもって始まります。その激しさは、「いつまで」という表現が四回も続けて使われていることに現れています(1,2)。三回目の「いつまで」(2)の文は、ヘブル語本文では「いつまで 私は自分のたましいのうちではかりごとをめぐらすのだろうか」となっていますから、悩みから抜けだそうとしていたのでしょう。
 ダビデは死をも予感しています(3)。その死が敵対者を喜ばせないように訴えているのです(4)。ダビデはギリギリの状況に陥っていたのです。こうした状況に陥りながらそれにもかかわらず、彼は信仰の光に導かれ、神の恵みを瞑想するまでに高められました。先に、否定的なものと肯定的なものとの型についてふれましたが、ダビデの場合、その転機となっているのは、「私の目を明るくしてください」とささげる祈り、と「あなたの恵みに拠り頼む」(5)信仰です。絶望へと誘い込むような思いと憂いをダビデが抱いているとしても、神の恵みと救いのうちにしっかり留まろうとしたのです。ここから私たちは、肉の判断には隠されている神の恵みを把握できるのは、祈りと信仰によるということを知るのです。
 「私は主に歌を歌います」(6)。ダビデは、熱望するところのものを未だ手に入れていませんが、神が救い主として果たされることを確信し、救いを喜び、感謝をささげます。私たちも「主は良くしてくださいましたから」と信仰の喜びの歌を唇に上らせましょう。-山本怜

 


 


詩篇 14篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第14篇

 14篇は、53篇とほぼ同じです。違う点は、14篇が神の固有名詞「ヤーウェ」(主)を使っているのに対して、53篇では一貫して「エロヒム」(神)が用いられていることと、5、6節とこれに対応する53:6が異なる点です。「ヤーウェ」(主)という呼び名は契約の主という意味で、ユダヤ人に常に神聖視されてきた名(エホバ)です。「エロヒム」(神)は、神が強く力のある方、恐るべき方であることを示していますから、全人類にかかわる詩として53篇をパウロがローマ人への手紙で異邦人キリスト者に説いて聞かせたのです(ローマ3章)。このことから、この詩は捕囚前、捕囚後、そして新約の時代という人間の歴史を貫く真理を歌っているのです。では、歴史を貫く真理は何でしょう。1~3節に記されているのは、天から主が御自身を求める者がいないか御覧になっているのに、人は心の中で「神はいない」と言って「すべての者が離れて行き」、腐っていて…無用の者となっている現実です。誰も神を求めていません。求めているのは自分の願望の達成、自分が幸せだと思っている状況になることです。そして、ひるがえって自らを省みれば、「善を行う者はいない。だれ一人いない」(3)のことばのとおり、私共もそうだと気づくのです。私共と彼らの違いは、神への裏切りに気づいているかいないかだけなのです。
 ダビデは、神への裏切りに気づかない不法を行う人々が主の民を食い物にしているが、主がその民の避け所であることに驚くだろうと言います(4~6 )。この不法が満ちている時代では、神を求めない人が神の現実に気づくのは、自分たちが苦しめている人たちが主に支えられている現実を知る時なのです。ここに、十字架の救いの原理を見ます。こうして、ダビデはイスラエルの救いを待ち望むのです(7)。-山本怜-

 


 


詩篇 15篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第15篇

 詩人は主に問います。「だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか」(Ⅰ)。これに主は答えます(2~5)。主題は「だれが主の幕屋に宿り、主の山に住むのか」です。
「あなたの幕屋」も「あなたの聖なる山」も、主が現臨される場所です。それゆえに、「だれが…宿り…住むことができるでしょうか」に対する主の答えは私たちの心を深く探るものとなるのです。闇は光に打ち勝たないからです(ヨハネ1:5)。
 神への問いかけの答えを、まず2節が語ります。それは「全き者として歩み、義を行い、心の中の真実を語る人」(2)。何よりも偽りのない全き人です。「心の中の真実を語る」、ここには確かさがあり、信頼があります。これに対比する人とはだれでしょう(参照イザヤ29:13)。
この「偽りのない全き人」の姿を3節以下が具体的に示しています。
3節では、箴言10:12をも開きましょう。「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう」とあります。
 4,5節には、「損になっても、誓ったことは変えない」「利息をつけて金を貸さず、…賄賂を受け取らない」とあります。ここに示されたことで、神礼拝に直接関わる問題は一つもありません。しかし、ここには実は、信仰と生活、礼拝と日常倫理、における一貫性が問われているのです。読みこぼさないようにしたいと思います。
 福音は、礼拝のときだけに聞くようなものではなく、その生活全体の中で聞き、生き方そのものを吟味させるものなのです。神礼拝は、そのような生の在り方をいつも新しく問う場でもあるのです。この詩篇はこのことを明らかにして、「このように行う人は 決して揺らがされない」といって結びます。-山本怜- 

 


 


詩篇 16篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第16篇

 表題のミクタムは56,57,60各篇にもつけられていますが意味不詳です。それだけに諸説もあります。諸説にかかわらず、読んで分かりますのは、16篇は神への全き信頼を歌っていることです。
 「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにありません」(2)。非常に明確なダビデの告白です。この告白に対して、私たちには「その通りです」と言うか、言わないかだけが残っていると言えます。神は、確固とした信仰によって神のうちに憩う限り、進んで私たちを助け支えられます。この信仰のゆえにダビデは主に支えられ、どのような時にも揺るがされることはなかったのです(8)。このことを私たちはしっかりと心にとどめておきたいものです。
「私の幸いは あなたのほかにありません」という告白の裏側には、私たち人間が幸いであると思い込んできたもののむなしさが暴露されていると考えることができます。神は、本当の幸いを与えるためには、私たちに痛みが伴っても、本当の幸いでないものを明らかにしてそれを打ち砕かれるのです。
 ダビデは、ほかの神を拒絶した(4)すぐあとで、神こそが「受ける分」であると言います(5)。私たちはいろんな「受ける分、いわば宝物」を追い求めているかもしれません。しかし、それらは変わり行き、やがて消え失せます。神こそが与えられた分、この確信に立ちましょう。この確信に立つ人の右に主はおられるので揺るがされることはありません(8)。それゆえに、私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます、とダビデは詠います。その喜びに私たちも満たされるのです。それは、10、11節で分かりますように、復活の主とともにある永遠のいのちに生きる満ち足りた喜びなのです。-山本怜-

 


 


詩篇 17篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第17篇

 表題は「ダビデの祈り」です。この祈りをささげるダビデは余程の非常事態にあったのでしょう。「聞いてくだい」「耳に留めてください」「耳に入れてください」「右の手で…恵みをお示しください」「かくまってください」「打ちのめしてください」「助け出してください」と、しきりに主に願って祈ります。その祈りは「正しい訴え」であり、「欺きの唇から出たもの」ではないということばからは、一見、自分の無実を訴えることが度を越しているかのようですが、ダビデが考えているのは自己主張や自己満足ではなく、神の前での誠実さなのです。ダビデは自ら自分の心を探り、身の潔白を確信しているのです(参照:ヨハネ一3:18-21)。この確信はどこから得たのでしょう。
 ダビデが潔白であるとの確信は、4,5節によりますと主のみことばに従ったことにあります。彼は言います。「人としての行いは、あなたの唇のことばに従い…。私の歩みは あなたの道を堅く守り…」。 
6∼9節からは、ダビデがみことばにいかに学んでいたかが伝わってきます。6節では主の宮で誓願を立てたときのハンナの祈り、7節ではファラオの戦車と軍勢を海に沈めた神の右の手、8節では荒野の中でイスラエルをご自分の瞳のように守られた主、9節でイスラエルを襲う敵の敗北などから、信仰者に願っておられることをみことばを通して神の啓示として学んでいたのです。みことばは、私の足のともしび、私の道の光(詩篇119:105)です。
10∼14節でかみ裂くように襲う獅子のような悪しき者からあなたの剣で助け出してください、とダビデは祈ります。力を与えてくださいではないのです。サム一24:6,7のダビデを思います。サウロに手を下すことは、自分によってではなく主に委ねたのです。-山本怜-

 


 


詩篇 18篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第18篇

 ダビデ王のあふれる感謝の詩です。詩は、ダビデの統治の早い時期のことで、生涯の汚点となる大罪(サム二11章)がダビデ王国に暗い影を落とす(サム二13)以前の時代です。長い詩篇ですから、キドナーの五つの区分に従い、詩の特徴を理解しましょう。
1避け所(1~3) わが力なる主よ、で詩は始まります。神への愛と神への感謝が冒頭からあふれています。隠喩を用いて、ダビデの数々の逃亡と勝利をたどらせてくれます。(サム一23:25-28)。
2救出(4~19) 描かれている情景の規模の巨大さと、詩を歌う人間の小ささを思います。人間を救い出すため、神御自身が「死と滅び」に戦っておられるのです。個人にはそれほどまでに価値があり、その人は神に対してそれほどまでに大きな負債を負っています。ダビデが祝福された者であるのは、神が彼を「喜び」とされたからで(19)、単に彼が民の代表だからではありません。(参照:列王記下8:19、イザ55:3)。
3その道は完全(20~30) 20∼24節は、独りよがりの私の義ではなく、誠実さを言っています。ダビデがこれらの言葉を用いることができたのは、この詩がメシア的であるからです。この詩は、キリストへの理解のもとで読まれるときに新たな深さを得ることになるのです。
4勝利と敗走(31-45) 勝利も敗走もすべては神から来ます。ここに見られるのは唯一神信仰(31)。「岩」(31)はモーセの歌を思わせます(申命記32:31)。「戦いのために私の手を鍛え」(34)―神が人に力を与えるときには、戦いに慣らされるということが背後にあります。それによって青銅の弓を引くことができるのです。
5頌栄(46-50)「主は生きておられる」、「私を助け出される方」(46,
48)。この神に感謝をささげ、御名をほめたたえましょう(49)。-山本怜-

 


 


詩篇 19篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第19篇

 この詩篇は二つの楽章から成り、神の栄光と叡智が鳴り渡っています。第一部(1∼6)では、宇宙における神の啓示の大いなる広がりに魂は圧倒され、神の栄光をほめたたえます。続く第二部(7~14)では、神のみことばのうちに十分以上に輝いている神の知識をあがめ、神の叡智をほめたたえます。このみわざの前に、礼拝者は心探られ応答するのです(12~14)。
 第一部に語られている“神のみわざの雄弁さ”については、パウロが「神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので彼らに弁解の余地はありません」と記しているように(ローマ1:20)、どの時代にも思い出すべきことなのです。
 古代人は、日や月や天の万象に「口づけを投げかける」など、誘惑に駆られました(ヨブ31:26,27、列王二23:5)。現代人はどうでしょうか(天の万象は偶然のもの?雨乞いに見る霊の領域?)。キリスト者だけが、天の万象を造られた父を思い、子としての驚きと喜びに動かされるのです。
 主イエス・キリストは、律法や預言者を成就するために来られたと言われました(マタイ5:17)。この意味では、7,8節の「主のおしえ」「主の証し」「主の戒め」「主の仰せ」は、カルヴァンが言いますように、「成就するために来られたキリストにあって、初めてたましいが生き返り、浅はかな者は賢くされ、心はその霊に導かれて、神のみことばに従う喜びを知る者とされる」ことに心を留めたいと思います。 参考 ヨハネ15:3「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでに清いのです」。同 15:5「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」。-山本怜-

 


 


詩篇 20篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第20篇

 この詩にタイトルをつけるとすれば、「苦難の日」(1)といえます。7節の「戦車」や「馬」を求めることからもうかがえますが、今まさに戦いが始まろうとしているのです。この戦いを前にして、王が出陣の準備をしている様子が描かれています。王の祈りといけにえは献げられ(3)、部下たちは軍旗のもとに集められ(5)、民は王の幸運を願い、集団で祝福を祈ります(1∼5)。これに応えて一人の声(王自身)が、「今、私は知る」(6~8)と、神の答えの確かさについて語ります。それに民は、王のための緊急の身近な祈りをもって応えるのです(9)。
 このように歌われる20篇について、キドナーは「この詩には、生死の問題が間もなく解決されることを緊張のうちに自覚しているという点で、心を掻きたてられる一篇である」と言っています。
 この詩篇を通じて記されている「あなた」はただ一人を指し(単数形)ています。それは、6節で分かります主が「油注がれた」者です。民は、この一人の人物を、民としての歩みを維持する存在として見ていました。(参考 哀歌4:20 私たちの鼻の息、主に油注がれた者…「この方の陰なら、国々の中でも生き延びられる」と思っていた。)こうした役割を担える者は、現実にはメシア(キリスト)をほかにしてはいません。その意味で、この詩篇は、メシアの型を指し示しているのです。アウグスティヌスは、この詩篇にはっきりとキリストを見ていました。 
 神の御名(2)は、イスラエルでは神自らの啓示であり、祈りに答えることのしるしです(6,7)。神は、御自身の御名を祭司の祝福によって「イスラエルの子らの上に置き」(民数6:27)、御自身の所有であるしるしとされるのです。民はまた、この御名をもって神のために行動するのです。主は「わたしに従いなさい」と私たちに言われます。-山本怜-

 


 


詩篇 21篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第21篇

 この喜びにあふれる詩篇は、戴冠式の時の頌歌(参照3節)とも、あるいは勝利祝賀の歌(参考2節と20:3の比較)であるとも考えられています。
 二つの大きな部分から成っている詩篇で、先ず王の信仰について語り(Ⅰ~6)、ついで会衆が王に応答しています(7~13)。応答の最後は祈りと賛美です(13)。
 1-6節は神殿の合唱隊あるいは会衆によって歌われたのでしょう。歌に登場するのは「主と王」だけです。1節の「御救い」は20:5の「勝利」と同じ語です。単なる救出という意味を超えて、さらに積極的な意味で歌われているのです。万物を生かす救い、それは主だけがなしうる真の勝利です。
 9-13節では「王とその敵」が記され、最終的な勝利を約束しています。ここに描かれているのは、全力を注いですべての敵を追撃し、すべての敵を見つけ出し(8)、地上から敵の仲間を滅ぼしてしまう(10)気迫です。このような規模の出来事は地上の王の力をはるかに超える出来事です。ただ、メシア(キリスト)にだけよるものです。
 このことを、新約聖書ではキリストによることとして詳述しています。キリストの出現と、それに伴う火と裁きが明確にされているのです。参照:テサロニケ二1:7b-9「このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。」13節の応答の祈りと賛美では、人間は視界から消え、「ただ主のみ」があがめられます。勝利の主をほめたたえましょう。-山本怜

 


 


詩篇 22篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第22篇

 キリスト者にとって、この詩篇は、主イエスが1節のことばを叫ばれた(マタイ27:46)十字架の情景を生々しく思い起こすことなしには読めません。細部まで成就した預言であるにとどまらず、復讐の訴えの片鱗さえ見られない受難者のへりくだりと、すべての民が世界規模で一つに集められる(27)という受難者の祈りが主題となっているのです。
 私たちはキリストの十字架の場面を思いながら1,2節を読みます。詩人は神に捨てられた状態であっても、なお「わが神」と呼ぶのです。そこにあるのは、神への信頼です。3~5節はそのことに心を向けさせます。6節からは主題に戻り、神信頼が疑う余地無く出てきます(9,10,19)。続く22節から最後までは神賛美と神信頼で結ばれます。この意味では、この詩は十字架の叫びであるとともに、深い神信頼の叫びでもあるのです。 
 「わが神、わが神 どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ方は、単なる人間ではなく、神の子、つまり神御自身でした。このことはキリスト教の心臓部です。神が神によって捨てられたということが起こった。どういうことなのでしょう。この詩篇の内容が、神の内側にまで持ち込まれたのです。普通、私たちはこの叫びは人間の叫びだと思い、神から捨てられるのは人間のことだと思うのです。
 しかし、神そのものであるイエスがこの叫びを叫ばれたのです。22篇で詩人が歌う人間の痛みが神の内側に持ち込まれ、神から捨てられるという絶望状態が神の口から出たのです。22篇のような状況にある人間を本当に救うことのできる救い主は、無傷の救い主ではなく、自ら傷を負う永遠者なのです。私たちは神の前にある一人として、このことを深く心にとどめたい。(ペテロ一2:24)-山本怜-

 


 


詩篇 23篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第23篇

 この詩篇は、羊飼いと羊のたとえを用いて、神と人間との関係を簡潔に、それでいて力強く取り上げています。ここにある平安は逃避ではありません。ここにある充足は自己満足ではありません。ここには、深い闇と、さしせまる攻撃に直面する用意があります。そこにあるのは、主に向かって進む愛です(6)。
 魂がなえ衰え、疲れ果てるとき、神は生き返らせてくださる。そして正しい道へと導かれる。滅びの淵に陥ることを避けさせてくださる。こういうことを神は「御名のゆえに」なさるのです。神の名が、これによってはっきりしてきます。神とは、つまり神の名は何なのかと知ろうと思えば、神のなさることを見るほかはないのです。すると、神は羊飼いということになり、神が羊である私たちをこんなに配慮して扱ってくださることによって、神の本質を現されるのです。  
 5節からは、敵の前での宴がうたわれます。今ダビデは敵を前にしているのです。敵は人間である敵ともとれますし、いろいろな逆境と理解することもできます。すなわち敵対する強力なものです。そのようなものが目の前に現れますと、人間は余裕がなくなって慌てふためき、落とし穴に陥ります。
 しかし、神は敵の前で私に杯があふれるまでの食卓を設けてくださるのです。どのような人生の場面においても、神に養われる者の幸いと豊かさが、信仰にはあるのです。神の恵みの豊かさに感謝しましょう。
 6節は、私たちがいつどのようになるかが見えないような人生を歩いていく時にも、生涯にわたって、神のいつくしみと恵みが私たちを追いつき守ってくれているというのです。私たちはこの主の家に生涯住む幸い、神にある人生の幸にあずかっているのです。-山本怜-

 


 


詩篇 24篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第24篇

 この詩は、ジュネーブ詩篇歌で私たちが親しんでいる神の栄光の賛美です。Ⅰすべてを創造する方、神の尊厳を詠う1-2節。Ⅱすべて聖なる方の真のイスラエルに目を向けさせる3-6節。Ⅲすべてに勝利した方、万軍の主をお迎えする7-10節。この三部を通して、目に見えない王の高くそびえる姿と歴史における救出のみわざとのつながりが私たちの目の前に示されます。これほどに華麗と威厳をもって描かれている詩篇に魅せられ圧倒されます。そして、詠われている栄光の王こそ、イザヤが「その顔立ちは損なわれて人のようにではなく」と表現したキリストなのです。代々の聖徒たちは、この24篇によみがえりのキリスト、再び来られるキリストを見ていました。
 ダビデのこの主への賛美は彼のどういうところから生まれてきたのでしょう。ダビデの歩みは大いなる苦難と苦悩の連続でした。サウルをはじめ多くの者がダビデを襲い、攻めたてました。また、自らの情の弱さにも苦しみを味わいました。そうした中で、ダビデは主に訴え続け、そして神の揺るぎない御手を知らされたのです。
 自らの小ささや無力さを知らされることは、同時に神の絶大なる力、その大いなる御手の事実を知らされることと結びついているのです。この絶大な神の前に、人は、「聖なる御前に立つ」(3)ことのできる者はいない、「義人はいない、一人もいない」(ローマ3:10)ということを知るのです。「だれが、主の山に登り 聖なる御前に立てるのか」、これこそがダビデの思い、自らを真に知るもののことばです。私たちも、神の前に自らを知り、神の力と威厳に圧倒され、「地とそこに満ちているるもの、世界とその中に住んでいるもの それは主のもの…」と心から告白し、神を賛美し、主の栄光をたたえるのです。-山本怜-

 


 


詩篇 25篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第25篇

 25篇には、敵からの圧迫、主に導かれる必要、罪の重荷が語られ、その中で主への深い信頼がうたわれています。個人の願いが続きますが、最後の節では、ダビデの自分のための願いがイスラエルのこととして示されていて、個人の願いが全会衆の賛歌となっているのです。
 この詩で注目しておきたいことを見ておきましょう。
〔敵〕 ダビデの詩には、敵の陰がよくつきまとっています。敵が勝利するならダビデが信用を落とすだけではなく(2)、彼が確信していることも失われます。彼は自らの才覚によってではなく、神の助けによって生きる(3)との確信に立っているのです。ダビデは明快に語ります。「誠実で直ぐな心で私が保たれますように。私はあなたを待ち望んでいますから」(21)。この確信の前に、敵は失敗するのです(15)
〔導き〕 導きは、この詩篇の中心的なテーマです。彼には、特別な導きを願う利己心はみられず、正しい主の真理に心が向けられています(4,5)。決断の正しい土台が据えられているのです。また、導きを願う上で大切な点が取り上げられています。①祈りの粘り強さ(5c、15)。②悔い改め…罪人であることの自覚(11)。③謙遜…9節貧しい者(口語訳・へりくだる者)。④主への恐れ…14節その恐れに主は親しく応えてくださいます。 これらのことを私たちも大切にしたい。
〔罪責〕 罪責は、時が過ぎて解決するものではなく、解決は、契約によって約束された神の恵みです(7)。ダビデ自身、咎を悲しみ(11)、罪が深い悩みとなっているのです(16~18)。
〔信頼〕 「信頼」「主への待ち望み」は、詩の冒頭(2)や神を待ち望むところ(3,5,21)でも貫かれています。あきらめずに、望みをもって熱心に待つのです(イザヤ30:18)。-山本怜-

 


 


詩篇 26篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第26篇

 詩篇の注解者キドナーは、この詩篇に題をつければ「一途な敬虔」で、その核心は、神の臨在を慕い、神の臨在を喜ぶ信仰の告白であると言います。
 「私は誠実に歩み よろめくことなく 主に信頼しています」(1)とうたうダビデは、自分が正しいと主張しているのでしょうか。ダビデは道徳面で綿密に吟味されたなら、裁き主の正しさによって罪ある者として滅ぼされていたでしょう(参照 詩篇32:1∼5、同143:2)。しかし、ここでは主の正しさが、今不当な攻撃からダビデを弁護して守る避けどころなのです。その主への信頼という点においては「よろめくことはない」というのです。
 参考までに、「誠実に歩み」(1)の基本的な意味は、過誤のないことというより、二心でないことを意味しています。
「集まり」(5)については、ダビデがどのような仲間を選ぶかは大切なことで、彼と彼の王国の両方がかかっているのです(参考:列王記上12章のレハブアムの判断)。このことは、どのような事業にもあてはまることとして、心に留めておきたいことです。
 6~8節では、「手を洗い 自らの潔白を示し」(6)に、主を愛し、主を慕い求める信仰と生活とが、余すところなく歌われています。私たちも、罪を悔い改め、主を慕い求め、主の臨在の中に敬虔をもって歩み、主の家に住まう幸いを歌うのです。 
 11∼12節では、信仰者の特質とでもいうべき要素、「誠実と謙遜」がうたわれていることに注目しましょう。ダビデは「誠実に歩み(「歩んでいた」の意)(5)、「誠実に歩みます」(11)と言います。また、贖ってくださいと祈り、あわれみを求めている(11)のです。-山本怜

 


 


詩篇 27篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第27篇

 「悪を行う者が私に襲いかかったとき」(2)、「たとえ、私に対して戦いが起こっても」(3)、「私を取り囲む敵」(6)、「私を待ち伏せている者」(11)などのことばが、この詩の全体にわたって述べられていることから、ダビデが敵と危険とのただ中で敵が加えてくる恐るべき攻撃に、どのように打ち勝ってきたかを見ることができます。そこにあるのは、神への信頼(1∼3)と、自分の心にある神の御顔を慕い求める祈り(4、7~9)です。
 ダビデは、詩の冒頭で、主を「私の光」と呼ぶだけではなく、「私の救い」、「私のいのちの砦」と三通りに呼んでいます。光は主ご自身(ヨハネ1:4、12:46)、この方こそ、どのような時にも「私の救い」、「私のいのちの砦」となってくださるのです。この主に目を注ぎ、いのちの日の限り神の臨在を喜んでいたい、とダビデは求めます(4~6)。注目したいのは、目的ひとすじであることです。(4 「一つのことを」)、そしてその目的が「主に目を注ぎ」「主の幕屋で喜びのいけにえをささげ、主に歌い ほめ歌を歌う」ことです。ここには、礼拝の本質が示されていることを心にとめたい。 
ダビデは「御顔を慕い求める」礼拝者(8以下)であるだけではなく、神の道を歩むことを決意している信仰者です(11a)。信仰者の道を一歩進むたびに、待ち伏せている者に出会います(11,12)。彼が「平らな道」を祈り求めるのは、安楽のためではなく、困難の中で、なおまっすぐに歩むことを願っているからでしょう。最後の節に「主は言われる」のことばはありませんが、「御顔を尋ね求める」者への、主からの答えとしての託宣と考えられます。私たちも、14節のことばに応えて、主の御前に歩んでまいりましょう。-山本怜-

 


 


詩篇 28篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第28篇

 手を聖所の奥に向けて、助けを叫び求める声に(1,2)、ダビデの祈りの熱烈さを教えられます。「わが岩よ」と神を呼ぶダビデは、平安の中にあるときだけではなく、極度の試みに遭う時でもいっそう神の助けを確信しているのです。
 「私を引いて行かないでください」(3)との祈りは、神を恐れない者たちによる友愛の見せかけに引き込まれない大切な心備えの祈りです。彼らは平和を口にしていても、その心には悪が満ちているのです。
 悪者や不法を行う者たちへの「報い」(4,5)は、さばきの日に現実となります。神に選ばれた民(ペテロ一1:2、キリスト者)は、「昼も夜も叫び求め」、神の怒りにすでに火がついているのを、この終末の時に知るのです。(参考 ルカ18:7,8 まして神は、昼も夜も叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。…神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。) 
 6節からの詩篇の後半で、ダビデは感謝をささげ始めます。ダビデはさまざまな危険の直中にあって祈ってきました。感謝は、祈りが空しくなかったことを教えています。このダビデの経験からは、私たちが偽りのない心で神を求めるとき、神はいつでもそば近くにあって助けを与えてくださることを知るのです。私たちも、神を「私の力」「私の盾」と呼んで、ますます神への信仰を明確に公言したい。  
 ダビデは、自分が「主に油注がれた者」という事実を前にして祝福を祈ります(8,9)。ダビデが配慮しているのは神の民全体の救い、ゆずりの民の祝福(9)です。ダビデは自分が王として選ばれたのは、それ以外の目的ではないことを知っていました。まさにこの点でも神の御子の予型なのです。-山本怜-

 


 


詩篇 29篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第29篇

 「栄光と力を主に帰せよ」(1)に始まる29篇は創造の主をたたえる賛美の歌です。神のみ声が雷鳴の響きとなって発せられ(参照 18:13)ます。それは、単なる自然の力ではなく主の声であって、創造者の力の強調です。海について言えば、10節から分かりますが、轟音を立てる波の上でとどろく雷鳴は、主権者であり裁判官である主の力を指すと考えられます。その「主の声」が七回響きわたります(参照 黙示10:3)。
 雷鳴が鳴り止んで穏やかな頂点に達し、主は世界の審判者として座に着く一方で、その民に祝福を与えるのです(10,11)。
 嵐の範囲が明らかにされています(5~8)。それは、はるか北の「レバノン」と「シルヨン」(参考 ヘルモン山/申命記3-9)から、遠い南の「カデシュの荒野」にまで至ります。その荒野をイスラエルはモーセとともに旅をしました。この5、6節をイザヤ2:12以下と比較してみましょう。そこには、主の日のことが予見されているのです。その「日」、杉の木や山々が、人に感銘を与えるものやすべてのおごり高ぶる者らととともに、ついには低くされるのです(イザヤ2:17)。神の力を指し示す29篇の一言々々が最後の審判を思い出させます。 
 しかし、この詩篇を貫いているのは9節に見られる主にささげる歓喜です。すべての者が「栄光あれ」と賛美するのです。その賛美の声は、へりくだりと喜びに満ち、嵐は、無意味で恐ろしい諸力が溢れ出ているものとしてではなく、実に主の業すべての中に聞こえる御声として聞こえているのです。ところで、神の「栄光を主に帰せよ」という内容について、今まで読んできました23篇や24篇とあわせて考えるとき、自然を支配される剛毅な神が細やかに私たちを思ってくださる牧者だということに、いよいよ主への思いを篤くします。-山本怜-

 


 


詩篇 30篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第30篇

 この詩は、1~3節によりますと、苦境の中から救出された時の感謝の歌です。歌われているのは、「あなたは私を引きあげ」(11)や「私のたましいをよみから引き上げ」(3)のことばで表されているように、苦境からの神による救出です。参考までに、「引き上げる」ということばは、井戸から桶を引き上げることを表す語です。その井戸は「よみ」のように深い。それほどの苦境の中でも、ダビデは敵に最後の勝利を許さないようにと、「わが神よ」と叫び求め、それに答えられる主をほめたたえます(4~6)。5節の美しい表現は、多くの人を慰めてきました。新約聖書の中でも、この表現を反映したことばが、私たちを慰め、魂を生かします。(参照 コリント二4:17、ヨハネ16:22を読みましょう。)
 平穏なときに人は何を思うでしょう。「ダビデは繁栄の誘惑に目を奪われたとき、永遠の憩いを神のことばのうちよりも、自分自身の感覚のうちに期待した」、とカルヴァンは解き明かします。サムエル二24章に見る状況でしょうか。人は、万事が自分に微笑みかけ、自分の願い通りに事が運び、恐れるような危険が目の前に現れないのを知ると、魂は眩惑されて、自分の幸福はいつまでも続き、万事がこのように運ぶと信じ込むのです(参照 申命8:10~20)。「飽き足りれば、裏切り 主など何者か、というおそれがあります」(箴言30:9/新共同訳)。ですから神の民は平穏なときにこそ、十字架を仰ぎ、神の恵みを熱望するのです。
 「嘆きを踊りに変え」(11)―ダビデが艱難の中で祈る嘆きを神は喜びに変えられます。この変えられる最後の大切な点を「粗布」という語が指し示しています。心からの悔い改めです。「神のみこころに添った悲しみは後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせ」(コリント二7:10)、12節の神賛美へと私たちを導いてくれるのです。-山本怜-

 


 


詩篇 31篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第31篇

 この詩篇を読み、「苦悩からの確信」が二回にわたって取り上げられているのに気づきます(1~8、9~24)。神信頼の詩であって、神を城砦にたとえ、その神により頼むことをうたいます。ここでは、9~13節に注目しましょう。ここには、苦しい状況が強い表現でうたわれています。神への信頼をうたう時、その神を信頼しなければならないという状況が前提にあります。その前提がうたわれているのです。
 わたしたちが、何か苦しい状況に陥ったときに、ことばになかなか表せないことがあるものです。そうしたときにこの詩を読みますと、この詩が私たちを代弁してくれるのです。 
 「私の力は弱まり、私の骨は衰えてしまいました」(10)。骨は枯れ果て、器が粉みじんに砕かれ、自分を取り巻く多くの者が「恐怖が取り囲んでいる」(13)とささやいているのです。 
 こうした状況を前提にして、ダビデは「主よ 私はあなたに信頼します。私は告白します。『あなたこそ私の神です』」(14)とうたいます。 この神への信頼の言葉の力強さには、骨が枯れ果てるほどに苦しい状況があるのです。並大抵のことではありません。壊れた器のように(12)なっている粉みじんな自分の姿が神への信頼の前提になっているのです。それだけに、詩人の心は神の慈しみをより深く知り、神をたたえます。「主はほむべきかな。主は、堅固な城壁の町(別訳:包囲された町)の中で 私に奇しい恵みを施してくださいました。私は うろたえて言いました。『私はあなたの目の前から断たれたのだ』と。しかし 私の願いの声をあなたは聞かれました。私があなたに叫び求めたときに」(21,22)。読みながら神信頼の信仰に励まされ、主を愛し、主を待ち望みます(23,24)。-山本怜-

 


 


詩篇 32篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第32篇

 この詩は、詩篇全体で7篇ある「悔い改めの詩篇」(6,32,38,51,102、130,143篇)と呼ばれています。しかし、ただ悔い改めで終始するのではなく、自ら経験した罪の赦しを喜び、感謝をもって歌うのです。そしてダビデは、自分の個人的な経験の中から、すべての信徒に対する教えを引き出しています。
 冒頭でダビデは「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は」(Ⅰ,2)と、罪の赦しに与った幸いを感謝し、賛美の歌を歌います。続いて、この幸いを知ったのは、いかにしてであったかを語り(3,4)、罪の問題を真正面から描き出し、罪の告白をしなかったときの苦しさを取り上げます。「私が黙っていたとき、私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました」(3)。そして、「骨の髄さえ 夏の日照りで乾ききった」(4)のは、昼も夜も神の御手が重くのしかかっていたからだというのです。人が神の前に置かれるとき、真の姿が露にされます。このことを、詩篇は語り尽くしています。心静かに読み、深く味わいたい。
 ダビデは、罪の赦しの恵みを得て(5)、神の慈しみに生きる幸いを、自分の信仰の告白を込めて語ります。「あなたはわたしの隠れ場。あなたは苦しみから私を守り 救いの歓声で 私を囲んでくださいます」(7)。まさしくこの方が、私たちの主なる神なのです。神の慈しみが自分に注がれていることを知る者には、信仰は強いられたものではありません(9)。自らの内から出てくるものなのです。強いられて、あるいは惰性的に進むものではありません。悔い改めて罪赦され、神の恵みを知る者の信仰の歩みは生き生きとして自発的です。そのように、教会生活、家庭生活、社会生活を全うしていきたいものです。-山本怜-

 


 


詩篇 33篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第33篇

 この詩には、主が、創造者であり、主権者であり、審判官であり救い主であることが言い表されています。そのゆえに、主に賛美をささげ、主をほめたたえるのです。その意味では、賛歌の好例の詩篇です。
 詩人は「賛美は 直ぐな人たちにふさわしい」(1)と告げます。なぜ、ふさわしいのでしょう。直ぐな人とは、信仰によって義とされた人のことです。つまり、直ぐな人は神の慈愛によって神が御自身のもとへと引き寄せられたことを味わい知っているのです。ですから、彼らは心の底から神への賛美をうたいます。心からの賛美は、主と主のみわざを知ることによって、自ずとわき上がってくるのです。
 4-9でうたわれているのは天地創造のみわざです。「主が仰せられると そのようになり 主が命じられると それは立つ」(9)とあります。私たち読む者に、主が命じられたことは実現するという主のみことばの偉大さを思い見るようにと、語りかけてきます(9)。主のはかりごとはとこしえに立つのです。その「みこころの計画」(11)に心を向けるとき、私たちも「神がご自分のゆずりとして選ばれた民」であることを確信し(12,13)、主を喜び歌うのです(1)。主の目は、主を恐れる者に、主の恵みを待ち望む者に、注がれているのです(18)。主を慕う者は何と幸いなことでしょう(12)。
 天地創造から、御子キリストの救いに思いを馳せてこの詩篇を読む私たちの心も、20~22節のみことばにあわせて主を喜び、主を待ち望むのです。「私たちのたましいは主を待ち望む。主は私たちの助け 私たちの盾。まことに 私たちの心は主を喜び 私たちは聖なる御名に拠り頼む。主よ あなたの恵みが 私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望むときに。」アーメン。-山本怜- 

 


 


詩篇 34篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第34篇

 この詩には、行き詰まりの中から救い出される神への感謝があふれています。この詩篇のきっかけとなっているのは、サムエル一21:10以下の出来事です(表題)。サウルから逃れたダビデは、こともあろうにゴリアテの故郷であるガトへと向かいました。ガトの王アキシュだけがサウロの手が及ばぬところだったからです。しかし、アキシュにとって、ダビデは生かしてはおけない恨みや憎しみの深い敵です。そのときのダビデに従う者はまだ少数でした。ダビデには、アキシュのもとでどのように事が運ぶかの見通しはなかったに違いありません。ただ、そこにしか行く術はなく、神に委ねたのです。
 ダビデは、詩篇の前半部分(1-10)で、苦境の中にありながらも、「あらゆるときに主をほめたたえる」(1)、と言っています。この時ダビデが置かれている状況を思いますと、「あらゆるとき」の重みを私たちは教えられます。「その時その時」が、私にとってどんなに絶望的であったとしても、いつも主の御手の中にあるのです。
 「この苦しむ者が呼ぶと 主は聞かれ すべての苦難から救ってくださった」(7)。ダビデは「この苦しむ者」と言って自分の実例を指し示します。ここには、ダビデの瀕した危機と、命を救うために演じたみじめな姿が表わされています。神は今でも、神に向かって呻き苦しみ、叫ぶすべての心の貧しき人に、耳を傾けられるのです(マタイ5:3)。 
 後半部分(11-22)で、ダビデは主への恐れを、聖く生きる教えとして取り上げます(11)。主を恐れることが、困難な時に対する答えであり(19-20)、最も究極的な問いへの答えに通じます(21-22、参照 ローマ8:1、33,34)。キリストにある代価と赦しが、ダビデの口を通して喜びに満ちてうたわれているのです。3節に応えて、主の御前に歩みましょう。-山本怜-

 


 


詩篇 35篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第35篇

 救いはまだ来ていません(1、2、11、12、19-21)。それでもダビデは救いの日が来ることを疑ってはいないのです。助けを求めるダビデの嘆願には、その救いの時をかたく望み見ている彼の信仰があります。それが、三つの区分(1-10、11-18、19-28)のすべてが希望で結ばれていることに見られます(9,10、18、28)。
 4-6節からは、どれほどの困難があっても「主の使い」によって確かな救いに導かれているかを教えられます。「主の使い」に聞き従うか否かは、救いか滅びかのいずれかなのです(参照:出エ23:20-22、マタイ7:24-27)。参考までに、旧約では通常は、「主の使い」は神御自身です(創世記16:7,8…13)。
 7節では「ゆえもなく」が二回、19節で一回使われています。繰り返されるこのことばに、私たちはダビデの苦しみの髄に触れるのです。その痛みは、11-16節の段落で明らかにされています。
 「ゆえもなく憎む」(19)とは、善に対する悪の基本的ともいえる反応です。主イエスは、19節と69:4を、ダビデの不幸としてではなく、御自分の予定された運命であると見ておられました(ヨハネ15:25)。それは、「律法に書かれていることば」であり、永遠の計画に基づいて起こることの、権威ある啓示であったのです。主イエスが経験されたことは、ダビデには断片的に認められていたことであり、私たちにとっても定められていることなのです。参照:ヨハネ15:18-25節
 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。…」
 27-28節では、この詩の前半部分と同じように(9,10)、賛美がダビデの口をついてほとばしり出るのです。-山本怜-

 


 


詩篇 36篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第36篇

 「私の心の奥にまで 悪しき者の背きのことばが届く」(1)は、何と衝撃的な表現でしょう。まるで、罪それ自体が、彼の神か預言者であるかのように語りかけてくるのです。その罪が人から神への恐れを奪い(参照 ローマ3:18)、悪しき者(悪魔)の背きのことばとして私たちにも臨んでくるのです(1-4)。その悪しき者の前に、私たち人間は本当に弱いのです。肉を持っているからです。善を行おうとはせず、悪を捨てようともしません(3,4)。悪しき者は、大胆にも主から油注がれているダビデの心の奥にまで語りかけるばかりか、神の御子イエス・キリストをも相手に荒野で挑戦したのです(参照:マタイ4:1-11)。それに打ち勝つには、主イエスのように、みことばにしっかりと立つことです。それを疎かにすれば、信仰生活は根こそぎにされてしまいます。
 5節以下には、神のいつくしみがいかに大きく、神のまことがいかに尊いかが述べられています。その世界は、極め難く(5、天、雲にまで)、揺るぐことなく(6、脚注「神の山々」)、尽きることのない(6、大いなる淵)、それでいて、温かく迎え入れてくれる世界です(6c-9)。「御翼の陰に身を避けます」(7)については、ルツ記2:12のボアズのルツに対することばや、マタイ23:37の主イエスのことばを味わいましょう。私たちもまた、翼の陰に身を寄せるとき、神からの安心と謙遜へと導かれるのです。5,7節でダビデは神の恵みをほめたたえ、今その恵みを10節で人々の上に届かせるのです。
 10-12節はダビデの祈りです。彼は、人間の邪悪さ(1-4)と神の恵み(5-9)の間に立って、熱心な祈りへと向かいます。人々のためには恵みと義を、自らのためには高ぶりからの守りを祈るのです。このダビデの祈りに、祈りと祈りの姿勢を教えられます。-山本怜-

 


 


詩篇 37篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第37篇

 神のいつくしみを知り、神への信頼に心が動かされる詩篇です。例えば、5,6節や23-25節では、神の細やかな愛情を知ります。たとえ、正しい生活をして倒れるようなことがあっても、決して絶望に陥ることがない、主に従う人が捨てられたり、子孫が物乞いになったりすることはないのです。
 この詩篇は、山上の説教の第三の至福(マタイ5:5)の最高の講解であると言われます。信仰者の人生について語り、義なる人の安全というメッセージが中心的話題となっているのです。
 1-11節 不正な者が一時的に成功しているように見えても(1)、神に向かい神を信頼することが永遠の報いをもたらすのです(7-11)。ここから、いくつかのことを心にとめておきましょう。①今の状況がどのようであれ、神の時を「待つ」(7,9)。②敵対するものごとへのとらわれは簡単に払拭できなくても、主に心を注ぐこと(特に3-4)。③周りの状況に左右されず(8)、誠実であることに心を向ける(3-6)。
 12-26節 主に逆らう者と主に従う者のそれぞれの運命、それぞれの道が比較されています。その中から信仰者に向けられている神の恵みを教えられます。①迫害されているが、見捨てられることはない(12-15)。②何も持たないようでも、すべてのものを持っている(16-20,25)。③多くの人を富ませる(21,22,26)。自己中心では人を富ませることはできない。物惜しみしないということについては、コリント二8,9章参照。④倒されるが、滅びない(23,24)。
 27-40節 ここでは、長期的な見方に立つことを教えられます。「いつまでも」(27、29)、「永遠に」(28)、「過ぎ去った」(36)、「未来がある」(37,38)などの表現に心をとめておきたい。-山本怜-

 


 


詩篇 38篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第38篇

 38篇は淵のように深い苦悩の詩といえます。苦悩がこれでもか、これでもかと、畳みかけてきます。神への信頼をうたった37篇とこの38篇を通して、山のように高い神の義と、淵のように深い神のさばき(36:6)に思いをします。
 「重荷」(4)は、内なるものにも外なるものにもあります(11,12)。その心身の苦悩をダビデは神の懲らしめとして受け入れています。この苦悩が罪の当然の結果であるかどうかは知る手立てはありませんが、それがダビデの目を霊的な窮状に向けさせていることは確かです。それでダビデは「わたしの罪のゆえ」(3)と告白するのです。その罪は、ある人にとっては、気にも留めないような過ちであったかもしれません。しかし今、ダビデには「重荷」のように重すぎるのです(4)。
 「主よ 私の願いはすべてあなたの御前にあり 私の嘆きは あなたに隠れてはいません」(10)。ダビデは、心を見ることのできない人間たちの前にではなく、全知の神の前に立っています。ダビデは「私の願い」を「私の祈り」として、願いの続く限り、絶えず祈り続けるのです(テサロニケ一5:17)。
 22、23節には、痛ましいほどに切実なダビデの嘆願がなされています。嘆願の祈りをこのようにできるのは、ダビデが神をその名によって知り(21a主=ヤハウェ)、契約によって知り(21bわが神)、救い主として知っている(23私の救い)からです。最後の嘆願は、このダビデの信仰を指し示しているのです。
 ダビデの信仰に学びたいことの一つは、ダビデはどのような人々の中にあっても、神を「待ち望む」(15)ことにすぐれていたことです。私たちも15節のみことばに生きる一人となるのです。-山本怜-

 


 


詩篇 39篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第39篇

 この詩篇で説明されているのは、父としての神による苦しくて恐ろしいほどの訓練です。38篇でも訓練としての厳しさが記されていましたが、そこでの重荷は友人や敵たちの残酷さでした(38:11,12)。しかし、ここでの重荷は神の圧倒的な厳しさです。
 ダビデが悩んでいるのは、罪を犯す人間は非常にはかなく傷つきやすい存在であるのに、厳しい取り扱いを受けるからです(10,11)。この詩篇は、ヘブル人への手紙12:5-11と合わせて読んでおきたい。この手紙の12:11には、神による訓練が、どのような影響(義という実)を与えるのかが説明されています。
 マタイ6:19以下、ペトロ一1:4以下にも目を通しておきましょう。
  マタイ6:19、20「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさ    い。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みま   す。…天に宝を蓄えなさい。そこでは、虫やさびで傷物になること   はなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」
  ペテロ一1:4…7「また、朽ちることも、汚れることも、消えて行く    こともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。…試練で試   されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よ   りも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉   れをもたらします。」
 見てきましたように、39篇は徹底して人間のはかなさを述べています(4節以下)。その中の7節に注目しましょう。「主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。」人間のはかなさというものがいかに深淵であるかを体験しながらも、ダビデは、高い山のような恵みや望みをうたうこと(36篇)を忘れていないのです。-山本怜-

 


 


詩篇 40篇

一日一章  今日の聖書   詩篇第40篇

 主にのみ望みをおくダビデは(2)、その望みのゆえに重大な危機から救い出されました。かつては滑りやすかっただけでなく泥沼の中に捕らえられていたその歩みが確かにされ、巌の上に打ち立てられるという大変化です(2)。この変化によって、ダビデは自分が受けた恵みの大きさをはっきりと知り、神を賛美します。艱難の中にあるダビデに新しい歌を授けられた主は(3)、私たちの歩みをも確かにされて新しい歌(神への賛美)を授けてくださるのです (コリント二4:17)。
 滅びの穴から引き上げられたダビデは、全き献身をもってその愛を表わします。全き献身を表わすのは牛、羊の「全焼のささげ物」でしたが(6、参考レビ1章)、ダビデは、「私はここに来ております」(7)と言って、まさに自分自身を神に献げ、聖別するのです(参考ローマ12:1)。このダビデの神への献身こそ、ヘブル人への手紙10:5-10によって裏付けられているように、ダビデがメシアの代わりに語っているのです。
 口に新しい歌を授かった者は、救いの知らせを人々に告げます(10)。「私は あなたの義を心の中におおい隠さず あなたの真実とあなたの救いを言い表します。私はあなたの恵みとあなたのまことを 大いなる会衆に隠しません。」(10)。神が自分のために何をしてくださったのかを語ることは、「口に新しい歌」を授かった者が積極的になすこととして、詩篇の中にはきわめて明確に述べられています(詩篇22:22、40:9,10)。主イエスは「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい」と語られます(ルカ8:39)。
 あなたの救いを愛する人たちが「主は大いなる方」といつも言いますように、とダビデは祈ります(16)。私たちも「主は大いなる方」と神をあがめることを知り、主にある勝利の道を歩むのです。-山本怜-

 


 


詩篇 41篇

一日一章  今日の聖書    詩篇第41篇

 詩篇は「幸いなことよ」で始まります。この詩篇の主題といえます。続くことばは「弱っている者に心を配る人は」です。(参照:マタイ5:7あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。)   中間の4~9節で生々しく述べられている試練の内容からは、詩篇の始まりの「幸いなことよ」がどれほど心から言われたものであるかが明らかにされて、読む者に伝わってきます。 
 ダビデを傷つける機会が、数々の試練となってダビデを襲ってくるのです。そのダビデは、「私はあなたの前に罪ある者ですから」と言っていますように、良心のとがめのために弱い立場にあるのです(4) 。しかし彼は、これまで助けてきた仲間からよりも(9)、彼がとがめを覚えているように(4)不当に扱ってしまった相手である神から、自らが立ち上がるために、より多くの憐れみを受けることになるのです(10)。
 9節まで読み進めながら、遅くともこの時点で私たちは自らに問わなければならなくなります。このような人とはだれのことなのか、「彼ら」なのか、「私」なのか。9節に対するイエスの弟子たちの反応はそのようだったのではないでしょうか。(参照:ヨハネ13:18,22。13:22「弟子たちは、だれのことを言われたのかわからず当惑し、互いに顔を見合わせていた」)
 11,12節のダビデは自分の不完全さを十分に知っています(4)。自分がいつも正しいと思うことはなかったのです。シムイに対する柔和さが示しているとおりです(サムエル二16:11)。そのダビデの誠実さゆえに、主はダビデを支え、御前に立たせてくださるのです(12)。
 この詩は13節の頌栄で終わります。自分が受けた試練を生々しく述べたダビデは(4-9)、13節の頌栄の賛美を、主がダビデを生かして(2)くださる幸いをうたって詩篇として主にささげるのです。-山本怜-