私を贖う方は生きておられ、
ついには、土のちりの上に立たれることを。 (ヨブ記19:25)
・毎日、聖書を読む時に、お役立てください。
一日一章 今日の聖書 ヨブ記1章
旧約聖書を大きく区分しますと、律法、歴史書、詩歌書となり、ヨブ記は詩歌書の初めの巻物です。序文(1,2章)と結び(42:7~17)は散文、主要部(3:1~42:6)は詩文で書かれ、人が理由もなく苦しまなければならないことがあるのはなぜかという人間の普遍的問題が取り上げられていきます。舞台はウツ(位置は不明、哀歌42:1からエドムとも考えられている。)で、ヨブは族長時代の人ではないかと考えられています。
物語は、舞台を地上と天上に交互において始まります。ヨブは、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている敬虔な人でした。東の人々の中で一番の有力者であり、子どもにも恵まれていました(1)。家長の責任を果たしていたことは、息子たちの犯したかもしれない罪のために全焼のささげ物を献げていたことからも分かります。
場面はいきなり天上に変わります(6)。主の前にサタンがやってきます。地を行き廻り告訴すべき者を探しにてきたのでしょう(6~8)。そのサタンに主は、ヨブほど潔白で神を畏れる人はいない、と言われ、サタンは「理由もなく神を恐れているのではない」と反論して「彼の財産を打ってみてください、…あなたを呪うに違いありません」と主張したのです(8~ 11)。不思議なことに、神はサタンの主張を聞いて財産を奪うことを許可しました(12)。地上では、ヨブに思いがけない災難が次々と襲い、一瞬にして財産を失い、子たちをなくしたのです(13~19)。あまりの出来事にヨブは、上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して神を礼拝しました。そのときに言ったことばはよく知られています。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。ヨブの態度は、すぐにつぶやく私たちにとって、大きな教訓です。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記2章
再び天上の場面です。サタンは再び地を行き巡り主の前に立ちました(1)。主は、サタンが理由もなくヨブを呑みつくそうとしたのに、彼はなお誠実さを守っているではないかと言って、ヨブの誠実さを語ります(3)。面目を失ったサタンは、再びヨブの「骨と肉」を打つことを主に願い出て、「いのちには触れない」という条件付きで彼の健康を試みる許可を得たのです(6)。
場面は地上に変わります。神を恐れて悪から遠ざかっているあの敬虔なヨブが、サタンに打たれて、足の裏から頭の頂まで全身、忌まわしい悪性の腫物に打たれているのです。あまりの痒さに土器のかけらで体をひっかき灰の中に座っているヨブに、彼の妻は「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい」と冷たく言い放ちました。
このとき、彼女の心はどこにあるのでしょう。彼女は本当の同情家なのだろうか。苦しみの姿を見るに見かねて言ったのだろうか。彼女は夫を信じるあまり、神に対して一時盲目になったのだろうか。確実に言えることは、最も親密であるはずの人のことばにヨブのすべての人間からの疎外が表されていることです。
ヨブの災厄を聞き、三人の友が慰めようとしてやってきました。彼らはヨブのあまりの姿に声をあげて泣き、七日七夜沈黙して彼と共に座っていました。共にいて悲しみを共感することが最大の慰めであることは、昔も今も変わりません。こうして、地上の幕が閉じられるとき、私たちは、人の苦悩と絶望の究極なものと、信頼と忠実の究極なものに直面させられているのです。ヨブは唇をもって罪を犯さなかった。このことを背景に3章からの論争が語られていくのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記3章
七日七夜の沈黙(2:13)は、ヨブには最大の慰めといたわりでした。その沈黙を破って、ヨブは苦難に耐えて、自分の生まれた日を呪ったのです(1)。その呪いのことばを、苦悩の中から、乱れた心のままで、ヨブは、呻き、おびえ、安らぎもなく口にします(3~26)。生まれた日を呪うということは、いわば生命の否定ですから、間接に神の否定です。ですから、ヨブは生まれた日を呪うとともに暗に神を呪っているとも言えるのです。しかし、そうなりますと、ヨブ記はここで終わってしまいます。サタンが勝利してしまうからです(2:4~6)。
そうではなく、ヨブは神を呪う代わりに自分の誕生を呪っているのです。これはヨブにとって大切なことです。誕生を呪うということは、神を呪うことと同じではないか、と普通には思います。しかし、ヨブが口にしていることばをよく見ますと、例えば「なぜ、苦悩する者に光が、心の痛んだ者に命が与えられるのか」(20)にしましても、ヨブのことばは、呪いのことばではなく、訴えのことばです。呪いと訴えは根本的に違い、呪いは相手との関係を切って相手に災いや滅びが臨むことを願い、訴えはそれがどれほど厳しいことばであれ、相手との信頼関係がある中で自分の願いを強くぶつけているのです。
ヨブは死をことばで言いながら(21)、しかし自殺はしません。自殺しないということが、神を呪っていない証拠ではないでしょうか。ヨブは、死を前にするほどの災いの中にあっても、神を賛美することができる人なのです(2:8~10)。しかし、今は神との生きた関係は断たれ、神は隠れた神となりました。ヨブの苦悩の中心はこの「隠れた神を求めての信仰の苦悩」なのです。ヨブが苦しみながらも、生ける神を求めるのは、神の方でもヨブを離されなかったからです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記4章
ヨブの友人たちの内おそらく最年長で、知恵の国と言われているテ
マンの人エリファズが三人の口火を切って話し始めます(1)。彼は、
ヨブが聞くのがいやであっても言わずにはおられないのです(2)
ヨブの敬虔(信仰)が多くの人への具体的な愛の業として表されていたことを示し(3,4)、苦難が自分の身に及ぶと、それに耐えられず怖じ惑う、あなたの敬虔(信仰)はどこにいったのか、と語ります(5,6)。ことばはきついながらも、励ましの気持ちがあったのでしょう。
しかし、エリファズの思いはそれにとどまってはいません。「さあ、
思い出せ」と言って、「潔白なのに滅びた者があるか。…」(7~11)と応報思想に立ってヨブに語ります。彼のことばの中には、ヨブの苦難は人知れぬヨブの隠された罪の結果であり、悔い改めて神に帰れ、という思いがあるのです。同じ応報思想はヨブも持っているのです。だからこそ、ヨブはその思想では割り切れぬ現実に、神を見失い、うめき、死をも願うまでに追い詰められているのです。このことに気づかないエリファズは、自分が語っていることは、単なる応報の教え(教義)だからではなく、長い自分の人生に基づくことであると、「あることばが私に忍び寄り、…」(12~21)と言って語り継ぎます。こうしてエリファズは、人間は神の前に、何ら取るに足りない存在だと悟った、というのです。ですから、神に言い揚がるようなことをしないで、裁きに服し、悔い改めよ、とヨブに言っているのです。
しかし、そのように語る彼自身もその一人であることを知って言っているのでしょうか。ヨブを応報の教えという教義に照らして、神の側に立ったかのようにしてヨブを諭そうとすることはないでしょうか。愛が問われるところです。私たち自身を省みます。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記5章
エリファズのことばが続きます。1節の聖なる者とは、人のために神に執り成しをすると考えられていた御使いのことです。エリファズはヨブに、助けを求めて御使いたちに試みに「呼んで見よ」(1)といいます。そして、愚か者をたとえに、話をします(2~7)。
苛立ちは愚か者を殺すものである、愚か者の子が押しつぶされても誰も救わない、愚か者が刈り入れたものは他のものに奪われていく、などと呪いのことばで語ります。子たちが失われ、牛やろばが奪われているヨブを愚か者として描き、神の側に立ったつもりでヨブを裁いているのです。苦難の中で嘆くヨブには冷たいことばです。
その上で、彼は「私なら、神に尋ね、自分のことを訴えるだろう」と言います(8)。その神は、恵み深く、低い者を高く上げ、貧しい者を救われ、弱い者に望みをもたらし、神に背を向けた知者を打ち砕かれる方(9~16)であると、神の義の支配を語ります。彼は聖書の神を正しく語っているのです。しかし、これらを誰に向かって語っているのでしょう。目の前の苦しみの中にいるヨブにではなく、自分の弁論の正しさを友人たちに見てもらうためなのでしょうか。ことばは正しくても、苦しみの中のヨブにはかけ離れているのです。彼の愛のなさを自ら明らかにしているのです。これは、しばしば私たちの姿ではないでしょうか。さらに彼がどれほど神を語っても、神は、もっと大きく、自由で、教義的正しさをはるかに超えた方であることも示されます。
17節で、エリファズは直接ヨブに駆りたてる口調になります。ヨブを慰める思いなのです。けれども、これはヨブが罪を犯して神から懲らしめられているとの前提に立ってのことばです。これを聞くヨブの心は、ますます傷ついたことでしょう。自らを省みます。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記6章
4,5章にわたる友人エリファズのことばにヨブが反論して答えます。
ヨブは苦悩の中で、神ではなく自分の生まれた日を呪い、神から死をたまわることを切に望みました(3章)。そして「神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を絶たれるのであれば、それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ」(9,10)と言っています。ヨブの神への思いは極めて強いのです。
災いが来れば萎えしなえるような信仰ではありません。それだけにこのひどい災いを受けなければならないことを知りたいのです(11)。災いを受ける理由は分からない。死を願っても神は聞き届けて下さらない。ヨブの憤りははかり難く重いのです。出るのは嘆きと絶望のことばです(12,13)。そのヨブにエリファズは、幸いなのは神に叱責(または懲らしめ)を受ける人と言っているのです(5:17)。しかし、ヨブにとっては叱責などではなく、神の毒矢なのです(4)。その毒を吸っている、つまり耐え難い苦悩におかれて絶望している者の言うことばを的として、応報の教義をもってきて戒めようとするのが、友の取るべき態度か、まるで売り物にするような敵人の態度ではないか(26,27)、とヨブは言うのです。「思い直してくれ」と友に言います(29)。「思い直してくれ」とは、伝統的な応報の教義を尺度にしてヨブを見るのではなく、本来の自分自身の目で見てほしい、と言っているのです。ヨブは「私の正しさがかかっている」(29)と言います。ヨブは裸で神の前に立っています(1:21)。苦しみの中で激しことばを述べたとしても、偽りではない、何が本当かを見る目を失ってはいない、よく私を見てほしい。そう言っているのです。このところを読み、何が本当かを見てくださる、友となってくださる主イエスに倣いたいと思います。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記7章
私をよく見てほしい、私の正しさが問われていると友に迫った(6:28~30)ヨブは、7章では、死の安息を求めているのに、それが与えられない自分を空しい苦役で明け暮れる奴隷のようだと歎きます(1~7)。眠れぬ夜の長さに悶々とし、夢・幻に脅かされ、肉はうじ虫と土くれに覆われ、望みもないのに月日が早く過ぎ去る、と語ります。死を願っているのですから、日々の過ぎるのは喜ばしいのではないかと思われますが、そうではありません。ヨブの願いの死は苦痛からの解放の死ではなく、神との関りの中で、神の恵みとして死をたまわることなのです。
「自分の口を制することをせず、魂の苦悩の中で嘆く」ヨブは、「もういやです。…かまわないでください。私の日々は空しいものです」と叫びます(11~16)。このことばに、ヨブがいかにこれまで神との深い愛の交わりに生きていたかを教えられます。ヨブはその神との交わりを求めているのに、神はつけ狙うかのようにヨブを恐れさせる。そう感じているのです(13~19)。なぜ、それほどまでに重荷として責められるのか、自分の知らない罪があるのなら取り去ってくださらないのですか、と神の御顔を求めて訴えるのです(17~19)。ちりに横たわるとは、死ぬということ、死ねば、あなたが捜しても私はもういません。(ですから生きている間に咎を取り去って御顔を拝させてください)と言っているのです。
ヨブの苦難の背後には、神の名をかけたサタンとの賭けがあります。もしヨブが“わたしのしもべヨブを見よ” (1:8)とのヨブに対する絶大な神の信頼を知れば、苦難に対する姿勢は大きく変わることでしょう。そのことを知らないヨブは神を求めてうめくのです。ここにヨブの苦悩の深刻さがあります。私たちはどうでしょう。私たちの苦悩をキリストが負われ、神の子どもとして歩ませてくださるのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記8章
ヨブのことばを受けて、シュアハ人ビルダデが話します(シュアハはエドムから程遠くはないアラビア地域のようです)。「あなたが口にすることばは激しい風だ」。彼はヨブの訴え(6:29~30)を分かろうとせず、愚か者のむなしいことばとしか受け止められなかったのです。
なぜなのでしょう。冷たい人だからでしょうか。そうではありません。彼は遠方から来て七日七夜ヨブと地面に座した人物です。また、神について知らない人ではありません。彼は神についてはよく知っているつもりです(3)。彼は、5,6節から分かりますように、応報の教義を前提にしてヨブを見ているのです。それで、悔い改めを勧めることばが口に出てきます(5~7)。ヨブとビルダデの違いは歴然です。ビルダデが問題にしているのはヨブの姿勢、ヨブが問題にしているのは神です。神とサタンとの会話を知らないヨブは神を捜し求め、ビルダデは応報の教義(6)と伝統(8~10)の中に神を閉じ込めてヨブを見るのです。エリファズは自分のよりどころを人生経験や霊的体験に求め、ビルダデはそれを伝統に基づく教えの中に求めたのです。そこには、新たに神に聞く姿勢は見えません(9)。(私たちは自分のよりどころをどこに求めているでしょう)。続けてビルダデは、不信仰者の生活がどれほどむなしいかを比喩を用いて語ります(11~19)。
更に、神とはどういう方なのかを語り、ヨブが悔い改めて立ち帰り、誠実なものとなれば、神は喜びの叫びをヨブの口に満たされる、と語るのです(20~22)。目の前で苦悩するヨブを見ず、自分の信仰論をとうとうと述べて、ヨブに「神に求めよ」(5)というビルダデ自身は、伝統と教義は論じても、まことの神を見ようとはしていないのです。
私たちはキリストを見(ヨハネ5:39),キリストに倣うのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記9章
ビルダデの弁論(8章)に「そのとおりであることを、私は確かに知っている」とヨブは答え始めました(1)。この「そのとおりである」は何を指して言ったことばなのでしょう。今までヨブが語ってきたことから考えますと、決してビルダデが述べている8章全体とはいえません。いろいろな論がありますが、「神が裁きを曲げられるだろうか。」(3)であろうと思われます。裁きを曲げられることはない義なる神に対して、苦しみ傷つけられながらもヨブは人間の側の義を訴えようとしているのです。その神は星々などを造られた力ある偉大な方であると語り(5~10)、人間の肉の感覚では捉えることができない方(11)、圧倒的な力をもって人間の思いや都合に関係なく奪い去ってしまわれる方(13~24)であると言っているのです。その神が理由もなく、ヨブに苦しみを加えられる(17)と感じられる、それでも神を慕うヨブは自分の誠実さ(13~24、参照1:8)を知ってもらおうとしているのです(20,21)。
ヨブは誠実さ(人間の義)をもって神に向かい、問い、迫っているのです。それは親しく神と語り、神との平和(和解)を目指してのことで、呪うためではありません。呪いは(参照1:11)相手との交わりの関係を切り、相手に災いを望むことですが、ヨブはそうではありません。苦悩にもだえながらも自分の言い分を力いっぱいぶつけて神と語り合いたいのです。交わりの関係を切るどころか、必死でそれを求めて、見えぬ神を探して叫んでいるのです。「ヨブのように神を恐れて悪から遠ざかっている者は一人もいない」(参照1:8)と言っておられる神と一緒にいることが、それが裁きの座であったとしても、幸いなのです(32)。今や、ヨブは神との間を仲裁してくれる者を求めて嘆きます(33)。ヨブは「私はあなたと語りたい」(35より)と言っているのです。-山本怜
一日一章 今日の聖書 ヨブ記10章
9章でヨブは神と語り合いたいという願いを表明しました。神が義であると承知しつつ、人間の側の義というものも捨ててしまえずにいる問題で神と語り、神を知り、自分を知りたいのです。それに続いて10章は始まります。ヨブは「私のたましいは命を忌み嫌う」(1)と言います。ヨブが自分の命を忌み嫌うのは、自分の生が苦難の生であるからではなく、それが神からも人からも、拒否されていると感じるからで、自分でも、どう考えてよいか分からないからです。このようなとき人は自己を喪失することで自己を守ろうとします。その破綻が自殺です。
そうした苦難の中で、ヨブに自殺への誘惑を断ち切らせたのは何だったのでしょう。自分を傷つけ否定する神(彼はそう思っていました)に嘆きを訴え続けて、自分のことを分かってほしいと訴え続けていたからです。ヨブは「私は神にこう言おう。『何のために私と争われるのか教えてください』」(2)と言って、彼の心の思いを神に語ります(3~32)。神との関係の中で神に背く意思を持っていないと言い(7)、人を造られた神がヨブを滅ぼし尽くそうとされる(8,9)、それで創造の御業が成るのですかと問い、死の暗黒の中に連れていかれる前にわずかでも休息の時(明るくふるまいたい)を(20~22)と願ったりして、嘆きを神(しかも自分を責め立てる神)に訴えているのです。神からの応答がなくても、なお嘆きを神に語るのです。「嘆きを神に」このことを抜きにして、後に記される(42章)ヨブの神との新たな出会いはなかったと言えるのです。
私たちも、ヨブほどではないかもしれませんが、それぞれ嘆きや痛みを抱えています。しかし、抱えて苦しむだけではなく、「嘆きを神に」嘆きを人にではなく神に訴え、嘆きや痛みを背負ってくださる十字架の主を見出して慰めを得て、主を仰いで歩むのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記11章
友人の中のナアマ人ツォファルが話し始めました。一読して感じますように、語ることばは激しく直線的といえます。それだけに彼の主張や論点は明確です。初めに彼は、「ことば数が多ければ、言い返されないだろうか」と言います。血を吐くような思いで語られたヨブの嘆きや訴えを、ことば数が多い無駄話と受けとめています。ヨブの語ることを心開いて聞いてはいなかったのです。それは、聞くにあたって応報の教義という前提をもって、その教義を通してしかヨブのことばを聞けなかったからです。このことが最初にはっきりと見られるのが、あなたには咎があるという指摘のことばです(6)。咎を認めて悔い改めるなら、神からの平安と回復が与えられると忠告します(13以下)。ヨブの話を咎ある者の話として聞き、それを自分が固く信じる応報の教義を通して、罪を遠ざけることを語るのです(14~19)。もし、そうしないで悪者であるのなら望みはない、といってヨブに苦しみを納得させようとします(20)。ヨブには全く的はずれな助言のことばです。
「あなたは言う。『私の主張は純粋だ。私はあなたの目に清い』」。このツォファルのことばについては、確かにヨブは「私は誠実だ」(9:21)、「私に悪しきことがない」(10:7)と述べていますが、律法の上で罪はないというようなことではなく、神に対して心はまっすぐであり、背く意思などは持っていなかったとヨブは言っているのです。こうしたヨブのことばやヨブの嘆きは、自分の持つ前提のもとに聞くツォファルには、神への冒涜、応報の教義への挑戦と感じられたのです。彼自身が本当に神の前に謙遜であれば、ヨブに対して深い同情を持ちえたことでしょう。私たちもツォファルと似た心の態度や自分が持つ前提のもとで人を見たり話を聞いたりしてはいないでしょうか。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記12章
三人の友たちのことばに対してヨブが答えます。「まさにあなたがたは地の民。あなたがたとともに知恵も死ぬ」。「民」は、重だった市民を指すことば(参考 フランシスコ会訳の注)で、このところでは特別に神についての知識を持っている知恵ある者(参照 34:2)と思われます。今まで滔々と語ってきた友たちへの皮肉のことばだと考えることができます。そのあなたたちの知恵は、死とともに滅び去る空しい知恵、真の知恵は神にのみ属するとヨブは主張しています。あなたがたが持っている程度のことは誰だって知っていると言い(3)。そして、今までは神に呼びかけて答えていただいたことのある者が友の笑いものにされていると嘆くのです(4)。「正しく誠実な者」(4)とは、自分が完全無欠であるという意味ではなく、神に対しての真実を意味します。ヨブは、神に真実な者が苦しみを受け、一方神に背を向け神を怒らせる者は平安を得ている、このような世の現実は、あなたたちの言う応報の教義とは矛盾するではないか、と言っているのです(4~6)。
次いでヨブは、すべての生き物は真の神によって創造されたことを語り、友から教えられなくても、ヨブ自身はもとより、獣や鳥や地にあるものや魚までも皆知っていることだと言って、唯一の神を告白するのです(7~11)。その上でヨブは神の知恵と力について賛歌のかたちで語ります(12~25)。それは、神の力と英知を歌う(16)にとどまらず、「迷い出る者も、迷わす者も神のもの」(16)、「国々を栄えさせ、また滅ぼす」(23)のも、「光のない闇の中を手探りで進む」(25)ようにさせるのも神、などに見られますように、ヨブは神を求める悩みの中から神の知恵が測りがたいことを述べているのです。悩みの中(9,10章)から神を論じ、神を見つめて、解決の糸口を見つけつつあるのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記13章
ヨブのことばが続きます。先ず19節までを要約しますと、「あなたがたが知っていることは私も知っている。私は神と語りたい。あなたがたは無用の医者と同じ、神のためと言って不正を語る。あなた方の弁明は粘土の盾、空しい。私は神を待ち望み、神の御前に私の道を述べる。あなたがたは私のことばを聞け」、ずいぶん激しことばです。その中で、ヨブは神に語りかけ、神と論じることをひたすら願っているのです(3,15)。ヨブは主体性をもって自分の考えをはっきり述べる人でした。ですから疑問に思っていることを神にぶつけるのです。
「見よ、神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神のみ前に主張しよう」(15)と言います。「私の道」とは何でしょうか。ヨブの義の主張、私は正しというヨブの主張でしょうか。そのような義の主張ではなくて、神の御前にどこまでも真実であり続けようとするヨブの姿勢ではないでしょうか。神の御顔は今、ヨブの前に隠されています。「なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵とみなされるのですか」(24)、と一方で訴えつつ、ご自身の御顔を隠しておられる神の御前に、ヨブは命をかけて人間としての真実を守り抜こうとしているのです。そして「これこそ私の救いとなる」(16口語訳)のです。ヨブにとって救いとは、命をかけて真実に生きようとするヨブの姿を神が義として受けいれてくださることなのです。
ヨブは二つのこと(21)を願って、神に語り、神の返答を受けたいと言います。真実をもって神と相対するためには痛みや恐怖から解放されていなければならないのです。彼が抱えている問題は、彼の苦しみに匹敵する背きと罪を明らかにすることです(23)。人は、罪が示されて悔い改め、そこから新たに生きる者とされるからです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記14章
「なぜ、あなたは御顔を隠し 、私をあなたの敵と見なされるのですか」(13:24)と神に訴えて祈るヨブは、神がその訴えを聞き、返事してくれることを望んでいるのです。それでも神は御顔を隠されたままです。その神に向かってなお嘆きのことばを吐きつつ(12:27,28)、それでもその神に対して真実を守り抜こうとする決意は変えません。
こうしたヨブの訴えに続く14章は、人間のいのちの悲惨さとはかなさについて、もう一度思い巡らすことをもって始まります(1~6)。そして、神の力については12章で語られていましたが(12:13~25)、ここでは、木の枝を切り落とすことと、海から水が消え去ること(7~13)、土壌の浸食(18~22)が象徴的な隠喩となって、神の力のさらなる描写がつけ加えられています。この描写で共通していることは水です。神が水を用いられるときは、益をもたらすとともに破壊的でもあるのです。問題は、そのいのちが、更新される木と回復されることがない山という、相反する表象のどちらが人に当てられているか、ということです。
それは「人は死ぬと、また生きるでしょうか」ということです。その答えは、普通に考えれば、「否・生きることはない」ですが、本当に確信していることが詩の中間部分(13~17)で語られています。そのところでヨブは、自分がよみに横たわるようになった後でさえも、神は時を定めて自分を再びいのちへとお呼びになってくださるという信仰を明確に述べているのです。13~17節はこの詩の頂点です。たとえ神が自分を殺しても、自分は望みをもって神を待ちますといいます。ヨブの望みに満ちた期待の根拠は何でしょう。神は御自分の御手のわざを慕っておられる(15b参照10:8~13)、という信仰です。神の愛を確信する信仰にしっかり立っているのです。多くを教えられます。-山本怜
一日一章 今日の聖書 ヨブ記15章
ヨブのことばを受けて、エリファズは再び語ります。先の弁論(4,5章)に比べますと、ヨブに対して攻撃的で批判的なことばが多くなっているのに気づきます。例えば、4:3~6を読み、続いてこの15:4~6を読んで見ましょう。4:3~6で、「あなたの敬虔さは、あなたの確信ではないか、あなたの誠実さは、あなたの望みではないか」と言っていたエリファズが、15:4~6では「あなたは敬虔を不要と見なし、神の前で祈るのをおろそかにしている」と厳しく語っています。今や彼はヨブを「敬虔を不要と見なした」つまり信仰を捨てた者と見ているのです。ですから、ヨブの、神に向かっての語りかけ(14:13~17)さえも、彼には「むなしい知識による」(2)ものとしか聞こえなかったのです。
エリファズが最初に語った善人の幸せな死(5:26)はヨブに否定されました(7:9,10)。この章では、エリファズは、悪者は悲惨な人生を送り、寿命もまっとうしないで死ぬと主張して反論しています(20)。彼は伝統的な教え(参照18,10)に基づいて正しく語っていると自信を持っているのです。そうした自信をもって「私はあなたに告げる。私に聞け。」と言って、彼はヨブに「不信仰者の行く末」を17~35節で語っているのです。このところに書かれていることばがヨブに対する批判のことばだとしますと、およそ見当外れのことを述べていることになります。なぜ、そのような見当外れなことを述べることになったのでしょう。
それは、自分の人生体験(17b)や伝統的な教え、応報の教義が先にあり、そのフィルターを通してヨブのことばを聞くので、ヨブの訴えが見えてこないからでしょう。先入観はものごとの真相をゆがめてしまいます。自分の思い(欲望や願望など)に曇らされないで、あるがままに見る目を持つキリストのしもべでありたいと思います。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記16章
ヨブは、エリファズのことばに答えて、まず、エリファズの嘲りとも言えることばを彼に投げ返して、「神がヨブに敵対しているのであって(6~17)、ヨブがエリファズの言うように神に敵対している(15:7~16
)のではない。エリファズの言うように良心の呵責のゆえにおびえる(15:17~26)どころか 無罪とされることを確信している(19~21)。」と言います。苦難の中のヨブの嘆きのことばのうちには、神に対する絶大な信仰が裏打ちされているのです。このように、ヨブは、エリファズがヨブにあてはめて言った「むなしい知識」(15:35)のことばを用いて、あなたたちはいつまで「むなしいことば」を続けるのか、自分があなたたちの立場なら、はるかによく慰め手となることができる、というのです(5)。
現にヨブは、エリファズも知っているように多くの人を力づけて来ています(4:3,4)。しかしヨブの現実は、友たちのことばによって慰められることはありません。ヨブは神と仲間(7.友のこと)から攻撃されているのです。神には、語りかけても沈黙しても、苦難から解放されることはないのです(6)。
こうした嘆きや叫びの中で(9~18)、ヨブの思いが天に引き上げられます。信仰の飛躍と言っていいでしょうか。何とヨブは、天に彼の保証人がおられることを確信するようになるのです(19~21)。彼は、その方が、彼のために神にとりなしてくださることを祈ります。「今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。…その方が、人のために
神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように」(19~21)。私たちのためには、最高の弁護者であるキリストがいつも共にいてくださいます(ヨハネ一2:1)。ヨブの味方は、最高の弁護者であり、彼の無罪を誓ってくれる保証人でした。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記17章
16章と17章の二つの間には切れ目がありません。ヨブにとって敵となって苦しめる神は、信仰の眼差しをもってヨブが仰ぐ時には、ともにおられる神であるのです。
あまりもの苦難の現実に自分の命は長くはないと16章で語っていました(16:22)。17章はその続きです。ヨブは「数年もたてば、私は帰らぬ旅路につく」(16:22)といって死を前にしていながらも、人の嘲りを気にしなければならなかったのです(2)。しかし、ここで大切なことは、彼がこの訴えを神に申し上げていることです(3)。ヨブは、自らを打つ神に、自らの義の保証を求めているのです。彼の絶望は、神なき絶望ではないのです。私たちは絶望すると黙ってしまうものですが、ヨブは、神に向かって絶望をぶつけているのです。ここにヨブの信仰の力が見えます。神なき絶望ではありません。
そして、友たちのことについては、「あなたはあの者たちの心を賢明さから引き離されました」(4)とあります。彼らは伝統の応報の教義に照らしても、信仰体験から言っても、自分たちは正しいと思っていますが、実は神が友たちの心を曇らされているのです。5~9節は理解するのに難しいと言われている箇所です。しかし、敢えて言えば、「ヨブは神から見放され、人々からは呪わしい者扱いにされている。ヨブに何ができるだろう。ただ、自らの主張の正しさを信じること、これまで以上に確信していること以外にはない(9)」、ということです。
「私の日は過ぎ去り、私の企て、私の心の願いも砕かれた(11)」と絶望する「私の企て」の中には神への必死の願いも含まれていた筈です。人が必死の思いで迫ったとしても、神はみこころを貫かれるのです。その神に私の望み(15)があり、祈り(マタ6:10)があるのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記18章
〔2節の「あなたがた」(複数)は、底本の写本より古い写本による七十人訳聖書では「あなた」(単数)」であり、口語訳、フランシスコ会訳は「あなた」が採用されています。ここでは「あなた」としてヨブを指すことばとしました。〕
ビルダデの第二の語りかけは単刀直入です。ヨブに対するいくつかの叱責(2~4)に続き、悪しき者の行く末についての長く厳しい非難になります(5~21)。エリファズが悪しき者の精神的な心配事を強調しているのに対して、ビルダデは外的な問題に焦点を合わせます。
「私をいじめて恥じることもない」、「私を責めるつもりなら」など
に見られますように、ビルダデはヨブの必要を考えるよりも自分自身の評判の方により関心を持っている人であることが分かります(2~6)。彼は苦しんでいる人が言ったことばをその人に投げ返してあざけるかのように、言葉を重ねます。ヨブは神のことを、自分を攻めたてる者、歯をむき出す者、粉々にする者であると言いました(16:9∼12)。それに対して、ビルダデは、そのように引き裂いているのはヨブ自身であると切り返しているのです(4)。
5~21節では、一貫性のない表象が寄せ集められて、暗闇(5以下)、狩猟(8以下)、病(11以下)、略奪者(14)、干ばつ(16)、子孫がないこと(17以下)などを表しています。悪い者(このことばでビルダデが指し示しているのはヨブ)の人生はこのようだと言うのです。こうして「神を知らない者の住む場所」(21)の訓話を語るビルダデは、おそらくヨブに悔い改めのために良心のとがめを感じさせようと懸命になっていたことでしょう。けれども神を知っているヨブには的外れであったのです。ビルダデは神の御顔を求めて苦しんでいるヨブを知らないのです。
私たちはともに神の御顔を求める者でありたいと願います。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記19章
ビルダデのことば(18章)を受けてヨブは「いつまで、あなたがたは私のたましいを悩ませ、ことばで私を砕くのか」と嘆きのことばを語ります。彼を責める友のことばに、これ以上、傷つけるのは
やめてほしいと願っているのです(1~5)。ヨブは、神が不当に苦しめているのだと訴えます(6~12)。神がなされることは「暴虐だ」と叫んでも神の答はなく、助けを叫び求めても神はさばきを行われず沈黙しておられます(7)。ここにヨブの苦しみの根源があるのです(6~12)。
続いて、兄弟や知人、親族、親しき友、しもべ、妻や身内の者たちがヨブから離れて行ったことが記されています(13~22)。彼が苦難にあったとき、親しき人々は皆心変わりして離れて行ったのです。それに対してよくある恨み辛みのことばはヨブには見られません。なぜなのでしょう。ヨブは離れて行く人たちの背後に神の御手を見ていたのです(13)。どのような時にも神の御手を見るヨブに教えられます。
23~27節は、キリスト預言がなされているところとして知られています。その中心にあるのは、「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」(25)というヨブの言明です。「(贖われる)この方を私は自分自身で見る」とヨブは確信しているのです(27)。岩に刻字するまでにして(24)神に知ってほしと願う苦難の中でのヨブの真実を神は真実として受け入れてくださる、ということにヨブはすべての期待をかけていたのです。(ヨブのように神の真実を求めているだろうかと自問します)。ヨブが待ち望んだ「私を贖う方」はヨブの義を贖ってくださる方、つまり真実を明らかにし、偽りをさばく方です。救いの時とは、真実が明らかにされ、不義がさばかれる剣の時(29)です。最後の審判の日、キリストの義によって、神は私たちを正しくさばかれるのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記20章
「ナアマ人ツォファルは答えた。こうだから、苛立つ思いが私に応答させるのだ」(1)。彼はなぜそんなに苛立っているのでしょう。19章では、ヨブは激しいことばを使ってはいても、ツォファルたちをどこまでも友として見ていることを伝えています(19:21)。しかし、友人たちは気がついていなのでしょうか。おそらくツォファルは、「あなたがたは剣を恐れよ、憤りが剣による刑罰をもたらすからだ。こうして、あなたがたはさばきがあることを知るようになる」と率直にさばきのことばを告げるヨブのことばが非難に聞こえたのでしょう。なぜ非難に聞こえたのでしょう。彼は9:21,22でヨブが語っている願いのことばを心に留めていなかったのです。彼の心は、ヨブにではなく自分に向けられていたのです。
ツォファルは「あなたは確かに知っているはずだ。昔から、人が地の上に置かれてから、悪しき者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だ」と、今まで他の友たちも語ってきた応報の教え(教義)を語ります。このツォファルのことばはさまざまに理解されてきました。ある教師は、ヨブの義の主張が彼には悪人の勝ち誇りに見えたからではないか、と言います。また、応報の教えによってヨブを悔い改めへと説得しているという教師もいます。いずれにしても、ツォファルは、「彼が弱い者を踏みにじって見捨て、自分で建てたのではない家を奪い取ったからだ」(19)と口にするに至っては、ヨブを断罪したのです。ツォファルはヨブの友ではなくなったと言えるのです。
私たちの愛情の破れもこのようにして訪れるのではないでしょうか。自分の善意を疑わず、相手を自分の善意に従わせようとして破局へと向かってしまうのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記21章
ツォファルが語っている本質は、悪しき人間の繁栄は極めて短いということでした。苦難こそ悪しき人間の運命だと重ねて主張したのです(20章)。ヨブは今まで何とか自分の訴えを分かってほしいと願って自分の思いを語ってきましたが、友人たちが語ることは相も変らぬ応報の教義にもとづくことばです。それでこの章では、ヨブは自分の抱えている訴えをいったん差し置いて、友人たちが拠り所としている応報の原理と現実との矛盾を取り上げて語ります(7節以降)。
ヨブは、悪者どもは、栄えている(7)、子孫も堅く立っている(8)、仕事は成功し(10)、楽しく暮らし(11,12)、神に向かって神を侮ることを平気で言っている(14、15)ではないかというのです。
そしてヨブは、「悪者のはかりごとは、私とは何の関係もない」(16)と言います。ヨブは「私のように神からの苦難を受けながらも、なお神に迫っていく者がどうして彼らと一緒に見えるのか」と言っているのです。悪者とは、神を無視している者です。その特質は功利主義的で人間中心的な考えにあると言えます。では、ヨブの立場とは何なのでしょう。それは神を神故に信じ抜こうとする立場であり、その神の義をヨブは問題にしているのです。そのヨブのように、どのような状況におかれても、神に向かって行く者でありたいと思います。
17~34節で、ヨブは悪者どもの生命についての友人たちの表面的な判断を次々とくつがえします。ビルダデは「悪しき者の光は消え」と言い(18:5、6)、ツォファルは「神は燃える怒りを彼に送る」(20:23)と言いました。ヨブは彼らの言っているような結論は当たっていないと宣言するのです(17)。このように、ヨブは、友人のことばは、空しく、偽りである、と告げているのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記22章
今度はテマン人エリファズが語ります。ヨブの友達はさすが遠くから心配して駆けつけて来られた人たちです。何とかして、ヨブの問題に対する解決は得られないかと、探求が続けられてきました。しかし彼らは固く信じている応報の教義に根ざしていますから、話はかみ合いません。エリファズもまた、苦難の原因が、義なる、全知全能の神によらない以上、ヨブに苦しむ原因があるとして語ります。
「神があなたを責められるのは」「あなたが神を恐れているためか」、「いや、それはあなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がないからではないか」(4、5)と言って、理由もなく兄弟から質物を取る、着ている物をはぎとる、飢えている人に食物を拒む、…などがあったからではないか、と非難して指摘するのです(7~11)。
12~20節で、彼のおもな強調点である神の超越性に戻ります(12)。あなたは「神に何が分かるだろうか、…神は天空を歩き回るだけだ」*(13,14)と言っているというが、その神をあなたは本当に知っているのか、と語るのです。*13,14節のことばは、ヨブが21:22以下に言っているヨブのことばを解釈して語っているのですが、エリファズには神の沈黙のために苦しむヨブが見えてはいません。
秘密の罪がヨブにあることを指摘した(5~11)エリファズは、その罪が原因だから、単に神を忍耐強く待つことだけではなく、実際に悔い改めて神に立ち返るようにと忠告します。「さあ、あなたは神と和らぎ、平安を得よ、そうすれば幸いがあなたのところに来るだろう」(21)。
しかし、このエリファズのことばだけでは聖書の教えとは合ってはいないのです。救いは、人の正しい行いによらず、常に神の恩寵にもとづくものだからです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記23章
「ヨブは答えた」(1)とあります。しかし、この後ずっと見ていくと分かるのですが、ヨブはもはやエリファズには答えていません。ヨブはもう友人たちに理解してもらおうとはしていないのです。ヨブは神だけを相手にしようとしているのです。この意味では、ヨブの語ることばは新しい段階に入ったのです。
「今日もまた、私の嘆きは激しく、自分のうめきのゆえに私の手は重い」(2)。このところで「嘆き」と訳されていることばは、ヘブル語本文では「反抗的」です。彼は自分の嘆きが反抗的であることを否定しないのです。だからと言って彼は神に問うことをやめるわけではありません。「自分のうめきのゆえに私の手は重い」と言います。「私の手は重い」とは自分の無力感を語ることばだと理解されていますから、彼のうめきが反抗的なことばであったとしても、その言葉を抑えることは無駄であったと言っているのです。
ヨブは、これらのことばで、人間が全能者の責任を問うことの不可能さを十分に表しているのです。ヨブがどのように試みても、人間の基準で執行されるさばきの法廷へ神を連れてくることは不可能なのです(参照9,10節)。神が心を留めてくださる神の御前(神の基準で執行されるさばきの場)で、ヨブのことばは神に聞き上げてもらえるのです(5,6)。ヨブの正しさに対する自信が7節には表されています。「そこでは正直な人が神と論じることができ、私は、とこしえにさばきを免れるだろう」(7)。全体を通して彼の自信は再び10節で語られます。
自信がありましても、ヨブは神を恐れます(16)。神は人間ヨブにとっては不可解な神であり、絶対他者なる神であり、圧倒的な力を持ちたもう神です。(箴言9:10
主を畏れることは知恵の初め…)-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記24章
「なぜ、全能者に時が隠されていないのに、神を知る者たちには神の日々が見られないのか」(1)とあります。
このところに記されている「時が隠されていないのに、」の「時」は、神のさばきが行われる「時」や「日」であるという解釈がありますが、ここでは文字どおりには諸々の「時」であり、各人の人生においてなされる神のさばきの時と受けとめます。そのさばきの時は神には分かっているのですが、神を信じる者にはどうしてその日を知ることができないのか、というのです。現実には、神のさばきは少しも行われているようには見えないではないか、ということです。
2節からは不正行為の数々が挙げられていきます。遺産を横領された者、荒野に追いやられて肉体的苦難を経験しなければならない貧しい者、そのような人たちの激しい労働が邪悪な者の富を増すような不正などです(2~13)。こうした不正の事例が暗闇を愛し光に背く叛逆者の一団として記されます。殺人、姦淫、盗人です(14~17)。
ここに記されている要点は、エリファズが22章で不敬虔な者について述べたことに答えていることになっていて、神は見たところでは、毎日起こっている悪いことを阻止するためには何もなさっておられない、ということです。そして、このところに取り上げられている悪のほとんどは、地境を動かすこと(2)のように、主がイスラエルに与えられた律法で繰り返し禁じていることだということです。災いは、禁じられた律法に違反する者(悪い者)にも良い者にも襲ってくるのです〔参考 マタイ5:45〕。
ヨブは、自分の災いも多くの事例の中の一つであることを理解しているのです。だが、ヨブは自分の事例において神の義がどのように実現するのか理解できないのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記25章
ヨブと友人たちとの語り合いはほぼ尽くされました。ビルダデの最
後の語りかけはあまりにも短いものです。それだけに、これをどう見
るかについて、26章と合わせてヨブのことばとしたり、ビルダデのこ
とばとしたりなど、いろいろな意見が出てきた箇所です。ここでは聖
書に記されているビルダデのことばとして素直に読んでいきましょう。
前章でヨブは、「神にはさばきの時があるのに、そのさばきをな
さらない」と言いました(24:1より)。そのヨブにビルダデは2節で「神は恐れられるべき主権者であり、神の平和は高い次元のものである」と神を崇めています。ビルダデはヨブに、神を崇めなくてはいけない。神のなさり方が分からなくても神は間違いを犯されることはない。神は平和をつくられる方だ、と言っているのです。これは、詩篇145篇他多くの箇所で聖書が語っていることです。私たちもアーメンです。
続く3節で、ビルダデは神の光に照らされない者はいないことを語
り、4,5節では、輝いている月や星でさえ神には取るに足りないものでしかないのに、どうして人間のような者が、神の御前に自分は清いなどということができるか、と言います。このことばのとおりだと思いますが、素直にアーメンと言えるでしょうか。実は詩篇145篇と比べますと14節以降がありません。そこには、大いなる神が、かがんでいる者、倒れている者を支え、助けてくださることがうたわれているのです。ビルダデはその神の恵みを見失っています。彼が見失わずに見ているのは、うじ虫でしかない人間なのです。彼はそのヨブをどのように見たのでしょう。詩篇145:14節以降の思いで見たのでしょうか。ビルダデは嘆きの人を侮って神の恵みを忘れたのでしょうか。倒れる者を支えられる神をしっかり心に結びつけたいと思います。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記26章
ビルダデが答えた後、ヨブは26章から31章まで独白という形で語ります。31章の終わりは「ヨブのことばは終わった」です。
この章で、ヨブは友人たちの忠告や助言のことばがどれほど人の助けや力となったのかと問いただしています(2~4)。少なくともヨブには不信感が残り、救いのために益するものはなかったのです。なぜそのような結果になるのかを4節は明らかにします。ヨハネ福音書に「いのちを与えるのは聖霊です。肉は何の益ももたらしません」(ヨハネ6:63)とありますが、友人たちのことばが何の効果ももたらさなかったのは、彼らのことばが霊によることばではなかったということです。ことばに仕えようとするなら神の霊が必要なのです。それで、ヨブは「誰の息(霊)があなたから出たのか(4)、と問うのです。
5節から14節までは、ヨブの神賛美です。この賛美には、創造された世界、それも死者の世界をも含めた世界の支配(5,6)が歌われています。ヨブは、ビルダデが否定的に述べたよみをも神の支配にある場所として肯定的に述べることによって、神がいかにうじ虫のような者にも憐れみ深い方であるかを語るのです。7~10節には神が世界を創造される具体的な作業が描かれています。7節の「北」は天体全体を指す象徴的な意味で用いられていると考えられています。そして「水」は原始では世界を滅ぼす驚異の力でした。その脅威の水を神は雲に包んで支配しておられるというのです。11~13節には神の叱責の威力が示され、創造の御力の偉大さが賛美されています。そして、驚くべき神の主権と能力を賛美した後で、これらが神の行為の一端に過ぎないといいます(14)。ヨブは神の生ける支配に対する信仰と知識を持っているのです。27章からは、その神への確信を独白していきます。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記27章
2節.私の権利(意味しているのはかつて持っていた幸福のこと)が神によって取り去られた。なぜ取り去られたのか。それがヨブの魂の悩みであり、苦悩なのです。「全能者にかけて」の直訳は「全能者は生きておられる」。3.4節.不正を言わず欺くことを語らないヨブの真実と潔白の主張は、単に自己主張の繰り返しではなく、神の霊と自分の息(生命)に基づく(3)主張なのです。弱みと悩みが神の恵みを現し、キリストの力を現すのです(3)参考「コリントニ12:9)。5,6節.ヨブは三人の友人に断言します。「あなたがたを正しいとすることなど、私には絶対できない」(5a)何と激しい言葉でしょう。友人たちはヨブを慰めるために来たのです。彼を罪人と定めるために来たのではありません。けれども結果は罪のレッテッルを貼ったのです。どうしてそうなったのか、原因は明確です。ヨブの身にならず、自分の世界観や人生観、彼らの神学(応報の教義)をヨブに当てはめてヨブの状況を勝手に判断して判決を言い渡したのです。このような間違いに陥らないようにしなければなりません。
7~10節.ヨブは友人に「悪しき者のようになれ」など、呪いのことばを浴びせかけます。悪しき者のようになるとは、悪人が神から受ける報いを受けることです。その報いは13節以下に記されています。
8節で、神の裁きの時には、神を敬わない者にはどういう望みがあるのかと、ヨブは友人たちに決めつけられた悪人の立場で言います。
9~12節.もし自分が本当に悪人であったなら、死の災いが臨んだとき、神を喜び神を呼ぶだろうか、本当の悪人なら滅びであり望みはない、しかし、私は神を呼び、神を喜ぶ。本当の悪人ではなく、神に喜ばれ神に愛されている者だから、と確信を述べるのです。彼は苦難のただ中にあってもなおまことをもって神を信じているのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記28章
28章はヨブ記の「知恵の書」と言われて、きわめて質の高い問題をテーマにしています。ヨブ記全体の構成から見ますと、27章でヨブと三人の友との論争が終わった段階までが前半、この知恵の書を挟んで29~31章のヨブの独白、32~37章の第四の友エリフによるヨブへの反論、38~41章の神の啓示とことば、42章の神へのヨブの応答が後半となります。28章はこれ自体で独立した文学ですが、29章からの後半の序文ともなっていて、ヨブの最後の独白の導入にふわしい文書です。
知恵はどこから来るか、知恵を悟る道は人間にはない、というのが知恵の書の内容です。三人の友はことばと知恵と知識を尽くして、ヨブに苦難の理由を説明しますが、その努力が空しいことを、ヨブは知恵の書を通して語ります。この章は、人類が知恵を発見し、修得し、獲得しようとした苦闘の歴史が刻み込まれて、鉱山の採掘技術に見られる人間の知恵(1~11)、どのような知識をもっても知恵は分からない(12~19)、知恵を得る道は神による(20~27)、そして結論です(28)。
1~11 深く地に眠る鉱石を探し出し、縦坑を掘り、採掘する知識や技術を修得していった人類の激しい情熱が記されています。
12~14 しかし,人間の知恵や知識で自然を活用する技術を獲得できても、人間の運命や人生の謎を解く知恵にならなかったのです。ヨブが遭遇している苦難を解く知恵や道は人間にはないのです。
15~19 その知恵は何をもっても得られない尊いものなのです。
20~23 もう一度、知恵はどこから来るのかと問い直します。知恵は神のみが知っておられるのです。
23~28 ヨブの結論です。主を恐れることは主を愛すること、主を愛することは主を信頼することを ヨブを通して教えられます。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記29章
29章はヨブがかつての自分を回顧して、神の恵みを賛美している箇所です。節を追ってみていきましょう。
1,2 ヨブは過去を回顧することばから始めます。過去の恵みの回顧は、現在に新たな喜びと感謝を生み、未来の希望に目を上げさせます。
3 ヨブが全く神を信頼して歩んだ日々が回顧されています。この時ですら「闇の中を歩いた」ので。「神の光によって」導かれたからです。
4∼6 あの時には、神との親しい交わりが我が家にあり、愛する子らも共にいた。6節には、祝福を受けることばで綴られています。
7~11 (新しい段落です)町の門、広場は商取引が行われ裁きの場が開かれた所です。ヨブは東の国の要職にあって、人々に尊敬され、信頼され、愛されていたのです。
12,13 死にかかっている人から祝福を受けることがどれほど大きなことなのかを教えられます。ヨブはそういう人であり、叫び求める苦しむ人やみなしごや寡婦たちのために身を尽くしたのです。
14~16 ヨブは愛の人であったばかりでなく、義と公正の人でもありました。神の祝福からはずれた者として人々から見られていた、身体に障害を持つ人や貧しい人に神からの賜物を惜しまず用いたのです。
17 ここでは正義のために戦うヨブがいます。愛と義とが見事に調和しているのです。ここにヨブをメシヤに例える理由もあるのです。
18~20 自分に与えられた神の祝福が述べられています。神の恵みは朝ごとに新しく、日ごとに増し加わるのです。(参考 詩篇1:1~3)
21 ~ 25 再度ヨブの人となりが語られます。ヨブの存在は春の雨のようであり、微笑みかける光であり、嘆き悲しむ人を慰める人である、とことばを結びます。神の恵みと祝福の賛美が回顧なのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記30章
過去の栄光と恵みの回顧に引き替え、30章は今のヨブの悲惨と苦悩の告白です。ヨブは苦難こそ神共にいます徴であることに目が開かれてくるのです。
1~10 ヨブはかつて自分が助けた人々の子らから蔑まれる屈辱について語ります。人間の忘恩と不作法が容赦なくヨブを襲います。「藪の中でいななき、いらくさの下に群がる」とは男女の性の営みを現すことばです。人間の生活がどれほど困窮しようが、神は、愛の営みの世界を与え給うのです。ヨブはかつてそうした人たちに助けの手を差しのべました、そのような人々が今やヨブを嘲り、顔に唾を吐きかけます。
11~15 前節で取り上げた人々の忘恩と蛮行は神がお許しになった行為であるとヨブは言うのです。ヨブは人々の侮辱と軽蔑を受けながら、その背後に神の御手を見て、神に打たれ、卑しめられ、傷つけられているのです(参照 ヘブル10:31)。
16~23 「神は大きな力で」とヨブが言いますように、この苦痛の窮みの中で、ちりや灰のようになりながらも、ヨブはなお神がなさっておられることであると言って神に向かって叫ぶことを止めません。これがヨブの信仰です。苦難における神の体験です。
24~31 ヨブは苦難の中で神を呼び神に手を差し伸べますが、神は答えてくださいません(24~27)。ヨブの心は、泣き悲しみ、歩き回り、集いの中で助けを叫び求めます(28)。ヨブの人間関係は断ち切られ、周りに来るものは野生の動物、皮膚は黒ずみ剥げ落ち、骨は燃えるような熱…言語に絶する苦痛です。「私の竪琴」「私の笛」は彼のことば、彼の声、喉から発する叫びです。彼の悲しい、切ない心が琴や笛の音色にも似て、神を求め神に向かって奏で続けているのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記31章
31章はヨブの「潔白の誓約」です。今まで論じられてきたすべてを総括して彼の独白は終わります。誓約は十二の項目にわたります。十二は完全数ですから、誓いが完全であることを表しています。
一 情欲(1節)ヨブはきよめられた生活をするために「目と契約を結んだ」と言います。目は外界を見る心の窓、目から罪への誘惑が入ってきます(参照
創世3:6)。彼は目に罪から守られるようにしたのです。
二 不誠実(5,6節)嘘、欺きは日常生活で最も鈍感になりやすい罪です。それほど人間は保身や自己の利益に心が走っているのです。
三 貪欲(7,8節)ヨブは神の道からそれず、心は目が見るところに従って罪を犯さなかったのです。みことばによって歩んでいたのです。
四 姦淫(9~12節)上の「情欲」と異なるのは、具体的な行為があることです。神の秩序を踏みにじり、人間の間違った自由の主張が性の紊乱をはびこらせているのです。
五 権利の擁護(13~15節)しもべなどへの権利が述べられていますが、弱者や貧者、孤児などへの擁護が神の前で問われています。
六以下は、次のとおりです。六 吝嗇(けちなこと)(16~23節)、
七 富の誘惑 (24~25節)、 八 迷信への迷い(26~28節)、
九 憎しみへの誘惑(29~30節)、十 旅人への非情(31~32節)、
十一 罪の隠蔽(33~34節)、十二 搾取(38~40 節)
ここから35節に戻ります。ヨブは、この潔白の誓約に間違いはないしるしとして署名するのです。こうしてヨブは自己の潔白をしたためた誓約を告訴状として神の前に立とうとしたのです。しかし、彼には見落としていた事実がありました。それは、ヨブの潔白、正しさ、それらは神のヨブへの溢れる恵みに支えられてあり得たのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記32章
32章から37章までは、エリフという若者の飛び入りのことばです。
エリフの役割については議論が多く、はっきりしたことが分かりま
せん。ただ、ヨブの最後の独白と神のことばとの間に割って入るような形になっていることから、38~41章の神のことばの前座のような役割を果していると言えるでしょう。そうであれば、エリフは苦難についてどのような考えを持っていたのでしょうか。彼は苦難には教育的意義があるとう理解を持っていたと言われています。これは聖書全般にある苦難の理解の一つです(例:ペテロ一1:7)。しかし、ヨブはこのエリフのことばに、何一つ答えてはいません。答える必要もなかったのでしょう。
彼は突然ヨブと三人の話の中に入ってきました。その動機は彼の怒りです。ヨブに答えられない友人たち、神より自分が正しいとするヨブ、その場面を黙って眺めていることができなくなったのです(1~5)。
これまで彼が黙っていた理由が述べられています(6,7)。年長者に対
する礼節と年老いた者は、知恵を豊かに持っているということです。しかし、エリフは知恵の根源を神の御霊の光によると考えています(8)。それで、激しい霊の圧迫を受けて(18)、年長者の知恵について否定的な見解を述べます(9,10)。それは、あふれることばとなって(18)、ヨブへの反論を開始するのです。このところでは、霊とことばの関係が鮮明にされています。神の霊の傾注が神のことばを語らせるのです(19)。預言者には共通してみられることです(エレミヤ20:9)。若者も神の霊に満たされる時、大いなる知恵のことばを語り、神の御業に用いられるのです。そして、エリフは三人の友人の説く応報思想を越えた、新しい苦難の意義をヨブに語っていくのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記33章
エリフは「ヨブよ」と呼びかけます。自分より年長者のヨブにこのように語りかけるのは、彼には神の霊に突き動かされて語るという思いがあり(32:18)、自分が神の側に立っていると思ったからでしょう。
エリフは先ず、ヨブが自分の苦しみについてどのように主張してき
たかを語ります。自分には不義がない、神の敵にされているということです(8~11)。「神は人よりも偉大なのだから」と言ってヨブに過ちがあると指摘します(12)。そして、神の啓示の方法と目的を明確にします(15~18)。エリフの指摘で大事な点は、17,18節のことばです。ここには福音のメッセージがあります。ヨブの傲慢さは神の啓示に出会えば直ちに除かれ、魂は「滅びの穴」から救い出されるというのです。
エリフの考えは、ヨブには「たましいが滅びの穴に、そのいのちは殺す者たちに近づく」と言われるほど徹底的な懲らしめが、神の教育的愛の行為として、与えられるということです(19~22)。興味深いのは、その懲らしめから立ち直らせるのは一人の御使いであり仲保者であるという点です(23~25)。この短い節の中にヨブが求めた贖い主の信仰を支えることば(御使い、仲介者、救って、身代金)がくり返し出てくる点でとても重い意味があります。エリフは「身代金を見出した」といいます。身代わりを発見したのです。つまり、苦難の教育的期間が終わったら自然回復するのではなく、神の贖いの恵みによって救われると言って、キリストの犠牲による救いが預言されているのです。贖いが成就したら、無罪を主張して譲らなかったヨブが進んで罪の告白をするというのです(27,28)。具体的な罪があれば素直に告白しますが、ヨブの告白は、神への感謝と賛美の告白です。エリフは、この仲保者論を根拠に、あなたが正しければ喜ぶと、ヨブの回復を祈るのです(31,32)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記34章
四つの段落に分けられているこの章では、エリフの義認論(神の義についての彼の認識)に基づいてヨブの苦難を語ります。彼の義認論の問題は、神が義なる方であると認識していながらそれが他者の正しい理解や同情に結びつかず、人を裁く根拠になっていることです。
最初の段落(1~9)は、ヨブのことばについてのエリフの要約です。大変よく要約していますが、不当な苦難に遭遇しているヨブの呻きをしっかりと受けとめてはいません。彼にはその呻きが不満や不信仰の叫びに聞こえたのです。ですからヨブを辛辣なことばで裁きます(7,9)。。「彼は嘲りを水のように飲み」(7)とは、ヨブへの誤解と軽蔑です。エリフは人間ヨブを生きた関わりの中で見ないで、応報の教義に当てはめてヨブを悪としたのです。次の段落(10~15)にはエリフの神観が述べられています。この神観は正しく、ヨブも反対しないでしょう。神の義は絶対的なものです。問題は神の支配を「人の行いに応じて報いをし」(11)と見る倫理的な神認識です(三人の友に共通)。折角前章で贖罪や仲保者について神の霊に示された苦難の認識から離れているのです。
第三段落(16~30)では、大上段に応報の教義を振りかざしてヨブの説得にかかります。エリフは神を「公正」な方(17)と呼んでいますが、義なる神の不偏不党の公平さを示し(19~22)、神の裁きについて述べるのです(23~30)。これがエリフの考えている神の義の意味で、神の義が裁きだけを行使し、救いには及んでいないのがエリフの特徴です。
前段落で神の裁きの完全なことを言ったエリフには、神に誤審があるかのようなヨブのことばが反抗で不当なものに聞こえ、(31~37の段落)。ヨブへの同情は遠のきます。応報主義による教義の欠陥です。神は私たち人間の理屈に縛られてはいません。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記35章
エリフはさらにヨブの説得を続けます。ヨブが過去に言ったことを取り上げて、それをエリフなりに短く要約して(いわばエリフ自らが立てた仮説のヨブ)、それに自らが反論するというひとり芝居による説得です。
初めに「神の超越性」(5~8)を取り上げて反論します。
「神の超越性」については、エリフは先ずヨブの義の主張を取り上げます。自らを正義と見なして、その義も罪も神の前には何も関係ないことだとヨブが言った(2,3)として、そのヨブに反論を始めるのです(5~9)。この反論は、天や高い雲は地よりはるかに高く、人間と神との隔たりは無限であるように、人間の敬虔さは世界を超越している神に何の関わりも持たないという考えです。この考えには、神が歴史の神、内在の神でもあって人間に関心を払っておられる理解が見られません。神は、人間が神のみこころにかなう生活を求め、願い、喜ばれる人格的な神なのです。神の超越性を述べるだけではヨブを癒すことばとはならず、単に批判することばに過ぎません。
次いで、「神の沈黙の理由」(12~14)を取り上げて反論します。ここでは、「悪人のおごり高ぶり」や「偽りの叫び」が神の沈黙の主たる理由にあげられています。つまり人間の倫理問題に帰しているのです。そしてヨブの言動は、神の沈黙に便乗した悪乗り、まさに「偽りの叫び」であり不信仰の叫びだと非難するのです。エリフの論理には無理があり説得力が伝わってきません。神の沈黙には、測り知れない神のみこころが横たわっているはずです。そして、ヨブの叫びは不信仰の叫びではなく、まさに神を信じるがゆえの叫びです。信じなければ叫べない叫びを神に向かってあげているのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記36章
エリフのことばは続きます。今度は神についての弁論です。内容は、悪しき者と正し者への神の対応(1~14)、苦しむ者への神の対応(15~25)、神の偉大さ(26~33)の三つにわたります。いずれも「まだ神のために言い分があるからだ」(2)といっていますように、エリフはヨブによって被告とされている神の弁護役を務めているつもりです。何と傲慢なのでしょう。神は誰かの弁護を必要とされる方ではありません。
エリフの語る知識は遠くからの知識だといいます。つまり超越の神から得た知識です。知識の完全な方(自分のこと)がいるのだから聞け(3,4)、といって初めに語るのは「悪しき者と正しい者への神の対応」(1~14)です。悪しき者への神の対応は厳しく、正しい者への対応はことごとく恵み深いのです。エリフは冷淡なことをいうだけではなく、筋の通ったこともいいます。しかしなぜヨブに通じなかったのでしょう。それは知識のことばで、愛のことばではなかったからです。
次いで語るのは、苦しむ者への神の対応(15~25)です。まさに、苦しみにあるヨブの問題といえます。問題は、16.17節を吟味して読んで分かってきますように、悪しき者と苦しむ者が同じに扱われていることです。しかしヨブの場合は正しい者が苦しんでいるのです。
最後に語るのは(26~33)神の偉大さです。しかし、知られざる神です。人間の営み(歴史)を越えた神を人は知ることはできない、ただ神は自然の支配を通して間接的に知られている。これがエリフの持っている神観です。水の支配について語られています(26~29)。川から水は蒸発し、霧・雲となり、それが雨に変わり地上に降り注ぐ。光(30)とこの水の循環によって命は育つ。神はこのような自然の統治を通して命を養われるだけでなく、裁きとして人間に臨むのです(31)-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記37章
前章に続いて、「神の偉大さ」が語られます(1~5)。続いて、冬の情景(6~13)、夏の情景(14~20)、畏怖の念を起こさせるような静寂さ(21~24)、それぞれにおける神の驚くべき創造の壮大な神秘的要素が語られます。エリフは移り行く季節の変化に直接関心を持っているのではなく、自然現象の中に秘められた神のみこころを通して、ヨブに人生における神の御支配とみこころを悟らせようとしているのです。
例えば、エリフが冬の時期を語っている中で、大雪で人々が不自由する灰色の空に閉ざされた時のことについて、「神はすべての人の手を封じられる。神の造った人間が知るために」(7)といいます。これは、「大雪のために一歩も外に出ることができないような冬、こんな冬は早く過ぎればよいと誰もが思うような季節、そんな季節にも神の御計画が秘められているのだ、とエリフは語るのです。…あなたは自分の手の封じられていることを嘆いてはいけない。あなたの手を封じたもう神は、あなたでなければ知ることのできないご自身のみこころを知らせようとしておられるのです。(榎本保朗)」
「ヨブよ、これに耳を傾けよ。神のみわざを、立ち止まって考えよ」(14)。ここからエリフの結論です。エリフは自然界における神の支配を通して神の支配を語り、21~24節で神の威光を述べて終わるのです。 エリフは自然界からの教訓の最後として、神と言い争うことをするなら、神のような能力を発揮せよといいます。そうでないなら神に対して沈黙を守り、服従の道を取れというのです(18~20)。強引な結論ですが、ある意味では最後の神のことばの啓示においてそのことがヨブに起こるのです。エリフの結論が示されているのは21~24節です。「人々は神を恐れなければならない」のです(24、参照マタイ10:28)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記38章
主は嵐の中からヨブに答えられます(1)。「嵐」は(参照エゼキエル1:4他。は救いをもたらす神顕現の表象(参照エゼキエル1:4)です。神の顕現そのものがヨブへの答えです。私たちも重荷をもって祈るとき、無言の答えをしばしば経験します。そのとき「わたしがあなたと一緒にいる、案じなくてもよい」と示されて神に委ね、勝利の信仰に立ち上がるのです。苦難は主が与え、主が取られるのですから、委ねるほかありません。それでも、ヨブは苦難の意味を問い続けました。
そのヨブに主は問われます。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか」。ヨブが存在するはるか以前のことです。答えようがありません(4~7)。続いて「海の境界」(8~11)、「創造世界における悪人の位置づけ」(12~15)、「死の門、死の陰の門」(16~18)、「ヨブの知恵と誕生の日」(19~21)、「天の気象」(22~38)について、神の知恵のみわざが述べられて、それぞれを通してヨブに無知を悟らせようとするのです。
次章に関連して述べられている「獅子や烏の子育ての実態」(39~41)
では、母獅子や母烏がいかに餌探しに苦労しているかを通して、神の養いの原理が述べられています。もし、神に弱いものも強いものも養う意思と知恵がなければ、子らは育たないのです。ここには、神が養い、神が育てられるということが、自然の摂理の根本の原理としてあることが教えられているのです。飢えもあり労苦もある、その死に背中合わせになっている危険のある中で、子たちはすくすくと成長するのです。そこには神の恵みと愛の配慮があるからです。苦難のヨブへの神のメッセージとして語られているのです。これを聞くヨブはどのように受けとめたでしょうか。これを読む私たちはどうでしょうか。4節から語られる神のことばの一つ一つが問いかけています。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記39章
38章の「獅子や烏の子育ての実態」(38:39~41)に続いて、「岩間の野やぎ」(1~4)、「野ろば」(5~8)、「野牛」(9~12)、「だちょう」(13~18)、「馬」(19~25)、「鷹と鷲」(26~30)それぞれの性質や生態が述べられています。
野やぎは高い岩山に住む野性のやぎです。非常に憶病な動物で、群れのうちの1頭は高い所にいて危険を感じたら群れに合図して安全な岩山に登って行くと言われています(「イスラエルに見る聖書の世界より)。そのような野やぎの交尾から出産までの過程は先ずは人目に触れることはありません。親子が成長していく様子は人の目に隠された生態です。
野ろばも自由奔放で大変御し難い動物です。野ろばのような人とは良い表現ではありません。神は、このような野性の野ろばにも住む地を与え、自由に生きられるようにしておられるのです。
野牛は頑丈で野やぎや野ろばと同じように御し難い動物です。9節でも飼いならしにくく、扱いにくいものとして述べられています。
だちょうの習性と生態が記されていますが、孵化した雛の扱いは人間から見れば無情で無関心そのものです。そのようなだちょうに、神は馬にも勝る走力を与えられました。
馬の荒々しい習性が述べられています。聖書では力の象徴です。馬は重要な戦力ですが、預言者たちは馬に頼ることを非難しています。
このように、野性の動物の本能や生態は、不思議な驚異に満ちています。そこには神の知恵が啓示されているのです。手におえない野性の動物の習性は、神のあわれみと知恵を示すものとして、神に用いられています。ヨブのような神に向かって言い分を述べ続ける者も神は生かし、用いておられることを意味しているのでしょう。誠実で直ぐな心、神への愛と信仰のゆえに、神は用いられるのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記40章
38,39章で神は、ご自身が創造者であること、物質的世界の不思議や動物界の驚異が、人間の理解を超えた神の知恵を示していることを示されました。そしてヨブに、主は答えるように促されるのです(2)。「非難する者」「神を責める者」とは今まで16:9~18
や19:6,24:12,22、30:11などで語って来たヨブのことです。
ヨブは主に答えました(3~5)。自らを「取るに足りない者」と言います。自分の状況から神を考えて、主の創造の御業には思いも寄せずにいたことに気づいたのでしょう。しかし、彼は前に言ったことを撤回してはいません。神を非難していたのに、それが罪であるとは認めていないのです。それで「告白」はありません。一度、二度と語っているので、もう語ることはないといいます。言うべきことで、まだ言っていないことはないということです。このように答えるヨブに、主は嵐の中からヨブに語られたのが、動物たち(河馬40:15~24、レビヤタン41章)についての二つの詩です。しかし、主はこの詩に先立ち、ヨブに語りかけます(7~14)。ヨブが答える判断ができるように導いておられるのです。あなたは「自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。あなたには神のような腕があるのか…さあ(その神のような)威厳と威光を身にまとって…悪者どもを踏みにじれ」と言われます。そして河馬(15~24)とレビヤタン(41章)の詩によって、創造と摂理の神の威光を示されるのです。ここに至ってヨブは、38,39章で語られている自然の中を巡り行く主のことばが、何を目指していたかを悟り、自分が自然の領域を支配できないのと同じように、義と不義の領域における裁きの権限は、主なる神にのみあるとの判断に導かれていくのです。8~14節は主のことばのクライマックスと言えます。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記41章
前章では動物たちの詩の一つ「河馬」を通してこの世界には人間には制御できない力とでもいうべき存在があり、それを完全に制することができるのは神の力だけ、ということが示されていました(40:15~24)。
この章ではもう一つの動物レビヤタンが重要な位置を占めています。レビヤタンとは、カナンの地の言い伝えの恐るべき被造物の名称です。その「力強さ」(12)、「折り目の間に入ることのできない胸当て」として描かれている皮膚(13b)、「顔の戸」と奇抜に呼ばれている口(14a)、それぞれが戦士の盾のようなうろこ(15~17)、火のような「息」(18~21)、その「首」(22)、突き通せない「皮」(23)、硬い「心臓」(24)、すべての武器をものともしないこと(26~29)、水の中での目を見張るような動き(30~32)などであらわされています。
このレビヤタンが呼び起こす恐怖は、「それを起こすほどの狂暴な者はいない」(10)と特筆され、「それが起き上がると、力ある者もおじけづき、おろおろして逃げ惑う」(25)と触れられていますが、結びの行(33~34)で神は、「地の上に、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして造られた。高いものすべてを見下ろし、誇り高い獣すべての王である」と偉大な賛辞を送っています。レビヤタンは自分より高いものや誇るものを許さない生き物として描かれているのです。
神のことばは終わりましたが。今までの議論から推測される答だったでしょうか。苦難についての説明では解決はなく、人間に問われていることは、神に造られたありのままの者として、創造の神の前に出て、神に身を委ねることが示されていました。どのような人生であれ、自分が存在しているということは、自分が獲得したものではなく、神の善から出ている純然たる賜物を受けることだと示されます。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 ヨブ記42章
主との出会いが現実となり、主の語りかけを聞いたヨブは、すべてを造りすべての限界を超えて今も万物を統御しておられる神の威厳と威光にふれ、神の世界の広がりと調和に眼が開かれました。彼は神についてのまことの知識と自分についての新たな知識を得たのです。主がヨブに語られた、という事実だけでも、すべての不思議さを超えた驚くべきことです。こうして最初からの望み(19:24~27)をも満たされたヨブのうちからほとばしり出て来たものは、思いのままの称賛の表明です(2)。はじめの応答のことば(40:4,5)と何と違うことでしょう。
神に出会い、神の語りかけを聞いたヨブは、「それで、私は自分を蔑み、悔いています、ちりと灰の中で。」(6)と言います。この6節のことばは極めて重要です。ヨブはこのことばで何を意味したのでしょう。
ヨブは自分の申し立てを取り下げているのです (新アメリカ標準訳/私は撤回します。そして、私はちりと灰のなかで悔い改めます) 。
今やすべてが終わり、主はヨブの不幸を逆転されます(10)。今は、喜びお祝いするときなのです(11)。
一方、エリファズはじめヨブの三人の友は、主の裁定を受けてヨブの執り成しのもとで、全焼のささげ物を献げました(8~10)。ところで、悔いたヨブは全焼のささげ物を献げたでしょうか。献げたとは記されていません。彼の悔い改めは、深遠なる神について無知であった者が神に受け入れられている感謝の表明といえます。彼は、神に背を向けたのではありません。神によって見捨てられたと感じていますが、神を見放すことはありません。彼は祈り続け、望み続けているのです。
「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ(ローマ4:18)」、「この望みとともに救われたのです」(ローマ8:24)。-山本怜-